Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 194

2021年02月28日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

アラビア、ペルシャでガレノスの医学が取り上げられたことは、今までに幾度となく、お話をしてきました。しかしその内容を修正することもなくイスラム社会の中で長くそのままの形で、進歩することなく連綿と続いていたことには、少し違和感を覚えます。薔薇の花とは関係ないことですが、その何故に迫ろうと思います。

一つにはこの後、これらイスラム社会の医学書がヨーロッパに運ばれ、之を元に現在のヨーロッパ医学につながっていることを思えば、不思議な、何故イスラムの世界で医学が進化しなかったのか、ギリシャ・ローマの医学を直に受け止めた、少なくとも500-600年はヨーロッパよりも先行していた医学が何故前に進まなかったのかという疑問です。少しだけ寄り道をします。

           

負傷したスルタンムラトⅠ世(Sultan Murad I)の鼓動を診ている主治医(Seyyid Lokman)Hüernâme、1389、トプカピ宮殿博物館図書館蔵、MS H. 1523

 

オスマントルコの医療行為には“優先事項”というのがあります。ガレノスの医療を継いでいるわけですから、医療行為を行う者には、体液説に基づく診断と治療の習得がまず挙げられます。

その次に、患者を観察するに足る非常に賢明な人物と見なされなければなりません。すべての知識分野を習得した有能な医師だけが賢人としての資格を得ます。

医師はマスター(hazik)、賢人(hakîm)と呼ばれ、何よりもすべての分野で知識を共有する必要があり、哲学(hikmah)と天文学(hay’a)さえも必要であるとされました。

     

有名な建築家Hayrettinによって建てられたアドリアノープルのスルタンバヤズィトⅡ世(Sultan Bayezid II)病院(1484)。

 

医療知識と医療行為の基準に対する態度と期待は、医療従事者の立場と医療の発展に影響を与え、決定します。

  

ユスフ ナビ ( 1642 – 1712/4/10 ) https://www.gzt.com/cins/htir-i-persnima-ugrayanlar-3181202  1642年にウルファで生まれた詩人ユスフ ナビは、アレッポで過ごした25年間にほとんどの作品を書きました。

 

文学作品の中にも上のような見解が出てきます。たとえば、17世紀のオスマン帝国の医師に対して詩人ユスフ ナビ(Yusuf Nabi )がハイリエのマバス ラジマ イ ヒクマット イ ティブ( Mabhas Lazima-i Hikmat-i Tib )と題した章で述べた医師に対する基準は、病院での内容とそれほど変わりはありませんでした。

彼は、その中で『医師はマスター(hazik)と呼ばれ、賢人(hakîm)と呼ばれるに値する者でなければなりません。すべての分野で情報を共有する必要があり、それに加え哲学(hikmah)と天文学(hay’a)が必要です。』と述べています。

 

ナビ※の詩を引用しました。

 

思慮深さと事実をもって治療してください

知識の欠如で気質を見逃さないでください

健康の指導者として振る舞い

病気の原因にならないでください

医療規則に従って治療し

経験のために人を犠牲にしないでください

ランセットで無駄に血を流さないでください

大切な人生の強盗にならないでください 

彼/彼女のシロップ(権利の主張?)が体液を和らげ

自然の矛盾のバランスを取っているのです

だからその時代のすべての医師はそうしているのです 

ほとんど (の医師は) 無知で本質を知りません

必要がなければ体を痛めつけないでください 

モルモットのように体を利用しないでください

 

ナビは、高潔な医師を、現在の薬の原則に従って患者を治療し、患者の神聖なものを保護する医師として表しました。注意深く、患者への実験を避けるように医師に詩的にアドバイスしています。「医療規則に従って治療してください。実験のために人を犠牲にしないでください」と、ナビは患者をモルモットとして使用する無知な医師に不平を言い、患者に息子に話しかけるよう警告します。「必要がなければ、体を痛めつけないでください。モルモットのように体を利用しないでください」と。

患者はよく知られた方法で治療されるべきであり、患者は経験のために犠牲にされてはなりません。患者自身/彼女自身が彼/彼女の権利を意識している必要があり、医師が彼/彼女をモルモットとして使用することを許可してはなりません。

 

医学を志す者は科学の究極を目指すことであり、それは知恵に到達することであると考えたのです。長い間、イスラム社会では、生物学と物理学は自然の知恵(hikmat-itabiîyye:ヒクマ)と呼ばれ、最も崇高で最終的な存在理由を認識することが重んじられました。究極的で最も完璧な原則を探求し、理性と論理を通して真実に到達することは、人を聡明に導くことにつながる方法でした。

 

 


ダマスクローズ 193

2021年02月26日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

偉大な博学者Ibn-i Sina Avicenna(11世紀CE)は、ダマスクローズの香りが心臓と脳に及ぼす有益な効果に目を付けた最初の科学者です。(6/24~7/18に詳細な説明があります)彼は「その至上な香りをもって、この薔薇は魂に話しかける」と述べています。さらに、彼は「それは心を落ち着かせる効果があり、失神時と激しい鼓動時に効果がある」と書いています。彼は「それは理解力を高め、記憶力を強化する。」とローズウォーターが心と精神に与える影響を賞賛しました。

イブン バイタール ( Ibn-Al-Baitar ) は、ローズウォーターを沸騰させ、頭をその蒸気にさらすと治癒効果があり、特に有益であると述べました。目の病気のため、酔っぱらいや頭痛を和らげるために蒸気の吸入を勧めました。イブン スィーナー ( iIbn-i Sina) と同様に、Ibn-Al-Baitarも、ローズウォーターが脳に有益な効果をもたらすことを指摘しました。「ローズウォーターは、心と脳を強化し、感覚を研ぎ澄まし、生命力を高めます。 それは不安による急速な心拍に有益です。( Ibnul-Baytar el-Mufredat 1242–1248)Ibn-Al-Baitarが書いた( Ibnul-Baytar el-Mufredat 1242–1248)によればローズウォーターを沸騰させ、頭をその蒸気にさらすと治癒効果があり、目の病気に特に有益であると述べています。彼はまた、悪酔いや頭痛を和らげるために蒸気の吸入を勧めました。(7/20参照)

 

