あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

詩『ありがとう』について

2014-02-28 10:00:37 | インポート

以前ブログで紹介した谷川俊太郎さんの詩『ありがとう』に コメントがありました。谷川さんは、ナルシストなのでは…?という印象をもたれたようなので、改めてこの詩を読んでの私の考えを書いてみたいと思います。

     ありがとう

                           谷川  俊太郎

空 ありがとう / 今日も私の上にいてくれて /

曇っていても分かるよ / 宇宙へと青くひろがっているのが /

花 ありがとう / 今日も咲いていてくれて /

明日は散ってしまうかもしれない / でも匂いも色ももう私の一部 / 

お母さん ありがとう / 私を生んでくれて /

口に出すのはてれくさいから / 一度っきりしか言わないけれど /

でも誰だろう 何だろう / 私に私をくれたのは?

限りない世界に向かって私は呟(つぶや)く / 私 ありがとう

         <みんなの谷川俊太郎詩集 ハルキ文庫より>

ナルシストの意味を辞書で調べてみると、「自己陶酔型の人、うぬぼれや」と書かれています。最後に置かれた 「私 ありがとう」とつぶやく言葉に、その印象を強くされたのでしょうか。そういう視点で読んでいくと、この詩は私を世界の中心に置いて書かれた詩とも言えそうです。空も、花も、私のためにあり、母親も私を生むためにいてくれたのだと。

でも、この詩のタイトルでもある「ありがとう」という言葉に沿って、読んでいくとどうでしょうか。空は、あたりまえのように頭の上に広がり、花は役目を果たすように自然に花を咲かせます。それを当然のことと受け止めるならば、空や花に感謝の思いを込めて「ありがとう」は言えないのではないでしょうか。曇っていても作者には、その向こうに「宇宙へと青くひろがっている」空が見え、読み手である私にもその青い広がりが想像できます。いつかは散ってしまう花であっても、その匂いや色を感じ取ることで、花は心のうちにその匂いと色と姿をとどめたまま咲き続けることでしょう。読み手である私にも忘れられない花があります。

外の世界に在って、そうやって自分という私を包み込み、心のうちを豊かにしてくれているものが、空であり花なのではないでしょうか。だからこそ「ありがとう」と言えるのだと思うのです。

そんなふうに空と向き合い、花を愛でることができるのも、生きて感じることができるからです。母が生んでくれたことでこの世界にふれることができるのであり、与えられた命に対する感謝の思いが母への「ありがとう」につながっているのだと思います。

人は一人では生きられない存在であり、同時に私しか描くことのできない私の人生を生きる存在でもあります。多くの人と交わり、限りない外の世界とふれあう中で、私という人間を育み歩んでいくのだと思います。さまざまな出会いや出来事の中で、その時々の私と向かい合っていくのが人生なのかもしれません。生きていく中で見えてくる私という存在に向かって「ありがとう」と言えるのは、自分の人生の主役である私に対する感謝の思いなのだと思います。そこには、ここまで生きてきた私と今の私を肯定し、明日を生きる私に対する確かな信頼の思いも込められているように感じます。

ナルシストという閉じられた世界を超えたところにある 私の思いを開いた詩と とらえることはできないでしょうか。自分の中の私、他人の中の私、詩の中の私、読み手としての私、さまざまな私と向き合うことのできる詩なのですから。

欠点も含めて 私という人間と肯定的に向き合い、新たな私を見出していきたいものです。

 かって、女子のマラソン選手が走り終わった後に、「自分で自分をほめてあげたい」と語ったことがありました。これまでの厳しい練習を乗り越えて たどり着いたゴール。自分の足で踏みしめたゴールの感触は、どんなに大きい喜びだったのか、そのことがストレートに伝わってくる言葉だったように思います。


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