Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 224

2021年04月30日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

パエストゥムに戻ります。 https://en.wikipedia.org/wiki/Paestum から

パエストゥムは、都市がルカニア人によって征服されても、BC 500までは存続し、ギリシャとオスクの2つの文化が互いに共存し繁栄していたようです。

      

    BC 6世紀のイタリアの鉄器時代における言語のおおよその分布地

https://www.pinterest.jp/pin/392728030005828716/   

 

パエストゥムの西暦1世紀からの考古学記録には、道路、寺院の建設等成長する都市の特徴が残されています。

しかし、1世紀の後半の終わりまでに、この地域は汽水域になり沈下します。しかも、エペイロス王ピュロス(Pyrrhus、BC319 - BC272、古代ギリシャのエピロス王、およびマケドニア王)が共和政ローマ、カルタゴ相手に行ったピュロス戦争(BC280 – BC275)で、ピュロスはイタリア南部のマグナ グラエキア(ギリシャ人植民都市)のターレス(現在のターラント)からローマとの戦争の支援を依頼され、これに応えたことから、パエストゥムはBC273年にローマの都市になりました。ピュロス戦争では、ギリシャとイタリアのポセイドニア人が、ローマ共和国に対抗するピュロス王の側に立っていたからです。

    

ca.BC 280のマグナ グラエキア(Magna Graecia、古代ギリシャ人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯)                      

 

ハンニバルによるカルタゴのイタリア侵攻の間、都市はローマに忠実であり続け、その後、独自の硬貨の鋳造などの特別な恩恵が与えられました。ローマ帝国時代も都市は繁栄を続け、西暦400年頃にペストのローマカトリック教区として司教区になりました。

薔薇の栽培者はローマの植民地に分散し、その結果、ラテン文学でパエストゥムの薔薇と賞賛されたバラは必ずしもパエストゥムの薔薇だけではなく、植民者によって栽培された薔薇にも同じ名前が付けられました。

その後、パエストゥム周辺での薔薇栽培は再び盛んになったのですが、プリニウスは、パエストゥムのバラについて言及することはありませんでした。

同じ期間に、コルメラ(Lucius Junius Moderatus Columella、 4 – c. 70 AD、ローマ帝国の農学家)がDe re Rustica(X、35 ff。)で、マルクス(Marcus Valerius Martialis、マルクス ウァレリウス マルティアリス、40/3/1 – 102、カラタユー出身のラテン語詩人)が(Epigrams VI、80)の中で、このローマのバラを詩的な文章で説明しているからと思われます。

 

パエストゥムの街は、西暦4世紀から7世紀にかけて衰退し始め、中世には放棄されました。司教の管轄区は1100年になくなりました。ナポリとその周辺地域のほとんどの住民はギリシャ語の方言を話していたようです。

衰退と荒廃は、この地の土地排水構造の変化により、それが湿地でのマラリア発生につながったようです。サラセン人による海賊行為や奴隷による襲撃も決定的な要因だったのかもしれません。

 

残りの人達は、数キロ離れたアグロポリのより防御しやすい崖の上の集落(ギリシャ語で「アクロポリス」または「城塞」)に移動したようですが、パエストゥムはしばらくの間、対イスラム教徒襲撃の拠点になりました。

ロバート ギスカード(Roberto il Guiscardo d'Altavilla, 1015-1085/7/17、ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てた)によってサレルノ大聖堂建設(Salerno Cathedral、イタリア南部のサレルノ市の主要な教会で)のためにパエストゥムのいくつかの石が、採石され、切断され、再使用されました。そして、パエストゥムの場所はほとんど忘れられたのです。

  

            パエストゥム、ピラネージ画。

https://www.lavanguardia.com/historiayvida/historia-antigua/20180608/47313161043/paestum-la-inspiracion-de-los-ilustrados.html

 ジョヴァンニ バッティスタ ピラネージ( Giovanni Battista Piranesi、1720/10/4  –1778/11/9 、イタリアの画家、建築家) )のエッチングの1つ、1778年

 

カンパニアの地域はパエストゥムよりも少し南に位置し、薔薇の栽培の技術でもカンパニア地方は主な競争相手でした。地面はパエストゥムよりも水はけがよく、バラの栽培に適していたため、薔薇はパエストゥムよりも良い香りがしました。さらに、かつて開花したバラ種に比べて早く開花し、開花期間が長いのが特徴でした。プリニウスは Naturalis Historia XVIII、111で、カンパニアの地を次のように述べています。

 

Naturalis Historia XXIX から一部分を引用;

『カンパニアの、雲に覆われた山々の下には、平野が約40マイルにわたって広がっています。この平野の土壌の性質は、表面はほこりっぽいが、下は海綿状で、軽石のように多孔質である、地上には降雨があるので、雨は浸透して通過し耕作が容易になり、利点ともなります。同時に、水分が外に漏れることがなく、内部を適度な温度に温めてくれます。土地は一年中作物が収穫でき、イタリアのアワで1回、エンマーコムギで2回播種します。それでも春には、休ませた畑では庭のバラよりも甘い香りのバラが花を咲かせます。この土地はやせ細るということがありません。だから、カンパニアでは、薔薇は他の土地で生み出されるオイルよりも多くの香りを生み出すという言い回しがされています。』

 

ナポリのすぐ北にある特にカプア プレネステのカンパニア産の薔薇はペストゥムの薔薇よりもはるかによく知られるようになりました。2つの地域の栽培方法は固く守られていたようです。

カンパニア(Pliny Naturalis Historia X XI 17)で栽培されていた開花が遅いDamask Rosa x damascenaは、現在我々が認識しているRosa centifoliaであり、当時Paestumで栽培されていた薔薇なのです。Rosa centifoliaは、生産性の高いRosa x damascenaに置き換えられたのです。

 

先に『ウェルギリウスは、農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)であると詠みました。』という解釈は誤りであると述べましたが、これで花期の長い薔薇の花(Damask Rosa x damascena)を指していたことがお判りいただけたのではと思います。そしてこの詩の内容をもって、ローズウォーターの製造が、パエストゥムの薔薇の名声が、紀元前1世紀の後半に広まった証拠として、『有名な詩の中に見ることができた』ともいうことができます。

しかし、R. x damascenaとR.centifoliaの二季咲きに関与する遺伝学が完全に解明されるまで、その可能性を消し去ることはできません。

 

 

 


ダマスクローズ 223

2021年04月28日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

        

                パエストゥム

パエストゥムはこの位置にあり、1769年に見た遠景がこれです。

 

              パエストゥム遠景 1769画

 

パエストゥム (Paestum) には、イタリア南部カンパニア州サレルノ県カパッチョ=ペストゥムにある古代ギリシャ、古代ローマ遺跡があります。 1998年には、ユネスコ世界遺産に登録されました。パエストゥムとはポセイドニア(Poseidonia)が訛ったもので、ポセイドニアは、海の神ポセイドンの町の意。紀元前550年ごろゼウス神の伴侶でオリュンピアの女王ヘラのための神殿建築が行なわれ、その約100年後に町の主神ポセイドンの神殿が建てられました。

 

ポセイドニアは、紀元前510年にクロトン(Croton)に征服されたとき、母都市であるシバリス(Sybaris)からの難民を収容していたと考えられています。 5世紀初頭、ポセイドニアの硬貨はアカイア基準分銅(Achaean weight standard)を採用し、シバライト硬貨には雄牛のデザインを採用しています。

        

           マグナ グラエキア(Magna Graecia) 

紀元前8世紀から5世紀にかけて、古代ギリシャでは人口が増え、飢餓、人口過密、気候変動などから生活難となり、ギリシャの領域外へ流出する人々が現われました。ギリシャ人は故郷を離れて地中海沿岸の各地へ植民を始め、東は黒海周辺から西はフランス南部やイベリア半島にまで至る広範囲に植民都市が誕生しましたが、とりわけイタリア半島南端およびシチリア島には多くのギリシャ人が移住しました。さまざまなギリシャの都市国家が植民地化した南イタリアの沿岸地域を指してマグナ グラエキアと呼びます。Magna Graecia (Illustration) - Ancient History Encyclopedia  から

Croton とSybaris(赤で囲ったところ)はギリシャ人がイタリア半島に沿って定住して(入植して)いましたが、 共和政ローマの力が押し寄せるのは時間の問題でした。

 

  1. J.グラハム(Alexander John Graham, 古代の歴史家、1930/3/9~ 、ベッドフォード大講師)は、「難民の数は、おそらくシンボリティア(sympolity、共同市民権)の形で、ポセイドニア人とシバリ人の間で何らかのシノエシズム(synoecism、同じ家に一緒に住むの意)が発生するのに十分な数であった。」と説明しています。

これは、シバリスの硬貨がこの時期のポセイドニアの硬貨と非常に似ていることから、ポセイドニアは、紀元前452/1年から紀元前446/5年まで続いたシバリスの創設に大きな地位を占めていた可能性があります。 

               

      パエストゥムの考古学公園にある2つの古代ギリシャ神殿

 

上がネプチューンの神殿またはポセイドンの神殿とも呼ばれるヘラの第二神殿、下がヘラの神殿。 Paestum, Italy (reidsitaly.com)

 

パエストゥムの考古学公園にある説明には、

『ポセイドン市は、紀元前6世紀にシバリス(Sybaris)のギリシャ人入植者によって設立され、紀元前3世紀にはローマの支配下に入り、町の中心フォロの周囲に円形闘技場や市場が築かれました。紀元前273年以降、ローマ時代のパエストゥムの植民地として栄え、巨大な薔薇(敷地周辺の庭園で年に2回咲き続けている)でも名声を得た。』とあります。

 

『パエストゥムとはポセイドニア(Poseidonia)が訛ったもので、海の神ポセイドンの町ポセイドニアは、紀元前550年ごろゼウス神の伴侶でオリュンピアの女王ヘラのための神殿建築が行なわれ、その約100年後、町に町の主神ポセイドンの神殿が建てられたのです。』と先に書きましたが、ギリシャにも同じ名前の町があります。

 

ポシドニア(Poseidonia、Ποσειδωνία、ポセイドンにちなんで名付けられました)は、ギリシャのキクラデス諸島(Cycladesにある人口3,893人、面積23.705km²)属するシロス(Syros)島内の村の一つです。島の南端にこの村はあります。

  

                 Poseidonia

先史時代のシロス島にはBC3,000から人が住んでいて、また大きな商業活動を行っていたことが知られています。2,000年の間、シロス島はフェニキア人、ミノアクレタ島、ミケーネの支配下にあり、その後の1,000年はイオニア人の手に渡ります。BC7世紀から3世紀まで、島のさまざまな場所に集落や農村地域の痕跡があります。島内の最大の町は、エルムポリス(Ermoupolis)、アノシロス(Ano Syros,)、バリ( Vari)で、エルムポリスは、南エーゲの首都になっています。この地域では重要な港町で、19世紀には対岸のピレウスよりもさらに重要でした。 他にガリッサ(Galissas)、フォイニカ(Foinikas)、パゴス(Pagos,)、マナ(Manna)、キニ(Kini)、ポセイドニア (Poseidonia) の村々があります。シロス島のポセイドニアはイタリアのポセイドニアとは単に名前が同じというだけで、深いいわれはなさそうです。強いて言えば、『海の神ポセイドン』でつながった町といえるでしょうか。

