Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ハーブ

2017年07月31日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ベネティア・スタンレィを巡るお話を少ししておこうと思います。

それには、リチャード・サックビル、ドーセット伯爵の家系を説明しておかねばなりません。2代ドーセット伯爵 ( 1561–1609 ) には6人の子供がいましたが、そのうち2, 3番目の息子たちが3代目、4代目そして4代目の長男が5代目伯爵家を継ぐことになります。

 

3代目ドーセット伯爵からお話を始めましょう。

     

リチャード・サックビル、3代ドーセット伯爵 ( Richard Sackville, 3rd Earl of Dorset ( 3/18/1589– 3/28/1624 ) はジョン・オーブリーが噂した年金500ポンドを払ってくれるベネティア・スタンレィの庇護者です。彼には他に自分の随行員であるトーマス・ペニストーン卿の妻、マーサ・ペニストーン( Martha Penisstone )を愛人にしていました。

(こういったことはよくあることで、嫉妬心を激しく燃やす夫もいれば、これがもとで出世できたと喜ぶ夫もいたのです。ここは腹を立てずに、この時代はこんなものだったと理解して読み進んで下さい )

 

つづく。

 

 

 


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2017年07月30日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

左の絵は、『 レディフランシス・クランフィールド、ドルシット伯爵夫人の小画像
ディグビィ家のレディ、Strawberry Hill ID: sh-000461 ジョン・ホスキン  ( Hoskins, John, the elder、 c.1590-2/1664、肖像画のミニアチュールを作る画家 ) 画です。ヴァン・ダイクから 』との情報を得ることが出来ましので少し前へ進めそうです。


ジョン・ホスキンはこの時代を代表する「小画像」の作り手です。お気に入りのポートレイトから胸像の部分を取り出して、小さなペンダントを作るのです。

  

                                 


 Katherine Howard around 1638 to 1640   Edward Sackville,4th Earl of Dorset miniature 1635



              

   Henrietta Maria, Queen of England     Countess of Devonshire, nee Cecil, wife of the 3rd

                              Earl of Devonshire, 1644



                                                                                     

   John Hoskins Anne Kirk(e)  1644                Algernon Sidney


いずれの肖像画ミニアチュールも ジョン・ホスキンが作ったものです。





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2017年07月29日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

    

   

   


左端のレディは、このブログで最初にベネティア・アナスターシャ・スタンレィとご紹介した人物です。絵の下にも確かに “ Lady Venetia Digby “ と書かれています。

サイト;http://images.library.yale.edu/strawberryhill/oneitem.asp?id=470 によればこの絵は高さ 5 cm ということですから、ミニアチュールに間違いはなさそうです。

しかし前のブログで述べたように、ベネティアの顔が19歳の上の顔と32歳の顔とが全くの別人なのです。年を取ったからではなく、顔の骨格が違うのです。

上の二人の婦人は同一人物だと思われます。この時代、同じようなポーズ、同じような衣装、装身具を身につけて絵を描くのが流行っていたとはいえ、左端の絵は右の絵の一部分を新しく描きなおしたのではないかと思います。右側のバックを除いては、髪型、髪飾り、ネックレス、ドレスとショールについた皺、髪の毛のカール具合、手のしぐさなど全て同じです。(真ん中の絵は比較しやすいように右側の絵の一部分を切り抜いて、画像処理しました)

右側に描かれた女性はフランシス・クランフィールド( Frances Cranfield, Lady Buckhurst 、1622-1687 ), 後のドルシット伯爵夫人です。1637年ヴァン・ダイク画です。多くのサイトで左の女性はベネティア・ディグビィと紹介されています。どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。

 

つづく。

 


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2017年07月28日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

それではジョン・オーブリーは何をもってディグビィをハンサムと言ったのでしょう。抜き出しました。

 

1. 彼はエバーアード・ディグビィ卿の長子で、イングランドで最もハンサムな紳士であると見なされている。エバーアード・ディグビィ卿は火薬陰謀事件で国家反逆罪の刑を受けたが、ジェームズⅠ世は家屋敷を彼の息子たちに返還した。 

