おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

東北地方太平洋沖地震津波前の吉浜 防潮堤 ・ 防潮林 ・ 水田

2011年12月13日 00時00分00秒 | 漁業・漁村
写真1 右の白い部分の海水浴場から防潮堤⇒保安林(防潮林)と続く
     保安林の右側奥の山麓高台に住宅が見える。手前は吉浜川。鮭捕獲網が張ってある


写真2 防潮堤は2つある(写真1の左に続く)。保安林(防潮林)の陸側に一段高い防潮堤がある
     この防潮堤を津波は越えた。手前は吉浜川の鮭捕獲用仕掛け網


写真3 見える保安林(防潮林)と防潮堤(写真2の陸側の防潮堤)は消失し、水田は埋まる
     1896年(明治29)明治三陸地震津波の前、ここらに住宅があった


写真4 今はない防潮堤の上でワカメ養殖用綱を修理中の漁業者
     写真の奥・前方に、山麓高台の住宅が見える


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 2005年(平成17)11月29日、三陸鉄道南リアス線・吉浜駅に降りる
 駅舎(吉浜地区拠点センター)を出た際、随分高い位置に住宅があるなー、と思いつつ案内板を読む
 そこに「キッピンアワビの海 吉浜 ふるさとまるごと博物館」の文字
 キッピンアワビ、はて?

 筆者の勉強不足
 後日、キッピンアワビは中国、香港では世界一のアワビと知る
 高台の住宅については、今年2011年(平成23)03月11日の東北地方太平洋沖地震と巨大津波の後に知る

 1896年(明治29)06月15日午後07時32分の明治三陸地震津波で47戸が流出、230人が死亡
 当時の村長・新沼武左衛門氏等が山麓高台への移転計画をたて実現
 その結果、1933年(昭和08)03月03日午前02時30分の昭和三陸地震の津波での被害は少ない
 1896年被災移転において位置の悪かった2戸と、その後低地に建てられた10戸にとどまる

 今年の津波でも他地区にくらべて少ない
 住民約1,400人、440戸のうち、行方不明者1人、倒壊住宅3戸
 先人の先見の明、1896年被災後の山麓高台移転が奏功

 さて、筆者は上記の2005年と2008年に吉浜を訪ねる
 当時の暮らしの一部を、大津波襲来前、弊ブロクで紹介(2010年11月27日12月04日05日2010年11月28日
 また、当地の子育ての一部を2011年04月02日に紹介

 現在、住民の皆様が吉浜農地復興委員会を立ち上げ、今後のあり方を検討中
 不謹慎とは存じつつ、今日は被災前の防潮堤、保安林(防潮林)、水田などの一部を紹介
 一日も早い復興を祈念します

 引用・参考文献等:農村工学研究所Website;「岩手県大船渡市吉浜地区における減災農地と地域復興計画 平成23年4月~10月 農村工学研究所復興支援プロジェクトチーム」
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:写真1・2・3;2008年10月23日、写真4;同月24日 撮影地:岩手県大船渡市吉浜

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