あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

心のものさし

2015-10-31 13:31:34 | 日記
誰でも心にものさしを持ち、それをよりどころにして物事の良し悪しや価値を推し量っているのかもしれません。
だからこそ、人間の数だけ多様なものの見方や感じ方があるのだとも言えます。
しかし、そのものさしで測り切れないものもあるのだということを知っておくことも大切なのだと思います。
一つの判断や考えは、自分のものさしから生まれたものにすぎないということを心にとどめることです。
人が人を評価するときは、なおさらです。
あの人はこういう人だと判断するとき、その人にはそう考え行動する その人なりの事情や理由があるのかもしれない。
そう考えるゆとりを持たないと、人間関係はギスギスしたものとなり、決めつけた見方が相手の心を傷つけてしまう場合も生じてしまいます。
狭小なる自分の狭小なる見方の一つなのだということに気づくことができたら、どんなに周りの世界が広がって見えることでしょう。
人間は多様な存在であり、誰もがかけがえのない固有な存在である。
それをお互いが認め、受け入れることで、どんなに人間関係は豊かに広がっていくことでしょう。

折々の言葉で、次のような言葉が取り上げられていました。

「多様性は……多様な存在の外からその数を数えるような一個の存在に対して生起するものではない。」
 エマニュエル・レビナス  「全体性と無限」〈合田正人訳〉から。
鷲田氏の解説によると
「多様性の尊重には、一人ひとりが異なる存在であることが前提となる。人びとが数で一括りにされるところに多様性はありえない。
 人はその個別性においてこそ輝く。20世紀フランスの哲学者は、だれかを別のだれかで置き換え可能とみるのは、人間に対する『根源的不敬』であると言う。」

人はその個別性によって輝く ~ いい言葉ですね。
お互いに輝く存在であるためにも、人間に対する『根源的不敬』に陥らないためにも、自分の心のものさしの幅と長さを広げる努力を続けていきたいものです。

折々の言葉から、もう一つ教えられたことがありました。
それは、マイナンバー制度の問題です。

「夜と霧」の著者である ブィクトール・E・フランクルがナチスによって収容所へ入れられた時、収容された人々は番号で呼ばれていました。
フランクルの番号は、119104 でした。
名前も、経歴も、人格も、人間であることも否定されてしまう過酷な状況の中で、番号によってしか区別されない存在だつたのです。
管理する側にとっては、その番号は物を区分するようなもので、収容者を人間扱いしない冷酷な意識まで植え付けられていったのです。
そこでは いつガス室へ送り出させれるのかという 死と隣り合わせの辛い生活を余儀なくされていました。
その上 一人の人間としての存在の重さも、個性も、一人ひとりが多様で異なる存在であることさえ否定されていました。、
存在を意味するものは、唯一 番号だけだったのです。
マイナンバーを与えられるということは、その番号によって 名前も個性も人間性も押しやられ、管理する側の効率性だけが優先されてしまうのではないかと心配になります。
年金情報の流出問題もありましたが、個人の情報やプライバシーがきちんと管理されるのかどうかという不安もあります。
管理と効率という冷たい論理の中で、人間ではなく番号という存在に自分が置き換わってしまうような印象もあります。
運転免許も健康保険もパスポートも銀行預金も、すべてマイナンバーに一元化されていく方向にあるようですが、なぜ今必要で、どんな利点や不都合があるのか、見えないまま
制度は進められていこうとしています。
原発の再稼働、安保法案、沖縄の基地問題等、強権的な形でものごとが決められ進められていく流れの中に、この制度も位置付けられているような気がします。

一つ一つの流れに押し流されることなく、政治や社会の動きを 心のものさしを磨きながら注視していきたいものです。
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