彼の有名な医学書Kemaliyeの中で、ShirvanのMahmud(15世紀BCE)は、乾燥した薔薇の花びらを乳鉢で粉砕し、入浴後に首、胸、脇の下に塗布して、体に好ましい香りを与えて「精神を治療する」と説明しています。彼は、この香りが精神性を強化し、心を浄化したと述べています。彼は「薔薇の香りは天使のような香りだ」と書いています。

   

トルコ式風呂 https://www.temahavuz.com.tr/hizmet/turk-hamami-yapimi/  

同じ粉末をトルコ式風呂でも使用するとIshak bin Murat(紀元前14世紀)のSimple Drugsと訳されているEdviye-I Müfrede※にも記載されています。

又、疥癬に苦しむ人々にとって有益であると言い、ニキビを擦るときれいになったと伝えられています(Geredeli Ishak 1387)。 Salih bin Nasrullah(17世紀CE)は、彼の著書Gayetül Beyan transでローズウォーターについて『体にこすりつけると心地よい香りがし、頭にこすりつけると頭痛が和らぐ人間の健康と衛生のテクニック。』と述べています。彼はまた、挽いた乾燥した薔薇の花びらを口の潰瘍にこすりつけると痛みを和らげることができると書いています。伝えられるところによると、皮膚に散らばった天然痘やはしかの病変にも有益であると書き残しています。

            

※ Edviye-I Müfrede

1387年にİshakbinMuradによって書かれたEdviye-iMüfredeは、4つの部分で構成されています。最初の章では、薬として単独で使用される植物、食品、飲料、その他の物質が辞書順にリストされ、それぞれの特徴、それらが使用される主な病気、それらの損傷、および損傷を取り除く方法が示されています。第二部では、病気の治療に関する記事。第3章にはさまざまな薬の準備が含まれ、第4章にはアラビア語-ペルシャ語-トルコ語の用語辞書が含まれています。ムスタファカンポラット教授と ZaferÖnler博士が、İshakbin MuradのEdviye-iMüfredeのさまざまな書物を比較して翻訳しています。

                      

 

 


ダマスクローズ 192

2021年02月24日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

             

              The Tarjuman al-Ashwaq

イブン アラビー(‎ Ibn al-ʿArabī, 1165/7/28 – 1240/11/10、中世のイスラム思想家。存在一性論、完全人間論を唱えてイスラム神秘主義(スーフィズム)の確立に寄与し、後世に影響を与えました。The Tarjuman al-Ashwaq(欲望の解説者)を著す。

 

The Tarjuman al-Ashwaq から2編、

ニクバエが牧草地でブンブン音をたてている

声を震わせながらうれしそうに鳥が答えた

丘の斜面はふんわりと、撫でるようなそよ風

雲はむくむくと湧き上がり、何処かで雷鳴が

雨滴は、遠く離れた恋人の流す涙のように

雲の隙間から降りていました

ワインのエキスを飲ませて酔わせ

歌姫の声にじっと耳を傾ける

エデンの園の、アダムの時代の純なワイン

美しい女性はジャコウネコのように口から吐き出し

処女は惜しみなく私たちに捧げてくれた

 

雲の袖に隠れた、稲妻の金色の刺繡

その涙が頬に落ち、激しい炎を燃やす

彼女は涙から湧き出る薔薇、涙の雨を浴びる水仙

 

私の訳が悪いのと、アラビア語からの翻訳のせいなのか、それとも時代性を捉えていないせいなのか、詩から発せられる真意は-不気味さ以外は-まったく伝わってきません。残念!! しかし、薔薇を肯定的に扱っていたことは理解していただけると思います。

 

アブー ハニーファ ディーナワリー(Abū Ḥanīfa al-Dīnawarī ; ca. 815 – ca. 896、9世紀イスラム圏の博学者、アラビア語文法学者、辞典編纂者、天文学者、数学者、ムハッディス(ハディース伝承学者)。『植物の書』(Kitāb al-Nabāt)が有名で、この著作は中世イスラム科学における植物学のはじまりであるとされます。書の中では、ローズウォーターの爽快感に言及し、熱のある時に使うことを推奨しています。

彼はまた、解熱、鎮静効果の目的で頭に薔薇油を塗ることを勧めています。

又、同じく9世紀のアラブの医師アル ラーズィーは、薔薇の治療的価値に注目し、「薔薇はアルコール中毒を減らす」と述べています。

 

アル ラーズィーのAbu Bakr Muhammad ibn Zakariyya' (d. 925) から、

アル ラーズィーはアレルギー性喘息を発見したことが知られており、アレルギーと免疫学に関する記事を書いた最初の人でした。 匂いの感覚で、彼は春にバラの匂いを嗅ぐときに鼻炎が発生すること。又、アレルギー性喘息や干し草熱と同じ季節性鼻炎について語っています。熱が自然の防御メカニズムであり、体が病気と戦う方法であることを最初に認識しました。

春にバラの匂いを嗅ぐときにと『アブザイド アーメド イブン サールバルキ (

Abou Zayd Balkh, 850-934, ペルシャのイスラム教徒の博学者)が鼻炎に苦しむ理由。アレルギー性喘息や干し草熱と同じ季節性鼻炎について。』説いています。

    

病気の子供を診ているRazi、ペルシャ細密画家ホセインベザド( Hossein Behzad ,

1894-1968) 画

             
Al-Dinwari, Manuscript https://muslimheritage.com/al-dinawari/

 

 


ダマスクローズ 191

2021年02月22日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

PLINY'S NATURAL HISTORYから、

『 XCVI.  七ヶ月以前に出る女性の乳は役に立たないが、その月以降の赤ん坊が育っているときの乳は健康によい。ほとんどの種の雌では、乳は乳房全体から、さらには肩甲骨のひだからも流れ出ます。ラクダは再び子を孕むまで乳を出しますし、ラクダのミルクは、ミルク1に対して3の水を加えると最も良い状態であると考えられています。牛は出産前に乳を出しません。そして最初の子牛の後には常に初乳があり、その乳は濃縮されたものです。ロバはすぐに乳を与え始めます。

