Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ハーブ

2017年08月07日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン
ケネルンはベネティアを毒殺したのではと私は思っています。非常な嫉妬心を持つ男のようです。事にベネティアに対しては特別です。
 
年に500ポンドの金とは、今でいえばどのくらいの価値があるのでしょうか。
Nominal Annual Earnings for various Occupations in England and Scotland", Data by Jeffrey G. Williamson, 1982 によれば、1700年代の上級官吏が70ポンド/年、技術者が45ポンド/年、一般労働者、農業従事者が20ポンド/年、伯爵はざっくり言って二万ポンド位です。500ポンドをどのように評価すべきでしょうか。その毎年入ってくる500ポンドと引き替えにケネルンは嫉妬心を買ったといえるかもしれません。
      

   年代     1710   1737   1755   1781   1797   1805   1810   1815
 
    職業
警官 警備     13.28  26.05   25.76   48.08   47.04   51.26     67.89  69.34
     教師                15.78    15.03       15.97      16.53      43.21     43.21       51.10      51.10
建築労働者            17.78     17.18      17.18      21.09      30.03      40.40      42.04      40.04
一般労働者            19.22     20.15      20.75      23.13      25.09      36.87      43.94      43.94
下級官僚               21.58     28.79      28.62      46.02      46.77      52.48      57.17      60.22
   鉱夫                  22.46     27.72      22.94      24.37      47.79      64.99      63.22      57.82
建築業者               28.50     29.08      30.51      35.57      40.64      55.30      66.35      66.35
 織物師                 33.59     34.28      35.96      41.93      47.90      65.18      78.21      67.60
 造船業                 36.26     37.00      38.82      45.26       51.71      51.32      55.25      59.20
   技師                 40.73     41.56       43.60      50.83      58.08      75.88       88.23      94.91
印刷業                 43.29     44.17       46.34      54.03      66.61      71.11      79.22       79.22
  書記                  43.64     68.29       63.62     101.57    135.26    150.44    178.11     200.79
外科医師             51.72     56.85       62.02      88.35     174.95     217.60    217.60     217.60
高級官僚            62.88      84.04      78.91     104.55     133.73     151.09     176.86    195.16
 聖職者              99.66     96.84       91.90     182.65     238.50     266.42     283.89     272.53
 弁護士             113.16    178.18    231.00     242.67    165.00      340.00     447.50     447.50
測量技師            131.09   122.37    137.51     170.00     190.00     291.43     305.00     337.00
 
            ( 数字はポンド/年を示します )
Data by Jeffrey G. Williamson, 1982
Data in pound sterling per yearJeffrey G. Williamson, "The Structure of Pay in Britain, 1710-1911", Research in Economic History, 7 (1982), 1-54. から一部分を引用させて頂きました。
 
オーブリーの 'BRIEF LIVES' によれば、リチャード・サックビルは1624年に亡くなったのですが、残された子供とベネティアのために年金が支払われたのです。後を継いだ4代ドーセット伯爵は夫婦を一年に一度屋敷に招きました。ケネルンが立つその横で彼は夫人の手にキッスをし、滴るばかりの欲望に満ちた眼差しで彼女を見つめていたと書き残しています。
 
( リチャード・サックビル、ベネティア、ケネルンの三人の関係は、1625年の二人の結婚以前の、少なくとも、スタンレィがロンドンに来てから以降7-8年間のいきさつを知らないと、はっきりと分からないようです。

ベルヴォアールのラトランド伯爵がスタンレィの肖像画を一枚所持していたようです。そのようなこともケネルンをして嫉妬に駆らせた原因だと思います。当時の、肖像画に込めた思いは今のそれとは異なるようです。「肖像には魂の一部分が宿る」と考えていたのかもしれません。臨終の姿を現世に写し取ったのも、かって生きていた人との交流手段であると考えていたのかもしれません。)
当時の死生観はどのようなものだったのでしょうか。1600年代、死生観、イングランドと言えば、シェイクスピアのハムレットが思い浮かびます。
 
ハムレットの三幕第一場は「To be, or not to be :  that is the question : 」の有名なセリフで始まります。つづく「死は……ねむり……に過ぎぬ。 眠って心の痛が去り、此肉に付纏ふてをる千百の苦《くるしみ》が除かるゝものならば…… それこそ上もなう願はしい 大終焉ぢゃが。……死は……ねむり……眠る」というセリフは当時の「死」に対する考えを代弁しています。

