あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

四字熟語と 絆から 考えること

2011-12-15 09:39:46 | インポート

昨晩は、ふたご座流星群を見ようと思っていたのですが、あいにくのくもり空で見ることができず残念に思いました。ニュース画像で、陸前高田市にある奇跡の一本松の上空を 流れ星が走る様子が紹介されていました。海岸の被災地では、きれいな星空とたくさんの流れ星を見ることができたようです。亡くなった方々のことを想いながら、星空を見上げた人々もたくさんおられたのではないでしょうか。

住友生命が募集した今年の四字熟語の中に、復興のシンボルである一本松を

○ 『一松懸命』 <一生懸命> 

と表現した作品がありました。津波にも負けずに立ちつづける姿に、明日に向かう新たな力や元気を見出すことができたのではないかと思います。

優秀作品の10編には、この作品の他に次の9編がありました。

○『天威無法』 <天衣無縫> ○『帰路騒然』 <理路整然> ○『愛円義援』 <合縁奇縁>

○『電考節夏』 <電光石火> ○『金貨雀躍』 <欣喜雀躍> ○『年々宰宰』 <年年歳歳>

○『舌禍繚乱』 <百花繚乱> ○『熟年差婚』 <熟年離婚> ○『才足兼美』 <才色兼備>

2011年を表す漢字として、「絆」が第一位に選ばれ、清水寺の森清範貫主が筆で書いた絆の文字が、新聞に掲載されていました。太い筆で一気に書き上げられた文字から、わきあがる力強さ、途切れのない一連のつながり、完成された絵のような全体の調和を感じました。絆は、目には見えない 人と人とをつなぐ心の糸のようなもの。3.11を通して、多くの人の目に その見えないものが 見えるようになったことが、選ばれた理由のように感じます。

森管主の書いた絆から、どんなことがあっても変わることのない強い絆、日本を含め世界の人々とつながりあう広い絆。そして 人はお互いに支え 支えられるという 多くの人との確かな絆の中に 存在しているのだということを 感じました。一方で、絆は、時を越えるものなのかもしれません。これまでつくってきた確かな絆。今 つくられている絆。そして これからつくられていく絆。多くの人と出会い かかわり ふれあう中で 時を越えて 紡がれていく 人と人とをつなぐ糸。

一つ一つの絆に感謝し、その糸を大切にする 自分でありたいものです。


月食 見ました

2011-12-12 09:04:42 | インポート

10日の晩は、月食の観察をしました。午後9時40分頃から12時過ぎまで、20分おきぐらいの間隔で外に出て、月の欠ける様子を見ました。皆既月食の頃には、完全に月が見えなくなるのではと想像していましたが、少し赤味がかった輪郭を見ることができました。久し振りの天体ショーを、娘も妻も童心にかえったような思いで見入ることができたようです。寒さが身にしみる外気の中、星もきれいに輝き、体の内側まできよめられていくような気がしました。

同じように日本中のいろんな場所で、いろんな人が空を見上げ、同じ時間を共有していることを想像すると、ほのぼのとした連帯感を感じ、楽しくなりました。

妻は、観察中に流れ星も見ることができたとのこと。いいことがありそうだなと語っていましたが、願い事を告げることはできなかったようです。

いつだったか、家族そろって流星群を観察しながら、たくさんの流れ星をながめた時のことを思い出します。次から次へと夜空を縦横に走る流れ星を見ながら、願い事を思いつくより、この瞬間に立ち合うことができた幸せを味わっていたように思います。

いつか、皆既日食をこの目で見ることができたらと思いますが、かなうかどうか……。

006_7

008

011_2

012_3

016





012019


クウタのえさを食べる のら猫の出現

2011-12-11 15:35:24 | インポート

先日、夕方に帰宅すると、クウタがえさを食べていました。いつもの姿より小さく丸まったような感じがするなあと思いながら近づくと、なんと横から本物のクウタが現れました。ではいったいえさを食べているのは何者かと思ってよく見ると、このごろよく見かける白いのら猫でした。

クウタがえさはおれのものだよとでも言うように猫に近づくと、猫は片方の前足で軽くあしらいクウタを追い払っていました。体の大きさでは、クウタの方が2倍以上も大きいのに、猫がこわくて鳴き声さえ出せないようです。でも、猫は人間である私の存在に気づくと、あわてて逃げだしました。途中で立ち止まり、こちらの様子をうかがっていましたが、さらに猫の方に私が近づいていくと、家の門から外へすばやく逃げていきました。

その様子を見てから、クウタのそばに行くとなんか落ち着かないそぶりです。猫がまたくるのではないかと心配しているような感じがしました。荷物を家の中に置いてから、私がまた外に出てみると、どうでしょう。さっきの猫が、走ってこちらに向かってくるところでした。やはり、私がいなくなったらまたえさを食べにこようと考えて、やってきたようです。でも、私の姿を見つけると途中で立ち止まって、こちらの様子をうかがっていました。私は追い払ってしまった方がいいなと考え、猫のいる方に向かって走り出しました。猫はその足音と勢いに驚いた様子で、すごいスピードで門の外へ逃げていきました。

門のまわりには猫はいないようなので、クウタのそばにもどりました。邪魔者がいなくなって安心したのでしょうか。クウタは夢中になってえさを食べていました。しばらくその様子をながめながら、門のところも見ていましたが、猫はもうやってはこないようです。残っていたえさも、全部クウタが食べてしまったので、私も家の中にもどりました。