チーズは、牛乳が固まらないため、両顎に歯がある種からは作られていません。ラクダの乳は最も薄く、馬乳は次に薄いです。ロバのミルクは最も濃いので、レンネットの代替品として使用されます。ロバの乳は実際、女性の肌の白さに寄与するところがあると考えられているようです。いずれにせよ、ドミティウス ネロの妻ポッパエア (

Domitius Nero's wife Poppaea ) は、500頭の雌のロバをどこにでも連れて行って、全身をロバの乳の浴槽にひたし、しわも滑らかになると信じていました。

すべての牛乳は火で濃くなり、冷たくするとホエーになります。牛乳は山羊の乳よりも同じ量で多くのチーズを作ります。乳房が4つ以上ある動物はチーズに使用できず、2つ以上ある動物の方が適しています。

ノロジカ、ノウサギ、ヤギのカードは賞賛されていますが、ウサギの凝乳は最高であり、下痢の治療にも優れています。ウサギは、この特性を持つ唯一の両顎の歯を持つ動物です。

何世紀にもわたって乳で生活している外国人種がチーズの恩恵を知らないか、軽蔑していて、せいぜい牛乳を濃縮してサワーカードとバターに限定していることは注目に値します。バターは、いわゆるホエーよりも濃くて粘り気のある牛乳の泡です。それは油の品質を持っており、すべての外国人や子供達、私たち自身が使う軟膏として使用されていることを付け加えなければなりません。』

                                     

ポッパエア サビーナ 1550~1560画、ジュネーブ、美術、歴史博物館 ( Musée d'art et d'histoire, Genf ) 蔵

 

Kitab al-Taraffuq fi al-'itrの続き、

『ポッパエアは、ロバの乳で満たした浴槽に全身を浸していた他、小麦やライ麦、ハチミツ、ロバの乳などから作った美容パックを施し、その白い肌を守るために外出時はマスクを用い、毎日の身支度には奴隷100人を必要としたと言われています。ネロはポッパエアの死を悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく、遺体を香油に浸し棺に香料や防腐剤を詰めて霊廟に納めたのです。

 

ローマ皇帝はもちろん、香水の特別の調達手段を持っていたネロと彼の妻ポッパエアは香水を過剰に使用しました

彼らの宮殿では、夕食のゲストの上に花びらを落とすように設計された偽の天井が設けられ、翼で香りを送るように翼に香りを付けた鳩が飼われていました。ポッパエアが亡くなったとき、ネロは葬儀の火葬場で一年分の線香を燃やしたと言われています。数百トンに達するであろう香りが費やされたのです。

『ローマ皇帝群像』の中で「ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大な幕を張り、その上に大量の薔薇の花をのせ、宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させた。」という逸話(8/6)はネロのお話が下敷きになったといえます。

 

 


ダマスクローズ 190

2021年02月20日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

         

https://www.chemistryworld.com/opinion/the-spirit-of-the-matter/8177.article

 

※ ジャービル イブン ハイヤーン(Jābir b. Ḥayyān, ラテン名:ゲーベル(Geber), ca.721 – 815、8世紀後半から9世紀初頭にかけてバグダード又はクーファで活動した錬金術師)。アラビア語で著作を書いたイスラム圏の学者。いくつかの著作が12世紀頃にラテン語に翻訳されてヨーロッパ・キリスト教圏の科学・学術にも影響を及ぼしました。                                     

 

ローズウォーターにはどのような働きがあるのでしょう。今までにも少し触れてきましたが、ここから薬理学の立場から少し詳しく述べてゆこうと思います。

 

ローズウォーター、ロザセウム、初期の「ローズオイル」を使用するというペルシャの伝統は、紀元前2000年頃と考えられていますが、ハッキリと記録に残っているのはアル キンディ(Al-Kindi、801—873、中世イスラムの哲学者、科学者、化学者、数学者、音楽家)以降です。

キンディーは錬金術に反対の立場を取っていました。単純な卑金属が金や銀などの貴金属に変換されるという神話を暴いたのです。キンディーはワインの蒸留について明確に説明しています。 Kitab al-Taraffuq fi al-'itr(香水と蒸留の化学の本、 The Book of the chemistry of Perfume and Distillationsの名でよく知られています )というタイトルの本の中で、彼は蒸留に必要な方法と装置を説明した後、次のように述べています。『水槽を使ってワインを蒸留することができ、それはローズウォーターと同じ色で出てくる。』また、同じ本の中で、彼は薔薇油を抽出するための蒸留プロセスを説明し、107種類の香水のレシピを提案しています。

       

        アル キンディ https://www.wikiwand.com/en/Al-Kindi から

 

Kitab al-Taraffuq fi al-'itrから、次の2つの文章を引用しておきます。これまでブログで取り上げてきたものの、懐疑的な部分を解き明かすであろう一文が登場します。

 

『ギリシャ人が最も使用したフレグランスは、ローズ、サフラン、乳香、ミルラ、スミレ、スパイクナード、シナモン、シダーウッドでした。これらの香料は、地中海全体と中東で広く取引されていました。』

 

『最初のプロの調香師であるunguentarii(後述)は、業界の貿易の中心地となったカプアで貿易を行いました。香水は、闘技場での観客へのプレゼントとして、また血まみれで内臓が散らばったアリーナでの悪臭を防ぐためのマスクとして、大量に使用されました。紀元1世紀には、ローマ人は3000トン近くの乳香と、それよりも高価な没薬を500トン以上消費していたと推定されています。』

         

ポッパエア サビナ(Poppaea Sabina, 30 - 65年、第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻。ポッパエアは優れた美貌を持ち、人々を魅了して離さない会話術を備えていたといいます。ポッパエア(Poppaea)を指して『歴史上、最も化粧に時間を費やした女性』と言われており、プリニウスの『博物誌』第十一巻にその記述があります。以下引用しておきます。               

 

 


ダマスクローズ 189

2021年02月18日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

※ Alembic https://www.metmuseum.org/blogs/ruminations/2016/alembics

から

アレンビック 1.(アラビア語のal-anbiq(蒸溜器)とギリシャ語のambix(カップ)に由来)。9〜11世紀。イラン、ニシャプール、イスラム、吹きガラスの注ぎ口; H. 5.6 cm、直径(カップ)3.8 cm、L.(全体)10.0 cm。メトロポリタン美術館蔵