2. 彼は背丈の大きい、大きい声の、話の上手い、崇高な演説をするハンサムな男である。 

3. ケネルン・ディグビィ卿は結婚後、支払われていない年金をもって伯爵を訴え勝訴した。ハンサムで逞しい思慮深い立派な男は売春宿の女を高潔な妻にするかもしれない。 

4. ジョン・ディグビィ氏は立派な邸宅に住みハンサムに暮している。その折、2-3度訪れたことがある。( ディグビィには4人の息子、上からケネルン、ジョン、ジョージ、エドワードがいます ) 

    

 1632年のヴァン・ダイクの絵には夫婦と共に上の二人の子供が描かれています。

 

「1628年に私掠船の船長となり、いくつかの手柄を立てるのです。」と先に書きましたが、15-16世紀のイギリス私掠船の場合、海賊行為で得た利益は国王が1/5、海軍が1/10を取り、残りを船長、出資者、乗組員で分割しました。海軍力の欠落を民間の船を使うことによって補ったのです。ジョン・オーブリーがいう「ハンサム」な行為とはこのようなことを指すのでしょう。

 

ところで、ベネティア・ディグビィの顔が変わったのでは? と感じませんか? ベネティアが32歳になった時の絵ですが、ベチャッとした抑揚のない、メリハリの利いていない感じになっています。次回はそのことについて述べようと思います。

 

 


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2017年07月26日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ここまで、ウィキペディア ( Wikipedia )から得た情報をもとにディグビィについて書いてきましたが、ジョン・オーブリー(1626年 - 1697年)著のAUBREY'S 'BRIEF LIVES' と、ケネルン・ディグビィが書きつらねたPrivate memoirs の内容と一部分整合しないところがありました。どちらが間違っているというのではなく、書き手がはっきりと分かっている二つを基に残りのブログを書きつけていこうと思います。

 

ブログを毎日書いていると、どうしても勇み足になりがちです。ここからは今回のテーマの山場にさしかかりますので、少し立ち止まって、全体を見渡しながら進めていこうと思います。

 

さて、ジョン・オーブリーは Brief Lives の中で、ディグビィの記述117行の中で4回「ハンサム」を繰り返しています。( Brief Livesには421名の履歴が取り上げられ、58回「ハンサム」が繰り返されています。一人当たりの「ハンサム」の使用回数は一人当たり平均0.137回になります。)ディグビィには少し多いのではと思うのですが、どういう意味で「ハンサム」を使っているのでしょう。と言うのも、はっきり言って、ディグビィは普通に言うところの「ハンサム」ではないからです。

     

            Sir Kenelm Digby by Peter Oliver
             watercolour on vellum, 1627

前に引用したディグビィのポートレイトは親友であるヴァン・ダイクの手になるものです。今回はピーター・オリバーのものをお見せしましょう。「インチキだ!!」と思うのは私だけではないでしょう?

 

 


ハーブ

2017年07月25日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ジョン・オーブリーによれば、『ベネティアは、伯爵或いは伯爵の相続人のベネティアへの年金支払いに対しする訴訟に勝訴した。』と記録に残していますが、ケネルンは ” 回顧録 “の中で婚約期間中※のことであったとペンネームTheagenes and Stellianaを使ってそのことに触れているだけで、大きくは取り上げていません。『この婦人は清廉潔白であるかのように振る舞っていた。』とジョン・オーブリーはメモを残していますが、巷では『オーブリーの彼女に対する嫉妬だろう。』との評が優勢のようです。事の真相は分かりませんが、当時としても噂になっていたようです。

※  ジョン・オーブリーが書き残した AUBREY'S 'BRIEF LIVES では、ディグビィが結婚後支払われていない年金に対して訴訟を起こしたと記されています。この事実は、後になってオーブリーが述べる言葉と共鳴を起こして我々の心の中に、ベネティアの存在と一緒になって我々の心の中に重たく沈み込みます。