何とも気の弱いクウタです。飼い犬としての生活に慣れ、野性的な本能が眠ってしまったのでしょうか。でも、のら猫やカラスにえさを奪われ、番犬としての役目を果たせず誰にでもしっぽをふり、じゃれてくるクウタは、やはり我が家の大切な家族の一人<一匹>であり、愛すべき存在です。

それにしても、たくましいのはのら猫です。えさを求めて生きようとする姿や軽くクウタをあしらう様子、さらには人間をうかがう様子に、野性の本能を見たような気がしました。

飼い犬としてえさを与えられ鎖につながれたクウタと、のら猫としてえさを自分で探さなければならず、でも自由に動き回ることのできる猫とを比較した場合、どちらが幸せなのかなとも思いました。

願わくば、どちらもこれからも元気で長生きしてほしいものです。のら猫が増えすぎるのは、困ったことだと思いますが……。


絵本『おへそのあな』を読んで

2011-12-08 08:55:31 | インポート

先日、ラジオで作者の長谷川義史さんがこの絵本を朗読するのを耳にしました。産まれてくる赤ちゃんが、お母さんのおへそのあなを通して、外の世界を見たり・聞いたり・感じたりしたことを描いたストーリーでした。聴いていると、赤ちゃんになったような気持ちで外の世界が見え、自分の誕生を心から待ち望んでいる家族の様子が見えてくるような気がしました。是非絵本を手にしてみたいと思っていたところ、娘が図書館からその絵本を借りてきてくれました。

絵と重ねて読んでみると、改めてこの絵本のよさを実感できました。

~ 産まれてくる赤ちゃんのために、ロボットをつくるおにいさん。きれいな花を見せてあげたいと花を育てるおねえさん。ギターをひきながら、赤ちゃんの歌をつくったお父さん。そんな家族の様子がおへそのあなから見えます。

お母さんのつくる料理のにおいもしてきます。産まれてくる赤ちゃんのために、お母さんはバランスよく食べます。

いろんな声も聞こえてきます。赤ちゃんの誕生を心待ちにしているお父さん・お母さん・おばあさん・おじいさん・おにいさん・おねえさんの声。

風の音・波の音・鳥の声・花の咲く音も聞こえてきます。

「おいで おいで うまれておいで」と 言っている みんなの声が聞こえてきます。

この声にこたえる 赤ちゃんの声で 絵本は 結ばれています。

「あした うまれて いくからね」 ~

産まれてくる赤ちゃんとその誕生を心から待ち望んでいる家族の思いが、ほのぼのと心に伝わってくる絵本です。我が子どもたちが産まれた頃のことや誕生した時の喜びを思い出します。三番目の娘は、自分がお母さんのおなかにいた時のことをおぼろげなから覚えていると語ったことがありました。この絵本の赤ちゃんのように、外の世界が見えたり、聞こえたりした感覚が残っていたのかもしれません……?。

これから赤ちゃんが生まれてくる家庭の子どもたちには、是非手にとってもらいたい絵本だと思います。「あした うまれて いくからね」という赤ちゃんの声を受け止めながら、おにいさんやおねえさんとして、さっそく何かおくりものの用意を始めるかもしれません。それ以上に新しい家族を迎え入れる心の準備ができるような気がします。

産まれてくる赤ちゃんの誰もが、「うまれてきて よかったなあ」と思えるような 家族であり、社会でありたいものだと、この絵本を通して改めて感じています。


ITの進歩によって失われるもの

2011-12-04 18:37:23 | インポート

夕方のラジオで、ITの進歩によって便利になった反面失われるものもあるのだということを指摘する声を耳にしました。IT企業の社長さんの語る言葉でした。

 ◆ I T ~ コンピュータやデータ通信に関する技術を総称的に表す語

本来ITは、人間にゆとりある時間を生みだすために、発達してきたものだ。求める情報を速く的確に獲得することで、それに要する時間を短縮することができる。そしてそこで生まれた余剰の時間を人間的な営みに活用できるはずであったが、今はITを使うことにその時間の大半が奪われてしまう傾向にある。一日の中で、パソコンや携帯電話に向き合うことにどれだけ時間が浪費されていることだろう。道具として使うのではなく、人間の方が道具に使われているという状況はないのだろうか。生み出された時間は、人や自然とふれあったり、読書や音楽といった趣味に活用したりといった、潤いのある人間的な生活を営む時間として使うべきなのでは……

多分に私見の入ったまとめ方だと思いますが、おおよそ上記のような内容の話だったように記憶しています。現代社会で活用されるITとの関わりをどう進めていったらいいのか、考える視点を与えてもらったような気がしました。

ミハエル・エンデの描いた『モモ』という作品の世界でも、時間泥棒たちが登場し、人々のゆとりある時間を奪い取っていきます。効率だけが優先され、ゆったりとくつろぐ時間も、子どもたちの貴重な遊びの時間も奪われてしまったら、どんなにこの世界は暗い荒涼とした世界になることでしょう。

レオ・レオニの描いた『フレデリック』で、フレデリックが集めた色や光や言葉も、無駄な時間をかけて集めたもので、時間泥棒たちにとってはのどから手が出るほど欲しい時間だったのではないかと思います。

無駄な時間ほど貴重な時間なのだと思います。ゆったりとした時の流れを肌で感じながら過ごすひととき。人間本来の自由な時間を生みだすために、ITは進歩してきたという 前提を、忘れてはいけないように思います。

ITからほどよい距離をとりながら、本当に自分が必要することに時を使っていきたいものです。