アレンビック2. 9〜11世紀の医師の(吸角法に使う)カッピンググラスまたはアランビック。イラン、ニシャプール。吹きガラスH. 5 cm、L. 9.9 cm。メトロポリタン美術館蔵

 

メトロポリタン美術館は、1939年~1947年にかけてイランのニシャプール(Nishapur)遺跡で発掘作業を行った結果、アランビック(上の2つ)を所有しています。これらの物体がどのように使用されたかについてはさまざまな意見がありますが、名前と形状から液体を入れるために使用された様に思えます。さらに、それらはすべて、6世紀から12世紀までの非常に狭い期間にまでさかのぼります。そして、これらのオブジェクトの生産がこの後に消えた理由については、多くの意見があります。

 

アレンビック3.  700〜999年。 透明な薄灰色がかった緑色、茶色の筋、小さな石と多くの泡があります。全体の高さ:11.7cm; 全長:12.4 cm; 円形の容器径:6.9cm。コーニングガラス美術館蔵

この容器は、半球形のボディと長さが異なる細い管があります。他の地域のものと比較すると、アランビックの起源の場所によって容器の形状にいくつかの違いがあります。ニシャプールやイスラム東部の他の地域のアレンビックには首や肩がありませんが、イスラム西部のアレンビックは肩がくぼんでいて短い円筒形の首が特徴です

      

アレンビックには少なくとも3つの異なる用途があると考えられています。

  1. 摂食、医療、および化学の目的。アランビックは、赤ちゃんや患者に少量の液体を与えるために使用された可能性があります。そのサイズと形状が小さいため、薬や食品を配布するのに理想的だったからです。
  2. さらに、これらの容器は他の医療用途を持っていた可能性があります。 Abu al-Qasim al-Zahrawi(936-1030)によるal-Taṣrīfなどのアラビアの医学文献には、患者の体から空気を吸引するために使用されたカッピングに関する記述があります。
  3. 化学では、香水を作るために、または錬金術のために必要な蒸留プロセス中にアランビックが使用された可能性があります。蒸留は、さまざまな材料の混合物からアルコールを濃縮するために使用され、今日でも、このプロセスは、医薬品、酸、および香水を製造するために使用されています。(下図参照)ボイラー(cucurbit)とその上にある容器(alembic)が必要です。ここで、液体の蒸気はすべて半球形のボディの中に一旦昇ってから導管(alembicの管又は、導管)を通って滴り落ちます。  

蒸溜装置;1. アレンビック、2. 蒸溜瓶、3. 砂、4. レンガ炉、5. 導管、6. 受けフラスコ。 Francis Maddison and Emilie Savage-Smith, Science, Tools and Magic (New York: Oxford University Press, 1997) (ニューヨーク:オックスフォード大学出版局、1997年)

アレンビック3.は上の蒸溜装置に使われた可能性が高いようです。アレンビック1. 2.とは導管の向きが異なります。アレンビック1. 2.は導管の向きが上の向いているのに対し、アレンビック3.は受けフラスコに接続できるように下を向いています。

 

イスラム世界の香水、特にペルシャのローズウォーターは、世俗的な場面と宗教的な場面の両方で使用されました。香水の製造に関するいくつかの情報は、al-Taṣrīfにあります。ここでは、著者が香水を作成するために使用される2つの蒸留技術について説明しています。 Abu Bakr Muhammad ibn Zakariyya al-Razi(866–925)と幾人かの歴史学者が錬金術とそこで使われた器具について書いていますが、アレンビックはおそらく錬金術でも使用されたようです。彼の作品の中で、アル ラーズィーはアレンビックに非常によく似たツールについて言及しています。

 

アレンビックの形状を詳細に研究することで、さまざまな機能に関連付けることができそうです。これらの容器がなぜ短期間だけに使用されたのかを説明してくれるのにも役立ちそうです。                                          

 

先に触れた“Source: 1001 Inventions: The Enduring Legacy of Muslim Civilization”  からアレンビックに関する内容を引用しておきます。

 

『アレンビックという言葉は、多くの化学用語と同様に、アラビア語由来であり、

アラビア語のアルアンビック(al-anbiq, 蒸溜器の頭)に由来します。蒸溜器には、チューブで接続された2つのレトルトが付いており、ジャビル(Jābir b. Ḥayyān)※が沸騰したワインと塩から出る可燃性の蒸気を観察したのは、アランビックの蒸留所でした。 彼は自らの化学書中で「加熱したワインや塩が入ったボトルの口で火が燃えているが、同様の現象に優れた特性がみられ、(一見)これらはほとんど役に立たないと様ですが、これらの科学において非常に重要(な現象)である。」と述べています。』

 

 


ダマスクローズ 188

2021年02月16日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

古代ペルシャのモンゴル帝国のイルハン朝(4/24, 8/28参照)の都市の研究では、病院の横にある「薔薇の家」がよく引き合いに出されます。 イルハン朝の都市の遺構で、新たにローズウォーター製造店が1309年に発見され、その1つは今も残っています。同じ種類の施設がオスマン帝国の都市エディルネ(Edirne)※でも観察されました。1488年に設立された病院であるダルシファシ(Darussifası)※にも、「薔薇の家」があります。 1489年の公式文書には、「ローズウォーターを作るための鉛炉は3つある」と記されています。当時、病院ではローズウォーターが多用されていたため、ローズウォーターのボイラー即ちフルンイガル(furun-i gul)でローズウォーターを作る費用は相当なものでした。 

※ エディルネ モスクは、スルタンセリムⅡ世(Sultan Selim II)の命により、1569年から1575年の間にエディルネ(Edirne)の一番高い地に建てられました。

https://www.dailysabah.com/life/history/world-heritage-in-turkey-selimiye-mosque-makes-grandeur-of-the-ottomans-eternal 

 

セリミエモスク(Selimiye Mosque)はオスマン建築の究極の表現です。(以下は施設の説明から)

街の隅々から見ることができる4つの細いミナレット(尖塔)はその壮大さを誇示しています。大きなドームがあるにもかかわらず、シナン(Sinan)の建築の才のおかげで、モスクの中央にあるメインホールには仕切りがないため、6,000人のイスラム教徒が祈りを捧げることができます。イスタンブールのアヤソフィアの建築の細部からインスピレーションを得たと噂されているシナンは、素材と精神の両方の統一を強調する方法で建設したと伝えられています。