上で出てきたディグビィの著述の中の ” 回顧録 ” からディグビィ側から見た、彼らの言い分?を拾い上げておきます。

Private memoirs of Sir Kenelm Digby ..から

12 プライベート備忘録

科学においてその真理は求めがたく、深遠で謎に満ちているが、ひとたび有無を言わせぬ力のある者の口にのぼると、その話はいとも簡単に拡散し積み上げられていく; たとえそうであっても、Theagenes Stelliana の互いの心が超越的な力を持てば、お互いの誠実な理解、意志、魂の力をすべての熱情と共に完全なる愛のフレームの中に飾ることができるのだ。

 

ここでも、Theagenes Stellianaが出てきました。第三者の説明が必要なようです。証拠となるものが一部分残っています。

 

宗教改革直後を知る資料に、ハーリアン・ミセラニー ( The Harleian miscellany )、があります。ハーリアン・ミセラニーは、初代と二代のオクスフォード伯である政治家のロバート・ハーリー(Harley, Robert, first earl of Oxford and Mortimer, 16611724)と集書家のエドワード・ハーリー(Harley,Edward, second earl of Oxford and Mortimer, 16891741)が16世紀中期から18 世紀初頭のイギリスの政治と宗教に批判的なパンフレットの一部分を集めて復刻したものです。

初版は1744 1746 年に8 巻本として出版されました。パーク(Park, Thomas, 1759 1834)による注の追加、紋章官、古事研究家であったオールディス(Oldys, William, 1696 1761の解題がついた四つ折本の10巻本(London, 1808 1813)と、ハーリー家の蔵書目録Catalogus bibliotheca Harleiana: in locos communes distributus cum indice auctorum.Londini, 1743. 12 )があります。

ハーリアンライブラリ目録 著者一覧と事実関係について ( Catalogus bibliothecae Harleianae, in locos communes distributus cum indice auctorum ) から一部分を引用しました。 左欄の名前の一覧で、下から45行目にTheagenes Stelliana の名があります。(小さい字ですが、ご覧になれますでしょうか?) 


   つづく。


 


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2017年07月24日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ベネティア・スタンレィの評判をチェックしておこうと思います。前回ご紹介したように、彼女はかなりの美人です。( 好みによって評価は分かれるでしょうが、私はそう思います。) 同時代の人たちの間ではどのように捉えられていたのでしょうか。

   

ジョン・オーブリー( John Aubrey、3/12/1626-6/7/1697, イングランドの好古家, 作家。)は名士小伝 ( Brief Lives )と称する伝記短編作者としても有名です。彼のベネティア・スタンレィ評を引用しておきましょう。 

『 顔は、楕円形の小顔、濃い褐色の眉が愛らしい目元をはっきりとさせている。頬の色は赤すぎることもなく、青白いこともなくダマスクローズのようだ。見まごうことなき美貌の持ち主で、宮廷では多くの男を虜にした。20歳になるまでに指を折って数えるほどの恋を経験したという噂だ。』 

抜けるような美しさのベネティアが一人ロンドンにやって来たのは十代も始めの頃ですが、二十代になる前にはすでに身持ちの悪い評判が立っていました。

ジョン・オーブリーは又、『 彼女はリチャード・サックビル( Richard Sackville, Earl of Dorset 3/18/1589-3/28/1624)の情婦であり、彼との間には子供がおり、年に500ポンドのお手当を得ている。』とも述べていますが、1625年、彼女は冒険家であり、科学者であり、政治家でもあるケネルン・ディグビィと結婚するのです。

本当の彼女の姿とは一体どうだったのでしょうか。興味がそそられます。

 

 

つづく。


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2017年07月22日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

    

    ヴァン・ダイク画 ケネルン・ディグビィ( Van Dyck: Sir Kenelm Digby )

彼は、ジェイムズ世の推挙を受けてエドムンド・ボルトン( Edomund Bolton1575?–1633? 英国歴史家、詩人)が1617年に計画したロイヤルアカデミィのメンバーになります。( ロバート・セシルは1612年に既に亡くなり、彼の影響から抜け出たジェイムズ世がディグビィを推挙したのではと私は勝手に思い込んでいるのですが、外れているかもしれません ) 1618Glosucester Hall Thomas Allenから教えを受け、1620—1623年の間をヨーロッパで過ごし、1624年ジェイムズ世がケンブリッジを訪れた際に彼はCambridge M.A.になっています。

