Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 238

2021年05月28日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ヨハン コンラート フォン ゲミンゲン( Johann Konrad von Gemmingen、1561/10/23-1612/11//7 or 8 )司教は、8つの庭園からなるアイヒシュテット庭園(Eichstätter garden)を持っていたことで名高く、ヨアヒム カメラリウス(Joachim Camerarius)がこれを管理していたのですが、1598年にヨアヒム カメラリウスが亡くなると、司教はニュルンベルクの薬剤師であるバシリウス ベスラー(1561〜 1629年)に庭園の指導を依頼しました。バシリウス ベスラーは、広大な庭園を記録し、四季を通じて咲く各植物を描写するというアイデアを創案しました。多くの、非常に珍しい植物のカラースケッチは1610年から1612年の間に作成されたもので、これにより壮大な書物ホルタス アイステンシス(Hortus Eystettensi)が生まれたのです。

     

                アイヒシュテット庭園

 

ホルタス アイステンシスは、バシリウス ベスラーが1613年にコーデックス(冊子写本)にしました。(ベスラーに作品の制作を依頼し、16年以上にわたって編集に携わってきたアイヒシュテット司教は、完成前に亡くなっています。)ベスラーは、彼の兄弟と、熟練した画家であるセバスティアン シェーデル( Sebastian Schedel、(1570-1628)、アウグスブルク出身の熟練した彫刻家であるヴォルフガング キリアン(Wolfgang Kilian、1581–1662)、熟練したドイツの画家と彫刻家のグループの支援を受けて編纂を続けました。

 

ヴォルフガング キリアンと彼のチームは最初の銅板を彫りましたが、司教の死後、作業はニュルンベルクの新しい彫刻家チームに移りました。その中にはヨハネス ライポルド(Johannes Leypold)、ゲオルク ゲルトナー(Georg Gärtner)、レビン(Levin)、フリードリッヒ ファン フルセン(Friedrich van Hulsen)、ピーター イッセルブルク(Peter Isselburg,)、ハインリッヒ ウルリッヒ(Heinrich Ulrich)、ドミニクス( Dominicus Custos)、セルバティウス ロイベン(Servatius Raeven)がいました。甥のカメラリウス(Camerarius)とルドウイッグ ユンゲルマン(Ludwig Jungermann)(1572–1653)は植物学者であり説明文を書いています。

 

ホルタス アイステンシス(Hortus Eystettensi:アイヒシュテットの庭)は、これまでの植物画を一変させました。

図版には、庭の花、ハーブ、野菜の他、トウガラシやサボテンなどエキゾチックな植物が実物大に近い形で繊細に描かれています。レイアウトは芸術的で、構成は非常にモダンで、ハンドカラーリングがさらなる効果を挙げています。

この作品は1613年に最初に出版され、367の銅版画で構成され、1ページに平均3つの植物、合計1084種が描かれています。初版は300部を印刷し、販売には4年かかりました。この本は57x 46cmの大きなシートに印刷されました。

参考書として使用するための安価な白黒版と、高品質の紙に印刷され、贅沢に手彩色されたテキストなしの豪華版の2つのバージョンが作成されました。

高級バージョンは法外な500フローリン(金貨)で販売され、無地の無着色のコピーはそれぞれ35フローリンで販売されました。ベスラーはついにニュルンベルクのファッショナブルな場所にある快適な家を2500フローリンの価格で購入することができました。これは、Hortus Eystettensi 5册分に相当します。如何に本が高価だったかが想像出来るでしょう。

 

白い薔薇の花が赤い薔薇を押しのけて ? 、『庭園植物誌』に載せられていたことは、意外でした。何故なら、ダマスクローズは、まず赤い花を付け、その後その花が褪色して白くなるものと思っていたからです。そのことは以前のブログでも触れました。10/26にセルシアーナ( Damask Rose Celsiana )の薔薇の花を見ていただきました。その絵をもう一度ここに引用しておきます。

                     

 

この絵を見てそれまでの疑問が払拭されたと思いこんでいたのですが。そうではなかったのでしょうか。それにあと一つ疑問が。濃い、どちらかといえば、紫っぽい花びらの薔薇の花は何を根拠に描いたのでしょう。銅版画の説明は、バシリウスの甥のカメラリウス(Camerarius)とルドウイッグ ユンゲルマン(Ludwig Jungermann)(1572–1653、植物学者)が当たったということですから信頼して良いと思われます。1613年に書かれた内容にしては中々のものです。いままで一年と半年を費やして書いてきたブログ「ダマスクローズをさがして」を短くまとめたような、文章は本当に大した内容です。

  

               プレート97:Vern Ordo 6、fol 4

 

この絵の説明も白い薔薇に描かれた内容と全く同じでした。上左の白い一重の薔薇(Rosa Damascena forisum plici )についての説明は見つけることは出来ませんでした。分類は難しいと言うことですから、その言葉通りなのでしょう。それにしてもダマスクローズは白い花が本流とは ?! 意外でした。           

   

   

  

  

 

今年も薔薇の花が咲きました。スーッと鼻先を薔薇の香りがかすめて通ります。夏の暑い日の水遣りの苦労が遠くへ消えてゆきます。不思議なブログに長い間お付き合い頂いて有り難うございました。私はとても幸福な時間を過ごすことが出来ました。本当に有り難うございました。

                                            完

 

6月からはかねてから申し上げておりましたとおり「ハーブ」を取り上げます。かつて誰も書かなかった内容を予定しております。引き続き呼んでいただけると嬉しいです。毎月10日頃を予定しています。

 

 


ダマスクローズ 237

2021年05月26日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

                      最後に

 

これは以前にもご紹介した バシリウス ベスラーの銅版画です。3種類目の版がサイト上から見つかりました。赤、濃い朱、それに白い薔薇の花が描かれています。      

   

    

    

 

              Basilius Besler German | 1561 – 1629

 

同じ銅版画に3つの手彩色をした絵に納得がいかないので詳しく調べてみました。

上の白い薔薇の絵に関しては、詳しい説明が、https://www-ub.ku.de/cgi-bin/hortus-online.pl?dat=03.04. Fol. 94 : Vern Ordo 6, fol 1 にありましたので、それを『』内に引用しておきます。

 

『その魅力的な花と完全な香りで、庭のバラとして長い間人気がありました。ペルシャでは特に有名で、そこでの繁殖は早くから始まっていました。

バラの分類配置は今日に至っては、初期の段階で起きた交雑種についてはこれを正確に割り当てることは、非常に難しいことです。94、I; 95、I-IIII; 96、I-IIII; 97、I-IIII; 98 Hortus Eystettensis、I-IIII; 99、I-IIII ( https://www-ub.ku.de/cgi-bin/hortus-online.pl?dat=06.04. 参照 )

ヨーロッパで栽培されたバラは、その初期には、野生のドッグローズ、ローザカニーナ、ドッグローズ、ローザ コリンビフェラ(Rosa corymbifera)※、ビネガーローズ(vinegar rose)、ローザガリカが関与したと思われます。アジアのムスクローズも家系図の中で見つかるかもしれません。

十字軍を通して、そして中世にアラブ人によって占領されたヨーロッパの地域を通して、強い香りのダマスカスローズのような非常に人気のある他のいくつかのタイプが知られるようになりました。

薔薇園と貴重な薔薇園の痕跡を、古い文学書とそこで描かれた挿絵の中に見つけることができます。ビーナスに捧げられたため、愛の象徴であるだけでなく、愛する人への追悼の象徴にもなりました。

対称的な花の美しさ故に、薔薇はマリア ( ローザ ミスティカ, Rosa mystica:薔薇の聖母)のシンボルになりました。薔薇の花は殉教者の血を象徴していたことから、聖ドロテア(Saints Dorothea)、ロザリア(Rosalia)、エリザベス(Elisabeth)などのさまざまな聖人の伝説では、赤い薔薇がその役割を果たしました。

白い花の薔薇の下に描かれた2種のカタバミ(94、IおよびII)は私たちの固有種です。白く紫がかった花びらを持つカタバミ(94、II)と黄色い角のあるスイバ(94、III)は、葉に含まれるシュウ酸塩による酸味からドイツ名が付けられています。

Werner Dressendörfer: "The plants of Hortus Eystettensis. A botanical and cultural-historical walk through the garden year." In: Hortus Eystettensis. Commentarium. A cura di Klaus Walter Littger and others Sansepolcro: Aboca, 2006, pp. 58-274)  アボカ博物館(Aboca Museum)』

       

  

※ ローザ コリンビフェラ(Rosa corymbifera Borkh) https://www.i-flora.com/en/fact-sheets/search-for-species/art/show/rosa-corymbifera.html 

 

ヨーロッパ中部が原産。高さ;5~2.5 m、葉は奇数羽状複葉で灰緑色の小葉がつきます。花は淡いピンク色から白色で、ロサ カニーナに似ています。果実は卵形で、秋に赤く熟します。

  

ダマスクローズの拡大図。Fol 97.

https://www.audubonart.com/shop/product/oebb-094-besler-pl-94-wood-sorrel-white-rose-yellow-wood-sorrel-20908 

 

編者バシリウス ベスラーまたはバジル ベスラー(Basilius Besler または Basil Besler、1561/2/13 – 1629/3/13、ドイツの薬剤師、植物学者、植物画家)は、ドイツ、アイヒシュテット  (Eichstätt) の司教で植物愛好家の、ヨハン コンラート(Johann Konrad von Gemmingen)が造った庭園で栽培された植物を詳細に描いた『アイヒシュテット庭園植物誌』(Hortus Eystettensis)の植物画を描き、出版しました。上記の白い薔薇は『アイヒシュテット庭園植物誌』からの引用になります。

この『庭園植物誌』について少し説明をしておきます。

 

 


ダマスクローズ 236

2021年05月24日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ローマ帝国とサーサーン朝の両方で信者が迫害されたにもかかわらず、マニ教(サーサーン朝ペルシャのマニ(216 -276/277)を開祖とする宗教)はゾロアスター教を母体にユダヤ教の預言者の概念を取り入れ、ザラスシュトラ(ゾロアスター教の開祖、釈迦、イエスを預言者の後継と解釈。マニ自身も自らを天使から啓示を受けた最後の預言者と位置づけた。そのほかにグノーシス主義の影響を受けたゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画す仏教的な禁欲主義が特徴であるマニ教は138年まで広がりを続け、改宗者を獲得しました。

マニ教は二元論であり、『闇の側では、虜にした光の元素を閉じ込めるため「物質」が「肉体」の形をとって、全ての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔を作り、女も同様に大女魔を作った。大悪魔と大女魔は憧憬の対象「第三の使者」を模して人祖アダムとエバ(イヴ)を創造した。そのため、アダムは闇の創造物だが、大量の光の要素を持ち、その末裔たる人間は闇によって汚れていても智慧によって内部の光を認識できる、と説く。対してエバは、光の要素を持ちつつ智慧を与えられず、アルコーンと交接してカインとアベル(アダムとイヴの息子たちで兄がカイン、弟がアベル)を産む。嫉妬に駆られたアダムはエバと交わり、セト(創世記に登場するアダムの130歳の時の子)が生まれて人の営みが始まる。』とされる。

 

非常に興味溢れる宗教です。このマニ教では、薔薇がどのような扱いを受けていたのか。“薔薇” を取り込んだ文章を引用します。 

 

マニ教のベマ詩篇 CCXLI ( the Manichaean Bema Psalms ) http://gnosis.org/library/manis.htm から

 

『ああ、私たちの医者よ:私の兄弟たち、私たちは彼に懇願しましょう。 彼が私たちを癒す治療法を私たちに施してくれますように-------------------------。

彼が私たち全員にそれを授けるために私たちの罪の赦し、 彼が私たちの不義、私たちの魂に刻印されている傷跡を一掃してくださいますように。毎年忘れないようにしましょう-------------------------。』

 

『私たちは彼の聖なる者であり、説教する者と聞く者、すべてです。 詩篇を歌う彼は、花輪を織る彼らのようなものです。 彼の後に答える彼らは、彼の手に薔薇を置く彼らのようです。 真実の審判に対する勝利と輝かしい聖堂内陣。 彼が選んだ者達と彼の求道者達、それに私たち全員にもそれが与えられますように。