※ ダルシファシ Divriği Great Mosque and Hospital https://tr.pinterest.com/pin/61572719884994725/ 

ディヴリーイの大モスクと病院(Divriği Ulu Cami ve Darüşşifa、トルコの世界遺産の1つ。大モスクは、1228~1229年にかけて、メンギュジェク朝のアフメッド シャーの手によって、スィヴァス県のディヴリーイに建設されました。建築家はアフラト出身のヒュッレムシャーで、碑文にはルーム セルジューク朝のカイクバード1世 ( Alā' al-Dīn Kayqubād、ルーム セルジューク朝の最盛期を築いたスルタン、在位1219~ 1237年) を称える文章が記されています。付属する病院(ダルシファシ)は、エルズィンジャン ( Erzincan) の支配者ファフレッディン ベフラム シャーの娘トゥラン メレク スルタンの発願により建設されました。

 

 


ダマスクローズ 187

2021年02月14日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

旅行記は続きます、

 

『スルタンの聴衆;人々の挨拶が終わると、身分に応じて食べ物が前に置かれます。 その日も、別々のセットから成る純金の塔でできた大きなお皿が設置されます。 まとめる際には数人の男が運んで組み立てるのです。その中は、3つの香炉が入る部屋があり、カマリ(qamari)とカクル(qaqull)、沈香、安息香に火が付くと、それらからの煙がホール全体を満たします。従者がゴールドとシルバーの樽にローズウォーターを満たして運び入れ、参加している人達に振りかけます。』

 

『スルタンが旅から帰って来ると、象が飾られ、そのうちの16を超えるものが、日傘をさし、いくつかは錦織で、いくつかは宝石で飾られます。 彼の前には、宝石が嵌め込まれた鞍(カバーガシヤ:ghashiya)が運ばれています。階層のある木製のパビリオンが建てられ、絹の布で覆われます。各階には、美しいドレスや装飾品を身に着けた歌姫や踊姫がいます。 各階層の中心には、皮でできた大きなタンクが備えられ、水に溶かしたローズシロップが入っています。すべての人、つまりすべての来訪者、先住民、見知らぬ人が飲むことができ、飲んだ人は誰でも同時にキンマの葉とビンロウジュの実を受け取ります。スルタンの馬が歩むパビリオンの間は、絹の布で覆われています。 彼が門から通り過ぎる通りの壁から街の宮殿の門までは絹の布が吊るされています。』

 

キンマの葉とビンロウジュの実を受け取った彼らは、下の絵の様に石灰といっしょに口の中に放り込み、口が赤くなるまで噛み続けます。

     

    

            http://apps.seattletimes.com/galleries/papua-new-guinea/82/

 

ビンロウジを薄く切って乾燥させたものとキンマの葉に、水で溶いた石灰を塗り、これを口に含み噛む。この時、好みにより他の香りのある木を細かく砕いたものや、刻みタバコ、シナモン等の香辛料を入れます。噛んでいる間は渋みが広がり、唾はビンロウジで赤い色に変わります。飲み込まずに唾を吐き出しますが、ビンロウジには依存性があり、使用することでアルコールに酔った様な興奮を催します。石灰を含んでいるため赤くなった唾液と共に歯にこびりつき、歯が褐色に変色。また、常習は顎が変形します。

 

旅行記は続きます、

 

『埋葬後3日目の朝に死者の墓を見に行くのが彼らの習慣です。

絨毯や絹織物を墓の四方に広げ、その上に花を置きます。一年中咲いているジャスミンや黄色い花のガルシャバ(gul shabah)、白い花のライビイル(raibiil)、白と黄色のニズリン(nisrin)等を置きます。

また、実の付いたオレンジとレモンの枝を用意します。果物が(枝に付いていないときには)糸でくくり付け、墓の上にドライフルーツとココナッツを積み上げます。それから人々は集まり、経典を持ち込み、コーランを暗唱します。 彼らが朗読を終えたら、使用人は甘い飲み物を持ってきます。そして、ローズウォーターが人々の上に惜しみなく振りかけられます。その後、彼らはキンマを与えられて退席します。』

 

イブン バットゥータの旅行記は如何でしたでしょうか。長い、物語のような内容です。興味のある方はサイトをご覧下さい。イスラムの世界に深くローズウォーターが入り込んでいたことが旅行記からもよくわかります。

 

 


ダマスクローズ 186

2021年02月12日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

『そして親戚のために、死を慰めようと、最後の祈りを捧げているスルタンに・・・・・。

スルタンの名前が言上されると、聴衆は立ち上がり、スルタンに向かって頭を下げます。その後、カドル(qadl)※は席に再び着き、そこにローズウォーターが持ち込まれます。カドルから始まり、隣の人、(又、隣の人)というように、その座の全員にローズウォーターが振りかけられます。この砂糖漬け、つまりジャラップ(jalap)が持ち込まれ、水に溶かされた後、カドルから始めて、彼の隣の人を入れた全ての人にそれを提供します。最後にキンマ(Piper betle 、betel)※が運ばれます。彼らはこれを大事にし、敬意の印としてゲストに提供します。スルタンが誰かにキンマを与えるとき、それは金またはフォーマルなドレスの贈り物より大きな名誉です。そして男性が彼の家族を亡くしたとき、この式典の日までキンマを口にしません。』

 

※ カドル:qadl  ( Qadi’l-Quda, カーディー) イスラム世界における裁判官

※キンマ:Piper betle

ここまでで述べられている内容だけでは“キンマ”は単なるキンマの葉なのか、それともキンマの葉でくるんだビンロウの実を指すのか区別が付きません。

                    

キンマ https://jp.123rf.com/photo_116855192_green-betel-leaf-of-herbs-and-vegetables-or-piper-betle-in-the-wooden-pole.html

キンマ(蒟醤、Piper betle)はコショウ属の常緑多年草で、ハート形の葉をつけます。本来の分布地はマレーシアですが、インド、インドネシア、スリランカでも自生しています。