                                   

           ピーター・オリバー画 Venetia Stanley, lady Digby, aged 19 

ベネティア・アナスターシャ・ディグビィ( Venetia Anastasia Digby、 旧姓Stanley;12/1600-5/1/1633 ) は、廷臣 ( 女王、王、そのほかの支配階級者に仕え、アドバイスを行う者、日本語では腰巾着とも訳されています ) の一人で、極めて美しいことで有名な女性でした

祖父は第7代ノーサンバランド伯爵トマス・パーシー Thomas Percy, 1st or 7th Earl of Northumberland, 1528-8/22/1572, イングランド北部のカトリック貴族でエリザベス世のプロテスタント化政策に反対し、1569年に同じ北部カトリック貴族の第6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱を起こしたが失敗。1572年、大逆罪で処刑された。処刑から300年以上経た5/3/1895に教皇レオ13世により列福されました。パーシーの次女ルーシー・パーシーとサー・エドワード・スタンリーの間の三女に当たります。

 

1625年Venetia Stanley ( December 1600 – 1 May 1633 ) と結婚。ジェイムズⅠ世の英国枢密院のメンバーとなります。このとき、ローマンカトリックであることが政府役人として妨げになると判断し、英国国教会の信徒に転向。1628年私掠船の船長となり、いくつかの手柄を立てるのです。

1/18ジブラルタルでスペインとフランドルの船を捕獲。2/5—3/27アルジェに錨を下ろし、----船員が病気になったためだったが----英国船舶にとって有益なる約束ごとを取り決めます。マジョルカでオランダ船を襲い、その他勇敢なる行ないで、フランス及びヴェネチアの船対しイスケンデルの港においても6/11完璧なる戦いを行うのです。

イギリスに戻り海軍司令官となり、後にトリニティハウスの総司令官となります。妻が、1633年に急死。臨終の肖像画家であるヴァン/ダイクそれにベンジョンソンには称徳文を依頼。彼は悲しみと王による検死の命令に打ちのめされます。Gresham College に隠遁し、科学実験とカトリック信仰で悲しみを忘れようとするのです。

 

ディグビィはこの後も大波乱に満ちた人生を送るのですが、このあたりでディグビィについては切り上げ、本題(不慮の死を遂げた妻のお話し)へと進もうと思います。

 

 

 

 


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2017年07月21日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ディグビィは1580年後半にはラトランドの司祭に命じられ、1585年に上席研究員にそして1587年に先に取りあげたスイミングの本を出版しました。ところが翌年急にケンブリッジを去り、田舎に移り住んでいます。いったんはラトランド( Rutland ) に行くのですが、最終的にはイングランドの東部地方都市ピーターバラの主教座聖堂オルルトンロングヴィル(Orton Longueville)に落ち着くのです。

 

間違って請求された大学の支払いを辞退したことから始まった出来事がまるで雪だるまが膨れるように大きくなっていったのです。そのことは、彼の論争好きそうな「泳法の解説」を読んでも想像できます。しかし、一番の原因は当時のケンブリッジ大学の総長をウイリアム・ウイテカー ( William Whitaker, 1548–1595  ) が務めていたことです。彼は著名なプロテスタントカルヴァン派聖公会 ( カトリック教会とプロテスタントの中間として位置づけ、中道の教会であると自認しているカルヴァン派 ) の神学者であったのです。ディグビィは周りに悪影響をまき散らす危険分子であると言いふらしたのです。こういう輩とも友好関係を保ちつつ自己防衛と自己主張をめぐらさないと、社会の荒波は乗り越えては行けないのでしょうね。最後にはガイ・フォークス率いる国家転覆を図る一派に資金援助を申し出、なぜか事件当日ポケットの中に導火線が入っていたというのですが、あくまでも噂であり、真相は今なお闇の中に隠れたままです。

     

           聖公会、プロテスタント諸教派、アナバプテストの系統概略

 