この力強い日に祭りを続ける彼らに栄光と名誉を。 Plousiane、Apa Polydoxus、Apa Pshai、Panai、Pshai、Jmnoute、Theona、そして同じくMaryの魂の勝利を。』

 

東部では、ソグドの商人が再び、商人のコミュニティを介して、現在シルクロードとして知られている場所に沿って宗教を伝える上で主要な役割を果たしました。主要なマニ教の中心地は、ササニド(Sassanids)の軍事地点を超え、ソグドの首都(Sogdian capital)サマルカンドに根付きます。ソグド人はウイグル人と共に天山山脈の北の首都に戻り、最終的に王を彼らの信仰に改宗させました。

王の支援の下、マニ教は西暦840年までウイグル帝国の国教とな​​り、その後数世紀の間、ローズウォーターの使用を伴う多くのトルコの信者を抱えていました。

 

西暦600年初頭、イスラム教はアラビア西部に出現しました。

ローズウォーターはイスラム教の宗教儀式で基本的な役割を果たします。アラブの征服は国際貿易ルートをたどり、その結果、イスラム法がますます国際貿易を支配しました。

西暦711年までに、アラブ人は中央アジア南東部でトランスオクシアナ(Transoxiana:ソグディニア)を征服し、ソグドの商人は、幅広い商業的な繋がりがある文化に属している利点を再び認識しました。西暦1368年のモンゴル元王朝の崩壊により、アジア横断貿易を非常に支持していた平和の時代は終わりを告げました。西方文化とのつながりが途絶えたため、ゾロアスター教、ユダヤ教、マニ教、キリスト教は中央アジアと東アジアから消えていきました。

 

西方教会と東方教会の聖書の中に詠み込まれている“イバラ”の文字が含まれている文章を抜き出してみました。最初の方が東方教会、後の方が西方教会の聖書の中に出てくる ”ばら” です。

正教会訳聖書
The Bible translated by Orthodox church of Japan,1902.

http://aqlfaal.starfree.jp/ から (一部現代語に変えました)

 

 

創世記

17 アダムに言へり、爾(なんじ)その妻の言葉を聴きて、我が爾に戒めて、此の実は食らうなかれと言いし木の実を食らいしに因りて、土は爾の為に詛(のろ)わる、爾は一生の間苦しみて之より食を得ん、

18 土は棘(いばら)と薊(あざみ)とを爾の為に生ぜん、又爾は野の草を食らわん、

19 爾は面(おもて)に汗して爾の食を食らい、爾が取られし所の土に帰るに及ばん、蓋し爾は塵にして塵に帰らん。

 

マトフェイによる福音書

22 棘の中に撒かれたる者は、此れ言葉を聴けども、この世のおもんばかりと貨材の惑いとその言葉を蔽いて実を結ばず。

23 沃壌に播かれたる者は、此言葉を聴きて悟り、実を結ぶこと或いは百倍、或いは六十倍、或いは三十倍び至る者なり。

ルカによる聖福音

14 棘の中に堕ちし者は、此れ聴きて去り、而(しかう)して度生(どせい)の慮(おも)んばかりと貨材の宴楽(たのしみ)とに蔽われて、実を結ばず。

 

エウレイ人に達する書

7 蓋(けだ)し、しばしば之に降る雨を飲みて、之を耕す者の為に用に適する野菜を生じる者は、神より祝福を受け、

8 荊棘(いばら)とアザミとを生ずる者は、用なくして、詛い(のろい)に近く、終には焼かれん。

 

ヘブル人への手紙
第6章

6:1そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、 6:2洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。 6:3神の許しを得て、そうすることにしよう。 6:4いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 6:5また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 6:6そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 6:7たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 6:8しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう

 

西方教会聖書

サムエル記下

23:3イスラエルの神は語られた、イスラエルの岩はわたしに言われた、
『人を正しく治める者、神を恐れて、治める者は、23:4朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のように、地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。

23:5まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか。
23:6しかし、よこしまな人は、いばらのようで、手をもって取ることができないゆえ、みな共に捨てられるであろう。
23:7これに触れようとする人は鉄や、やりの柄をもって武装する、彼らはことごとく火で焼かれるであろう」

 

伝道の書

7:6愚かな者の笑いはかまの下に燃えるいばらの音のようである。

 

引用し終えて比較してみると、表現に若干の差はみられるものの、内容に差はありませんでした。『いばらやあざみをはえさせるなら』と、聖書にはイバラとアザミはよくいっしょに出てきます。アザミとその生息環境をを一にしている植物にノバラが挙げられます。イバラを棘のある植物と解するのではなく、野バラと解釈しても良いのではと思います。一つだけ気になることは、キリストの権威の主張をあざけり、痛みを引き起こすためにキリストの頭にかけられた例の「トゲの冠」です。この棘のある植物とは一体何でしょうか。

                                                                       

   いばらの冠をかぶり十字架を背負ったキリスト、1580 エルグレコ画

 

マタイ伝から、 

28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、

 29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 

30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。

  

 

https://www.shutterstock.com/ja/image-photo/christ-plant-crown-thornes-euphorbia-milii-1204149652 

 

ハナキリン(花麒麟、 Euphorbia milii、別名Crown of thorns、Christ Plant)

通称は、イエスがはりつけの際に着用を余儀なくされたとげのある冠を指し、花の赤い苞は彼の血を表しているといいます。

トウダイグサ科の低木。茎が多肉で棘が密生しサボテン(特にモクキリン)に似ており、花序を包む苞が美しいので観賞用に栽培されています。変種が多い。葉は長さ3cmほどの楕円形で若い茎の先端付近に多数付き、生長すると棘となる。高くなると半つる状になり、這ったり、他のものにからまったりします。花は茎の先端に径1-2cmほどの杯状花序となり、1対の花弁状の苞があって、赤、橙、黄、白などに成る。切ると出る白い乳白色の樹液は有毒で、皮膚や目の炎症を引き起こす可能性があります。

一年中開花します。 マダガスカル原産ですが、古くからヨーロッパにはあったようです。多年草で、丈夫な灰色のとげと楕円形の葉が年をとるにつれて落ちます。 鉢植えの植物はかなり小さいですが、大きく枝分かれしたブドウのような茎は、2メートル以上の長さに達します。

 

 


ダマスクローズ 235

2021年05月22日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

漢王朝(紀元前206年-紀元前220年)に書かれた記録には、ソグド人が才能のある商人であったとあります。ソグド人と他のアーリア人はそれ以前に何千年もの間取引していたのです。

現在中国北西部にあるトルファンでは、市内の墓地で見つかった中国の文書に数百人のソグド人が記載されており、キャラバンに関する税関登録の断片は、35の作戦の中でソグド人は29人に関与していました(Skaff、1998、pp.89-95)。この活動は、売買契約、訴訟の記録、および国勢調査リストに記載されています。彼らは、商業だけでなく、オアシスでの生活のあらゆる側面で主要な役割を果たしました。 2000年前、トルファンはアーリア人/ソグド人の人口が多い土地の最東端であり、同時に中国の漢帝国の最も遠い前哨基地の1つでした。

 

ソグド人は、金、銀、樟脳、コショウ、その他の香辛料、ムスク、小麦、絹、その他の種類の布などの商品を扱う取引コロニーを中国に設立しました。中国におけるソグド人の入植地の証拠は、中国の首都洛陽まで東に発見されています。 Dunhuangのステージングポストで発見された西暦313-314年のソグド語の手紙は、Dunhuangに定住した実質的なソグド人コミュニティがあったことを示しています。ソグドの手紙は、敦煌の商人が中国のさまざまな場所にある子会社のソグド商人のネットワークと通信したことを示しています。敦煌のソグド人はサマルカンドでの彼らの原則から方向を取り、発見された手紙の1つはサマルカンドでした。ソグドの中国との貿易は拡大し、後に唐中国(618-906 CE)で人気のあるエキゾチックな製品のいくつかはサマルカンドから輸入されました。

 

ゾロアスター教の寺院が西暦4世紀に敦煌に存在し、、それは10世紀初頭にまだ繁栄していました。ソグドの商人も西に行き、シルクロードという名前を交易路に付けてシルクロードの発展に関与しました。貿易は、航路と政情不安がシルクロード沿いの貿易の減少につながるまで続きました。彼らは活気に満ち、刺激的で、繁栄し、国際的な場所であり、彼らの名声は遠く離れた土地にまで広がっていました。

 

漢王朝(紀元前206年-紀元前220年)の間に書かれた中央アジアの最初の中国の記録に、ソグディアンに商才があったことを記録しています。ソグディアンと他のアーリア人はそれ以前からの何千年もの間取引がありました。

現在中国北西部のトルファンでは、市内の墓地で見つかった中国の文書に数百人のソド人の名が記載されており、キャラバンに関する税関登録の断片35の内、29はソグディアンの売買契約、訴訟の記録、および財産の登録に関するものでした。

彼らは、商業だけでなく、オアシスでの生活のあらゆる側面で主要な役割を果たしていました。 2000年前、トルファンはアーリア人/ソグド人の人口が多い、最東端にありながら堅固な地であり、同時に中国の漢帝国の最も離れた前哨基地の1つでした。

ソグド人は、金、銀、樟脳、コショウ、その他の香辛料、ムスク、小麦、絹、その他の種類の布などの商品を扱う取引居留地を中国に設立していました。中国におけるソグド人の入植地は、中国の東、首都洛陽でも発見されています。敦煌のステージングポストで発見された西暦313-314年のソグド語の手紙は、敦煌に定住したソグド人コミュニティがあったことを示しています。

ソグドの中国との貿易は拡大し、後に唐中国(618-906 CE)で人気のあるエキゾチックな製品のいくつかはサマルカンドから輸入されました。

ゾロアスター教の寺院が西暦4世紀に敦煌に存在したという形跡がありますが、寺院は10世紀初頭でも繁栄していました。

 

ソグドで早くから知られていたアヴェスター文字による写本

ゾロアスター教の祈り、アシェムヴォーフ(Ashem Vohu;アヴェスター語の古風な方言で構成されたゾロアスター教の聖書)大英図書館

 

現存する最古のアヴェスター語写本(ゾロアスター教の経典)は、1907年に中国の敦煌、「莫高窟」で見つかった10世紀の西暦の断片です。神の至高に取り組むゾロアスターについて説明しています。本文の序文は、アケメネス朝の古代ペルシャ語に似た方言で書かれた2行のアシェムヴォーフの祈りで構成されています。

          

          1907年に発見された敦煌の洞窟図書館

 

ソグディアは中央アジアの王国であり、西暦4世紀から9世紀にかけて栄えました。 ソグド人は何よりもビジネスの洞察力で有名です。 彼らは中国で紙、銅、絹を購入し、バルト海からペルシャのブドウと銀器、ガラス、アルファルファ、サンゴ、仏像、ローマの羊毛と琥珀を販売しました。 彼らは金融仲介機関としても機能し、商取引の際、キャラバンを組織し、送金と投資を手配しました。 ほとんどの商人は短い距離しか移動しませんでしたが、ソグドのコミュニティはアジアの交易路のネットワーク全体に沿ってみられ、コンスタンティノープルと西安にはソグディアンがいました。 ソグド語は、ユーラシア大陸全体の商業の世界共通言語でした。彼らは自分たちの中央アジア王国よりもはるかに大きな商業帝国を作り上げました。

 

 


ダマスクローズ 234

2021年05月20日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ヴェンディダードの16か国(アーリア人の加盟国)の中では、ソグド人が最も力のある商人で、小アジアからインド亜大陸、北部の草原、そして中国までのシクロードに沿って、貿易活動と入植地の跡を残しました。

”The Silk Road;アジアの中心部での2000年、[カリフォルニア州バークレー:カリフォルニア大学出版(2002)。 pp。65–68。 ISBN 978-0-520-24340-8] “ のFrancis Woodによると、ソグド人が紀元前2世紀から西暦10世紀までシルクロード沿いの貿易を支配していました。西暦3〜4世紀頃、ソグド人はインダス川上流の峠に600以上の碑文を残し、バクトリア人(Bactrian ; ゾロアスター教の故郷? )は10の碑文を残しています。