キンマの葉は精油を含み、有効成分の多くはアリルベンゼン化合物です。主な成分はチャヴィベトール (Chavibetol)、チャヴィコール(Chavicol)、エストラゴール(Estragole)、オイゲノール (eugenol)、メチルオイゲノールで、ヒドロキシカテコールも含まれます。

テルペン類、モノテルペン2種(p-シメン (p-cymene) とテルピネン Terpinene))、モノテルペノイド2種(シネオール (cineole) とカルヴァクロール Carvacrol)、セスキテルペン (Sesquiterpene)  2種(カディネン Cadinene (Cadinene) とカリオフィレン( Caryophyllene))も含まれています。

非常に渋い味がしますが、健胃薬、去痰薬など、様々な方法で薬用され、アーユルヴェーダでは媚薬とされました。マレーシアでは頭痛、関節炎、関節の痛みを和らげるのに用い、タイと中国では歯痛に用います。インドネシアではキンマを煎じて殺菌剤、消化不良、便秘、鼻づまりを治したり、母乳の分泌を助けるのに用いられます。インドでは虫下しにも用います。

    

ビンロウ http://www.floraofbangladesh.com/2018/02/shupari-betel-nut-or-areca-nut-aareca.html 

 

ビンロウ(檳榔、Areca catechu)は、太平洋、アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科の植物、アレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用を引き起こします。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加えます。ビンロウには依存性があり、国際がん研究機関(IARC)は主に喉頭ガンの危険性を示すとしています。

 

第2巻は、ペルシャ、イラク、アラビア、小アジア、南ロシアを旅し、途中の町や住民の習慣について詳しく説明しています。ペルシャ南部、イラク、アラビア南部、東アフリカ、ペルシャ湾、小アジア、南ロシアをカバーしています。


第3巻は、デリーのスルタンが中国大使に同行するようイブン バットゥータに任命したことで終了しました。

 

第4巻では、カリカットに航海した海岸への旅に書いています。ここでは彼らを中国に連れて行くことになっていた船は大破し、その後、モルディブからセイロン、ベンガルに航海し、スマトラ島やジャワ島など、東南アジアのいくつかの国の他、中国のチュアンチョウに到着、カントンに行った後、北京に行きます。シリアとエジプトでペストの被害を目撃し、カタロニアの船でモロッコへ帰り、さらにまだイスラム教徒の支配下にあったスペインの一部、ジブラルタル、ロンダ、マラガ、グラナダ、もう1つはサハラ砂漠を越えてニジェール北部のマリ王国に行き、そこからフェズに戻りました。

 

 


ダマスクロース 185

2021年02月10日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

イブン バットゥータ(Ibun Battuta, 1304/2/24 1304 – 1368/1369)※の残した記録からは、アナトリアにおけるローズウォーター生産に関する初期のようすが窺えます。彼は1330年にトルコ南東部のマルディン(Mardin)近くのヌーサイビン(Nusaybin)で生産されたローズウォーターについて次のように書いています。『この地域で生産されたローズウォーターは、その香りと味に特徴があります。』彼はまた、ラディク(Ladik)のハマムhamam)で入浴した後にローズウォーターを使用する伝統についても書き残しています。

              イブン バットゥータの旅程

 

イブン バットゥータ ( Ibn Battuta、1304/2/24 1304 – 1368/1369 マリーン朝のモロッコ人) は、1324年から1354年の間に、北アフリカと小アジア、そして中国までを旅しました。サハラ砂漠を越えて西アフリカのイスラム教徒の土地に向かった別の航海もあり、旅は75,000マイル以上に達すると推定できます。旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)には、30年間をかけて旅したイスラム世界、非イスラムの地(北アフリカ、ソマリランド、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国)が描かれています。史上最も偉大な旅行家の一人と考えられています。

     

ラクダに乗ったAbou Zayd、アルハリリ(Al Hariri) 作、Ms Ar 5847 f.51, Maqamatから、c.1240 このラクダと下の船でイブン バットゥータは世界中を駆けめぐったのです。

    

アラビア文学のマカーマ アル ハリリ(Maqamat al- Hariri)の作品を元に東部のイスラム教徒の船を描いたものです、13世紀のミニチュア。絵の上にはアラビア語でコーランの詩((Source: 1001 Inventions: The Enduring Legacy of Muslim Civilization, 3rd edition, page 248))から、「アッラーの名において、船の航行、船乗り、停泊を保護する者である」の文面が引用されています。https://www.1001inventions.com/feature/travellers/ 

 

以下はWikiから、

1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てメッカを巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャク ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問しました。

1349年に故郷へ帰還の後、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し、1354年にマリーン朝の都、フェズに帰ります。イスラムの境域地帯を広く遍歴します。

約30年に渡る大旅行のうち、8年間はインドのトゥグルク朝で法官として封土を与えられ、1年近くをモルディブの高官として過ごしています。マリーン朝スルターン アブー イナーン ファーリス(Abu Inan Faris, 1329 – 1358/1/10)の命令を受けて、イブン ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār、通称Rihla)が完成します。

 

旅行記の第1巻は、チュニジア、エジプト、シリア、アラビアを巡るイブン・バットゥータの最初の旅を記録したものです。』https://archive.org/details/rihla,

https://archive.org/stream/TheRehlaOfIbnBattuta/231448482-The-Rehla-of-Ibn-Battuta_djvu.txt から, 文中の括弧内は私が補足したものです。

 

『人々はまた、これを凌ぐ立派な儀式を葬式でみることになります。彼らは、埋葬後3日目の朝に故人の墓に集まります。墓所は上質な布が飾られており、墓は豊かな掛布で覆われ、多年生の、薔薇、エグランチン、ジャスミンなどの甘い香りの花を付ける植物で(囲みます)。彼らはまたレモンと柑橘類の木を持ってきて、(木に)果物を結びつけようと・・・・。』

 

 


ダマスクローズ 184

2021年02月08日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

トルコの現代の薔薇栽培の中心地であるイスパルタでは、蒸留した薔薇油を貯蔵する口の狭い特別な容器は、今でもクムクマと呼ばれています。ローズウォーターを保持する銅製の水差しの言葉である「クンガン」が900年間使用されていたことは、ローズウォーターの生産に関するトルコの伝統を示しています。

      

    

バラ摘み(1999.5.25頃 イスパルタ:トルコ)http://junobird2012.blog.fc2.com/blog-entry-1647.html?sp 