日本で言えば『太子町』といったところでしょう。しかし文化の波は西から東へ(ギリシャからローマへ)と流れていることは、掴めました。

     

https://www.travel-greece.org/greece.php?loc1=cyclades&loc2=syros&loc3=poseidonia&pagetype=map 

 

 

 


ダマスクローズ 222

2021年04月26日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

イタリアのローマ近郊で、そして古代ローマの世界で栽培されたバラの中で最も美しいのは、パエストゥム(Paestum)のバラだといわれています。パエストゥムは、イタリア南部のマグナグラエキア(Magna Graecia)のティレニア海(Tyrrhenian Sea)の海岸にある歴史ある古代ギリシャの主要な港でした。

 

パエストゥムは、現在は人口1,000人ほどの小さな街ですが、1998年に、ユネスコ世界遺産に登録され、古代ギリシャ、古代ローマ遺跡が残っています。街の名前は、ポセイドニア(Poseidonia)が訛ったもので、歴史の経由がハッキリとした街です。この街の歴史を精緻に見ていくことで、ダマスクローズ(?)の歴史を辿ってみようと思います。

 

パエストゥムのバラ園は、最初にウェルギリウス(通名Virgil、プーブリウス ウェルギリウス マーロー、Publius Vergilius Maro、BC70/10/15? –BC19/9/21 、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人,『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ,ラテン文学において最も重視される人物)によって一躍有名になりました。ウェルギリウスは、農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)であると詠みました。しかし、「biferique」をどういう意味で使ったのでしょうか? 通常薔薇が年に2回開花することを意味すると考えられますが、ヨーロッパでは16世紀に輸入されるまで年に2回開花するバラは知られていません。たった3つの言葉で、ウェルギリウスは今尚学者やバラの愛好家を悩ませています。

 

ウェルギリウスの農耕詩(4,119)から、

 

そして、労働の終わりに向かって帆を引き、

こうして船首を陸に向けようと急いでいなかったなら、

おそらく私は庭を彩る花の世話と

二度の実りのパエストゥムの薔薇の花壇(biferique rosaria Paesti)を

詠うかもしれない、

そして どのようにエンダイブが小川の流れを、

セロリで緑色になった土手を楽しんでいるかを、

そしてどのようにキュウリが草の中で太くなったかを。

また、咲き遅れた水仙、そして曲がったアカンサスの茎と

淡いアイヴィと海岸が好きなマートルついて黙ってはいなかったでしょう。

  

歴史と悲劇の二人の詩神とウェルギリウス(3世紀のモザイク)http://www.lucidamente.com/1391-si-cela-un-ramo-doro-nelle-foglie/  

 

そして、魅力的なオード(頒歌、9.60)を詠ったマーシャル※は、パエストゥムの薔薇で花輪を作るべきかどうか疑問に思ったようです。しかし、彼が自分の庭の薔薇を使ったとしたら、これはもっと美しく見えたのではないでしょうか。

     

              Marcus Valerius Martialis       

※ マーシャル( Martial, マルクス ウァレリウス マルティアリス,  Marcus Valerius Martialis, 40/3/1? – 102 ?, ヒスパニア カラタユー出身のラテン語詩人、古代ローマ皇帝ドミティアヌス、ネルウァ、トラヤヌスの統治期間にあたる86~103年の間に発表された12巻のエピグラム(エピグラムマタ、警句)で知られています。

マーシャルのピグラム(頒歌、9.60)、ブックⅨ. ボンの古典図書館蔵(1897)

http://www.tertullian.org/fathers/martial_epigrams_book09.htm から

 

  1. CAESIUS SABINUS ( ルキウス ウェルギニウス ルフス,  Lucius Verginius Rufus,  AD 14~- 97年, ローマ帝国 ユリウス クラウディウス朝、フラウィウス朝時代の軍人、マーシャルの友人 ) に送られた薔薇の冠について。

 

あなたはペストゥムの野で作り出されたのか、

それともチボリ(Tivoli)の庭で育てられたのか、

あるいはタスカルム(Tusculum)の平原があなたの花で飾られていたのか。

ベイリフの女がプレネスティンの庭(Praenestine garden)であなたを摘んだのか、あなたは最近カンパニアヴィラで光り輝いていただろうか、

あなたは私の友人サビヌスにはもっと美しく見えることでしょう、

彼にはあなたが私のノメンタン(Nomentan)の地から来たと思わせてください。

  

チボリ(ティヴォリ)のマエケナス別荘、ドイツ人画家ヤコブ フィリップ ハッケルト1783 画。

 

ティヴォリ( Tivoli)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市で、ローマの東約30kmに位置します。古代ローマ時代から保養地として知られ、ハドリアヌス帝や多くの貴族たちによって別荘(ヴィラ)が営まれました。ヴィッラ デステ(エステ家の別荘)とヴィッラ アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘)のふたつが、ユネスコの世界遺産に登録され、多くの芸術家によって、この地を題材にした作品が作られています。

 

ローマのタスカルムとアルバーノ山脈の円形劇場

ワージントン ウィットレッジ、1860画、油彩、スミソニアン アメリカ美術館蔵

  

イタリアの古代都市プリーネスティンの庭 Praenestine garden

  

ノメンタの橋 Ponte Nomentano by Giuseppe Vasi, c. 1752.

ノメンタ道路はイタリアの古代の道で、ローマから北東にNomentum(ノメンタ

、現代のメンタナ)までの23 kmを北東に走っています。

  

               オウィディウス

プーブリウス オウィディウス ナーソー(Ovid , Publius Ovidius Naso, BC43/3/20 – AD17,18)は(変身物語、Metamorphoses 15、708)で、Propertius(セクストゥス アウレリウス プロペルティウス(Sextus Aurelius Propertius, BC50年頃 - BC15年頃、ラテン語の哀歌詩人)も詩的にパエストゥムのバラ園を歌いあげ、Pliny(Natural History 21)はカンパニアのバラ園について論じ、Columellaもパエストゥムのバラに注目していました。

            

オウィディウスのBook 15 Myscelus. Croton. MYSCELUS BUILDS THE CITY OF CROTONA から、

ギリシャ神話に基づく、深い意味合いを持つ言葉です。ここでは解説をしませんが、興味のある方は、時間をかけて調べてみてください。固有名詞は、全て検索できるように括弧内に書いておきました。ギリシャ神話通に近づくことができます。

 

そこで彼は、ラシニアン岬(Lacinian Cape)を避け、

女神ジュノの神殿(Juno's shrine)を越えて、

シラセアの海岸(Scylacean coasts)を後にした

イアピギュア(Iapygia)を後にし、左にAmphrysianの岩を避け、

反対側のコシンシア(Cocinthian)の岩山を回避した

シチリアの海を渡り、海峡を通過した

ペラロス(Pelorus)を通り過ぎ、アエオルス(Aeolus)を、

テメサ(Temesa)の銅鉱山を

それからロイコシア( Leucosia)に向かって

そしてバラで有名な、穏やかなパエストゥム(Paestum)に向かって

カプリ島(Capreae)と周辺のミネルバ(Minerva)の岬と丘を

そこから、ブドウで名高いサレンティン(Surrentine)へ

さらにヘルクラネウム(Herculaneum)とスタビアエ(Stabiae)へ

そして、パルテノペ(Parthenope)を慰めようと

クマエのシビルの寺院(Cumaean Sibyl's temple)の近くを航海した

ウォームスプリングス(Warm Springs)とリンターナム(Linternum)を通過した

そこでは、マスティックの木が成長し、

川は、厚い砂が小川の中で渦巻くヴォルトゥルヌス(Volturnus)、

砂が渦となって流れ

シヌエッサ(Sinuessa)の白い砂浜の上に、

そこからアンティウム( Antium)とその岩の海岸へ

  

プロペルティウスと恋人シンシア Auguste Vinchon( 5 August 1789 – 1855、 a French painter)画

 

明らかに、パエストゥムからローマへのバラの主要な市場があったに違いありません。悲しいことに、パエストゥムのバラはすべて枯れてしまいましたが。

 

 

 


ダマスクローズ 221

2021年04月24日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

  

https://www.whiteflowerfarm.com/71601-product.html 

チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔、Datura metel、別名マンダラゲ(曼陀羅華)、キチガイナスビ(気違い茄子)、トランペットフラワー、ロコ草)は、ナス科の植物。園芸用にはダチュラの名で広く流通しています。原産地は南アジア。日本へは、江戸時代(1684年)に薬用植物としてもたらされ、現在は本州以南で帰化、野生化したものが見られます。

一年草。草丈は1mほどで茎はよく枝分かれし、葉は大型の卵型で、長さ10~20センチメートル、幅7~15センチメートル。夏から秋にかけて長さ10~15センチメートルほどの漏斗状の白い花を咲かせます。萼は筒状で、長さ4~5センチメートル、先が5つに分かれ、果実は球形で直径3~5センチメートル。短いとげが多数付いており、中に多くの種子が入っている。熟すと割れて種子を飛ばします。

有毒植物で、経口後30分程度で口渇が発現し,体のふらつき、幻覚、妄想、悪寒など覚醒剤と似た症状が現れます。成分はヒヨスチアミン( Hyoscyamine), スコポラミン( Scopolamine) などのトロパンアルカロイドなどです。

 

チョウセンアサガオに纏わる中毒事件には、次のような事例があります。

家の畑から引き抜いた植物の根を使って調理したきんぴらを食べた人が、約30分後にめまい、沈鬱となり、以後瞳孔拡大、頻脈、幻視等の症状を呈して入院。ゴボウと「チョウセンアサガオの根」を間違えて採取、調理し食べていました。

1家族3名がチョウセンアサガオを誤食し、意識障害・幻覚などの症状を訴える。チョウセンアサガオの開花前のつぼみをオクラと間違え、かき揚にして食べていた。

家庭菜園でチョウセンアサガオを台木としてナスを接ぎ木し、実ったナスを加熱調理し喫食したところ、意識混濁などの中毒症状を発症した。

 

チョウセンアサガオの薬効は、古くから知られており、中国明代の医学書「本草綱目」にも、患部を切開する際、熱酒に混ぜて服用させれば苦痛を感じないとの記述があります。 ベラドンナやハシリドコロなどと同様にアトロピンを含んでおり、過去には鎮痙薬として使用されました。世界初の全身麻酔手術に成功した江戸時代の医学者である華岡青洲は、本種を主成分としていた精製した麻酔薬「通仙散」を使用していました。このことから日本麻酔科学会のシンボルマークに本種の花が採用されています。

薬用植物で毒性も著しく強く、「キチガイナスビ」といった別名を持ち、近年ではエンジェルズ トランペットの名で、園芸店で販売されている場合もあるので要注意。

和名のチョウセンは特定の地域を表すものではなく、「在来種、日本のものによく似ているが少し違う」という意味での命名です。また、アサガオの名を冠してはいるが、チョウセンアサガオはナス科に属し、ヒルガオ科に属するアサガオとは別種で、単に花がアサガオに似ていることによる命名です。なお、キダチチョウセンアサガオ属は、木本化する多年草のグループで明確に種類が異なります。