( 眠りには二種類;目覚めることのある「眠り」と目覚めのない「眠り」があり、二つを区別しないのが上の考えです。 )
 
中世の死生観とはやはり少し異なります。しかし、重罪人は四肢をばらばらにする、燃やすなどの対処を取っていることから、骨に霊魂が眠るという考えはまだ少し残っているようですし、死者の世界と生者の世界は緩やかに繋がっているかも知れないという思いもまだ、これも少し存在しているようです。「緩やかに繋がっている」とは、往来ができるという意味です。
   
 
                            
                                        The gravedigger scene  Eugène Delacroix, 1839
 
墓掘り人がハムレットに子供の頃に葡萄酒をかけられたヨリックの髑髏を拾い上げて、「これ、此髑髏《しやれこつ》は、 二十三年も土の中に入ってをりますのぢゃ。」と喋りかける。
ハムレットは髑髏を手に取って「見せい。はれ、不憫なヨリック!……ホレーショー、予《わし》は此者をば存じてをったが、 戲謔《むだぐち》にかけては眞《まこと》に窮極《きわま》る所を知らぬ、いや、拔群な竒想《おもひつき》に長じた奴。 予《わし》をば幾千度も背に負ふて歩いたものぢゃ。」と語りかけるのです。そこには霊魂が眠っている髑髏に対する恐怖心もなければ畏怖の念もない、きわめて「カラットした」空気が流れているのです。これには当時の、少々のことでは驚かない、芝居慣れした観客も度肝を抜かれたようです。ハムレットと言えば先代のハムレットが幽霊となって現れるシーンと、オフィーリアの入水場面、それにこの髑髏を事も無げに見つめるシーンが特に印象に残る場面です。絵はドラクロアが描いたものですが、当時の雰囲気をよく伝えています。
 
 
 
 
 
つづく。
 
  
 
 
 
 

ハーブ

2017年08月06日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ケネルン・ディグビィとはどのような人間なのでしょう。モン・デ・ルース男爵には最初から勝ち目がありませんでした。結果は最初から見えていたのです。それよりも、男爵はこんな危ない男を何故パーティに呼んだのでしょうか。今のフランス王はルイXIII世の母親はメディチ家のマリア・デ・メディチ(Maria de' Medici)で、彼女の三女はイングランド王チャールズの妃アンリエット・マリーです。息子にはチャールズ世とジェーム世の2人がいるのです。 

今も昔も、フランスには親イングランド派の人々がそこら中にいるではありませんか。(フランドル地方はローマ時代から毛織物の産地として知られた地でしたが、11世紀以降イングランドから羊毛を輸入するようになってフランドルの毛織物は他を圧倒するようになりました。当然フランドルとイングランドとの結びつきは強く、親イングランド派が多く暮らす土地柄です。)

 

ディグビィが頭を激しく振ったあの瞬間に、彼はフランドル経由でイングランドに帰る自分の姿を既に見ていたと思われます。彼は、行動に取りかかる前に幾通りかの解決策を頭の中に描いてから実行に移すタイプのようです。( 国王を第一に考えての行動か、自分の思いを通すことを第一に考えていたかは、今は断定できませんが、そのうちわかるでしょう。) いずれにしても、彼の行動からは親父のエバーアード・ディグビィの二の舞は踏むまいとする強い思いがひしひしと伝わってきます。


  

  

 

つづく。

 

 

 


ハーブ

2017年08月05日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ディグビィは政治家、武人としての一面もありました。

 

科学者である一方、外交官であり、時には海賊となったディグビィも、1625年、ベネティア・スタンレィと結婚。その後、ジェイムズⅠ世の英国枢密院のメンバーとなるのですが、ローマンカソリックであることが政府役人として妨げになると判断すると、英国国教会の信徒に転向します。ベネティアをなくした彼は、1635年再びカソリック信徒に戻り、パリに逃亡します。一時期、スコットランドに監督制を設定するために、チャールズⅠ世に請われて帰国しますが、1641年再びフランスへ渡ります。そこで事件が起こったのです。

 

        

          Sir Kenelm Digby wins in a Duel. 1641.