 

アナトリアのセルジュクトルコ人は、文学作品に薔薇、ローズウォーター、ローズオイルのモチーフを使い、ローズウォーターの商人を製造業者(gulab-ger)と呼びました。 13世紀のペルシャの詩人で神秘主義者のルミ(Rumi , 1207–1273)※は、Divan-i Kebirの中でgulab-gerについて言及しています。Divan-i Kebirから4編引用しました。

 

※ ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mawlānā Jalāl ad-Dīn Muḥammad Balkhī-e-Rūmī、1207/9/30 -1273/12/17、ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏による「神の中への消滅」という神秘体験の実行が挙げられます。ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊る儀式で有名なメヴレヴィー教団が形成されました。

    

http://mevlanafoundation.com/mevlevi_order_en.html 

 

あなたの感覚を研ぎ澄ませろ

大きな瓶から出してみろ

露のようなローズウォーターは誰が作るのか

容れものは魂だ

              

            Divan-i Kebir Title Page, Replica

              

             Table of Contents, Replica

               

               A Secret Rose Garden

地平線の上に月はどんな風に姿を現すのか!

グラスの中に薔薇はどんな風に現れるのか!

美しい姿は期せずして姿を現す

心の中に現れる

 

空の様に照らせ

薔薇の園のように咲き乱れろ

魚のように泳げ

果てしない海が広がっている

 

私は庭のナイチンゲールだ

フクロウになんてなりたくない

私は薔薇の庭の若木だ

棘になんてなりたくない

 

 


ダマスクローズ 183

2021年02月06日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

トルコとシリアのトルコ文化の下でのローズウォーターの生産について述べようと思います。

中央アジアにおける初期のトルコの歴史では、ローズウォーターの使用は、11世紀まで遡ることが出来ます。11世紀に書かれた2つの作品では、トルコ社会での薔薇の使用に言及しています。

     

墓の近くに建てられたMahmud Kashgariの像

 

カシュガルのマフムード カーシュガリー(Mahmud Kashgari、1005-1102、中央アジアに存在したカラハン朝の学者)による(チュルク語集成)の中で、ワズィール(vizier)の息子であるウグドゥルミッシュ(Ugdulmish)が、修道士のオドグルミッシュ(Odgurmish)に「宴会を取り仕切るきまり」として、ローズウォーターで調製したカラブ(culab)とクレンゲビン(culengebin)のシロップを提供するように示唆しています。

 

 http://cms.herbalgram.org/herbalgram/pdfs/HG96-Rose.pdf から

11世紀に書かれた2つの長い作品は、トルコ社会での薔薇のレシピについて言及しています。MahmudKashgariによるKitab-u Divani Lugat-it Turk(トルコ語の辞書)は、――トルコ文化全体を含む、歴史、民族学、地理学、神話、民俗文学 ―― そしてYusuf Has HajibによるKutadgu Bilig(王立栄光の知恵)は、2つの世界で幸福を獲得するための手法が述べられています。

後者の作品では、大宰相の息子であるウグドゥルミッシュ(Ugdulmish)が「宴会での行動のルール」について禁欲主義者のオドグルミッシュ(Odgurmish)に助言しているとき、彼はオドグルミッシュがローズウォーターで調製したキュラブとクレンゲビンシロップを提供することを提案します。ウグドゥルミッシュは、次のように述べています。「食事と一緒に飲み物が提供されない場合、そのディナーは台無しになってしまいます。」フカ(fuka、わずかに発酵したキビの飲み物)、またはミザブ(mizab、酩酊を誘う飲み物)、またはクレンゲビン(culengebin)シロップまたはキュラブ(culab)を提供しなさい。」Culabとculengebinは胃に有益であると言われており、西暦9世紀から医学書に入っています。

以上の事柄は、トルコ人がローズウォーターを使ってシロップを作っていたことを示しています。

 

以上の記述は、トルコ人が9世紀からローズウォーターを入れたシロップを使っていたことを物語っています。マフムード カーシュガリーが編集したチュルク語辞典(Dīwān Lughāt al-Turk)では、「銅製のローズウォーターの入れ物をクムガン(kumgan)」と表現しています。このことは、トルコ人がローズウォーターを作っていたという事実を示しています。クンガンという言葉を調べると、重要な歴史的情報が明らかになることでしょう。

 

天文学者で地理学者のアル ディマシュキ(Al-Dimashqi、1256-1327)は、13世紀のイスラム世界の著名な学者であり、彼の著書:”世界の陸と海の重要な興味深い生き物“(Nuhbetu’d-Dehr fî Acaibi’l-Berr ve’l-Bahr)の中で中東のローズウォーター生産の中心地について言及しています。Al-Dimashqiは、シリアでの重要な薔薇の栽培の中心地であるメゼ(Mezzeh)を特に強調しています。彼は、そこで実践されているローズウォーターの作り方を次のように説明しています。「貯蔵容器は薔薇で満たされ、その後、アランビック(alembics)※がその場所に置かれました。各アランビックがローズウォーターで満たされると、ローズウォーターは巨大なガラスの水差し、またはクムクム(kumkum)と呼ばれる2つのハンドルが付いた銅製の容器に注がれました。」メゼのローズウォーターメーカーが使っているこの用語は、クンガン(kumgan)と言っているようにも聞こえます。

 

アル ディマシュキの著述から2例引用しておきます。当時の様子が目の当たりに浮かびます。https://archive.org/details/manueldelacosmo00unkngoog から

 

58 MANUEL DE LA COSMOGRAPHIE DU MOTEN AGE.

 貯水池に投げ込まれた鉛の刃は、その清新さが高まります。 同様に、ローズウォーターや他の香りのよい香水を鉛の甕で蒸留すると、香水が染み込み、保存性が高まります。 この蒸留装置は確立された(方法です)。

 

266 MAlfUEL DE LA COSMOORAPHIB DD MOTEK lOE.から、

Mkzehで生産されたローズウォーターは、(le Hi4]^, TY^men:チュメニ、Tyumen?)アビヤシニアなど、インド、シンド(パキスタン)、中国など、南部の国々に輸出されています。

       