ソグドの貿易活動は残された碑文よりもずっと早く、インダス北部のハプタヒンドゥー((Hapta Hindu) 渓谷(現在のパキスタン北部)の岩に刻まれたソグド語の碑文の一部、およびインダス渓谷の集落と中央アジアで見つかった遺物は、インド亜大陸に向かって南から南へのルートに沿った石器時代の活動を証明しています。

 

ソグド人とその近隣の草原の中国人と強力な遊牧民のトルコの部族は、しばしばソグドの商人を仲介者として利用しました、彼らの活動記録は私たちにソグドの貿易活動についてのより多くの情報を与えてくれます。 568-75CEの間に、ソグド人はトルコ人との外交的影響力を使って新しい市場を開拓しました。

さらに、ソグド人は生産者でもあり、絹織物、錦織、青い陶器の製作に通じるようになりました。したがって、ソグド人は商人、製造業者、職人、旅行者、冒険家、外交官、そして国際紛争の解決者でもありました。アフラシアブ(Afrasiab)などのサマルカンド(Samarkand)とブハラ(Bokhara)の前身の都市は、文字通り世界の交差点になりました。

 

Aryan Silk Roads showing the Chinese and other cities along the route

Far Eastern Lands. Page 2. Kushan, Chionites, Heptalon / Hephthalite, Zoroastrianism in China (heritageinstitute.com) 

 

ソグド人とシルクロード

ソグド人は絹製造地である、タシュクルガン(Tashkurgan)、ホータン(Khotan)、アーリア東部の土地(および中国)にあるカシュガル(Kashgar)とマーケットであるヨーロッパとの間で儲かる絹貿易に密接に関わっていました。カシュガルの東の地であるアーリア人の住む地とホータン、カシュガルは、古典的な西洋の作家には、ラテン語で「絹」を意味するセリカ(Serica)として知られていました。

 

シルク貿易へのソグドの関与は、西暦7世紀半ばのサーサーン朝-ペルシャ統治の終わりまで続きました。ヘンリー ユール(Henry Yule、1820/5/1-1889/12/30、軍人、旅行家、東洋学者、スコットランド出身)は、「ジョン ウッド(John Wood)大尉のオクサス川の源への旅」(Captain John Wood's A Journey to the Source of the River Oxus. ロンドン)1872 p.の中で、次のように述べています。

 

『当時、ソグドの人々は、間違いなく中国とホータンからの貿易の仲介者として、彼らの大きな利益を得ました。』

『旧唐書』にはソグド人の特徴が詳しく記されています。「(ソグド人は)子供が生まれると、かならず、その口中に石密(氷砂糖)をふくませ、掌中に明膠(良質のにかわ)を握らせる。それは、その子供が成長したあかつきに、口に甘言を弄すること石密(サトウキビの搾汁をなべで煮詰め、それを固めて冷ました、最も原始的な製法の含蜜糖)の甘きがごとく、掌に銭を握ること膠の粘着するが如くであれ、という願いからである。人々は胡書※ を習い、商売上手で、分銖(わずか)の利益を争う。男子が二十歳になると商売のために近隣の国へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない。」

彼らソグド人は、密と膠とに祝福された、生まれながらの商人だったのです。

 

※ 胡書 

胡は特に西胡ともいわれ、西方のペルシャ系民族(ソグド人)を指します。中国では、北西方の未開民族を指し、また一般に、異民族、外国の意を表します。「胡人、胡服、胡弓、胡瓜(キュウリ)、胡服、胡楽、胡桃、胡琴、胡虜、胡椒、胡麻、胡粉、等々」と数多くの言葉が残っていますが、でたらめ、すじが通らないの意で、「胡乱(うろん)、胡説、胡散(うさん)、顧思乱量(訳のわからぬ考え)」という言葉も全てソグド人由来といえましょう。もともと“胡”は、「垂れ下がった顎の肉」の意です。その顎に生えた髭を胡髯(こぜん)と言います。下の写真をご覧下さい。

                          

     ラクダに乗るソグド人、中国唐(618-907)、上海博物館蔵

https://www.ancient-origins.net/history-famous-people/miwnay-sogdian-1700

      

ソグド人兵士、BC338年。アルタクセルクセスⅢ世( Artaxerxes III、紀元前390年頃 - 紀元前338年、アケメネス朝ペルシャの第10代目の王)の墓より

 

ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事し,マケドニア王国のアレクサンドロスⅢ世の征服や、その後のグレコ バクトリア王国支配下においても交易を続けました。クシャーナ朝、エフタル、突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変わりましたが、ソグド人は独自の文化を維持しました。ソグド語とソグド文字を使い、ゾロアスター教を信仰しましたが、2世紀から3世紀にかけては中国に仏教を伝え、6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やチュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も中国にもたらしました。ビザンツ帝国から唐の長安にまで活動範囲を広げましたが、イスラム勢力によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われました。ソグディアナはウズベク人の南下によるチュルク化が進み、中国では漢人の文化に同化していきました。

 

上記の説明では、シルクロードに沿った絹の貿易だけでなく、シルクロードを開いたままにするために必要な隣接する王国間の外交と外交の一致にも古代ソグドの関与が続いていることがわかります。また、シルクロードが通過した国々がお互いに良好な関係を築くことがどれほど必要であったかがわかります。道路は主にアーリア人の王国連合内にありましたが、そのコンパクトはアーリア人の王によって制定される可能性があります。アーリア帝国が最初にアレクサンダーの侵略のために崩壊し、次にアラブの侵略の後に崩壊したとき、陸路貿易は徐々に海上貿易に取って代わられ、シルク貿易のソグド支配は終わりました。

ルート沿いの中国と他の都市を示すアーリアのソグドシルクロード

Aryan Sogdian Silk Roads showing the Chinese and other cities along the route

 

 


ダマスクローズ 233

2021年05月18日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

西暦3世紀初頭、メソポタミアのセム族とペルシャ族が住む地帯から、別の宣教師宗教であるマニ教が出現しました。その約100年後、シルクロードの主要な動脈であるペルシャ王道に沿ってペルシャのネストリウス派の司祭たちがトルコの遊牧民の大部族に洗礼を施したのですが、まずマニ教の前身とも言えるゾロアスター教から語り始めることにしましょう。

 

預言者マニ(Mani)は、パルティア人(Parthian)の両親からユダヤ-キリスト教のバプテスト派に生まれましたが、20代前半にインドに旅行し、さらにそこでさまざまな影響を吸収し、セム族、ペルシャ人、インド人の伝統に基づいていた、諸教混交の教義を特徴としました。教えは地中海とペルシャの世界で広く普及し、競合する宗教に深刻な脅威をもたらしました。サーサーン朝での主なライバルは、ペルシャの一神教であるゾロアスター教でした。

    

             ザラスシュトラの想像像

イラン南西部のターク イ ブスタン(Taqi-Bustan、 はサーサーン朝ペルシャ時代の遺跡)にある4世紀の彫刻に登場する人物を参考にして描かれたザラスシュトラ。現在、ミスラまたはフワル、フシャエタ(Mithra 又はHvare-khshaeta)のいずれかであると考えられています。

 

ゾロアスター教を興したザラスシュトラの生存年については、紀元前数千年、紀元前1700年、紀元前600年など諸説がありますが、現在の研究では紀元前1000年頃とするのが定説で、実在の人物であったことはほぼ間違いないと考えられています。ザラスシュトラの出生地については、中央アジアを横断してアラル海に注ぎ込むアム ダリア川流域地域とする説もありますが、定かではありません。とにかく、東イランのどこかと考えられます。ゾロアスター教は二元論、終末論を軸とした一神教です。

ザラスシュトラは、古くからバクトリア(Bactria、バクトリアナ、トハーリスターン、トハリスタンとも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈とオクサス川の間に位置する)の人だという伝説があり、仮にそうであれば、ザラスシュトラは幼児からダマスクローズに親しんでいたと言えます。

 

西暦9世紀にペルシャで書かれたアヴェスターと呼ばれるゼンドアヴェスター※は、古代ゾロアスター教徒の祈祷書です。 Yasna、Vispered、Vendidad、Yashts、Khordah Avestaの5つの部分に分かれています。散文は、ゾロアスターの死後に書かれました。22の章ファーガード(FARGARD II. 1 7)に薔薇が登場します。花から抽出された美しい香りは神秘的な力を持ち、光の神アフラ マズダー(Ahura Mazda)※の崇拝に重要な役割を果たしたと信じられていました。

 

※ アフラ マズダー (Ahura Mazdā又はOrmizd、Ormazd) は、ゾロアスター教の最高神で、宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表されます。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされます。アフラは天空、マズダーは光を指す言葉であり、アフラ マズダーは太陽神ともされます。アフラ マズダーは、ペルシャの王ダレイオスⅠ世(Darius I、西暦前522~486年に君臨)と彼の後継者によって、王の擁護者として崇拝されていました。

  

          アフラ マズダー(Ahura Mazdā)

イラン、ペルセポリス(Persepolis)の評議会ホールのメインホールの出入り口のシンボル、シカゴ大学東洋研究所提供

 

ペルセポリス(Persepolis、イランのファールス州、当時の地名はパールサ地方にあります)https://www.earthismysterious.com/magnificent-ruins-of-the-ancient-city-of-persepolis/ 

 

※ ゼンド アヴェスターから、“薔薇“ を容れた文言をご紹介しておきましょう。

THE ZEND-AVESTA から、

 

27 (70),  あなたはこの地球上で最も偉大で、最高で、最良の男性と女性の種を持って来なければなりません ; あなたは、この地球上で最も偉大で、最高で、最良の、あらゆる種類の牛の種を持って来なければなりません。

あなたは、この地球上で最も大きく、最も甘い匂いのある、あらゆる種類の木の種を持って来なければなりません ; あなたはあらゆる種類の果物の種、最高の味と最も甘い匂いを持って来なければならない。それらのすべての種は、それらの人がバラ(Vara)にとどまる限り、そこに無尽蔵に保たれるために、あらゆる種類の2つを持って来なければなりません。          中略

30(87) あなたはその場所の大きな所で、9つ、中央の部分で6つ、最小の部分で3つの通りを作ります。 大きな所では男と女の種を1000と、中央では600の ( 以後の文章は欠落 )。

最良で典型的な人間であり、最後の日のより完璧な人種の起源となる。

cjrpress ( cypress : イタリア糸杉 ? ) やplane-tree (プラタナス) などの最も大きな; 薔薇やjessamine(ジャスミン?)のような最も甘い香り;

デイツのような最高の味; 柚子のような最も甘い匂い

 

アヴェスターの中には“甘い香り”と記されていました。否定的な表現ではないと思います。

Nations of the ヴェンディダード(Vendidad),  Avesta

シルクロード沿いにあるソグド人商圏 : ソグディアナ、別名トランスオクシアナ  http://www.heritageinstitute.com/zoroastrianism/sugd/trade.htm

 

ソグディアナ (Sogdiana) は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名です。バクトリアの北、ホラズムの東、康居の南東に位置する地方。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当します。イラン系の言語を話すソグド人が居住したことからつけられたギリシャ語、ラテン語の名称で、既に8/18, 8/24で述べたようにローマからみてオクサス川(アムダリヤ川)の向こう側にあることから、トランスオクシアナとも呼ばれます。中国の歴史書では粟特と記されています。この地域はダマスクローズの故郷でもあります。

 

 


ダマスクローズ 232

2021年05月16日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

        

ダマスクローズを運んだシルクロードは、中国からローマに至るほこりっぽい険しい砂漠の道に絹を積んだラクダのキャラバンのイメージを思い起こさせます。しかし、ハーバード大学のヴァレリー ハンセン(Valerie Hansen)は、「“ The Silk Road, A New History ”:シルクロード、新しい歴史.  2012」で、中国へのまっすぐでよく旅行された道という長年の概念に疑問を投げかけました。

タクラマカン砂漠の砂浜と、西安からサマルカンドまでのルート沿いにある7つのオアシスで、多くの場合安全に保管するために隠されたままの重要な記録が見つかりました。オアシスの町では、商人、使節、巡礼者、宗教難民、旅行者がすべて国際的なコミュニティに混ざり合い、お互いの宗教的信念に寛容でした。これらの地は仏教からキリスト教、ゾロアスター教からマニ教、つまりイスラム教への改宗が波及する地域でした。単一の連続した道路はなく、東アジアと中央アジアの間を走る半径80km以内で取引が行われる一連の市場がありました。中国の主要な貿易相手国はペルシャでした。ローマとの直接の貿易はありませんでした。