                                                                       

ギリシャの自然主義者テオプラストスは、5枚の花びらから100枚の花びらまで、さまざまな薔薇について書いてきました。6/6で既に取り上げたように植物誌の中で、『花びらの数、花びらの滑らかさ、色、香り、薔薇には様々な種類があります。

殆どの薔薇の花は5枚、幾つかは12枚或いは20枚。たくさんの花びらの薔薇もあるそうで100枚の薔薇もあるそうだ。そのような薔薇はギリシャのピリッポイ(Philippi)近辺で育てていて、パンガイオンの丘から移植したということです。

内側の花びらは非常に小さい。香りがなくて大きな花びらではないもの。大きな花びらで花びらの裏側がざらついているものは香りがいい。よく言われているように、色と香りのいいものは土地柄が影響しているようだ。土が同じでブッシュの中で育っていても甘い香りノイバラ、香りのない薔薇はあるようだ。最も良い香りの薔薇はキュレネの薔薇だ。これで作る香水は最も香り高い。麝香ナデシコの香りも他の花も、特にサフランの香りは(この花は場所によって薔薇つきが大きいが)この地のものが一番優れている。中略、薔薇の茂みは、焼いたり、切り取ると、今までよりも良い花が咲くようになります。 放っておくと茂りすぎる。 時々移植したほうが薔薇にとっていいようです。 野生種は茎と葉の両方が粗く、花も鈍い色の小さな花になってしまいます。』と述べています。

又、ヘロドトスは、1/18で『ミダスの息子の庭にある薔薇は、60枚の花びらを持ち、他のすべての薔薇を超える香りを持っている。』又、『これらの薔薇は、萼片、棘、ローズヒップがR. gallicaに似ている。』ともご紹介をしました。

レーンフォックス(Robin James Lane Fox 、1946/10/5生まれ、、英国の古典主義者、古代の歴史家、園芸作家)は、「これらの薔薇がR. x damascenaではなくR. gallica であると信じている人はたくさんいる。」と述べています。しかし、植物全体の形態と構造の説明がなければ、その内容は判然とはしません。しかし、テオプラストスやヘロドトスが野生の薔薇ではなく、栽培種の薔薇について説明しているという事は間違いなさそうです。そして、ロサ ダマスケナ以外に、以下の説明に合致する薔薇は今のところ存在しないように思えるのです。

 

ローマ人は、公的、社会的、個人的な生活の中で薔薇に取り憑かれていました。香りであれ、芸術、医学、衛生、衛生、装飾、神々への贈り物であれ、庭での使用であれ、薔薇はいたるところにありました。花はローマ世界で非常に重要であり、遠くの国から運び込まれた花と競わせる程の花がない位にローマの植物栽培は世界の最前線にありました。この状況を説明する情報は多数あります。

古代地中海の花卉園芸に関して、テオプラストスは、ca.310~ca.287の間に書いたHistoria Plantarum(The History of Plants)の中で薔薇を賞賛していますし、プリニウスは、Naturalis Historia XXI の冒頭でも花と花輪について語っています。プリニウスは、とりわけ、アテネのムネシテウス(Mnesitheus of Athens、紀元前4世紀)、エジプトのアレクサンドリアの偉大な学者であり詩人であるカリマコス(紀元前311年から240年)、およびダマスカス出身のシリアギリシャ人であるダマスカスのアポロドルス(Apollodorus, BC181)からも例を引いて説いています。

  

  

BC30〜20のローマのプリマポルタ(Prima Porta)にあるリヴィアのヴィラ(Villa of Livia、古代ローマの別荘)に描かれた庭。下の絵は上の一連の絵の一部分です。

 

描かれた絵を分析した結果、ヴィラに描かれた薔薇をロサ ケンティフォリア或いは、ロサ ガリカと特定するには疑問が残るという結論になります。

                                   

コジャッティ(Coggiatti、1986~) の述べる、この花に関する「診断的要素、植物の習性、花の一般的な形態学、5枚の花びらの鮮やかな赤色、歴史的特徴のいくつかの考慮事項」は、ガブリエル (Gabriel ,1955~) が提案したダマスクローズの可能性を無視していますが、この絵を見る限り、Coggiattiは間違っているように思えます。 描かれているバラは軽く二重になっているため、この花は種ではなくハイブリッドを示しています。ロサ ガリカの花びらがわずかに2倍になることがあっても2倍になることはないからです。現実的には、当時わずかに二重の花を持つ薔薇である可能性があるのはダマスクだけでした。 おそらく一重のローザガリカと八重のロサ センティフォリアを混同したようです。

  

             ロサ センティフォリア

 https://jp.depositphotos.com/49810921/stock-photo-rosa-centifolia.html 

                                 

 

 

 


ダマスクローズ 220

2021年04月22日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

   

ヘンベイン (Henbane Hyoscyamus niger, 別名、 henbane, black henbane,

stinking nightshade、ヒヨス)  説明はWikiから、

 

ナス科の植物で、非常に有毒です。ヨーロッパとシベリアの温帯地域が原産であり、イギリス諸島に帰化しています。

  https://www.amazon.com/Hyoscyamus-Heirloom-CAPSULES-Gardener-Collector/dp/B06ZXVFBRQ

   

ヘンベインは、マンドレイク、ベラドンナ、チョウセンアサガオ等の植物と組み合わせて、その向精神作用を利用して麻酔薬として用いられてきました。向精神作用としての幻視や浮遊感覚があります。ヘンベインの利用は大陸ヨーロッパ、アジア、中東で始まり、中世にはイギリスに伝わりました。古代ギリシャ人によるヘンベインの利用はプリニウスによって記録されています。この植物はHerba Apollinarisと記述され、アポローンの神官 (4/8参照) が神託を得るのに用いられました。

ヘンベインには毒性があり、動物は少量で死に至ります。ヘンベインの葉や種子には、ヒヨスチアミン、スコポラミン、その他のトロパンアルカロイドが含まれています。人間がヒヨスを摂取した時の症状には、幻覚、瞳孔散大、情動不安、肌の紅潮等があり、人によっては頻脈、痙攣、嘔吐、高血圧、超高熱、運動失調等の症状が現れます。

上の絵は、このブログで取り上げることは珍しい、アメリカのものですが、今のアメリカにはこの種の、千数百年は逆戻りしたかという、毒草、毒にんじん等を使った奪胎目的のサイトがごまんとあります。決して参考になさらないように。命に関わることになります。

 

11世紀から16世紀にホップに代用されるまで、ヘンベインはビールの原料として風味付けに用いられてきました(例えば、1516年のビール純粋令では、ビールの原料として麦芽、ホップ、水以外の使用が禁じられました)。1910年、ロンドン在住のアメリカ人ホメオパシー実践者であるホーリー ハーヴェイ クリッペンは、妻を毒殺するのにヒヨスから抽出したスコポラミンを用いたと言われています。またハムレットの父の耳に注がれたヘベノンという毒物はヘンベインのことであるとも考えられています。               

                                                          

https://www.etsy.com/jp/listing/796297979/atropa-belladonna-deadly-nightshade 

 

ベラドンナ(学名:Atropa bella-donna、ナス科オオカミナスビ属の草本。和名は、オオカミナスビ、オオハシリドコロ、セイヨウハシリドコロ)説明はWikiから、

 

ベラドンナは多年草で、最近では北アフリカおよび西アジア、北アメリカの地域で帰化しています。湿気が多く、石灰質の肥えた土壌の場所で群生しているのを見ることができます。早春に葉に包まれた新芽を出し、全長は 40cm から 50cm 程度、最高で 5m ほどにもなる。花期は夏ぐらいまでで、くすんだ紫色の花を咲かせる。この花が過ぎた後に緑色の実をつけ、1cm ほどに膨らんで、黒色に熟していく。この実は甘いといわれるが、猛毒を含んでいるため絶対に食してはいけません。

名前は、イタリア語で「美しい女性」を意味する bella donna の読みそのままで、古くには女性が瞳孔を拡大させるための散瞳剤として、この実の抽出物を使用したことに由来します。

全草に毒を含むが、根茎と根が特に毒性が強い。また、葉の表面にも油が浮いており、これに触れるとかぶれ(ひどい場合は潰瘍)がおきる。主な毒の成分はトロパンアルカロイドで、摂取し中毒を起こすと、嘔吐や散瞳、異常興奮を起こし、最悪の場合には死に至ります。これは、ハシリドコロ属のハシリドコロなどと同様の症状である。ベラドンナのトロパンアルカロイドの成分は、ヒヨスチアミンやアトロピン(l-ヒヨスチアミン )、他にノルヒヨスチアミン、スコポラミン等が含まれる。これらの物質は副交感神経を麻痺させるため、先述のような症状が起こります。また、鳥類と鹿、ウサギなどの多くの動物はベラドンナを食べても中毒を起こしません。(犬猫は中毒を起こす)ベラドンナを食べた動物を人間が食べて死に至ってしまう場合があり、日本国外では、実をブルーベリーなどと誤認し食中毒を起こした例が報告されています。

用法・用量を守って使用すれば有用であり、成分の強い根茎と根はベラドンナコン(ベラドンナ根)として日本薬局方にも収められています。ベラドンナコンに含まれるアトロピンは硫酸アトロピンの原料になり、ベラドンナコンの成分を水またはエタノールに浸出させたものはベラドンナエキスと呼ばれます。また、ベラドンナ総アルカロイド成分は鼻みずを抑える効果があることから多くの市販鼻炎薬に含まれることがあるため、まれに全身に発熱を伴う発疹などの薬疹症状を呈することがあります。

                                                                      

マンドレイク https://blog.strictlymedicinalseeds.com/growing-mandrake-beyond-the-basics/ 

   

   

マンドレイク https://plantlust.com/plants/14374/mandragora-officinarum/ 

 

マンドレイク(Mandrake、Mandragora officinarum、別名マンドラゴラ(Mandragora)説明はWikiから、

 

ナス科マンドラゴラ属の植物。茎はなく、釣鐘状の花弁と赤い果実をつけます。

古くから薬草として用いられたが、魔術や錬金術の原料として登場します。根茎が幾枝にも分かれ、個体によっては人型に似る。幻覚、幻聴を伴い時には死に至る神経毒が根に含まれます。

人のように動き、引き抜くと悲鳴を上げて、その声を聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説があります。根茎の奇怪な形状と劇的な効能から、中世ヨーロッパを中心に、伝説がつけ加えられ、魔術や錬金術を元にした作品中に、悲鳴を上げる植物としてしばしば登場する。絞首刑になった受刑者の男性が激痛から射精した精液から生まれたという伝承もあり、形状が男性器を彷彿とさせるまたこの植物のヘブライ語「ドゥダイーム」は、「女性からの愛」を指すヘブライ語「ドード」と関連すると考えられ、多産の象徴と見られました。