16世紀から17世紀、ユグノーが渡ってきて貴族化と混血が進み、並行してイングランド国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派のピューリタンが勢力を持つようになった。その中には国教会から分離せずに教会内部を改革しようとする者(長老派)と、国教会から分離しようとする者(分離派)、その中間に位置する者(独立派))がいた。 ( Wiki から )

ケネルン・ディグビィは(Kenelm digby、1603/7/11—1665/6/11)父君エバーアードが55歳の時の息子です。ケネルンからすれば親父は3歳の時に吊るされたのです。

親父の影響をほとんど受けずに、育ったと思いがちですが、彼は親父以上でした。変人を通り越して、奇人の領域に入っていました。親父と違っていたところは、強烈な上昇志向を持っていた点でしょうか。次回からいよいよ主人公の登場です。

 

 


ハーブ

2017年07月20日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

  

    An engraving of eight of the thirteen Gunpowder Plotters of 1605 by van de Passe

    右から三人目がガイフォークス

 

一方、ローマ軍が去ったイングランドは、カンタベリーのアウグスティヌスが率いる宣教団と、アイオナからノーサンブリアに移植されたケルト教会のリンデスファーン修道院の布教により再びキリスト教化されますが、9世紀にヴァイキングの度重なる襲撃により荒廃しますが、その後、ベネディクト会修道院がこれらにとって代わります。15世紀になると、ヘンリーⅧ世の離婚問題で国王とローマ教皇との間に軋轢が生じ、イングランド国教会を設立する方向へとカジを切り、女王エリザベスⅠ世が即位すると、イングランド国教会を国教に定めます。16世紀になると、国教会と対立するカルヴァニスト達が、一つの勢力として台頭しました。 

(スコットランドでは、ケルト系カトリックと、カルヴァン派プロテスタントが、イングランドでは、ローマンカトリック、イングランド国教会、カルヴァン派プロテスタントが基本となる宗教であったと考えられます)

 

スコットランド女王メアリーもその息子のジェームズⅠ世も敬虔なローマンカトリックで、カトリックを国の宗教として推挙したいのですが、スコットランド、イングランドのどちらからも宗教的同意(カトリックに改宗する)を得ることは出来ませんでした。

ジェームズは、1584年5月に「暗黒法」を発布して、最高権威者は国王であると決めつけたのですが、反発は強く、1592年には「黄金法」、1598年には「司教国会議員」を認め、結局、教会の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動をずるずると許すことになってしまいます。

 

「ハーブのベルガモットの話からオキシメルに始まった話はどこまで脇道に入り込むんだ」とお思いの方もおられるでしょう。或いはそんなことは全く無頓着で読んでおられる方もおられることでしょう。あとしばらくの辛抱です。

 

エリザベスⅠ世が3/24/1603に崩御します。女王の崩御に備えて国王秘書長官であるロバート・セシルは、ジェームズがイングランド王に即位する布告の原案を準備していました。ジェームズが7/25に戴冠し、スコットランド王とイングランド王を兼ねた同君連同の体制を敷いたのです。

ここで後々問題が起きる要因となるのは、エリザベスⅠ世が最後の最後までジェームズの戴冠に合意していたのか否かをイングランド側が明らかにしていなかったことです。イングランド側の体制を持続するのか否か。忖度せよとの条件で、ジェームズはイングランドを引き継いだのでしょう。しかし、一旦引き継いだからには、引き継いだ側に主権が移るのは当然です。そう考えるのは私だけではないでしょう。

 

翌年の1604年、イングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議 (Hampton Court Conference) が開催したのです。ところが、この会議で国王は 「主教も、国王もない (No bishop, no King) 」 との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行ったのです。ジェームズⅠ世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言したのです。これはカトリックの人たちにとってはショックでしょう。あれほどの敬虔なカトリック信奉者が一体どうしたのでしょう。( 私は、ロバート・セシルの影を見たような気がしてなりません。)

当然、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになります。1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こったのです。

( “ No bishop, no King “は解釈の分かれるところかもしれませんが、ジェームズの国教会優遇政策を見れば、” 主教も、国王もない “と訳すのがいいのでは、と勝手に解釈しました。)

 

ディグビィの不運は、このような政治的、宗教的背景の中で始まり、帰結しました。

 