絹はルート上で最も重要な貿易ではなく、紙、金属、香辛料、ガラスと絹でした。しかし、ハンセンは、アイデア、テクノロジー、芸術上の動機の拡散、普及が、はるかに重要な伝達力であったことを発見しました。シェーファー(Schafer)が「‘The Golden Peaches of Samarkand’:サマルカンドの黄金の桃」で述べているように、唐王朝にサマルカンドから中国に伝わったエキゾチックな桃という商品がここではそれに当たります。

ハンセンは、シルクロードの最も重要な住民は宗教難民とイスラム侵略者であり、「これらの改宗者は彼らの宗教と言語をこの地にもたらしたのです。」と述べています。

インドを起源とし、中国で人気を得ている仏教が最も影響力がありましたが、マニ教、ゾロアスター教、シリアに本拠を置く東方キリスト教会も強い支持を得ていました。シルクロード沿いに住む人々は、ある文明から別の文明に移るときに、これらの信仰上の体系を伝たえ、解釈し、部分的に修正する上で重要な役割を果たしてきました。イスラム教が到来するまで、これらの異なるコミュニティは驚くほどお互いの信仰に寛容でした。しかし、イスラムの支配下になると、その寛容性がなくなり、信仰の対象はイスラム教へと変化します。イスラムの教義とこれまでのの宗教の共通点は、ローズウォーターの使用でしたローズウォーターは宗教上の儀式、健康、衛生、香料に使われました。

イスラムの侵略者にとって、136の改宗者に対して宗教礼拝や、慣習、医学、及び台所でのローズウォーターの使用を要求することは困難なことではありませんでした。イスラム教徒から北へ、そして東と西へ逃げる宗教難民の波が起きました。

ダマスクローズの栽培者は、イスラムの改宗者に従い、おそらく最も生産性の高い薔薇を選択して、新しい地に植栽し難民からの需要を満たすために植え付けたことでしょう。

西暦前1500年から西暦1400年までの宗教は、アジアの陸上貿易に関連していました。アジアと地中海の宗教は、シルクロードに沿って西から東へ、そして東から西へと、同様の状況下にあったと言えます。ローズウォーターは、仏教信仰の宗教儀式でも使用されました。(Hindu Universe 2016)、Zoroastrians(Eduljee 2015)。ローズウォーターは、メッカにあるイスラム教徒のためのキブラ(Qibla)が置かれたカーバ神殿(Al-Zahrani 2016)の清掃に使用され、ザムザム(Zamzam)の泉からの水がローズウォーターに加えられます。インド亜大陸と東南アジアでは、イスラム教徒の遺体を埋葬する前に、掘った墓にローズウォーターをまき散らすことがよくあります。(Teachings of Islam, Talim-ul-Haq 2016)

 

カーバ神殿の手前にあるのがザムザムの泉。今は地下にあります。

巡礼者はペットボトルに詰められたメッカのザムザムの泉からのみ聖水を飲むことができ、ハッジルートに沿って巡礼者が通常拾う悪を追い払うための小石は、事前に滅菌され、袋に入れられています。 巡礼者はお祈りの敷物を持参する必要があります。

 

ローズウォーターはキリスト教、特に東方正教会(Alkiviadis 1992)にも登場し、バハーイー教(the Baha'i Faith)※では、最も聖なる書物(Kitab-i-Aqdas 1:76)の中に信者にローズウォーターの利用を命じる内容の記述があります。

 

Kitáb-i-Aqdas から、

『神はあなたに、ほこりで汚れたものを洗う程度に、ましてや埃の汚れやこびり付いた汚れは言うまでもなく、最大限の清潔さを維持するように命じられました。 彼を恐れなさい、そして純粋な人間になりなさい。 誰かの衣服が人目に付くほど汚された場合、彼の祈りは神に上ることはなく、神聖な天への道から外れることになります。

ローズウォーターと純粋な香水を利用しなさい。これは、確かに、神が最初から愛され、始まりのないものです。比類のないあなたに、万能の望みを広めるためである。』

                                                                         https://saieditor.com/?p=3692 

※ バハーイー教は、19世紀半ばにバハー ウッラー( Baháʼu'lláh、1817/11/12 –1892/5/29, ペルシャの宗教家 )が創始した一神教、最も聖なる書物(Kitáb-i-Aqdas)を教義としています。

 

アジア全体に新しい宗教コミュニティが設立されたとき、その存続は主に商人からの支援によって確保されました。その結果、ローズウォーターの使用を含む、宗教的伝統と貿易業者との関係は依存関係の1つであり、歴史的に時間を追ってみると、宗教全体が長距離の商業活動と密接に関連しています。シルクロードは、ユーラシアステップ中央部の南端に沿って走っています。ここでは、乾燥した平地が山と合流し、融雪流が安全な水供給を提供します。

人間の移民は、紀元前3000年から西暦200年までのこの生態学的移行帯に定住し、最終的に旅行者が休息し、補給し、交易するオアシスの町を作りました。草原のペルシャ人は、金、銀、羊毛を中国に輸送する上で重要な役割を果たしました。リターントレードもあったようです。中国からの絹の破片は、BC1000年頃のエジプトの墓で発見されました。

ユダヤ人の祖先、古代イスラエル人も、シルクロードに沿って交易していた可能性があります。紀元前722年まで、イスラエル人はアッシリアの征服者が彼らをそこに移住させたので、東イラン世界に住んでいたことは確かです。

古代では、宗教は宣教活動をしていませんでした。宗教的伝統は、通常、すべての人々が受け入れる普遍的な真実ではなく、特定の文化的属性と見なされていました。

たとえば、イラン人とイスラエル人の宗教は古代世界全体に広く広がっていますが、

イラン人とイスラエル人が取引した人々は、彼らの宗教的影響力を、救いを得る究極の精神的支えとしてではなく、せいぜい外国の変わった考えだと認識していたに過ぎません。特定の宗教的アプローチの利点は、それを所有する文化の不可侵の財産と見なされていました。

ペルシャの王キュロス(紀元前530年)が紀元前559年にユダヤ人をバビロン捕囚から解放したとき、多くのユダヤ人がペルシャ帝国内に居住することを選択しました。

これらの人々は、貿易を通じて、バビロニアからエジプトに至る他のヘブライ人グループと連絡を取り続けました。イラン世界に住む人々は、ペルシャ文化のさまざまな側面を他の場所に住む人々に伝えました。このようにして、多くのペルシャの宗教思想がユダヤ教、後にキリスト教、マニ教、イスラム教に吸収されました。これらの中には、時間の終末論的な見方とメシア、救世主への信仰、肉体の復活と最後の審判、天国の楽園と罪人の地獄、そして悪の原因となる超自然的な力がありました。最初のキリスト教徒はユダヤ人であり、バビロニアに拠点を置くユダヤ人の貿易ネットワークを通じてキリスト教を広めました。

聖母マリアは「とげのないバラ」と呼称され、アフロディーテと彼女のバラに関する異教の伝説はマリアに帰せられ始めました。

 

キリスト教時代の最初の数世紀の間、教義上の論争から東方キリスト教徒は地中海キリスト教からの独立を主張するようになりました。 西暦5世紀後半までに、メソポタミアのペルシャの首都クテシフォン(Ctesiphon)にある東方教会がローマ教会から分離しました。アッシリア東方教会は、431年にコンスタンティノープルの大主教ネストリウスがエフェソス公会議で異端(ネストリオスはイエス キリストの人間性と神性とを完全に独立した二つの自立存在と考えていた。ネストリオスはこの思想の表現としてマリアを「神の母」ではなくキリストの母」と呼ぶ方がふさわしいと主張した。)とされて破門されると、彼の説を支持する者たちが東方へ渡った。そのうちの一派が5世紀に当時サーサーン朝ペルシャの領土であったメソポタミア(現:イラク)にて布教したのが、今日のアッシリア東方教会の始まりで、当時ネストリウス派を異端視するビザンツ帝国と敵対していたササン朝の歴代皇帝は彼らを手厚く保護し、ペルシャ領のいたるところにキリスト教徒の共同体が出来、498年には「クテシフォン・セレウキア」に新しい総主教が立てられました。

 

 上述したように、西暦497年の東部司教の教会会議において、ネストリウス派は、イエス キリストの人間と神の性質が異なると述べ、これが彼らの公式の教義であると宣言しました。 ペルシャとソグドの商人がシルクロードに沿って東に伝えたのは、このネストリウス派のキリスト教でした。 600年代半ばまでに、ネストリウス派の司教区がウズベキスタン中央部のサマルカンド、カシュガル、現在、中国の新疆ウイグル自治区で発見されました。

 

ネストリウス派(両性説はみとめるが、キリストは神格と人格との2つの位格に分離され、イエスの神性は受肉によって人性に統合されたとする説をとるキリスト教)については、5/4, 6/30, 7/14とこれまでも幾度となく話題に上がりました。要約すると次のような内容になります。

『431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥されたネストリウス派はペルシャ帝国へ移動、その後、7世紀頃に中央アジア、モンゴル、中国(唐代の景教)、インドに伝わりました。サーサーン朝時代からアッバス朝後期時代にかけてガレノス、つまり、ギリシャ医学はネストリウス派の僧侶たちによりパフラヴィー語やシリア語、さらにはアラビア語に訳されました。』

 

教科書で出てくる内容なので「わかっている」という方も多いでしょう。しかし考えてみると不思議なことで、異端視された宗教が何故このようは広がりを見せたのでしょうか。ネストリウス派を支援 ? する人達、それもかなりの数の、経済的基盤を持った人達の下支えがあってのことでしょう。これらの人達、有り体に言えば、中央アジア、モンゴル、中国(唐代の景教)、インドの地域、つまりはシルクロードを牛耳っていたクルド人です。クルド人とこの地を中心に興った宗教にスポットを当てて、ダマスクローズの“移動”に光を当てて?みようと思います。

                                                     

 

 


ダマスクローズ 231

2021年05月14日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

アケメネス朝時代(500-330 BCE)に設立されたペルシャ王道は、最終的には19世紀には主要な動脈になります。サマルカンドから直接ローマに薔薇を運んだ王の道は、現代のイラン129号線のペルシャ北部のスーサまで、小アジアの地中海を走っていました。 この道路には、道沿いに郵便局があり、使節がペルシャ帝国にメッセージをすばやく届けるための馬が装備されていました。

 

下は、5/22に取り上げた地図です

上の地図で示した王の道( Persian Royal Road)はアケメネス朝(BC550~ BC330)にペルシャ帝国の大王ダレイオス1世によって、紀元前5世紀に建造された古代の公道です。王都スーサからサルディスに至る(地図中央の茶色の線で示された)道路で、交通と通信を容易にするために建設しました。道には宿駅が設けられ、守備隊が置かれていました。

スーサからサルディスまでの 2,699 kmを7日間で旅することができ、歴史家ヘロドトスは、「この公道を利用したペルシャの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と記しています。

 

ペルシャ人はこの王の道を整備し、道幅を広げ、メソポタミアを通りインドへ、そしてエジプトへまで通じる道路を作ったのです。(下の図参照)

The Silk Road as Highway

Dru C. Gladneyから、「中央アジアと中国:多国籍化、イスラム化、民族化」オックスフォード大学出版局 441、1999、JohnEsposito

http://users.clas.ufl.edu/mjacobs/WOH3220-04/Basins-Ports-14-January.html 

 

Rosa x damascenaは、古代の西暦前5,000年から、ローズウォーターの生産プロセスについて詳細に書かれ、ローズウォーターを生産するために中央アジアで栽培されてきた唯一の薔薇です。文献には、誰が衛生、健康、宗教儀式でローズウォーターを使用したかが記載されています

https://purehost.bath.ac.uk/ws/portalfiles/portal/187911419/The_Silk_Road_Hybrids.pdf P. 134から引用させていただきました。

 