南方熊楠は、周密などの書いた中国の文献に登場する「押不蘆」なる植物が、麻酔の効果らしき描写、犬を使って引き抜くなどマンドレイクと類似している点、ペルシャ語ではマンドレイクを指して「ヤブルー」と言っているまた、パレスチナあたりで「ヤブローチャク」と言っている点から、これは恐らく宋代末期から漢代初期にかけての期間に、アラビア半島から伝播したマンドラゴラに関する記述であると指摘し、雑誌『ネイチャー』に、その自生地がメディナであると想定した文を発表しています。

古代ギリシャでは「愛のリンゴと呼ばれ、ウェヌスへ捧げられた。」また、ウェヌス神話における「黄金のリンゴがマンドレイクである」とする説もあります。

地中海地域から中国西部にかけて自生する。コイナス属又はナス科マンドラゴラ属に属し、薬用としてはMandragora officinarum L.、M. autumnalis Spreng.、M. caulescens Clarkeの3種が知られています。ともに根にヒヨスキアミン、トロパンアルカロイド クスコヒグリンなど数種のアルカロイドを含む。麻薬効果を持ち、古くは鎮痛薬、鎮静剤、瀉下薬(下剤・便秘薬)として使用されたが、毒性が強く、幻覚、幻聴、嘔吐、瞳孔拡大を伴い、場合によっては死に至るため現在薬用にされることはほとんどありません。複雑な根からは人型のようになるのもあり、非常に多く細かい根を張る事から強引に抜く際には大変に力が必要で、根をちぎりながら抜くとかなりの音がする。この音が伝説のマンドラゴラの叫びの部分を、その毒性が叫びを聞いた者は死ぬといった逸話の由来と思われます。

 

マンドレイクの数々をご紹介しておきます。

  

タキュイナムサニタティスから、マンドラゴラ 1474

 

マンドラゲ – Hortus Sanitatis de Mayence, 1485

Anthropomorphisme et anthropocentrisme au XVIIe siècle – La philosophie de la Nature vue par Jean-Baptiste-René Robinet, philosophe naturalisteから

 

Dioscorides, De materia medica, s.VII, Napoles Biblioteca Nazionale, Cod Gr 1 f.90

マンドレイクに男女の別があるのは、ディオスコリデスのこの絵に依ると思われます。

 

 


ダマスクローズ 219

2021年04月20日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ヒポクラテス コーパス(Hippocratic Corpus)に戻ります。

『床ずれの場合、患者は清潔なシャツとシーツを備えた新鮮で柔らかいベッドに入れなければなりません…患者の病気の原因と合併症について話し合ったので、私たちは彼らにとって都合の悪いところを治さなければならないと言いました。最初に痛みを和らげ、太ももに開口部を作って問題となっているものを取り出す必要があります。

 

第二に、手足の大きな腫れと冷たさを考慮して、手足の周りに熱いレンガを並べ、ワインと酢に入れたハーブの煎じ薬を振りかけ、ナプキンで包む必要があります。そして彼の足元には、煎じ薬を詰め、コルク栓をし、布で包んだ陶器の瓶を置いておきます。次に、太ももと脚全体を、セージ、ローズマリー、タイム、ラベンダー、カモミールとメリロット※の花、白ワインで煮た赤い薔薇、オークで作った乾燥粉末-灰と少量の酢、一握りの半分の塩で作った煎じ薬で温湿布をする必要があります。

 

第三に、床ずれには、痛みを和らげ潰瘍を乾かすために、乾燥した赤い軟膏とUnguentum Comitissoe※を同じ割合で混ぜ合わせた大きな膏薬を貼る必要があります。そして力が加わらないようにダウンの小さな枕をあてがう必要があります。

そして彼の心を強くするために、私たちはその上に睡蓮の油の解熱剤、薔薇の軟膏、そして少量のサフランを溶かし込んだローズビネガーと解毒剤を赤い布の上に広げなければなりません。』

  

※ メロリット(Melilotus officinalis、イエロースイートクローバー、セイヨウエビラハギ)https://www.flower-walk.jp/7800/061607.html 

 

ヨーロッパ、アジア、北アメリカに自生するマメ科の多年草、日本には帰化したものと考えられています。花穂を乾燥させると桜餅のような甘いクマリンの香りがする、ポプリ、タバコの香りづけに用いられる。葉には殺菌、鎮痛、消炎作用があり薬用にもされる。完全に乾燥させないと、有毒なので注意

葉、花、花穂(乾燥)を薬用、料理に利用 
名前の由来:属名の「meli」は蜜を表す名。ミツバチがこの花の蜜を好むことから蜜のクローバの意味の属名になりました。

マメ科の植物である事から痩せた土地でも良く育ち、丈夫な性質でもって繁茂し群生する。豊富な収量が見こめることから家畜の飼料として、又やせた土地を肥やす目的で植えられたりします。
全草をメリロート草Melilotusといいクマリン、クマール酸、メリロート酸、精油等を含み良い香りがします。つぶした生葉には抗炎症作用があり、リウマチ、気管支カタルなどに昔は湿布に用いたこともあったが、現在はあまり使いません。乾燥させた花穂は料理やビールの香り付けに。乾燥した葉を用いたハーブティは消化促進や頭痛止めに効果がある。完全に乾燥させなければ、有害物質が発生するので要注意。

経口抗凝固剤 ワルファリン製薬起原植物、痔疾患治療薬メリロートエキスの主成分

 

※ Unguentum comitissoeの作り方 ; どんぐりの真ん中の樹皮、栗、オーク、豆、マートルの果実、スギナ、胆汁?、酒石、未熟なナナカナド、乾燥したカリン、スロー(sloe)ツリーの葉、Bistortの薔薇(この場合は薔薇によく似たの意?)とTormentilをそれぞれ1オンス半ずつ用意する。

 

『失神(した時には)、傷害が生じ自然治癒力の消耗した脳を回復させる為に、栄養の良いジュース、生卵、ワインと砂糖で煮込んだプラム、大鍋で煮た肉のスープなどを摂らねばなりません。これまで述べたように、ニワトリの白身の肉、ヤマウズラの羽を細かく刻んだもの、その他の消化しやすいローストミート、例えば、仔牛、仔山羊、鳩、ヤマウズラ、ツグミ、そのようなものをオレンジジュース、ヴェルジュ、スイバ、酸っぱいザクロのソースを添えて摂るか、又は、レタス、スベリヒユ、チコリ、バグロス、マリーゴールドなどのハーブと一緒に煮て摂取します。

夜、スイバとスイレンのジュース、それぞれ2オンス、4〜5粒のアヘンと潰した4つの冷たい種子を、それぞれ0.5オンスずつを大麦水といっしょに飲ませます。これは良い栄養療法であり、(患者は)よく眠ることができます。』

 

『(彼のパンは農家のパンであり・・・意味不明)、生気があるとも生き生きとしているとも言えません。頭に大きな痛みがあるので、髪を刈り、頭を少し暖かいローズビネガーで擦り、ローズビネガーで濡らした二重の布を当てます。また、薔薇と睡蓮とポピーの油の額布を当て、少量のアヘンとローズビネガーといっしょに少量の樟脳を、時々取り替えながら(頭に)当てます。

さらに、酢とローズォーターに、少量の樟脳で潰したヘンベイン(Henbane)※と睡蓮の花をハンカチに包んで鼻に近づけてその匂いを嗅がせます。

そして、高い場所から大釜に水を注ぎ、人工的な雨を降らせ、その音を聞くことができるようにします。そうすると、患者は眠りにつくでしょう。』

 

『足が引きつった場合は、太ももに溜まった膿などの体液を出し、膝全体をアオイ科の植物の軟膏、ユリの油、そして少量の蒸留酒で擦り、グリースを塗った黒いウールで包みます。ヒザの下に二重にした羽毛の支えを置いて少しずつ脚を(引っ張る)と真っ直ぐになります。』

                                 

Hippocratic Corpus' Master teacher Manuscript 14th centuryに描かれたヒポクラテス

 

                

トルメンティル Tormentil(Potentilla erecta別名、タチキジムシロ、バラ科、キジムシロ属)説明はWikiから、

ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアからシベリアに分布する多年生草本。

高さ:10〜30 cm(4〜12インチ)。花:黄色、約。幅1〜1.5 cm。花びら4、浅い切り欠き、オレンジ色の斑点のある基部、長さ4〜6 mm、萼片よりわずかに長い。雄しべは通常16です。雌しべは分離し、雌しべは通常4〜8です。花序は豊富に開花します。果実:丸い隆起した、灰色がかった茶色の痩果が集まって付きます。

生息地:牧草地、牧草地、放牧地、道端、湿った森、沼地、沼沢地、豊かな沼の端。

開花時期:6月〜8月。

トルメンティルの根の重さは最大0.5キロまでなり、タンニン酸が多く含まれ、革のなめしや布の染めなど、昔から多くの用途がありました。台木の切り傷から滴り落ちる血のように赤い液体は、キリスト教時代には薬用植物としての評判を得ました。

 

学名Potentillaは、ラテン語のpotensに由来し、「薬効がある」を意味し、種名erectaは、植物の直立した成長形態を指します。黄色い花を持つトルメンティルは、牛の牛乳の生産量を増やすと信じられていました。

                                  

イブキトラノオ(Persicaria bistorta、別名 bistort, common bistort, European bistort, meadow bistort、snakeroot,  snakeweed and Easter-ledges.)

説明はWikiから、

ヨーロッパおよび北アジアと西アジアに自生するタデ科の被子植物。タイトな円筒形の花序の、魅力的なピンクの花を持つ直立した多年草。 葉の基部は長い葉柄があるが、茎の葉は無茎です。 葉柄の上部には、葉組織の狭い翼があり、植物は丈夫な広がった根茎から成長します。

 

 


ダマスクローズ 218

2021年04月18日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

最近、エルダーフラワーコーディアルの文字をあちこちで見かけます。特にハーブガーデン等の地で見かける機会が増えているように思われます。レシピをご紹介して置きます。下の絵はエルダーフラワーの花を直接スパークリングウォーターの中に入れて絞る方法なので特にエルダーフラワープレッセ(elderflower pressé)といいます。

   

https://www.bbcgoodfood.com/recipes/homemade-elderflower-cordial

 

エルダーフラワーコーディアルの作り方

エルダーフラワーを手でむしり、水の中に入れます。砂糖、レモンの皮、レモンジュースを入れて一晩冷蔵庫で寝かせます。布で漉して、花とレモンの皮を絞ります。ボイルして瓶に入れて保管します。用に応じてクラブソーダ等を入れて供します。

  

https://thehappyherbalhome.com/elderflower-syrup-recipe/ 

 

シロップを用意しておけば、これで飲み物を作ったり、新鮮なフルーツ、ヨーグルト、デザートの楽しいトッピングとして使用できます。

乾燥エルダーフラワーを使うこともできますが、採ったばかりの花を使うとシロップに独特の香りと味を吹き込んでくれます。 クリーミーな白い小花が開いたばかりのときに、花を収穫します。

 

エルダーフラワーシロップの作り方

材料;