 


ハーブ

2017年07月19日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ディグビィの不測の事態を述べる前に、この頃のイングランドの政局についての知識を仕入れておく必要があります。出来るだけさらっと流すつもりですが、うまくいきますかどうですか。

「そんなの常識!!」と言う方は飛ばしてください。私にはかなり手強かったです。

 

      ケルズの書(The Book of Kells)は、8世紀に制作された聖書の写本。

 

              

                  ケルト十字 

ディグビィが生きていた頃の王はジェームズⅠ世 ( 1566-1625 )で、彼はスコットランド王として( 7/29/1567-3/27/1625在位 )、イングランド王・アイルランド王として( 7/25/1603-3/27/1625在位 )、スコットランドとイングランドの双方を治めていたのです。彼はスコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアート( 母はヘンリーⅧ世の姉の娘 )の間に生まれたのです。 

そこで、 スコットランドとイングランドの宗教的バックグラウンドを把握する必要が生じました。まず、スコットランドから、 

上の絵の如く、スコットランドにはケルトの影が色濃く残っています。あの有名な「ケルズの書」を作成したアイオナ修道院(Monastery of Iona;アイルランドの守護聖人の聖コルンバが563年にアイルランドから亡命して創建した。)があります。聖コルンバやその弟子たちはこの島からスコットランドや西ヨーロッパにケルト系修道院を広めキリスト教伝道を行ったのです。

イングランドでヘンリー世の離婚問題が取り沙汰されていた頃、スコットランドでは、ジョン・ノックス(John Knox1510-11/24/1572 )によって指導された長老派教会(プロテスタント、カルヴァン派の教派。)がスコットランド人に受け入れられていました。

 

 

 


ハーブ

2017年07月17日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

水の中の落とし物を探すには サルベージ

水の中に潜るのだが、泥を巻き上げて水が濁らないようにできるだけ底の方に位置して、どこにあっても分かるように目を開ける。

体を回転するとき、又は周囲を見渡す時には、右腕で体を引っ張って左腕の方向に回る。 

この方法は、泳ぎを習うのには有効な方法で、このことに慣れると水底が見えない深いところ、あるいは、非常に深い又はそのような川の堤や危険な場所では決して泳ごうとは思わないようになる。


                            


犬かきをするには

右の横泳ぎを習得する前にこの泳法を試みるのがよい。右の横泳ぎでは腕と脚を伸ばすのに対して、これは腕と脚で水をたたく方法を取る。最初に右腕を水から出して次に右脚を持ち上げる。この絵のように力強く水を蹴る。 

                            


つま先を水の上に出すには ( 水に浮くには ) 

背中をまっすぐに寝かせて、脚をまっすぐに伸ばす。腕を水の中で動かして脚を水の上に持ち上げる。


                           


・・・・・・・・・・等々の説明が続きます。泳法だけではなく水との付き合い方が書かれています。

話は全く変わるけれど、同年代の人にフランシス・ベーコンがいます。彼は1561-1626年間に生きたひとで、ディグビィの生涯ともダブります。あのシェークスピアは1564-1616だから、この時代は偉人、奇人を多く輩出した時代だった様です。

ベーコンが残した「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est;学問の壮大な体系化)の言葉とディグビィの泳法の内容と先の2つの「水泳の文字が入った」書物を比較した時、時間の大きな「うねり」を感じます。

大学で講師の職を得、司祭の話が出ていた矢先、順調にいくかに見えたディグビィの人生が大きく揺らぐ大事件が勃発します。「人生一寸先は闇」の文言は、何も今に始まったことではありません。務めていた会社が倒産する、津波で家が潰される。それ以上の不測の事態がディグビィに起こったのです。


つづく


 






ハーブ

2017年07月16日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

これは何をしているところでしょうか。説明を読まないとなかなかわからない絵が続きます。

分かりにくくしている理由に、本の出版理由が、見当もつかないことが挙げられます。先の2冊は、王として、騎士として身に付けておくべき技能であり、キリスト教徒として備えておくべき心構えでした。さてエバーアード・ディグビィの本は何を目的として書かれたのでしょうか。