[地図18]. 破線で囲ったRosa x damascenaの自生地及び、アムダリヤ川の流域から古代ローマへの移動と方向および日付が地図上にプロットされています。これまでのダマスクローズに関する情報を地図上にプロットしたものです。

 

  1. Rosa x damascenaの推定自生地(破線部分)。
  2. 紀元前の文献等により推定したRosa x damascenaの栽培地およびローズウォーターの生産地と日付(黄色のタッグで示したところ)。
  3. 紀元後の文献等により推定したRosa x damascenaの栽培地およびローズウォーターの生産地と日付(茶色のタッグで示したところ)。
  4. 二度咲きのRosa x damascena、ローズウォーターを生産するための薔薇、即ちダマスセナローズを求めた痕跡が示されています。赤い矢印はその進路を示しています。紀元前ca.3000年からAD ca.1300にかけてシルクロードの主要幹線道路であるペルシャ王道のルートに沿って、オクサス渓谷から西へと矢印はローマに向かっています。

 


ダマスクローズ 230

2021年05月12日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

一部の初期のキリスト教徒、特にギリシャ人のアレクサンドリアの聖クレメント(St. Clement of Alexandria , 150-215 CE)は厳しい禁欲主義で、すべての花と香水の使用は忌まわしいものとして非難しました。ギリシャ人は薔薇とユリをその最たるものとして名指ししました。

     

クレメントを描いたアイコン、14世紀後半

http://www.grkat.nfo.sk/Texty/kliment-ochridsky.html 

 

The writings of Clement of Alexandria. By Clement, of Alexandria, Saint, ca. 150-ca. 215 Topics; Christianity, Philosophy, Ancient, Gnosticism, Christian ethics

Publisher; Edinburgh : T. & T. Clark University of Toronto,1867 から

クレメントの説示 II 232から

 

『そして、金と宝石と変化に富む王冠を被ったユダヤ人の王たち、終油された者たちは頭にキリストの象徴を被り、(これは、)無意識のうちに主の頭を飾っているのです。宝石、または真珠、またはエメラルドは、神の言葉を指し示し、金は腐敗しない神の言葉を(表しています)。

したがって、マギ※は王族の象徴である金を誕生時に彼(キリスト)にもたらしたのです。

 

※ マギ (Magi)

 

東方の三博士(下段中央左)、ビザンチンモザイク ca. 565、サンタポリナーレヌオーヴォ大聖堂 (Basilica of Sant'Apollinare Nuovo )、ラヴェンナ ( Ravenna )、イタリア(18世紀に復元)ラヴェンナの外港クラッシスを出立し、22人の聖女の殉教者たちを連れて聖母子のもとに向かう3人のマギが画かれています。

 

そして、この王冠は、主のイメージの後、花のように色褪せません。 私も、キレニア人の贅沢な男アリスティッポスの言葉を知っています。

「終油された馬は、馬としての美点で傷を負うことはなく、終油された犬も、犬としての美点で傷を負うことはありません。人間は(そのようなことは)無論ありません」と彼は付け加え、そう言って言葉を終えた。

しかし、犬は、馬は、軟膏を付けません、知覚が優れ、女の子らしい香りを付けている人の場合、その使用は咎めを免れ得ません。

これらの軟膏には、ブレンシア(Brenthian)、メタリアン(Metallian)、ロイヤル(royal);プランゴニアン(Plangonian)とエジプトのプサグディアン(Psagdian)など、無限の種類があります。

 

(香水は)商人のために存在しているのです。彼らも、ユリとヒノキから作られた軟膏を使っていた。ナードは彼らに高く評価されており、薔薇で作った軟膏や女性が使用する他の軟膏は両方とも、湿で乾で、マッサージや香を焚きしめるのが目的です。日々、彼らの考えは飽くなき欲望の満足、尽きることのない多様な香りに向けられています。そのため、彼らは過度の贅沢にも甘んじています。そして、彼らは自分たちの服、寝具、そして家に香を焚きしめ、ふりかけます。

贅沢とは、香水の匂いを嗅ぐための賎しい目的で使う容れものを強要することだけなのです。これに気を揉み、悩んでいる者がいます。私には香水をとても嫌っているように見えるのです。』

クレメントの思想の特徴は、ギリシャ哲学と文学はキリスト教へ人々を導くために存在したという考えで、ギリシャの思想をキリスト教へ継承しようとしました。万物の流転のあいだに存する、調和、統一ある理性法則(ロゴス)が即ちキリストの存在そのものであるとしたのです。ギリシャ思想とキリスト教神学を結びつけた彼の考えは、以降のキリスト教神学に大きな貢献をしたのです。

 

それは、近くにいる人間が大切にしている薔薇、和解できない敵であるローマ人に対する自然な反応でした。西暦2世紀から3世紀のギリシャ人にとって、薔薇とローズウォーターはローマの贅沢の主たる象徴であり、消費を誇示する際には不可欠なものでした。ローズウォーターの噴水があっただけでなく、そして、床は時々膝まである薔薇の花びらのカーペットを敷かれ、宴会のゲストには薔薇の花びらが投げられました。

 

ネロが行った宴会で、この薔薇の花びらの雨は、高貴な客の何人かが花の塊の下で窒息死したとされるほどの割合に達したといいます。これは、アルマ タデマ ( 8/6参照)がヘリオガバルスの薔薇のパーティを描いた絵の誤った情報源である可能性があります。

 

ペスタムローズはダマスクローズ、Rosa x damascenaだったのでしょうか? DNA検査なしでは決定的な同定は不可能です。そのために、McCurdyは最近、文献と考古学を再調査しましたが、今日まで、思わしい結果は得られていません。

したがって、Rosa x damascenaの同義語としてのペストゥム ローズが成り立つためには、植物を詳細に説明している、先に引用したローマ人とギリシャ人の著者による形態学による説明に頼らざるを得ません

 

開花回数、色、香り、花のサイズと茂みの形、今日畑で育っている植物の記録等が必要になってきます。上で説明したように、ローズオイルの供給源はダマスクローズだけではありません。栽培者はオイル採取が仕事です。できるだけ多くのオイルを採ることが優先します。彼らは利用可能なできるだけ生産的な雑種、或いは品種のみを育てていたはずです。ローズウォーターのような貴重な商品をパエストゥムの生産者は、国際的なつながりの中で、最も生産性の高い薔薇を広範囲に渡って探してに違いありません。その目的に適う薔薇は今日であっても、当時であってもダマスクローズに違いありません。 二季咲きに関しては問題の残る点です。ウェルギリウスが農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)と詠んだ点は興味深いですが、最近のリモンタンシーに関する研究に照らして必ずしも役立つものではありません。

 

気候変動、特に気温の上昇は、かつて一季咲きであった薔薇にリモンタンシーを引き起こしました。花の咲いた同じ枝に再び花を咲かせることはありません。繰り返し、または継続的に開花する薔薇は、新しい枝から出た茎に、又は新しい枝に花を咲かせるのです。植物が再び開花するかどうかを決定するのは、成長阻害剤TF1に相応するRFKが関係しています。この遺伝子は、熱、水、栄養素、日長の影響を強く受けます。したがって、Rosa x damascenaがどこで栽培されているかによって異なる開花特性を示すことは十分に考えられます。

系統発生学は、DNA分析が始まると大幅に進歩しました。どの薔薇がどの薔薇に関連しているかを確実に定義するバラ科の系統樹が最近編集されました。

 

以前にもお話ししたように、今までのところダマスクローズの変異や移動を知る方法は、ローズウォーター生産のためにこれまで栽培を続けてきたという歴史的事実と、今日でも実践されているものとの製造過程を比較することに限られています。文献から得られる内容は、あまりにも貧弱です。今後期待される遺伝情報や、1/24で述べた環境考古学の分析能力の進歩を待つしかないようです。

 

       

BC1900-1600, BC1244-1209, BC699-627でのアッシリアの領土

https://sites.google.com/a/syd.catholic.edu.au/boudica/year-11-ancient-history/assyria/introduction 

 

11/30と12/24のブログで、アッシリアで既にBC4000年には薔薇の生産がされていたと書きましたが、今回はそこからお話を始めようと思います。

 

薔薇がアムダリヤ川流域から、乾燥地域を横切りローマへと、吸枝という手段で運ばれた事は既に述べたところです。(8/4,8/12参照)

ローズウォーターの生産の広がりとともに遠く離れた地での薔薇の栽培が求められるようになりました。薔薇の吸枝を暑く乾燥した地形を馬や荷車を使って運んだのでしょうが問題は当時の道路状態です。2015年に発表された研究によれば、アッシリア人によって紀元前2〜3,000年までに交易路がこの地に既に作られていたということがわかりました。

 

アッシリアの交易路と主要都市の地図紀元前2〜3 0000年、青銅器時代の11の失われた都市がマッピングされています

Map of ancient trade routes. Source: Barjamovic et al., 2017.

https://www.geographyrealm.com/mapping-the-11-lost-cities-of-the-bronze-age/ 

 

   

古代都市の名前が抽出されたタブレットKt83-k117。 画像:Barjamovic et al。、2017。

 

アッシリア帝国の粘土板に書かれている都市名を定量分析した結果、26の都市が浮かび上がってきました。そのうちのいくつかは4,000年以上前のものでした。これら26の都市のうち、15の遺跡は既に知られていました。残る11の都市は長くその所在がわかりませんでしたが、これらの都市の場所についての既知の事実をつなぎ合わせることで、行方不明の11の都市が存在する可能性が最も高い場所を特定する事ができました。その結果出来上がったのが上の地図です。

 

 


ダマスクローズ 229

2021年05月10日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ローマのローズウォーター取引

バラの花びらや切り花は寿命が短いので、パエストゥムとカプアのバラ栽培者は、彼らの切り花をそのままの姿で、大都市中心部、特にローマの顧客にできるだけ早く輸送しなければなりませんでした。イタリアの海岸に沿った輸送を考慮すると、高速船での海上輸送が好ましい方法でした。小売業者である調香師が待つ港へは、生産者–馬車-埠頭-帆船-埠頭―輸送-そして最後に小売業者である調香師の待つ港への輸送と物流システムは整っていました。

 

マーシャルは、このシステムがどのように機能したかについて詳細に述べています。

(Martial、Epigrams X、31)ローマ人が贅沢にふける傾向があるため、バラの栽培産業が繁栄し、それ自体が問題になりました。ローマ人は薔薇に身を任せ過ぎたのです。彼らは淫行を自制することができなくなり、耽溺するあまりローマの理想的な生活に影響を及ぼし始めたのです。

ルキウス ユリウス シーザー(Lucius Julius Caesar, BC135-87)とP. リシニウス クラサス (P. Licinius Crassus , BC 87-53 ) は、過剰な風潮を鎮めるために、「エキゾチックな香水」と呼ばれている(edixisse it quis venderet unguenta exotica; sic enim appellavere)の販売を停止する必要があると判断した程です。

 薔薇を取り巻くビジネスは、需要が減少したローマ帝国の衰退まで機能しましたが、(Martial、Epigrams。VI、80、6:X、60、1:X、26、3)栽培地はマラリアが発生する沼地となりました。BC7~BC4世紀の間に、おそらく、海面の変化、または河口の状態の変化により、その地域に塩性湿地が侵入し、湿った沼地になった結果マラリアを感染させるアノフェレス(Anopheles、ハマダラカ)の生息地になりました。マラリアがもたらしたとき、住民はその場所を離れることを余儀なくされ、雑草や植物に占領されたまま、18世紀にスペインのカルロスIII世(Charles III)、当時ナポリの王が街を通る道路を建設するまで人の手は入りませんでした。

パエストゥムの薔薇の生産と貿易に関しては5世紀まで言及されることはありませんでした。ミラノの南35キロにあるパヴィア(Pavia)の司教、エンノディウス(Ennodius , 474-521)が、6世紀に2か所で育ったペスタンローズについて言及し、Columellaに記載されている、薔薇の色と二度咲き、そして栽培状態をパエストゥムの薔薇になぞらえました。

 

中世には、Columnellaに触発されたアレマンのベネディクト会修道士であるWalahfrid Strabo(808-849、アレマンのベネディクト会修道士)が、癒しの効果のあるパエストゥムの薔薇に触発されたようですが、これらのいくつかの言及は別として、薔薇に関する関心は中世初期まで失われたままでした。中世初期に、十字軍によってシリアからヨーロッパに再導入された薔薇は、一般の認識も高まり、damascenaという名前が付けられましたが、信じるに足る内容はありません。ジェニファー ポッター(Jennifer Potter)になる「The Rose A True History, 2010 and other ditions」は単に神話でしかありません。