ニワトコの散形花序     20〜25個

レモン          4個(ジュースとゼスト)

水             1リットル

砂糖             1kg

 

方法;

  1. 散形花序の花をすすぎ、よく振って虫や破片を取り除き、水気を取ります。
  2. はさみまたは指で茎から小さな小花を取り除き、大きなボール(非反応性の容器;鋳鉄、銅、またはアルミニウムは含まない)に入れます。ニワトコの唯一の食用部分は花と果実で、他のすべての部分は有毒です。花に付いている茎に毒はありませんが、取り除きます。
  3. レモン汁と皮を花に加えます。
  4. 別の鍋で、水と砂糖をボイルし、かき混ぜて砂糖を溶かします。
  5. 砂糖が完全に溶けたら、エルダーフラワーとレモンの上の熱いシロップを振りかけてよく混ぜます。
  6. ボールに蓋をして、室温で3〜5日間放置します。この間に、エルダーフラワーの風味がシロップに染み込みます。
  7. エルダーフラワーシロップを濾します。
  8. シロップをきれいな瓶に移します。

                                                                      

エルダーフラワーシロップは冷蔵庫で1ヶ月間保管できます。

室温で長期間保存するには、濾したシロップを沸騰させ、きれいなガラスの瓶またはボトルに入れます。 沸騰したお湯で約10分間ボイルして、密封するとシロップは少なくとも1年間室温で保存できます。

 

エルダーシロップの利用;

クラブソーダに大さじ1〜2杯のエルダーフラワーシロップを入れると、さわやかな飲み物になります。又、白ワインまたはウォッカにエルダーフラワーシロップを加えると食前酒になります。

新鮮な果物(特にイチゴ)、ヨーグルト、またはアイスクリームの上にエルダーフラワーシロップを振りかけます。

濃厚な生クリームにスプーン一杯のエルダーフラワーシロップを加えて泡立てると繊細なデザートトッピングになります。

 

ニワトコとハニーアイスクリームの作り方

  

https://diabetestalk.net/diabetes/liquid-glucose-ice-cream-recipe 

 

材料

砂糖             100g

牛乳             500ml

液体ブドウ糖        小さじ3

卵黄             3個

生クリーム          250g

ホイップクリーム       150ml

エルダーフラワーコーディアル 大さじ3

蜂蜜             大さじ1

軽く砕いたピスタチオ     大さじ1

 

1. 砂糖、牛乳、液体ブドウ糖を大きな鍋に入れ、よくかき混ぜます。弱火で、牛乳が沸騰しなくなるまで蒸気が出るまで温めます。

2. その間、卵黄を大きなゆったりとしたベーキングボウルで軽くふわふわになるまで泡だて器で泡立てます。温めた牛乳をゆっくりと加えながら、撹拌を続けます。次に、卵と牛乳の混合物を鍋の牛乳に戻し、よく泡立てます。

3. 鍋とクリームを弱火に戻し、クリームが濃くなるまでかき混ぜ続けます。クリームが沸騰しないようにします。調理が速すぎたり、鍋の底に付着したりした場合は、火から下ろして少し冷まし、火を弱めてから調理を続けます。この部分に時間をかければかけるほど、クリームはうまくできます。

4. クリームを細かいふるいにかけ、片側に置いて冷まします。

5. カスタードベースが冷めたら、クレームフレッシュ、ホイップクリーム、コーディアル、ハチミツを加えてよくかき混ぜます。アイスクリームマシンでかき混ぜるか、混合物を浅い冷凍庫の容器に注ぎ、冷凍庫に入れます。混合物が凍ったら3〜4回叩いて氷の結晶を砕き、滑らかなアイスクリームを作ります。

6. 冷凍したら、蓋をして必要になるまで保管します。アイスクリームを冷凍庫から10分取り出してから、少し柔らかくします。

7. 最も美しいグラスまたはボールに入れて、必要に応じて、軽く砕いたピスタチオナッツを振りかけ、必要に応じてさらに多くの蜂蜜を振りかけます。

(液体ブドウ糖即ち、水飴、又はゴールデンシロップを使うとアイスクリームマシンがなくても口当たりの良いアイスクリームに仕上がります)

    

     エルダーフラワーカクテル   https://www.peacefulplacescandles.com/collections/squeaky-clean-clean-fresh/products/elderflower-spritz から写真をお借りしました。(レシピはオリジナルです)


エルダーフラワーシロップ、無い場合はサンジェルマン (エルダーフラワーリキュール) にシャンペン、又はホワイトワインを入れてそこにクラブソーダを注ぎ入れます。エルダーフラワーの枝を差して出来上がり。

 

 

 


ダマスクローズ 217

2021年04月16日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

タイユヴァン(このブログで初めて彼の名が出たのは2020/2/7でした)のヒポクラスのレシピは次のとおりです。

 

タイユヴァンのLe Viandierから、

  1. ヒポクラス(Hippocras;スパイスワイン)。

非常に細かいシナモン4オンス、カシアのつぼみ2オンス、メカジンジャー1オンス、グレインオブパラダイス1オンス、そしてナツメグとガリンゲイルをまぜたもの1/6(オンス)。全てをよく砕く。この粉を1オンス相当の量それに砂糖8オンスを用意してワイン1クォートに混ぜる。

 

クリスマスが近づくと、このスパイスワインを作って(男は)少しずつ口に含ませながらクリスマスの料理作りを手伝います。(今の話です)

日本で言えば、お屠蘇に当たるのでしょうか。お屠蘇は白朮(ビャクジュツ)、山椒、桔梗、肉桂、防風、陳皮、細辛(サイシン)、防風、乾姜(かんきょう)、鳥兜などを使いますが、摂取する目的は同じようなものでしょう。(随分と物騒なものが入っています。ご自分では作らないように)

 

ヒポクラテスは、エーゲ海に面したイオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシャ各地を遍歴しました。ヒポクラテスの名を冠した『ヒポクラテス全集』は、ライバル関係であったクニドス派の著作や、ヒポクラテスの以後の著作も多く含まれていますが、医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させました。四体液説を唱えるなど、人間のおかれた環境が健康に及ぼす影響についても著作を残しました。これらのヒポクラテスの功績は今までに何度も取り上げてきたことから記憶にしっかりと残っていることでしょう。古代ローマの医学者ガレノスを経て後の西洋医学に大きな影響を与えたことから、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれています。

  

https://www.travel-zentech.jp/world/map/greece/Kos-Island-Map.htm 

 

哲学者ソクラテスよりおよそ10歳年少で、この時代はギリシャの古典期にあたり、ペルシャ戦争に勝利したアテナイは、最盛期を迎え、哲学、建築、彫刻、文学など数多くの分野で今日まで影響を及ぼす程の文化が生まれた時代です。

五編引用しておきます。ヒポクラテスの、病に対する姿勢を汲み取って頂ければと思っています。ただし彼も時代の流れの中で生まれ、その中で育てられた医師です。時代の色に濃く染まっていることは当然のことです。そのつもりでお読み下さい。

 

ヒポクラテス コーパス(Hippocratic Corpus)から、

『城内の兵士たちは、私たちの部下が大いに怒り狂ってやってくるのを見て、自分たちを守るために死にものぐるいで、多くの兵士を槍、火縄銃、石で殺したり負傷させました。このとき私は水兵でした。私は傷口の治療に当たって、銃でできた傷をまだ見たことがありませんでした。私がジョン デ ビーゴ(John de Vigo)の最初の本である第8章の一般的な傷の項を読んではいたが。

銃による傷は、火薬のせいで毒を帯びていた。私は、焼灼治療の際に少しの解毒剤に熱く熱したエルダーオイル※を混ぜ合わせるように命じました。

そして間違いが起きないように、私が言ったオイルが使われる前に、これが患者に大きな痛みをもたらすことを知って、私はそれが使われる前に、他の外科医が最初の手当に何をしたかを尋ねました。それは、綿栓と串線を使って、私が述べたオイルをよく沸騰して傷口に入れたとのことでした。だから私は勇気を出して彼らと同じように施術したのですが。ついに私の油が不足したので、代わりに卵の黄身、ローズオイル、テレビン油で作った消化剤を適用することを余儀なくされました。

焼灼をするというやるべきことをしなかった、又、火薬の毒で傷んだ場所に油を使っていなかった、それらの理由でその夜、私は静かに眠ることができませんでした。傷を見ておくべきだと思いました。私は朝早く起きて彼らを訪ねました。私の予想を超えて、私が消化器系の薬を塗った人は痛みや炎症、腫れがなく、その夜はかなりよく休んだようでした。一方、沸騰した油を使った他の人たちは、傷口の端に大きな痛みと腫れがあり、熱っぽさがありました。

それ以来、私はこれら銃創を持ったむごたらしい貧しい人々に心を痛めることはありませんでした。』

 

※エルダーフラワー Elder flower (Sambucus nigra、セイヨウニワトコ)

ヨーロッパ、北アフリカ、南西アジアの温帯、開花期5~6月、エルダーフラワーは、真っ白な花がハーブティやシロップとして利用されるハーブの1つです。リラックス効果があることで知られ、古代エジプト文明の時代から、民間薬として利用されてきました。

  

https://www.growveg.co.uk/guides/recipe-ideas-for-elderflowers-and-elderberries/ 

 

エルダーフラワーはニワトコ属に分類される落葉性の中~低木です。樹高は2~10mほどに生長し、葉っぱは卵型で、縁にギザギザがあります。初夏には白い花を枝先にたくさん咲かせます。花の大きさは3~4mmで、甘いマスカットのような香りを漂わせます。その後に結実し、黒い実をつけます。この実にも花と同じ薬効があり、シロップやジャムなどに調理されます。

エルダーフラワーに含まれるフラボノイドやクロロゲン酸といったポリフェノール成分によって、発汗や利尿作用が期待できます。また、ケルセチンというフラボノイドには強力な抗酸化作用があり、風邪の初期症状や花粉症などのアレルギー症状を緩和する効果もあります。

欧米では果実が赤いセイヨウアカミニワトコ (European red elder)、果実が黒いアメリカニワトコ (American elder)、セイヨウニワトコ (Black elder) などを利用して、果実を果実酒やジャムにしたり、花を解熱、鎮痛等の薬用にします。花を砂糖といっしょに柑橘類などを入れて煮詰めて作ったコーディアルは、イギリスやオーストラリアでエルダーフラワーコーディアル(Elderflower cordial)と呼ばれ、水で薄めて飲用します。また、薄めずに飲むエルダーフラワー (Elderflower) と呼ばれているレモネードタイプもあります。又、オーストリア、ドイツではホルンダーブルューテン (Holunderblüten) と呼ばれ、水やクラブソーダ、プロセッコ(イタリア ヴェネト州の白のスパークリングワイン)で割っていただきます。

 

 


ダマスクローズ 216

2021年04月14日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

ステシコロスStesichorus of Metauros 

マートル※と薔薇の花輪が飛び交う

王の乗る戦車に。

マルメロを投じた、そして惜しみなく花を投げた

バイオレットの香水を落とした花を。

 

