あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

待つことの意味と大切さ

2011-12-24 18:16:20 | インポート

昨日(12/23)付けの天声人語を読んでいて、『老いる』ことと『待つ』ことについて考えさせられました。

年をとればとるほど、誰でも肉体的にも老化が始まり、今まで短時間でできたこともゆっくり時間をかけなければできなくなってきます。私自身も初老の域に達し、そのことを少しずつ受け入れていく時期なのかなあという自覚があります。

紙面では、次の例が取り上げられていました。

病院の現金自動支払機を使っていた女性は、もたついて操作をしていて、後ろの男性から『さっさとやれ』と怒鳴られ、長生きはしたくないものだと半月ほど落ち込んだとのこと。

投稿された短歌の一首に『三秒だけ待って下さい履けるのです飛んできて靴を履かせないで』という介護の人に訴えるような歌があったとのこと。

朗報として、歩行者用信号機に、渡りきれない人を感知して青の時間が延びるものが登場したとのこと。横断歩道を渡るのに時間を要する高齢者の方や障害をもった方にはとても助かる信号なのではないかと思います。ただ、設置されているのは全国で20基余りとのこと。

老いることは、誰にでもやってくる宿命のようなものです。そのことを前提にした、社会のありようについて、考えます。人に優しい社会とは、さまざまなハンディーをもった人々が、暮らしやすい社会をつくるということなのではないかと思います。ハードとしての施設や設備、用具、先の信号などはこれからもどんどん改良され、より簡単で便利なものがつくられていくような気がします。しかし、大切なのは、老いることに対する人としての心のありようなのではないかと思います。

現金自動支払い機で怒声を浴びせた男性は、待つことが苦痛だったのでしょうか。よほど急いでいたのでしょうか。待ってあげるゆとりはなかったのでしょうか。自分の都合だけを優先して考えることに、潤いのないすさんだ心のありようを見るような気がします。自らもやがては老いていくことを想像する感性が失われているのではないでしょうか。何かと多忙で効率のみを優先する社会にあっては、待つことは時間の浪費としてしか考えられないのでしょうか。あわてないでゆっくりと操作してくださいといった心で待ってもらえたら、どんなに女性の方は救われたことでしょう。ゆったりと待つことのできる心のゆとりが、これからの社会で必要とされる潤滑油のような役割を果たしてくれるのではないかと思います。

短歌で訴えた人も、わずか3秒待つことを心から求めています。待つことは、少し時間がかかっても自らできることは自分の手でやり遂げようとする意志を尊重することでもあります。介護される側にとっては、そうして待ってもらえることで、生きることに対する積極的な構えを持ち続けることができるのではないでしょうか。その思いを汲み取って介護する側が待つことができたら、どんなに力強い励ましになることでしょう。

老いる側の人々と取り巻く若い人々との関係の中で、待つことが大切にされ、待たされることにもゆとりを持って対応できる、時間の束縛から解き放たれたゆったりとした心で結ばれる関係が実現できたらと思います。

震災の時に、寒い中、誰もが整然と並び、給水車がやって来るのを待ち続けていた光景を思い出します。その時には、多くの人が待つことが当然のことだと考えていたように思います。お互いに同じように被災し、苦労を共にする者同士といった連帯意識も生まれていたように思います。老いも、人として生きていく以上、誰にもやってきます。そんな運命共同体のような中に、今自分も生きているのだという感覚を大切にして、待つこと・待たされることの意味を考えることができたらと思います。

コメント
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