ローマ人は薔薇を高く評価し、その絶妙な香りを会議、宴会、パーティで使用しましたが、初期のキリスト教徒は異教のシンボルとして薔薇を排斥しました。 聖書外典にあるヘリオガバルス物語がそうであるように、この絵の主題は、古典ローマの薔薇と、ローマ人の堕落と解散の傾向との関係を見事に示しています。 つまり、パエストゥムの薔薇は、ローマの崩壊後、数世紀の間無視されていました。

                                                                   

この時期、キリスト教の“薔薇とローマの伝統”に対する嫌悪の時代に、薔薇を育てる余暇と感性を持ったのは僧侶と尼僧だけでした。キリスト教作家は、薔薇が果たした役割を非難しました。

 

  Roman del a Rose {Venus at the castle} https://kittysol.com/tag/moon/

3/19のブログでVenus (ウェヌス:ビーナス)を、性的欲望を象徴する存在として紹介しました。上の絵(薔薇物語の中)で描かれているのは、薔薇が投獄されている城に火を放つビーナスです。物語では、ビーナスはキューピッドの母として描かれていました。

 

彼らにとって、薔薇は金星(ビーナス)との繋がりがあるため好意を持って受け入れられないのです。しかし、キリスト教の図像学の中で徐々に再現されることになります。キリスト教の文化では、花はかつて退廃と関係がありました。中世において、キリスト教徒は自然の美しさを高く評価し、これを神が世界を創造した証拠と見なしてきました。

 

『薔薇垣の聖母』Madonna of the Rose Bower, シュテファン ロッホナー(Stefan Lochner, 1400~1451、ゴシック後期のドイツの画家) c. 1440–42. 画、、 Wallraf-Richartz Museum, Cologne

 

聖母は「天の女王」として姿を現し、天使によって隔てられた赤いカーテンのある天蓋の下に座っています。彼女は赤いベルベットのボルスター(細長いクッシォン)の上に座り、キリストを膝に抱いています。彼女の王冠とメダリオンは彼女の処女の象徴です。彼女は、ユニコーンを抱えて座る乙女の姿を刻んだブローチを身に着け、キリストはリンゴを持っています。宙に舞う天使は贈り物をしたり音楽を演奏したりしています。 5人は彼女の前の芝生にひざまずき、携帯用オルガンなどの楽器を持って、他の者はフルーツを差し出しています。

メアリーは曲がった石のベンチの前に座っており、その周りにユリ、デイジー、イチゴが生え、左側にアカンサスの花が咲いています。メアリーは神を具象化した姿で表現され、荘厳な威厳のある地位を強調しています。赤と白の薔薇など、無垢と純粋さの象徴が深く溶け込んだ絵に仕上がっています。

赤い薔薇はキリストの血から生まれ、慈善、殉教、復活のしるしとしました。赤い薔薇は、イエスが十字架につけられたときに失われた血と、アリマタヤのヨセフ(Joseph from Arimathea、新約聖書に登場するユダヤ人。イエスの遺体を引き取ったことで知られる)がキリストの血を集めた器である聖杯と関連づけました。血と結びつけられた薔薇は神秘的な再生の象徴になったのです。

 

 


ダマスクローズ 228

2021年05月08日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

以下の記述は、植物学と考古学の出会い:人と植物(Botany meets archaeology: people and plants in the past )https://academic.oup.com/jxb/article/64/18/5805/606750

Wilhelmina Mary Feemster Jashemski (July 10, 1910 – December 24, 2007)からの引用です。

   

79年のベスビオ山噴火による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。火砕流による被害地域よりもはるかに広い。Wikiから

 

次に述べるヴェッティの家は、西暦79年のベスビオ山の噴火で埋もれ、保存されたローマの町ポンペイにあるドムス(domus、共和党時代と帝国時代に上流階級と一部の裕福な解放奴隷が住んでいたタイプのタウンハウス)で、所有者は、2人の成功した解放奴隷、アウグスタリス(Augustalis)のAulus Vettius ConvivaとAulus Vettius Restitutusです。彼らの名前に因んでにちなんでヴェッティと名付けられました。

ヴェッティの家はポンペイの町の赤の場所にあります。 Map of Pompeii. House of the Vettii highlighted in red

このヴェッティの家(pre.79CE)のフレスコ画の中に、ローズウォーターの作成工程を描写したものが発見されました。キューピッドはウェッジプレスでオイルの抽出に携わっています(図右側)。

 

 

  

 

Fig. 97 A section of a long frieze depicting cupids at work. House of Vettii, Pompeii 62 CE. http://clagnut.com/sandbox/dynamic-layout/        

   

         

これはオリーブオイルを絞る様子です。くさびを打ち込んで(ウェッジプレス、Wedge press)オイルを絞っています。 for Romans to produce olive oil

http://www.sabor-artesano.com/gb/system-wedge-press.htm 

                                   

ジャシェムスキー(Wilhelmina Mary Feemster Jashemski、1910/7/10– 2007/12/24、ポンペイの古代遺跡のアメリカ人学者、古代都市の庭園と園芸に焦点を当てていました)はポンペイで、香水産業の為の花の生産場所を見つけ、市内の商業庭園を特定しました。町の中に、ウンゲンタリの名の付いた、M. Decidius FastusとPhoebusという碑文が2つ見つかりました。( 1979 )

 

        

ポンペイ. 小さなガラスの香水瓶、1972. 出典:メリーランド大学図書館、写真;WilhelminaおよびStanley A. Jashemski

http://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R2/2%2008%2006%20p4.htm 

 

ジャシェムスキーは、1972~1974にかけて行ったメリーランド大学の発掘調査で、ヘラクレスの庭(Garden of Hercules)※から、これまでに見つかったものとはまったく異なる庭園を発見しました。土壌の輪郭、植栽パターン、水やりの準備、古代の花粉、香水瓶が見つかったことで、ここが商業的なフラワーガーデンであり、香水や香油、そしておそらく花輪を作るのに使用されたことを示唆しました。

古代の作家は、カンパニアの花産業の重要性について語り、ポンペイの壁画は、花輪と香水の作り方を描いています。碑文は、unguentariiの活動を証明していますし、この庭は、市内で商業用の花をが育てていたことを物語っています。

 

※ ヘラクレスの庭の家(または調香師の家) ポンペイ、1953年、1971年、1987年に発掘。1988年に復元

https://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R2/2%2008%2006%20p3.htm 

  

北向きの庭の食堂、200/12,. Summer triclinium in garden, looking north.

 

庭での発掘中の食堂から東に向かって犬小屋とララリウム(Lararium、守護神を祭る社)を見る、1972. Photo by Stanley A. Jashemski.

    

この像からここにヘラクレスの庭の名が付けられました、1972. Marble statuette of Hercules found near the lararium. Photo by Stanley A. Jashemski. 

                                    

パエストゥムに関する記述やポンペイで見つかった絵から、香水は青銅器時代の初期以来千年以上にわたって製造されていたという仮説が成り立ちます。ピュロスのミケーネ時代の宮殿からの出土した線文字B※が刻まれた粘土板は、香りのよい油が製造され、それが供給されていたことを示しています。

 

香水メーカーには、テュエステース(Thyestes、ギリシャ神話の人物)、ungentarus、unguent boilerの名前を付けたものがありました。 オリーブオイルの他、コリアンダーやセージなども記録されており、香水は宮殿の北東にある中庭で作られた可能性があります(Shelmerdine、1985)。

 

線文字Bは、テオプラストスも気づき、ヒストリア プランタルム(植物の歴史:Historia Plantarum VI, 31) BCE.の中で、香水を着色するために使用するヘナ(Lawsonia inermis)について言及しています。青銅器時代後期には、香りのよいオイルが地中海周辺ではセラミック製のあぶみ瓶※で取引されていました。 クレタ島のチャマレブリで紀元前2000年頃にさかのぼるアリュバロスの「残留分析」により、薔薇だけでなくアイリスの油の痕跡も確認されています(Tzedakis and Martlew、2002)。 (2013年)

 

※ あぶみ瓶

    

ルーヴル美術館のコレクションにあるミケーネ文明のあぶみ瓶、ca.1350BC

 

青銅器時代後期には、香りのよいオイルが地中海中のセラミック製のあぶみ瓶で取引されていました。 クレタ島のチャマレブリ(Chamalevri)で紀元前2000年頃にさかのぼるアリュバロスの「残留分析」により、薔薇だけではなくアイリスの油の痕跡が確認されています(Tzedakis and Martlew、2002)。 (2013年)

                                  

※ 線文字B(Linear B)、BC1550~BC1200頃まで、ギリシャ本土およびクレタ島で使われていた文字で、古いギリシャ語の方言を表記するのに用いられました。

主に粘土板の上に左から右に書かれ、音節文字と、表意文字(絵画的な記号、および数字と単位記号からなる文字)で表され、このギリシャ語をミケーネ ギリシャ語と言います。

   

線文字Bの碑文は、そのほとんどが材料や商品をリストした会計記録で、ギリシャ語で書かれた最も初期のものです。https://omniglot.com/writing/linearb.htm

 

 


ダマスクローズ 227

2021年05月06日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

※ ロディナム:Rhodinum

 

     

               Dried R. rosea root

ロディナム(Rhodiola rosea 、別名、イワベンケイ、岩弁慶、ナガバノイワベンケイ、イワキリンソウ、 golden root, rose root, roseroot, Aaron's rod, Arctic root, king's crown, lignum rhodium, orpin rose)ベンケイソウ科イワベンケイ属の多年生草本。ヨーロッパ、アジア、北アメリカの野生の北極圏で自然に成長し、地被植物として繁殖します。高さ4-35 cm。多様な形の多肉質の葉を持ち、6-8月の花期に黄緑色の花を付けます。R. roseaは雌雄異株で、雄株の花は黄色みが強く、雌株の花弁は小さく子房が目立ち、秋に鮮やかな紅色の果実を付けます。根茎は太くて長く、ハーブとして用いられることがあります。乾燥するとバラのような芳香があるため「ローズルート」の名があり、特に不安神経症やうつ病の治療など、いくつかの障害の伝統医学で使用されてきました。

 

Rhodiola roseaは、De Materia MedicaのPedanius Dioscoridesに最初の記述があります。

 

De Materia Medica『薬物誌』4-45. RHODIA RADIXから、

『Rhodia-radix [Fuchs]、Radix rhodia [Bauhin]、Rhodiola rosea [Linnaeus]、Sedum rhodiola [in Sprague]、Sedum roseum —ローズルート、薔薇色の花のマンネングサRhodia radixは、costusと同様にマケドニアで育ちます

薔薇と同じように傷つけると香りがし、ロザセウムを湿らせて額やこめかみに張ると頭痛、打撲傷に効果がありますrhodidaとも呼ばれています。』

 

約140の化合物がイワベンケイの根には、フェノール、ロザビン(Rosavin)、ロシン(Rosin)、ロサリン(Rosarin)、有機酸、テルペノイド、フェノール酸とその誘導体、フラボノイド、アントラキノン(Anthraquinone)、アルカロイド、チロソール(Tyrosol)、サリドロシド(Salidroside、rhodioloside)が含まれています。

生育している地域により、イワベンケイの根のエッセンシャルオイルの化学組成は異なります。たとえば、ロシア起源のイワベンケイには高濃度のロザビン、ロザリン、およびロジンが見られ、ブルガリアで育つイワベンケイのエッセンシャルオイルの主成分は、ゲラニオールとミルテノール(myrtenol)でした。中国では、主成分はゲラニオールと1-オクタノール( 1-octanol)であり、インドでは主成分はフェネチルアルコール(Phenethyl alcohol)です。シンナミルアルコール(cinnamyl alcohol)はブルガリアでのみ見つかりました。これらの化合物はほとんどがポリフェノールです。これらの植物化学物質は、イワベンケイ抽出物に特異的であると言われています。葉や新芽は生で食べたり、ほうれん草のように調理したり、サラダに加えたりすることもあります。抽出物はウォッカの香料として時々加えられます。