※ マートル(ギンバイカ、4/30の写真参照)Wikiから、

シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花であり、古代ギリシャでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされて花嫁のブーケに使われる。

 

※ マルメロ Wikiから、

果物はそれをsupurgilluと呼んだアッカド人に知られ、リンゴが育たない暑いメソポタミア平原や地中海周辺で栽培されました。

ギリシャ人はそれをシドニアンポムとしてクレタ島のシドニアと関連付け、テオプラストスはEnquiry into Plantの中で、マルメロは種子からは実らない多くの結実植物の1つであると述べています。

 

ギリシャの歴史家、ヘロドトス(紀元前490〜420年)によると、紀元前700年にエスキシェヒル(Eskisehir)近くの中央アナトリアで君臨したフリュギアのミダス王は、彼の庭で香りのよい薔薇を育てていたということです。ペルシャ軍に敗れた後、彼はバラをマケドニアに持っていきました。それらの薔薇はダマスケナの変種、(R. damascena var. semperflorens)であると信じられ、アナトリアの一部で現在も栽培され、「キングスローズ」と呼ばれています。それがこの花です。             

     

               エスキシェヒル 

  1. damascena var. semperflorens (別名、'Quatre Saisons Blanc Mousseux', Botanischer Garten Berlin-Dahlem )

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rosa_damascena_var._semperflorens 

 

10/28 にご紹介したあのQuatre Saisonsと同じバラでしょうか。

                                  

ヒポクラテス(Hippocrates , Hippocrates of Kos , Hippokrátēs ho Kṓosca. BC460-ca. BC370、古代ギリシャの医者。)について、5/6, 6/24, 6/30, 7/12, 7/14, 7/18, 7/20, 8/14とこれまでのブログの中で、彼については幾たびか名前が挙がっていたのですが、詳しく述べる機会がありませんでした。ここで取り上げようと思います。彼が著したHippocratic Corpus(ヒポクラテス コーパス:ヒポクラテス全集、紀元前5世紀後半または紀元前1世紀初頭 ) をご紹介するのが彼を知る一番の近道でしょう。

 

 “人生は短く、術のみちは長い : ὁ βίος βραχύς, ἡ δὲ τέχνη μακρή." という言葉、今でも耳にすることがあります。その他に、”ヒポクラテスの袖”、”ヒポクラテスの誓い”, “ヒポクラテスのベンチ”、“ヒポクラテス指”、“ヒポクラテス顔貌(死相のこと)”など、ヒポクラテスは今尚我々に影響を与えている医師です。

        

ヒポクラテスは、原始的な医学から迷信,呪術を取り除いて経験に基ずく科学へ導いた人物です。彼が着ていた上着の円錐状の袖が、ヒポクラスを作る際に使う袋、――ワインの中に入れたスパイスを濾す袋――に形が似ていたところから、その袋をヒポクラスの袖(a manicum pocraticum)と呼ぶようになりました。ヒポクラテスの袖は上の絵の通り、彼の袖はいつも長く膨らみがあります。7/12に取り上げたヒポクラテス(右側)も、その袖が長く描かれています。                       

 

 

 


ダマスクローズ 215

2021年04月12日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

再びキリスト教がまだない時代のいわゆるヘレニズム期(アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシャの文化が融合したギリシャ風の文化が花開いた時代であり、アレクサンドロス3世治世からプトレマイオス朝エジプト王国が滅亡するまでの約300年間、即ち、ローマの属州となるまでの時代を指します)に生まれた、薔薇に関する詩(サッポー以外の)をご紹介しておこうと思います。

 

アルカイック期におけるギリシャの植民地

ギリシャの植民地は、ローマのものとはちがい、母体の都市に依存せず、それぞれの権利を持って独立した都市でした。

 

ヘレニズム期の9歌唱詩人には、シモニデス(Simonides of Ceos、合唱詩、ca. BC 500), アルクマン(Alcman of Sparta、合唱詩、ca. BC 700)、サッポー(Sappho of Lesbos、独唱詩、ca. BC 600 )、アルカイオス(Alcaeus of Mytilene、独唱詩、ca. BC 600)、アナクレオン(Anacreon of Teos, 独唱詩、ca. BC 600)、ステシコロス(Stesichorus of Metauros, 合唱詩、ca. BC 600)、イビュコス(Ibycus of Rhegium, 合唱詩、ca. BC 600)、ピンダロス(Pindar of Thebes, 合唱詩、ca. BC 500)、バッキュリデス(Bacchylides of Ceos, 合唱詩、ca. BC 500)がいます。

薔薇の花を沢山詠んだアナクレオン、アルカイオスから一編ずつ、薔薇の詩はこれしか詠まなかったステシコロスの詩から一編選びました。残りの歌人の詩は殆どと言っていいくらいに残っていません。

 

アナクレオン(Anacreon of Teos)

116 バラの上

あなたにそよぐ芳しい甘い花

あなたの素敵な吐息、咲き誇る薔薇

詩を詠おう、友よ

花冠は春の贈り物、

彼女は快活に微笑み歩いてくる。

夏は後ろからやって来る。

 

夏の薔薇の花輪が膨らむ

花冠を揺らし輝く女王

膨らむ喜び        

神々の息吹はバラの香水。

  

バルビトス(Barbitos, 竪琴の一種)を持ったアルカイオとスサッポー

ヒュドリア、ブリュゴス(Hydria, Brygos)画、BC 510〜500 (ミュンヘン)

https://soundcloud.com/ancient-lyre/the-ancient-greek-barbitos で音色を聴くことができます。この楽器奏でるの音楽は飲酒パーティで鳴らす竪琴であると言われ、この楽器はテルパンデル(Terpander BC 7ギリシャ音楽の父)の発明と言われています。)実際に竪琴の音色を聴くとその逞しさに驚かれることでしょう。

 

アルカイオス

見よ! 優しい秋の花

丘の上は紫色に染まっている、

薔薇は木の下で枯れ、

ディルは姿を消した。

肌を刺す眩しい朝の空気、

午後は光に満ちて、

ヘスパー(Hesper)※は夜を告げる

そよ風が湿気を帯びて冷たい。

葡萄の、紫色の収穫

圧搾機の中で血を流す、

やがてワインの毒味にバッカスがやって来る

 

※ ヘスパー

ギリシャ神話では、ヘスペリデス(Hesperides )はギリシャ神話に登場するニンフ達で世界の西の果てにある「ヘスペリデスの園」に住んでいる、黄昏の娘たち。

  

ギリシャ花瓶下段;コルキス(Colchis)からの帰国の間、ヘスペリデスの庭にアルゴナウタイ(Argonauts、コルキスの金羊毛を求めてアルゴー船で航海をした英雄達)が到着し、迎えるヘスペリデス3人。真ん中にあるのは黄金のリンゴの木。

  1. B.C. 420 - 400 British Museum, London

 

3人のヘスペリデス(左から右へ)は、花瓶にアステロープ(Asterope)、クリソテミス(Chrysothemis)、リパラ(Lipara)と名が書かれています。黄金の林檎の木には竜に似た蛇ラドン(Ladon)が巻き付いています。

(ギリシャ神話に纏わるお話は割愛させていただきます)

 

 


ダマスクローズ 214

2021年04月10日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

 

サッポーも又、女性同性愛と結びつけられます。彼女がレスボス島出身であることからこれと結びつけられ“レズビアン”の呼称と結びつけられることになります。英語でレスボス人は "lesbian" と表記され、レズビアンの "lesbian" と同じつづりであることから、レスボス島は現在ギリシャ領でであるにもかかわらずトルコ名であるミティリーニ島の名が付けられています。彼女の詩から浮かび上がってくる姿とヘルマに彫られた彼女の容貌、それと下の絵との落差はどこから来るのものなのか。彼女を貶めなければならなかった訳は何なのか。書かれた、描かれた、刻まれたそれぞれの年代とその時代背景を見ればその理由は明らかです。

                                    

崖上に立つサッポー。 シャルル メンギン 1877画,( Charles Auguste Mengin , 1853-1933 )https://www.thoughtco.com/sappho-of-lesbos-picture-gallery-4123125

ある伝統では、サッポーはルーカディアンの崖から飛び降りて自殺したと伝えられています。バルビトスを右手に持っています(後述)

                                    

ヒュパティアも同様の仕打ちを受けています。時の権力に逆らった者がどういう扱いをされるのか。下の絵が物語っています。

 

Hypatiaの死、Charles William Mitchell画 1885

サッポーとヒュパティアの姿を見ていると、果たして ”薔薇の花” はどのような扱いになったのかという怖いもの見たさの気持ちになりました。取り上げてみようと思い

ます。

“バラの花の饗宴 (The Feast of the Rose Garlands ) ”を取り上げました。

 

『デューラーがヴェネツィア滞在中に描いたこの絵はロザリオを祈る信者の集まりを表しており、聖母マリアは膝の上に子供イエスを、右手に聖ドミニクが天使に囲まれ、バラの花輪を信者に配っています。 これは、1506年にヴェネツィア滞在中に描いたドイツの画家アルブレヒト デューラーの作品です。子供のイエスを抱いた聖母マリアに聖ドミニコは花輪の形で彼らに象徴的な祝福(symbolic blessing)を与えているのです。』という解説が付いています。

 

“象徴的な祝福”という言葉にこの絵を読み解く鍵があるように思います。“symbolic blessing” とは ”何が必要であるかを心得た上での祝福”という意味です。

 

この絵は、“バラの花の饗宴”という絵題は付いていますが薔薇は、花の形では登場しません。花輪になった姿の見えない薔薇が描かれています。“朝日に濡れ、朝露に包まれた薔薇の花がそっと咲くとき、その香気は頬を染めます”とかつては表現されてきたその花を、摘み取って花輪にしたモノを饗宴の場に引きずり出し、自らの飾り物としたのです。何者をも従え、屈服させた傲慢な顔がそこに見えます。薔薇の花はもはや高潔な精神(?)のシンボルと成り果てたのです。

 

 


ダマスクローズ 213

2021年04月08日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

※ キュプリス

アプロディーテー(古典ギリシャ語:ΑΦΡΟΔΙΤΗ, Ἀφροδίτη, Aphrodītē)をローマ神話ではウェヌス(Venus)、ギリシャ神話では「愛と美の女神」を指します。

サッポーはアプロディーテーをアプロディタ(Ἀφροδιτα, Aphrodita)とも、キュプリス(キュプロスの女神の意)という別名でも呼んでいます。

          

ロードス(Rhodes)で見つかった、陶製の酒杯の上にアッティカ様式で描かれた白鳥(π. 46-470)に乗っているアフロディーテ、アプロディーテー(ΑΦΡΟΔΙΤΗ, Ἀφροδίτη, Aphrodītē)愛と美と性を司るギリシャ神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱。パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれ、戦の女神としての側面も持っています。日本語では、アプロディテ、アフロディテ、アフロディーテ、アフロダイティ( Aphrodite)とも表記されます。元来は、古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神、植物を司る精霊、地母神であり、生殖と豊穣。すなわち春の女神です。                                                                

 