 

           

 

水の中に飛び込むには

地面の上に立っているのであれば、できるだけ力を入れて、頭を胸の方に曲げて、水の中に向かって飛び込む。

 

驚きの一言です。

 

 

つづく


ハーブ

2017年07月15日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

二番手はUniversity of Ingolstadt の教授Nikolaus Wynmannで、エバーアードは、実は三番手なのです。とりあえずニコラウス・ウインマンの内容を見ておきましょう。

 

水泳は、中世において、鎧を付けたまま泳ぐことは騎士として身に付けておかねばならない七技能の一つでした。何も身に付けずに泳ぐことは近世ともなれば時代遅れなことでした。ドイツの言語学教授である、ニコラウス・ウインマンは1539年に “ ミズスマシ、泳法について;Colymbetes, sive de arte natandi dialogus et festivus et iucundus lectu” を出しました。溺死事故を減らすのが目的でした。平泳ぎを習得するための医学的なアプローチと牛の膀胱を使った浮き袋、葦を束ねた浮き、コルクで作ったベルトを紹介しています。しかし、内容は泳ぎを覚えさせるのが 真の目的ではなく、魂の救済を訴えるのが隠された意図でした。『地獄に閉じこめられた魂はステュクス川を渡って対岸に渡りつくのです。地獄に流れ込んでいるこの川を渡らなければ、この時泳ぎができなければどうやってこの川を渡るのだ。

 

    

 1861 ステュクス河。( Styx、ギリシャ神話で地下を流れているとされる大河、三途の川 )ギュスターヴ・ドレ画 ( Paul Gustave Louis Christophe Doré 、1/6/1832-1/23/1883 )

 

エバーアード・ディグビィの水泳の書は上の二つとは異なります。さすがは我が父君。少しお見せして次回のお楽しみということにしましょう。

     

裸で泳いでいるのは、この時代の通例。いかれているのではありません。女性も同様です。お楽しみに!

 

 

 

 


ハーブ

2017年07月14日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

唐突ですが、エバーアードの手になる;チューダー式泳法によるスイミングの手引書 ( De Arte Natandi をご紹介しようと思います。 

その前に、「水泳」と言う文字が書物の中に登場するのは、ローマ時代以降に出されたものでは、1531年のサー・トーマス・エリオット著の "The Book Named the Governor" が初めてだろうと思います。どのような「水泳」の説明がなされているのでしょうか。( 政治家、貴族が持つべき政治観、道徳観、教育の在り方等が書かれており、ヘンリーⅧ世に献呈されました。)

 

The Boke named The Governourから;

アレキサンダー大王がインド遠征の折、パンジャブ東部の王ポロス( Poros  - 紀元BC.317年 )とヒュダスペス川をはさんで対峙した。大王は大きな河に向かって進む軍の侵攻を制止しようとした。歩を進めると河の水は馬の胸に達し、流れの中央では水は馬の首にまで達した。徒士の者たちはそれを見て恐れた。その光景を見てアレキサンダーは悔悟の念で一杯になった。今まで何故泳ぐことを学ばなかったのか、これほど悔やまれたことはなかった。彼は一人の兵士を水の中に放り込むと、槍を携えて流れの中に招き入れた。目標を見定め向こう岸まで一緒に渡りきった。他の者たちもこれを見習って、ある者は泳ぎ馬につかまって、ある者は槍や武器を持って身の回りのものと食料品を持って河を渡りきった。

 

BC.326  5月、戦いの行われた時期はインド全体が雨季に入り、ヒュダスペス河の水源であるカフカス山脈の雪が解け、河の水量も多くなっていました。また、アレキサンダーが渡河を試みた日は激しい雷雨の中という悪天候でしたが、逆にポロス軍に動きを悟られにくくなったこともあって、警戒を切り抜けて河を渡ることに成功した。(Wikiから)

          

「アレクサンドロス大王とポロス王」(シャルル・ルブラン)
 
                    ヒュダスペス河の戦い

  A painting by Charles Le Brun depicting Alexander and Porus during the Battle of the Hydaspes

 

 

つづく