                                  

ローマでローズウォーターや香水を扱うのは小売業者である調香師でした。パエストゥムの花卉園芸と都市の経済は、エッセンスの抽出と香水の生産に使用する装置に委ねられていました。特に、花びらからエッセンスを抽出するのに使う圧縮機と、ロディナムの根を浸出させるための大桶が必要でした。Rhodinumは、薔薇の花びらの代わりに使い、より安価で劣った製品を作り出しました。

最高の香水を作るためには原料である薔薇の花がたくさん要し、純粋なローズウォーターの製造コストは非常に高かった為、栽培者は、ロディナムの根を絞り薔薇の花びらに混ぜたのです。 あからさまに、またはそうではなくても、彼らは外から可能な限り安価な製品が手にはいるようにあらゆる手段を使ったのです。

仕事を間違いなく迅速に行うために、調香師は、非常に有能で、自由契約の、熟練した労働者を抱えていました。 1998に公開されたJ.P.Brunの独創的な作品であるRoman Perfume Boutiquesは、パエストゥムのフォーラムの北西隅で行われた考古学調査の結果を使って、ビジネスがどのように機能したかを確認し、説明しました。

ギリシャの植民地になって以来、この地域は香水のおかげで生き残ることができました。興味深いことに、これらの店は、ミコノス島(Mykonos)に近いギリシャのキクラデス諸島(Greek Cycladean island)にあるデロス島(Delos)の発掘調査で見つかったものと形態が似ています。

 

パエストゥムの調香師は、商売にとって最高の良い場所を占有する、そのやり口はポンペイやカプア(Capua)※と似ていました。実際、カプア製品の集積地は、セプラシア(Seplasia)の町の中心にありました。ブランド名である「Seplasian」は高品質を表し、1社だけでなく、「ウンゲンタリィ、ungentarii」や「ツラリイ、thurarii」という名の製造業者もありました。

 

※ カプア

カプアは、カプアのアフロディーテが有名です。

   

 https://www.infobae.com/cultura/2018/11/17/afrodita-la-diosa-de-la-belleza-y-el-amor-que-conquisto-la-cultura-pop/ から

カプアのアフロディーテまたはビーナス(ローマ時代に作られたせいでしょうかこのように呼ばれています)は、ローマ帝国のハドリアヌス(Hadrian)政権(AD117~138)の間に歴史上最大の領土拡大に達した時代に作られました。ハドリアヌス帝はギリシャへの傾向が強く、人生の哲学と古代ギリシャの思想とを合わせて考えていました。カプアのアフロディーテは、古代ローマのカプア劇場の廃墟で発見された後、この名前が付けられました。

ミロとカプアのビーナス(正確にはアフロディーテ)は、失われたアフロディーテのコピーであり、古代ギリシャの偉大な彫刻家の1人であるリュシッポス(Lysippus、紀元前4世紀)の作であろうと推定されています。

                                   

 

Unguentにはギルドがなかったため、ungentariiのほとんどは、自社製品だけでなく小規模生産者からの製品の収集と発送をおこなう効率的な組織を持った少数の大規模生産者によって管理されていました。

カプアの貿易は、パエストゥムから、またプレネステとカプアから生の製品を購入したようです。製品にさまざまな香りを加える必要がある場合、外国の香辛料は、ローマの貿易の中心地であるウェスパシアヌス(Vespasian)の香辛料市場から購入しました。カプアは他の町のローズウォーターの生産量を上回り、輸出貿易を掌握していましたが、帝国の後半には製品の粗悪化が横行しました。

 

市場を独占しようとした商業の有力者であったデメトリウス(Demetrius)は、セプラシア(Seplasia)の町民から、非常に高価な成分であるフランキンセンスの代わりに、「ストーンパイン」であるイタリアカサマツの白い樹脂滴を使用したと非難されました。セプラシアの評判は取り壊され、

カプアの詐欺行為によって、町は西地中海の競争貿易から失墜し中心地はエジプトのアレクサンドリア市に引き継がれることになりました。考古学的に重要なのは、デロス島からは有名な香水工場が発掘されています。

           

フランキンセンス

  

イタリアカサマツ (学名:Pinus pinea)、英名としてEuropean nut pine, Italian stone pine, umbrella pine, parasol pineは、マツ科マツ属のPineae 亜節の常緑高木


ヘレニズム時代の香水工場は、オイルを圧搾する道具(花びらをオイルに「浸す」ための貯蔵瓶、加熱用の炉、容れもの)の発見によって特定されました。コリントス(Corinth)周辺の地域も香水の生産に携わっていました。地中海周辺に出荷するために油を入れておくアリュバロス(aryballoi)が多数発見されました

           

https://www.colorado.edu/classics/2018/05/08/200637t-corinthian-aryballos 

高さ:11.4cm 直径(最大):9.5cm、西暦前600年から550年

原産地:コリントス(ギリシャ)のアリュバロス

         

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/247190

Terracotta aryballos (oil flask) ca. 620–590 B.C. Komasts (padded dancers)

the New York Comast Painter ギャラリー171、メットフィフスアベニューで展示

 

初期コリント時代には、コリントスにコーモスな形をしたアリュバロスを作る工房がありました。 これらの姿をしたダンサーは、ディオニュソス神に献ずる儀式を表していますが、深い意味合いはありません。

                       

 

 


ダマスクローズ 226

2021年05月04日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

 Cato the Elder(マルクス ポルキウス カト ケンソリウス( Marcus Porcius Cato Censorius、BC234 – BC149, 共和政ローマ期の政治家)による『農業論』(De agri cultura) から、

『次の都市は、その名前が付いた品物を産しています。ポンペイの搾油機、at Rufrius's yard at Nola、ローマの釘とバー、バケツ、油壷、水差し、ワイン壷、カプアとノーラの銅製の壺、 カプアのカンパニアンバスケットは使い勝手が良いです。 カプアの3本滑車ロープとあらゆる種類の索具、スエッサ(Suessa)とカシナム(Casinum)のローマンバスケット;・・・・これらの品はローマで手に入る最高の品です。』

 

プリニウスから、

『XX. しかし、ここでは、特にさまざまな形態の銅とその混合物に注目しようと思います。キプロスの銅の場合、「ビーズ状の銅」は薄い葉になり、オックスゴール(ox gal、牛の胆汁のこと。界面活性剤のはたらきがある)で染色すると、劇場の小道具である金メッキをした華破風のように見えます。そして、同じ材料を1オンスに金1/4オンスの割合で混ぜると、パイロパス(bronze、latin: pyropus)と呼ばれる火の色をした非常に薄いプレートになります。

棒銅は他の鉱山でも生産されており、同様に溶融銅も生産されています。

それらの違いは、後者はハンマーで叩いて一体にすることしかできないのに対し、延性銅とも呼ばれる棒銅は展性があり、すべてのキプロス銅がそれに当たります。

しかし、他の鉱山でも、この棒状銅と溶融銅の違いは処理によって生じます。不純物を火で取り除いて溶かすとすべての銅は棒状の銅になります。

残りの種類の銅(palm)はカンパニアでブロンズに加工されます。カンパニアで作る道具は高く評価されています。

それを準備するいくつかの方法があり、カプアでは、木炭ではなく薪の火で製錬した後、冷水を注ぎ、オーク製のふるいで洗浄します。この製錬プロセスを数回繰り返し、最後の段階でスペインの銀鉛を10ポンドから100ポンドの銅の比率で加えます。この処理でしなやかさを出し、オイルと塩を銅と青銅に加えてよい色を出します。ガンパニアンに似た青銅は、イタリアの多くの地域と地方で生産されていますが、鉛はわずか8ポンドしか追加されておらず、木材が不足しているため、木炭でさらに製錬しています。

これによって生じる違いは、ガリアで特に顕著です。ガリアでは、この精錬で金属が焦げて黒く砕けやすくなるため、赤熱した石の間で金属を製錬しています。彼らはそれをもう一度精錬するだけですが、これを数回繰り返すと品質がさらに良くなります。また、非常に寒い天候では、銅と青銅がよりよく融合するというのも気づいたことです。』

                                   

調香師、ヴィラファルネジーナ(Villa Farnesina)、ローマ

 

黄色いガラスフラスコ、ローマ1-100CE。 ローマの香水瓶。Getty Villa( ロサンゼルスにあるJ.ポールゲッティ美術館の1つ、古代ギリシャ、ローマ、エトルリアに特化した博物館)

  

ローマのカメオガラス香水フラスコ、BC25年〜25年、#305, Getty Villa

 

香水はギリシャからローマにいつでも入って来るので、日常の使用が過度にならないように販売は厳しく制限されていました。

香水は体に付けるだけでなく、ワインやアルコールとブレンドしてパフュームワイン、リキュール、魔法の一服、またはネクターとして飲まれました。

男性と女性はまた、媚薬として香水とハーブを使用しました。当時は濾過技術が未熟な上、アルコール類を“神々の飲み物“とするなど科学性に乏しく、精油やハーブの使い方もそれらの香りを利用するに過ぎませんでした。

 

ローマ人はシンプルな香水を好みました。例えばロジウム(rhodium)と薔薇、メリッサとマルメロ、水仙とクロシナス(crocinus ; 黄色いサフランの雌しべ、クチナシの果実などに含まれる。脳の機能や睡眠などに影響を与える)、ヘナの花とコスタス(costus)、ナード(nard)、ミルラをベースにしたキプロム(nardicum)などのより複雑な組成物です。

(香水の項はPLINY'S NATURAL HISTORY、10 volume edition published by Harvard University Press, Massachusetts の序文から引用させていただきました。)

 

これらの製品は、ローマのVictus Thuraricusと呼ばれる「お香地区」で販売されました。薔薇とナードが最も評価を受けた香水であり、香りのするハリエニシダ((針金雀児、Ulex europaeus)が一般的でした。それぞれの香りには独特の、ローズマリーは精神を強化する、琥珀とムスクは興奮するなどの特徴があります。

      

 

コスタス(costus, Gissanthe Salisb, Acinax Raf, Jacuanga T. Lestib、 Cadalvena Fenzl)https://www.bambooland.com.au/costus-pulverulentus-red-cigar

コスタスは、1753年にリンネによって属として記述されたコスタス科の多年生草本植物のグループです。フィンランドの植物学者Carl Niclas von Hellensにちなんで、以前はHelleniaとして知られていました。アジア、アフリカ、および南北アメリカの熱帯および亜熱帯地域に広がっています。コスタスはらせん状の茎によって特徴づけられ、ジンジバー(Zingiber : 真のショウガ)などの属とは異なります。したがって、属全体はしばしばスパイラルジンジャーと呼ばれ、これは特に C. barbatusを指します。

 

ハリエニシダ

ハリエニシダ(針金雀児、Ulex europaeus)、マメ科マメ亜科、西ヨーロッパからイタリアが原産地

    

  

薔薇の代わりにRhodinumを圧搾して安価で劣った製品を作りました。最高の香水を作るためには膨大な量の薔薇の花がいるため、純粋なローズウォーターを作るにはコストが非常にかかりました。その結果、生産者は、ロディナム(Rhodinum)※の根を圧搾し、薔薇の花びらと混ぜたのです。彼らは可能な限り安価な手段で製品を手にしようとしました。仕事を専門的かつ迅速に行うために、調香師は、非常に有能な、自由契約の、熟練した労働者に依存していました。

 

 


ダマスクローズ 225

2021年05月02日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

プリニウスはギリシャ人が何時、どのように薔薇の栽培技術をパエストゥムに持ち込んだのか、具体的な記述を残してはいません。しかし、パエストゥムはBC273年にローマの都市になったことで、紀元前273年という確かな年代を持った考古学的証拠;香水店の存在を挙げることが出来ます。また、ヘレニズムとローマの遺跡で考古学者によって発見された、薔薇のオイルを入れるウンゲンタリア(小さなセラミックまたはガラス瓶、1/26参考)の生産があったことを示す証拠があります。

 

パエストゥムの薔薇は明るいピンクで、ほとんど赤みがかっていましたし、非常に香りがよく、長い期間開花したということです。これはローマ人にとって新しいことでしたし、数週間以上の期間にわたって開花する薔薇に出会ったことはかつてなかったことでしょう。このことは下に取り上げたマーシャルのエピグラムから明らかです。2編取り上げてご紹介しておきましょう。