左側がケネルン・ディグビィですが、この絵は実際とは少し違うのではと思っています。剣の使い手であったディグビィは、手合わせを三回した後、相手の疲れを待ってから、突いてくるところをかわして、懐深く入り込み、相手の左頸動脈を狙って脇腹下から剣を突き立てたのではと考えます。

 

1641年に開かれた夕食会でモン・デ・ルース男爵( Count or Baron Mont de Ros )が乾杯の掛け声を発しました。「世界一の嘘つきで臆病者…..….の健康を祝って乾杯!」 乾杯がなされる前にディグビィが名前を遮りました。ルースはディグビィに話しかけました。「イングランドの王というつもりだった。」ディグビィは怒りのあまり激しく首を振り、口から出る言葉を何とか思いとどまり、パーティの最後になって彼を翌日催す夕食に誘います。

夕食の席上、ディグビィは乾杯の声を上げます。「………最も勇敢なる王。」 乾杯が終わると宣言しました。「イングランド王、我が主君。」 モン・デ・ルースは笑いながら昨夜の無礼を詫びたのですが。ディグビィはルースに寄りかかり、呟くのです。「一対一の決闘を申し込む、お前は自らの口に、私は我が王の為にこの身を捧げるのだ。」 夕食が終わるや否や二人は外に飛び出し、ダブレットを脱ぎ捨て剣を抜きました。

三回とも両者ともよく戦いましたが、四回目にディグビィの剣は相手の防具を突き破り、胸を抜き、首を貫通したのです。決闘はフランスでは禁じられていました。仕返しを恐れたディグビィはフランス王ルイXIII世に申し出て許しを請い、1642年フランダース経由でイギリスへ戻るのです。

 

つづく。

 

 


ハーブ

2017年08月04日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

     

    Robert van der Voerst after Anthony van Dyck - Sir Kenelm Digby, 1636

ケネルン・ディグビィとはどのような男だったのでしょうか。彼には二面性があります。

一つは学者としての顔です。彼は英国学士院の設立メンバーの一人でもあり、1622-1633年にはその評議委員を務めていました。数学者ピエール・ド・フェルマー(1601-1665)との書簡の中にピエールによる無限降下法による数学的証明が残されており、これは注目すべきことです。

王立協会(The Early Publications of the Royal Society)から植物の植生(Discourse on plant vegetation, 1667)に関する本を出すなど植物学者としての顔も持っていました。特に1661年植物の生育に関する論文では、植物の維持に欠かせない物質としての酸素に言及し、この分野では歴史上始めての人物です。しかし、古い時代の影も引きずっており、膨大な時間を占星学と錬金術に費やしています。その中でも注目すべきは、類感力に関するものです。類感呪術に属する考えで、占星術に基づいて作ったパウダーを患部ではなく、傷を与えた部分に塗るとその傷が癒えるというものでした。(この本は29版を重ねるほど評判でした。)この考えは、現在のホメオパシー代替医療につながるもので、一部の人達に盲信されているばかげた考えです。


つづく。



ハーブ

2017年08月03日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

   

           Lady Digby, on Her Deathbed 1633. ヴァン・ダイク画 

ベネティア・ディグビィの突然の死に大きな疑いの目が向けられました。若い、美貌の、それも廷臣の一人が33歳で突然世を去ったのです。

部屋付きのメイドが1633年の430日の夜に、夫人がベッドに入るのを確かめ、その翌朝 ( 5/1 ) 、夫人を起こそうと部屋に入ったところ、部屋を出た時と全く同じ姿で夫人がベッドの上に横たわっていたのです。

2日後 ( 5/3 )、ディグビィは夫人の頭、腕、脚を石膏で固め、友人のヴァン・ダイクを呼びます。ベッドのそばで絵筆を持たせます。

あまりに疑問の残る死に対し、チャールズ世は検死の命令を出します。ディグビィは夫人がこの8年間頭痛を訴えていたこと、そのために毒蛇、蛇毒を入れた飲み物を取っていたことを明かします。頭蓋骨を開けると萎縮した脳が出てきました。脳溢血が原因で亡くなったと結論付けられましたが、あまりの突然の死と、それに伴うケネルンの異様な行動に対して憶測を交えた噂話が広がりました。” ディグビィが殺したのではないか ” と。


つづく。



ハーブ

2017年08月02日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ベネティアを描いた絵は4枚あります。うち一枚は先にご紹介した、ピーター・オリバーが描いた19歳のベネティアとヴァン・ダイクが描いた家族4人の絵、寓意に満ちたベネティア、死の床に眠るベネティアの絵です。3枚目の絵 ( 下 ) に注目しました。