サッポー(Sappho、BC630年~BC612年-ca.BC570年)は、詩の中で薔薇を「花の女王」と謳っています。サッポーは生前から詩人として著名で、プラトンは彼女を十番目のムーサ(ギリシャ神話で文芸を司る女神たち)と呼んでいます。パピルスに残された記録によれば、サッポーはレスボス島で生まれ、BC596年にシケリア島に亡命し、その後、レスボス島に戻ったということですが、サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしません。

恋愛詩人としてのサッポーは古代ローマ時代にもよく知られ、オウィディウス(プーブリウス オウィディウス ナーソー、 Publius Ovidius Naso,  BC43/3/2日 - AD17/または18、帝政ローマ時代最初期の詩人の一人)は抒情詩「愛について」の中で『いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている』(Ars Amatoria, 第28行)と述べています。

しかし、その後、キリスト教が興隆し、独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は反聖書的であるとされ、キリスト教の力がエジプトにまで及ぶとサッポーの作品の多くが失われることになります。この頃から薔薇の花は邪悪な花、ローマ人のぜいたくな暮らしを象徴する異教の、退廃的な花、教義に反する花であるとの評価がなされます。ギリシャ学問の学校の女性校長であり著名な数学者、新プラトン主義哲学者、無神論者でもあったヒュパティア※( Ὑπατία, Hypatia、ca.350~ca.370- 415/3、東ローマ時代のエジプトで活動 )がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされる虐殺事件が起こります。更に、エジプトのキリスト教司祭により、アレクサンドリア図書館をも破壊し蔵書を焼き払ってしまいます。所蔵されていた大量のギリシャ学問、ヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩も失われました。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れてサーサーン朝ペルシャへ亡命した学者たちにより現在まで残っているのです。

 

アレクサンドリア図書館 https://talesoftimesforgotten.com/2020/04/04/what-was-really-in-the-library-of-alexandria/   

    

アレクサンドリア図書館はかつて世界最大の図書館でした。エジプトの都市アレクサンドリアの地中海沿岸にある文化の中心地でした。紀元前3世紀初頭、エジプトのプトレマイオス2世の治世中に、父親がムセイオンの神殿を設立した後、設立されたと考えられています(当時は「博物館」と呼ばれていました)。初期の組織はメトリオス ファレレウス ( 前 350-前 280 ) に起因し、ピーク時には40万から70万の羊皮紙の巻物を保管していたと推定されています。

                                    

サッポーの考えを彼女の詩から推し量る事は難しいのでヒュパティアの履歴を知ることで、当時の女性の考えを振り返ってみようと思います。彼女が述べた言葉から、『それでも、考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです・・・・・、真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです。』

これらの言動は、当時のキリスト教徒を激怒させ、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのです。

 

 


ダマスクローズ 212

2021年04月06日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

   

サンドロ ボッティチェッリのプリマヴェーラに描かれたΧλῶρις, Chlōris(フローラ)。

 

古代のバラと文化的伝統ギリシャ神話では、バラは女神の花として知られています。

春、花、新生と関連づけられたクロリス(Χλῶρις, Chlōris、上図)は、バラの冠をかぶっていました。バラは愛と美の女神アフロディーテの象徴でした。アフロディーテが愛の神であるエロスにバラを贈ったとき、そのバラは愛と欲望の象徴になりました。だからこそ、彼女はヘクターの死体にバラ油を注いだのです (8/14,1/14参照)。                                 

エロス(別名、クピド、キューピッド、アモル)が母親ビーナスの情事を隠すため、沈黙の神ハルポクラテスに薔薇を与えたとき、薔薇は沈黙と秘密の象徴になりました(上述)。“sub rosa” (subは、潜水艦:サブマリンから推測されるように ”下” を表す接頭辞なので、sub rosaとは ”薔薇の下“ の意)は”秘密裏の何か“ はここに由来しています。下には天井に大きく刻まれた薔薇の花が。

        

 薔薇の花の下に https://subrosa2019.blog.hu/2019/10/05/a_sub_rosa_jelentese

 

伝統によれば、ヴェッセレニー(Wesselényi-féle)※の貴族の(陰謀の)指導者たちは、1669年にこの部屋で会いました。そのため、この部屋は「A rózsa alatt : Under the Rose」という名前が付けられています。

 

※ ヴェシェレーニ陰謀(ズリンスキ=フランコパン陰謀、またはマグナート陰謀)は、17世紀のハンガリーで起きた陰謀事件。ハンガリーからハプスブルク帝国その他の諸外国の支配を排除しようとして計画された事件です。

 

陰謀の指導者の肖像画と彼らの処刑の描写:(左から右へ)ペタル ズリンスキー(Petar Zrinski)、フランツⅢ世ナダスディ(Franz III. Nádasdy)とフラン クルスト フランコパン( Fran Krsto Frankopan)。

 

中世の外交会議において、秘密と守秘義務を誓い合ったことの象徴として薔薇が会議室に吊るされたという用法は、実際にはずっと後になってからのものです。

 

サッポー( Σαπφώ / Sapphō、紀元前7世紀末 ~ 紀元前6世紀、古代ギリシャの女性詩人、出身地レスボス島ではプサッポー、Ψάπφω / Psappho)の詩のほとんどは、他の古代の作家の写本の中、パピルスや鉢植えの断片の中に残っているだけです。薔薇の花に関する彼女の詩があるというので、訳してみました。我ながら何とかならないかという訳ですが、我慢してください。彼女が薔薇の詩を詠んだということが理解していただければと思い、敢えて訳出しました。キリスト教徒がいうところの異教的退廃とはほど遠い、作為の感じられない詩の美しさが感じられました。

      

上の像はサッポー。ヘルマ( ἕρμα, herma ; 石もしくはテラコッタ、青銅でできた正方形あるいは長方形の柱)の上にのっていた胸像です。紀元前5世紀、碑文にはエレソスのサッポーと刻まれており、この像はローマ時代に作られたコピーと思われます。カピトリーノ(Capitoline)美術館蔵。 https://www.thecollector.com/helen-of-troy/  

 

サッポーの詩、オクシリンコス パピリ(Oxyrhynchus Papyri)の断片:Part X. 

https://theconversation.com/guide-to-the-classics-sappho-a-poet-in-fragments-90823  

   

PSI XIII 1300 (c. 200 BCE) containing Sappho fr. 2.

 

サッポーの詩 https://www.gutenberg.org/files/42166/42166-h/42166-h.htm#THE_ROSE から、

          

薔薇

気まぐれなゼウスの意に適えば

花の王を選ぶときには、きっと

凛とした美しい薔薇の花に冠を戴かせたに違いありません、

その比類ない存在に;

その優美さは谷を渡り、丘を飾り、

恋いこがれる思いは神殿を建てた、

愛らしい魅惑の花;
死すべき運命を持った者たちにその眼差しは向けられているのです;

 

植物の喜びと誇り、そして庭の美しい称揚、

緑野の頬にもたらす美しき紅潮;

明けそめる朝あけから吐きだす火と滴

色と匂い;

 

やわらかい吐息、その香りは情熱への願いであり、

キュプリス※のキスを受け入れるために咲くとき;

香る葉の中にその震える花びらを覆い隠すのです

そよ風の中で微笑みながら。

                           

 

 


ダマスクローズ 211

2021年04月04日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

下は、ビアズリーの、モローよりも50年ほど後になって生まれた、「サロメ」です。

         

『サロメ』オーブリー ビアズリー( Aubrey Vincent Beardsley, 1872/8/21 – 1898/3/16、イギリスのイラストレーター、詩人、小説家)1893画

 

ビアズリーはこの絵を描くのに相当苦労 ? したように思います。単に、サロメとヨハネを描いたのではないことは見て取れます。如何に描くかは、能力をフル活用して挑んだのでしょう。全て自分の力から紡ぎ出された作品です。サロメのドレスには日本の着物の影響が見られますが、絵の右端に描かれた薔薇の花には、イギリス人らしさが出ています。イギリス人に取って薔薇は「美と廃頽」の象徴なのでしょう。(絵には描いた本人の個性よりも、国民性の方が濃く出ます------私はそう思っています。少なくともこの絵はそうでしょう) 

          

The Dancers Reward, from Salomé: a tragedy in one act (London 1904)

ルネサンス以降、サロメは洗礼者ヨハネの首が乗った盆を持つ姿で描かれるのが定番で、《ヨハネの斬首》と《サロメの舞踏》は対をなす絵です。

 

モローの絵については色々なコメントがあります。ご紹介しておきましょう。

「モローはサロメの衣装について次のように述べています。私はまず頭の中でその人物に与えたい性格を考え、それからその基本的な着想に従って衣装を着けた。サロメの場合、私は神秘的な性格を持った巫女のような、宗教的な魔術師のような人物にしたいと考え、あたかも聖遺物匣のごとき、古代エジプト美術の女性像から発展させた衣装を思いついた。

本作品の最も驚嘆すべき点は縦長の大画面の中に幻想的かつオリエンタルな空間を創造していることで、モローはこの空間を作るために様々な建築学的モチーフを合成している。またモローは大画面の左下にサロメを小さく描きつつ、サロメが舞踏する空間を明暗の効果のもとに描き出している。絵画は最も明るい画面右上から左下のサロメに向かって暗さを増していくが、白い衣装を身にまとったサロメはその暗がりの中でひときわ輝いて見える。」

 

「新約聖書における伝承では母である王妃ヘロディアの道具であるかのように行動したサロメだが、モローはこの女性を自立した《ファム ファタール》として描いた。

この女が表すのは永遠の女であり、彼女は、花を手にして、曖昧な、時として恐ろしい観念を追い求めて、しばしば不吉な小鳥のように生を送り、あらゆるものを、天才や聖者までをも、その足元に踏みにじっていく。この踊りが行われ、この神秘的な歩みが止まるのは、絶えず彼女を見つめ魅力的に口を開いた死の前、すなわち剣をうち降ろさんとする刑吏の前である。これは、言いようのない観念や官能や病的な好奇心を求める者に運命づけられた、恐ろしい未来の象徴なのである。」

 

ピエール=ルイ・マチュー(Pierre-Louis Mathieu)によれば、「サロメが持つ花は快楽、クロヒョウは淫蕩を意味するという。モローはこれらのモチーフによって古代以来のイメージを刷新し、妖婦あるいは毒婦といった新たなイメージをサロメに与えていると言えよう。こうしたサロメ像を推し進めたのが同じ年にサロンに出品した『出現』である。この作品では舞踏を披露するサロメの眼前に洗礼者ヨハネの首が宙に浮いた形で出現している。ヨハネの首はサロメ以外の人間には見えておらず、彼女の舞踊の結果もたらされる恐るべき運命として現れている。しかしその幻影を見てもサロメは舞踏を止めはしないのである。」

    

Moreau’s L’Apparition, detail

 