 

マーシャルのエピグラム

XIII.127から、

時を征服したシーザーに喝采を

どのように成し遂げたかを詩で謳おう

選んだ客人へのお披露目は

薔薇で作った花飾り

皇帝だけの冬の贈り物

 

XXXVII から、

成長した白鳥よりも甘い子供の声、

ガラエサスの子羊よりも柔らかい羽毛、

ルクライン湖の貝殻よりも可憐な、

磨かれた象牙よりも滑らかな、

紅海の石、雪、白いユリ、

その髪の毛はバエティックの群れやラインの結び目

金色のヤマネの毛皮にも勝る。

パエストゥムのバラよりも甘い息、

屋根裏の蜂蜜、琥珀色の水滴

乙女の手からひったくり、

・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・。

 

https://quod.lib.umich.edu/g/genpub/AFE5993.0001.001?rgn=main;view=fulltext

 

Ovidは、温暖な気候では薔薇が2回開花することを、Martialは、(Epigrams VI、80)で、 Vergilは、薔薇は冬の間でも開花したと述べています(エピグラムX、31、1ff)で、そして同様に、エジプトでも開花することを(Martial)が謳っています。

                                  

PLINY'S NATURAL HISTORY

BOOK XIII, II. から、

『香水の名前は、ある場合にはその原産国から、或いは元となる抽出液から、又は木から、そしてその他にいわれに等に基づいて付けられているのですが、知っておくべきことは、重要性が変化すると、しばしばその名が消えてしまうことです。

昔最も高く評価されていた香水はデロス島で作られましたが、後になるとエジプトの町メンデスの香水が最高位にランクされました。また、これはいくつかの香りのブレンドと組み合わせの結果だけではなく、同じ抽出液がさまざまな場所でさまざまな方法で優位に立ったり、衰退したりしました。

コリントス(Corinth)のソードリリー(グラジオラス)香水は長い間非常に人気がありましたが、その後キュジコス(Cyzicus)の香水、そして同様にファセリス(Phaselis、今のトルコ、古代リュキアの海岸にあるギリシャとローマの都市)で作られた薔薇のアターですが、これらの評価はナポリ、カプア(Capua)※、パレストリーナ(Palestrina、古代のPraeneste)によって引き継がれました。

キプロスで作られたつるの花の香りが好まれましたが、その後はアドラミティオン(Adramytteum)から、そしてコス(Cos)で作られたマジョラムの香りが、その後同じ場所からのマルジョラムの香りが、そしてキプロスで作られたキプロスの香りが、その後エジプトで作られた香りが好まれました。この時点で、メンデス(Mendes ?)とアーモンドオイルの香りが突然人気を博しました。

後にフェニキアはこれら2つの香りを独占し、キプロスの香りの製造許可をエジプトに渡しました。アテネは、アテネのすべての香水の占有権を永続的に維持してきました。かつてタルサス(Tarsus、トルコ中南部メルスィン県の都市。地中海沿岸に位置する古代ローマ帝国の属州キリキアの首都、かつてTarsosとよばれていた。聖パウロの生誕の地)にはパンサーの香りと呼ばれる酷いものがありましたが、調合のレシピさえ消えてしまいました。水仙の香りも水仙の花からは作られなくなりました。』

 

共和政の中期、ローマの拡大による必要に迫られ、イタリア全土を結ぶ街道がいくつか建設された。ローマ街道は2台のチャリオットが通れるよう、15フィートの幅に規格化され、距離を示すためにマイルストーンが置かれました。

紀元前312年頃、アッピア街道

紀元前307年頃、ヴァレリア街道、

紀元前283年頃、カエシリア街道

紀元前241年頃、アメリーナ街道、

紀元前241年頃、アウレリア街道、クローディア街道、カッシア街道

紀元前220年頃、フラミニア街道

紀元前190年頃、エミリア街道、ベネウェントゥム街道、ウェヌシア街道が作られました。

  

   ローマ街道(出典:Eric Gaba、Agamemnus、Flappiefh、CC BY-SA 3.0)

 

赤丸はパエストゥムの位置ですが街道から離れています。一方カプアは、ラティーナ街道(Via Latina)、アッピア街道( Via Appia)、ポピリア街道(Via Popilia)と結ばれ、ローマとつながっています。

※ カプア(Capua)

プリニウスから『内陸には次の植民地があります。カプアは、40マイルの平原(キャンパス)にちなんで名付けられました。アキノ、スエッサ、ヴェナフロ、ソラ、テアーノはシディシナムと名付けられました。 アベリノ、アリシア、アルバロンガ、アセラニ、アリファニ、アティネート、アレトリネート、アナグニーニ、アテラーニ、アエフラニ、アルピネート、オーキシメート、アベラニ、アルファテルニの町は、ラテン語の領土から、そしてヘルニカンから、そしてラビカンから)、・・・・・・』とあるように、BC 211年、長い包囲戦を経て、カプアはローマ人によって占領され、厳しい懲罰が加えられました。自治は廃止され、殺害を免れた住民は市民権を失い、カプアの領土はローマの公有地であると宣言されました。かつてのカプア領の一部は紀BC 205年とBC 199年に売却され、また別の部分はBC 194年に沿岸部に設立された新しいコロニアであるVolturnum(現在のカステル ヴォルトゥルノ)とLiternum(現在のジュリアーノ イン カンパニアの一部)の市民との間で分割されました。それでも大部分は依然としてカプアのもとに保持されていました。

  

   カプア(現在のサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ)の闘技場跡

 

ローマとの戦いの後、そのまま残されたカプア町は、大きな繁栄を享受します。スペルト小麦、ワイン、薔薇、軟膏などの栽培や生産が盛んになり、またそれらの生産のために必要な青銅器がつくられました。大カトーや大プリニウスは、これらの品を高く評価しそのことを書き残しています。

                   

 

 

 

 

 


ダマスクローズ 224

2021年04月30日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

パエストゥムに戻ります。 https://en.wikipedia.org/wiki/Paestum から

パエストゥムは、都市がルカニア人によって征服されても、BC 500までは存続し、ギリシャとオスクの2つの文化が互いに共存し繁栄していたようです。

      

    BC 6世紀のイタリアの鉄器時代における言語のおおよその分布地

https://www.pinterest.jp/pin/392728030005828716/   

 

パエストゥムの西暦1世紀からの考古学記録には、道路、寺院の建設等成長する都市の特徴が残されています。

しかし、1世紀の後半の終わりまでに、この地域は汽水域になり沈下します。しかも、エペイロス王ピュロス(Pyrrhus、BC319 - BC272、古代ギリシャのエピロス王、およびマケドニア王)が共和政ローマ、カルタゴ相手に行ったピュロス戦争(BC280 – BC275)で、ピュロスはイタリア南部のマグナ グラエキア(ギリシャ人植民都市)のターレス(現在のターラント)からローマとの戦争の支援を依頼され、これに応えたことから、パエストゥムはBC273年にローマの都市になりました。ピュロス戦争では、ギリシャとイタリアのポセイドニア人が、ローマ共和国に対抗するピュロス王の側に立っていたからです。

    

ca.BC 280のマグナ グラエキア(Magna Graecia、古代ギリシャ人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯)                      

 

ハンニバルによるカルタゴのイタリア侵攻の間、都市はローマに忠実であり続け、その後、独自の硬貨の鋳造などの特別な恩恵が与えられました。ローマ帝国時代も都市は繁栄を続け、西暦400年頃にペストのローマカトリック教区として司教区になりました。

薔薇の栽培者はローマの植民地に分散し、その結果、ラテン文学でパエストゥムの薔薇と賞賛されたバラは必ずしもパエストゥムの薔薇だけではなく、植民者によって栽培された薔薇にも同じ名前が付けられました。

その後、パエストゥム周辺での薔薇栽培は再び盛んになったのですが、プリニウスは、パエストゥムのバラについて言及することはありませんでした。

同じ期間に、コルメラ(Lucius Junius Moderatus Columella、 4 – c. 70 AD、ローマ帝国の農学家)がDe re Rustica(X、35 ff。)で、マルクス(Marcus Valerius Martialis、マルクス ウァレリウス マルティアリス、40/3/1 – 102、カラタユー出身のラテン語詩人)が(Epigrams VI、80)の中で、このローマのバラを詩的な文章で説明しているからと思われます。

 

パエストゥムの街は、西暦4世紀から7世紀にかけて衰退し始め、中世には放棄されました。司教の管轄区は1100年になくなりました。ナポリとその周辺地域のほとんどの住民はギリシャ語の方言を話していたようです。

衰退と荒廃は、この地の土地排水構造の変化により、それが湿地でのマラリア発生につながったようです。サラセン人による海賊行為や奴隷による襲撃も決定的な要因だったのかもしれません。

 

残りの人達は、数キロ離れたアグロポリのより防御しやすい崖の上の集落(ギリシャ語で「アクロポリス」または「城塞」)に移動したようですが、パエストゥムはしばらくの間、対イスラム教徒襲撃の拠点になりました。

ロバート ギスカード(Roberto il Guiscardo d'Altavilla, 1015-1085/7/17、ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てた)によってサレルノ大聖堂建設(Salerno Cathedral、イタリア南部のサレルノ市の主要な教会で)のためにパエストゥムのいくつかの石が、採石され、切断され、再使用されました。そして、パエストゥムの場所はほとんど忘れられたのです。

  

            パエストゥム、ピラネージ画。

https://www.lavanguardia.com/historiayvida/historia-antigua/20180608/47313161043/paestum-la-inspiracion-de-los-ilustrados.html

 ジョヴァンニ バッティスタ ピラネージ( Giovanni Battista Piranesi、1720/10/4  –1778/11/9 、イタリアの画家、建築家) )のエッチングの1つ、1778年

 

カンパニアの地域はパエストゥムよりも少し南に位置し、薔薇の栽培の技術でもカンパニア地方は主な競争相手でした。地面はパエストゥムよりも水はけがよく、バラの栽培に適していたため、薔薇はパエストゥムよりも良い香りがしました。さらに、かつて開花したバラ種に比べて早く開花し、開花期間が長いのが特徴でした。プリニウスは Naturalis Historia XVIII、111で、カンパニアの地を次のように述べています。

 

Naturalis Historia XXIX から一部分を引用;

『カンパニアの、雲に覆われた山々の下には、平野が約40マイルにわたって広がっています。この平野の土壌の性質は、表面はほこりっぽいが、下は海綿状で、軽石のように多孔質である、地上には降雨があるので、雨は浸透して通過し耕作が容易になり、利点ともなります。同時に、水分が外に漏れることがなく、内部を適度な温度に温めてくれます。土地は一年中作物が収穫でき、イタリアのアワで1回、エンマーコムギで2回播種します。それでも春には、休ませた畑では庭のバラよりも甘い香りのバラが花を咲かせます。この土地はやせ細るということがありません。だから、カンパニアでは、薔薇は他の土地で生み出されるオイルよりも多くの香りを生み出すという言い回しがされています。』

 

ナポリのすぐ北にある特にカプア プレネステのカンパニア産の薔薇はペストゥムの薔薇よりもはるかによく知られるようになりました。2つの地域の栽培方法は固く守られていたようです。

カンパニア(Pliny Naturalis Historia X XI 17)で栽培されていた開花が遅いDamask Rosa x damascenaは、現在我々が認識しているRosa centifoliaであり、当時Paestumで栽培されていた薔薇なのです。Rosa centifoliaは、生産性の高いRosa x damascenaに置き換えられたのです。

 

先に『ウェルギリウスは、農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)であると詠みました。』という解釈は誤りであると述べましたが、これで花期の長い薔薇の花(Damask Rosa x damascena)を指していたことがお判りいただけたのではと思います。そしてこの詩の内容をもって、ローズウォーターの製造が、パエストゥムの薔薇の名声が、紀元前1世紀の後半に広まった証拠として、『有名な詩の中に見ることができた』ともいうことができます。

しかし、R. x damascenaとR.centifoliaの二季咲きに関与する遺伝学が完全に解明されるまで、その可能性を消し去ることはできません。