顔の部分を拡大しました。


         

 

ステュアート朝( Stuart dynasty ; 1371-1714までつづいたスコットランド起源の王朝 )では、女性は蒼ざめた顔と大きく開いた胸を誇張するために鉛白粉にビネガーを混ぜたものを塗っていました。若者の透き通る肌を模するために、網状の静脈を描いたり、鉛で作った櫛を使って眉を濃くしたり、コチニールを沁み込ませたスパニッシュウールやスパニッシュペーパーを使って唇や頬に色を付けたりしました。皮膚の上には卵白を塗ってこれらの仕掛けが見えないようにしていました。まるで磁器のお人形です。

( 中世後期からルネサンス期にかけてイタリアを中心に、顔に鉛白紛を塗り、その上に頬紅を加える化粧方法が流行しました。このメイク法は18世紀にかけてヨーロッパ全域の王侯貴族に男女問わず広がり、鉛白粉を使う上流階級層に流産や死産が多かった原因だと言われています。コチニールは製造過程で虫体の一部分が赤色色素の中に残ることがあり、それが原因でアナフィラキシーよる喘息、ショックがおこります。お化粧は女性が自発的にするものなのか、それとも男が強制的にさせるものなのか。時代の流れの中で仕方なく化粧をしていた女性もいたのではないか、特にこの時代は。と思ったりしていますが、ベネティアはどうだったのか、謎は深まります。)

奇跡に近い美しさを求めて、焼いた毒蛇の内臓を蛇毒ワインに入れて飲むこともあったようです。オーブリーは “ BRIEF LIVES “ の中で、ケネルンがベネティアに蛇毒ワインを飲むように数年にわたって強要していたと書き残していますが、化粧と同じでどちらの意志で飲んでいたかは明確ではありません。ただ彼女は敬虔なキリスト教徒であったし、結婚期間中ずっと潔白であるように振る舞っていたようです。そうして、一日の内少なくとも数時間は祈りを捧げて、また、フランシスコ会に属していてロンドンの貧しい人たちを見舞っていたのです。彼女はカードをしていてツキがあった時,儲けを貯えて積み立てる慈善活動をしていました。

( キリスト教徒にとって、自殺行為は神を裏切る行いですから、蛇毒を飲むことが死に直結するかもしれない行為であることを知っていれば、決して飲まなかったでしょう。何故飲んでいたのか、何故飲まねばならなかったのか疑問が残ります。)

 

 つづく。

 


ハーブ

2017年08月01日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

   

Edward Sackvile, later 4th Earl of Dorset, c. 1614, by William Larkin.John Hoskins, 1635 

リチャード・サックビル、4ドーセット伯爵( 1591 –7/17/1652 )

 

子供は;

1. Hon Richard Sackville, later 5th Earl of Dorset

2. Hon Edward Sackville  ( killed sp. at the Battle of Kidlington 11 Apr 1646; bur. at Wytham, co. Berkshire ) がいました。

 

彼はこの時代の“ハンサムな男“を代表するような男で、16138月エドワード・ブルース、スコットランド貴族キンロス卿世と決闘します。決闘の原因はベネティア・スタンレィです。(理由は聞かないでやって下さい。つまらんことです。)オランダ南部のベルヘン・オプ・ゾームで行われました。介添人はディグビィが務めました。サックビルは相手の胸を二突きしましたが、指を失いました。生き残ったものの、結果は惨めでした。ベネティア・スタンレィはディグビィと結婚することになるのです。サックビルとディグビィの友人関係をこの後も長く続いたということですから、彼は本当に”ハンサム”な男だったのでしょう。

  

    

リチャード・サックビル、5ドーセット伯爵Richard Sackville, 5thEarl of Dorset , 9/16/1622 – 8/27/1677 )

 

ベネティア・ディグビィと間違えた、あのフランシス・クランフィールド( Frances Cranfield, Lady Buckhurst , 1622-1687Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesexの娘 ) の夫です。

 

ベネティア・スタンレィが数奇な運命を過ごしてきたことは理解できましたが、絵の下に書かれた “ Lady Venetia Digby “ の謎はまだ解けません。しかし、「小画像」がいずれも小さなペンダントにしつらえられているのに対して、ヴェネティアのそれは肖像画です。依頼してペンダントにしたものに名前の明記は必要ありません。故意に名前を張り付けた裏には、ある意図があってのことでしょう。


つづく。