Persian miniature painting on silk (approx. 1430-40 AD, Musee des Arts Decoratifs, Paris) ペルシャのフーメイ(Humay)王子と中国のフマーユーン(Humayun)王女、1450年頃のシルクのペルシャ細密画(1430年~40年、パリ装飾美術館蔵)

 

クワジャ キルマニ ( Khwaja Kirmani, 12/1209 – 1349、イラン出身の詩人、イスラムのSufi mystic:神秘主義者 )によって書かれた伝説の叙事詩“フーメイ(Humay)とフマーユーン(Humayun)”の中で語られた、神話上のイランの英雄Hushang(アヴェスターのHaoshanha)の息子であるHumay王子と中国の姫Humayunとのラブストーリーを物語を描いたものです。チンギスカンとタメルレーン(Amir Timur又は Tamerlane、Timur、4/9/1336–2/19/1405))が中国の影響をもたらした後のペルシャ美術です。

          

右手に薔薇、左にカーネーション

 

 


ダマスクローズ 182

2021年02月04日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

一方、ダマスクローズは、ペルシャ語ではムハンマダンローズ(gul-iMuḥammadĩ)と呼ばれています。ローズウォーターは(gulāb)であり、薔薇油は( 'ațr)です。

ローズウォーターはイスラムの伝説によれば、薔薇は予言者ムハンマドの汗が奇跡的な夜の上昇気流によって七つの天国を通って神の御座へ滴り落ちて生まれたと言い伝えられています。それでアラブの名前が付いたのです。

イスラム教の記述によれば、預言者は、香りのよい匂いを放ち、神聖さを示すと言われています。薔薇とイスラム教預言者との繋がりは、花びらの上に刻まれたムハンマドの、99の形容辞を伴った“ムハンマドの薔薇”の表現に見ることができます。

       

     https://sufiqalam.com/2019/11/02/the-frag rance-of-the-rose/

1708年にトルコのミニチュールから生まれたこの有名な芸術作品は、‘Dawa’ir al Jameelah(Circles of Beauty)の芸術家によって愛情を込めて復元されました。

右側の花には、99の最も美しい神の名前(Asma ul Husna)があります。 左側には、預言者ムハンマド(Asma un Nabi)の99の「高貴な名前」※があります。 中央の薔薇には、聖なる預言者の説明があります。下の薔薇のつぼみには、家族や仲間の名前があります。

 

※ 預言者ムハンマド(Asma un Nabi)の99の「高貴な名前」

https://www.livingislam.org/n/np_e.html 


中世の、近東で最高品質のローズウォーターは、イラン南部のファールス州(Fars)のシラズ産(Shiraz)です。9世紀頃のカリファル時代に、ファールス州は毎年の貢ぎ物の一部分に、3万フラスコのローズウォーターと1000杯のローズハニーをバグダッドの「アッバス朝」の財務省に送ったことが知られています。

 

 


ダマスクローズ 181

2021年02月02日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

旧約聖書 詩篇56:8から、

あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。
これは皆あなたの書に
しるされているではありませんか。

(口語訳新約聖書 1954年版から。この訳では皮袋になっています。)

 

シェークスピア アントニーとクレオパトラ(坪内逍遙訳)、

第一幕第三場 アレキサンドリア。クレオパトラの宮殿の一室。

 

アントニー「わしの身に関した事で、此の出立を貴女に安心させるだろうと思う事は、ファルビヤ※が死んだといふ事です。」

クレオパトラ「わたしゃ此の齢になっても、浮気はまだ止まぬけれども、子供らしい気だけはもうとうになくなってゐる。ファルビアどのが死ぬ筈はない。」

アントニー「いや、死にました。これをご覧。彼女がどういふ騒動を起こしたかを御間暇にお読みなさい。・・・・・最後に、最上等の報道を、何時、何処で彼女が死んだかを。」

クレオパトラ「おゝ、ま、何といふ薄情な人じゃ!哀悼の涙で充満にせにゃならぬ筈の神聖な壺(涙壺)は、ま、何処に置いてあるのじゃ? あゝ、解った、ファルビアが死なったのは余所事ではない、わたしが死んだ際の事もこれで解った。」

 

※ ファルビアはアントニーの正妻で、アントニーが遠征中ローマに留まって政事にも容喙した程のしっかり者です。上はアントニーがイタリアへ一時帰国せねばならない場面での台詞で、シェークスピアは、涙壺を ”sacred vials”(聖なる小瓶)と書き、それを坪内逍遙は ”神聖な壺(涙壺)” と訳しています。

      

エイビッサ(Eivissa:Ibiza、スペイン・イビサ島のムニシピオ(基礎自治体)のフェニキア墓地遺跡で見つかったウンゲンタリウム Punic unguentarium found in the Phoenician necropolis of Puig des Molins

https://www.wikiwand.com/en/Unguentarium 

   

ロードス島、 紀元前88/42年頃からAD14。ドラクム(銀、19 mm、4.19 g)

  

ロードス島、紀元前275年から250年頃。 Didrachm(銀、19 mm、6.68 g)

https://www.coinarchives.com/a/results.php?search=rhodos 

 

ロードスのドラクム硬貨には、長い花びら、小さな萼、そして若い蔓に支えられた蕾のある薔薇が描かれています。ロードスでは野生の薔薇(一重の花)が栽培されており、その1つがR. phoeniciaです。 この薔薇は古代人に知られており、今でもトローアス(Troad)とシリアの多くの地域に散在しています。

 

テオプラストス(西暦前287年、彼が生きた時代はこれらの銀貨が鋳造された年代と重なります)は、薔薇についての説明を残しています。『花びらの数、樹皮の粗さ、色、香りが異なります。 花びらは5枚、12枚、20枚以上あり、最も甘い香りのするものはキュレネから来ており、香水を作るために使用されます。』(テオプスラトスのこれらの言葉は6/6にも引用しておきました) 彼はさまざまな薔薇の開花時期を記しています。 描かれた薔薇の絵の中に雑種の薔薇が入っているとすれば、コインの薔薇の識別は複雑になります。R.moschataとR.phoeniciaの進化遺伝学と分類学が、レバント、北アフリカ、東地中海の種と自然発生の雑種の系統発生を明らかにするまで、薔薇の種を識別することは難しいようです。