「無表情で、サロメの目は空中に浮かんでいるジョンの血まみれの頭を直視しています。サロメの憐れみを求めて、彼の目は嘆願する一方、彼の口は恐怖で開いています。背後では、ヘロデ、ヘロデヤ、死刑執行人は洗礼者ヨハネの頭に気づかず、サロメは遠くを見つめています。誰もが目をそらし、責任を回避している間、サロメは無表情に犠牲者を直視し、自らの罪を確かめようとしています。モローは、サロメが斬首しようとしている男を挑戦的に見つめているように描写することで、彼女を斬首した首の最前面に置き、ヘロデヤとヘロデのジョンの斬首における責任を消し去ったのです。

この方法を取ると、サロメのダンスの本質が変わります。サロメは最早、母親の命令に従う駒ではなく、自らのセクシュアリティを使ってヘロデを意図的に魅了し、同時に聖人の没落をもたらすファム ファタールとなったのです。イブが男を罪に誘い込むように、サロメは王を「魅了」するために無関心、無責任、無感動を装って毒をふりまきながら踊っているのです。」                                                                    

    
     

 

《出現》フランスの画家オディロン ルドン (1840/4/20-1916/7/3) 1905年から1910年の間に制作。プリンストン大学美術館所蔵。( サロメの画題“L’Apparition” には幻影、幻の意も。)

 

モローとも交友関係にあったルドンの《出現》は、おそらくあの《L’Apparition》を彼の絵で再現したものでしょう。

右手に花束を持つのがサロメ、右側にはヨハネが。手をつないでいるように見えます。

ヨハネの全身からは光が放出され、サロメの体は光に満ちています。二人の体から出た光は前方を照らし出しています。画面左には食虫植物が口を大きく開けていますが、その横を歩む二人は感情的な静けさと喜びに包まれています。激しい感情を内包した、この絵を生み出すまでには相応の時間を要したと思われます。一旦あらゆるモノを飲み込んだ上で、再び吐きだすまで・・・・・・。下手な解説はこれくらいにして、ルドン自身が書き残した手記を引用しておきました。

 

 1902年に彼は作品の制作過程について以下のように述べています。

『殆ど理論的な花というものは、視覚的な外観を、観念が捉えた全体的な印象に従わせる。理論という考えはともかく、これは恐らく真実だ。いずれにしても、この判断が私の仕事のいくつかを統制し、特徴づける。制作の半ばにして、今述べた結果のために、私の記憶という助手が突然現れ、いくつかの作品の停止を強制し、それらが明確にされていて私が思うままに組織されるのに気づくことがある。表象の岸と思い出の岸という、二つの岸の合流地点にやってきた花。それは芸術そのものの実る土地であり、精神によって鍬を入れ耕された、現実の良き土地なのである。』

 

『暗示の芸術は、ものが夢に向かって光を放ち、思想がそこに向かうようなものです。退廃と呼ばれようが、呼ばれまいが、そういうものです。むしろ我々の生の最高の飛翔に向かって成長し、進化する芸術、生を拡大し、その最高の支点となること、必然的な感情の昂揚によって精神を支持するのが、暗示の芸術です。』

 

『私の芸術の展開にとってもっとも必要だったものは,現実のものを丸写しし,外界の事物を,そのごく微細で,特殊で,偶発的な点において注意深く再現することでした。小石,草の葉,腕,横顔など,さまざまな生命あるもの,生命ないものを細かく写しとるために苦労したあとで,私は頭が混乱してきたように感じます。そのときこそ,なにかを創造したい,つまり想像力のおもむくままに表現したいとおもうのです。自然はこのように調合され,煎じられて,私の源泉,酵母,パン種となります。おもうに,まさにこの源から,私の本当の創意は生まれてくるのです。』

 

彼は,現実と幻想との境界にある荒涼たる地域を征服することができた.そして,その地域を,おそるべき亡霊や,怪物や,浸滴虫類や,いっさいの人間的邪悪といっさいの動物的低劣と無力有害な物の持ついっさいの恐怖とで作った複合的存在によってみたしたのだ。のなかに,科学的確信ではなく,さまざまな未知の美しさ,新奇で気取った直接的な表現手段の奇妙さ,創意,夢といったものを熱烈に求める精神の階級の代理人としてみなされねばならないのである.そしてこれら,いわゆる“デカダン”の精神は今日,かなり大きな勢力となっているのだ.

 

ルドンがエミール・ベルナールに(1895年4月14日)書きおくった手紙から;

私が少しずつ〈黒〉を見捨てているというのは本当です.ここだけの話ですが,それは私をくたくたにさせるのです.おもうにそれはその源泉を私たちの肉体の奥深いところからとっている,要するに,それはもっとも本質的な色彩なのではないでしょうか.むかし,デッサン(もちろん,不完全なものですが)を描きましたが,そのやり方だと,描きおわってみると,まるで力を出しすぎたあとのようでした.色彩はこれとはまったく別のものです.いまパ ステルに手をつけています.それに,サンギーヌも.この 柔和な素材のおかげで私はくつろぎ,楽しい気分になります.

                                                                      

 

 

 

 

 


ダマスクローズ 210

2021年04月02日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

モローに戻ります。

華麗な宝石細工を思わせる硬質な色彩の輝きを持ったギュスターヴ・モロー(1826-1898)の作品は、実証的、自然主義的傾向の強い19世紀後半のフランスに、 多彩な異国の花のような妖艶な美の世界を繰り拡げて見せました。パリの建築師の息子として生まれた彼は、美術学校に学んだ後、イタリアに旅行して、ヴェネツィア派やミケランジェロの影響を受けたが、 過去の巨匠たちに対する博い知識と深い尊敬の念にもかかわらず、生涯を通じて、自己の心の中の映像世界を守り続け、自己の夢に忠実であり続けた。 彼の描き出す作品は、旧約、新約の聖書の世界、あるいは古代の神話や伝説に想を得たものが大部分ですが、彼は、単に物語の絵解きをするだけではなく、 物語に触発されて自在に想像力を飛翔させ、豊麗なイメージのなかにそれを結晶させます。 イタリア滞在時代の風景スケッチや、パリのギュスターヴ・モロー美術館に残されている数多くの人物デッサンを見てみると、彼が優れた観察眼の持主であったことは明らかです。しかし彼は、眼の前の自然の姿をありのままに再現するだけでは決して満足できなかった。 モローにとっては、美の世界は、現実を離れた想像力のなかにこそ存在する。 「私は眼に見えるものも手に触れるものも信じない。眼に見えないもの、ただ感じ得るものだけを信じる」という彼の言葉は、画家としての信条告白であると同時に、 彼の美学宣言と言ってもよいでしょう。
 このようにして、繊細な感受性に支えられた彼の華麗な夢の世界が織り出される。 旧約聖書の「ソロモンの雅歌」に霊感を得たこの作品も、華やかな飾りをつけた花嫁の姿を借りながら、彼自身の理想の美を定着して見せたものである。 紅白の百合の花を手にしながら、どこか哀愁を湛えた端麗な顔をやや媚びるように傾けて華麗な邸館のテラスに立つこの花嫁の姿は、サロメや、ガラテアや、ダナエと同じく、 モローが生涯を通じて追い求めた夢の女の一人にほかならない。 画面右手奥に見られる蒼い町は、彼が愛した異国情趣豊かなヴェネツィアの思い出を宿しているのだろうか。ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル、ウジェーヌ・ドラクロワ、 テオドール・シャセリオーと受け継がれて来た華麗な東方世界への憧れは、モローによって、新しい官能の夢に昇華させられ、西欧世紀末を鮮やかに彩ることになるのです。

   

油彩画『ヘロデ王の前で踊るサロメ』( Salomé dansant devant Hérode)ギュスターヴ モロー(フランスの象徴主義画家、1826/4/16-1898/4/18 )1876画。ロサンゼルス アーマンド ハマー美術館蔵。

 

主題を“マルコによる福音書”等に登場するヘロデ アンティパス王の娘サロメから取っています。壮麗な宮殿の広間で、豪奢な宝飾と衣装を身に纏い、舞踏を披露するために進み出るサロメは、手に白い花を持ち、瞳を閉じて、爪先で立っています。大きな複数の柱に支えられた天井からは光が差し込んでいます。画面中央にヘロデ王が玉座に座り、その上方に3体の神像が、背後から差し込む光で暗く照らし出されています。画面右には抜身の剣を持った刑吏が立ち、サロメの左奥には楽器を奏でる奏者が座し、その奥に王妃ヘロディアが立っています。また右画面下には繋がれたクロヒョウがサロメと向き合う形で寝そべっています。

 

同年に発表された水彩画『出現:L’Apparition』1876画 オルセー美術館蔵

踊るサロメの前に洗礼者ヨハネの首が現れる、幻想的な絵柄で世紀末のデカダンスに大きな影響を与えました。

 

マルコによる福音書には、上の2枚の絵の経緯が描かれています。絵を理解するには、次の文章を読んでいただくのが一番よいでしょう。

マルコによる福音書から;

6:14さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、 6:15他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。 6:16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。 6:17このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。 6:18それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 6:19そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 6:20それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。 6:21ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、 6:22そこへ、このヘロデヤの娘(サロメ)がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、 6:23さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。 6:24そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。 6:25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。 6:26王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。 6:27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、 6:28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。 6:29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

 

『新約聖書』の『マルコによる福音書、6:14-6:29』ではヘロデ王の娘の名前は上文の通り明言されていませんが、フラウィウス ヨセフス( Flavius Josephus、37年 - 100年頃)による『ユダヤ古代誌( Antiquitates Judaicae, Book XIV; ユダヤ古代誌第14巻第7章)』には「サロメ」で登場しています。この物語は19世紀末にオスカー ワイルドが大胆な解釈で戯曲化したことで《宿命の女:ファム ファタール、男にとっての「運命の女」というのが元々の意味ですが、同時に「男を破滅させる魔性の女」として》広く知られることになりました。

 

モローの絵は日本でも人気があって、ご存じの方の多いのではと思います。いつ見たのかは忘れたのですが特徴があり、今もハッキリと脳裏に刻み込まれています。何故でしょう。その「何故か」を長い間抱え込んでいた気がします。ここいらでハッキリとさせておかねばと、これまた何故か思い至りました。上の絵を見た瞬間に1/3位はその「何故」が解けた気がしたからです。つまらん自説かも知れませんが、まあ聴いてください。

 

お話は突然変わりますが、かつて、「何を話すかではなく、如何に話すかが問題なのだ」という言葉を「成る程」と変に納得して聴いた記憶があります。随分とイギリスっぽい内容のフレーズですが、「喋るのを聴けば、出身階層がわかる」とされた社会では如何に話すかは重要事なのでしょう。

モノを新しく作り出すには、いくつかの方法がありますが。「何を作るのか」から始まって「どのように作るのか」を考えて初めて着手するのが正当法 ? でしょう。そこにモノを作り出すことの楽しさと苦しみがあります。

ところが何を作るのかが既に決まっていて、どのように作るのかだけを考えれば良いのであれば、これほど楽な、手を抜いた作業はありません。失礼ながら、モローの絵はこれに当たります。モローの絵の奥深さ ? はこれまで書かれた物語がいくらでもこの先、生み出してくれるからです。絵を見る人間の知識と経験がこの先、如何様にも編集してくれます