Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ミンスミートパイ

2018年05月12日 | お菓子の歴史

ミンスミートパイ


ミンスミートパイは「クリスマス又はニューイヤーに食するイギリスの伝統的食べ物である。スイートパフ又はショートカットペイストリィで作る直径2-3 インチの大きさのパイであり、アメリカでは8-12インチのパイを指す。」と一般に言われている。

そこでミンスミートパイを知る手掛かりとして イギリスの古い料理書から、できるだけ今のミンスミートパイに近い料理を2つ取り出した。


ca. 1390年刊のフォルム・オブ・クーリィから;

185.ミートデイのチュベット( chewet )

ポークの肉を用意して全てピースに切り、メンドリ(の肉)をいっしょに入れてパンの中で

フライする。小さなパイのコフィンを作り、その中に入れる。上に固ゆでした卵黄、パウダージンジャーをのせて、塩をする。 フタをしてグリスの中でフライする。

又はよく焼いてサーヴする。

 

195.ペティペラウント ( Pety Pernaunt )雄牛の骨髄を用意して, そのまま取り出して生のまま切る。パウダージンジャー、卵黄、ミンスしたデイツ、カラント、塩を少量(加える)。 ペイストは水を加えずに卵黄で作り、これでコフィンを作る。(骨髄を詰めて)ペイストを仕上げる。( 脂でフライする )

ミンスミートパイを語るとき、前者のチェベットが引き合いに出るが、同時代に作られた料理の中で現在のものに近いのは、 むしろペティペラウントであろう。

ミンスミートパイに欠かせないものは、牛、羊、マトンいずれかの肉、ペッパー、メイス、ナツメグ、クローブ、シナモン、 ジンジャーのスパイス、レーズン又は カラント、パイペイストであり、ペティペラウントはそのほとんどを備えている。 しかもPetyは小さいの意であり、ミンスミートパイに相応しい。

( ”Chewet”、“Pernaunt” は共に語源は明らかではなく、レシピの内容から訳語を作りだしている為にどちらがミンスミートパイの元の料理であるかは 断定できない。)   ペティペラウントは1350-1500年間に出た料理書に見られ、Pernaunt、 perneux, pernollys, peruaauntと綴りは変わるが、 いずれも同じ料理である。



MS Harley 5401 ca. 1100-1485では;

チュベット( Chewets. )

ローストしたシャポン又はメンドリを細かくチョップする。ジンジャーパウダー、クローブ、ペッパー、塩を振り、 小さなコフィンの中に入れる。 蓋をして脂で フライする。デイッシュに入れてサーヴする。

( 1467年のA Noble Boke off Cookeryにはプディング、パイ、チュベットのレシピがある。 1435年のHarleian MS 279、1508年のThe Boke of Kervynge にはプディング、パイ、チュベット、ペティペラウントのレシピがあるが これ以降ペティペラウントは料理書から姿を消す。) The Boke of Kervynge には料理名があるだけでレシピは無いので、 1435年のHarleian MS 279よりチュベットとペティペラウントを取り上げて比較してみよう。



チュベット( Chewettes )

小麦粉、水、サフラン、塩できれいなペイストを作る。丸いコフィンを作る。rissℏeshewes※の詰め物を作って入れる。

rissℏeshewesの時のように熱いままサーヴする。

 

※   rissℏeshewes とは ( HARL. MS. 4016 ab. 1450 から引用すると ) 骨髄のルスチューズ---------小麦粉、生の卵黄、砂糖、塩、パウダージンジャー、サフランでケーキを作る。骨髄、砂糖、パウダージンジャーを用意してケーキの上に並べて二つに折る。ルスチューズの方法で切り、フレシュグリスでフライしてサーヴする。

ペティペラウント ( .xx. Pety Pernauntes )

きれいな小麦粉、砂糖、サフラン、塩を用意してペイストとコフィンを作る。生の卵黄、砂糖、ジンジャーパウダー、カラント、ミンスしたデイツを適量用意する。これをボールに入れて一緒に混ぜる。コフィンに入れて脂でフライする。

フォルム・オブ・クーリィから約45年経った時点で、ペティペラウントはスイーツに、チュベットはミンツパイへと姿を変えたようだ。
残念ながら、変化の理由はわからない。

更に時代を遡ったca.1550年に刊行のA Proper newe Booke of Cokerye ( mid-16th c. ) にはマトンのチュベットパイ( Chuettes of pyes of fyne mutton )が登場する。

この頃からチュベットとパイは「チュベットパイ」とペアで呼称されることが多くなり、パイの範疇にチュベットが入る事になる。

以降、1594年のThe good Huswifes Handmaide for the Kitchinまでチュベットが登場するが、1573 年のジョン・パートリッジ ( John Partridge ) による

ザ・トレジャリィ・オブ・コモディアス・コンシート ( The Treasurie of commodious Conceits ) では、レシピからパイ(実体はパイであるが)の名が突然に(?)姿を消す。

 

ザ・トレジャリィから;

骨髄で作った豆の鞘 ( To make Pescods of Marow. )

骨髄をスライスする。ペイストを紙のように薄く延ばす。レーズン、シナモン、少量のジンジャー、砂糖を骨髄の上にのせる。

(ペイストで)豆の鞘のように包んでバターでフライする。シナモン、砂糖を振ってサーヴする。このレシピのようにザ・トレジャリィでは「雄牛のタンのパイ」は「雄牛のタンを焼く」、「チキンパイ」は「チキンを焼く」、「マルメロのパイ」は「マルメロを焼く」と表記され、全ての料理名からパイの文字が消えている。( レシピの中に ”パイ” 、”コフィン” は
出てくるが。) しかもパイ料理の数が少ない。上の料理は従来からの呼称を使えば「骨髄のパイ」となるはずだ。

 

「何かが起こったに違いない?」と考えるのは私一人でないだろう。唐突かも知れないが、オリバー・クロムウェル( Oliver Cromwell, 1599/4/25-1658/9/3、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。鉄騎隊を指揮して清教徒革命の内戦において国王軍に対抗し議会派を勝利に導いた。)に注目した。

と言うのも、彼には『ネイズビーの戦い( The Battle of Naseby )で国王チャールズⅠ世をスコットランドに追い払い、護国卿となって独裁体制を敷いた。クリスマスを、聖書で容認されていない暴飲暴食、酔っ払いを産み出す不信者のお祭りであると決めつけたのである。オリバー・クロムウェル率いる清教徒会議は1657年12月22日、クリスマスを廃止し、ロンドンでは兵士たちが匂いをかいで町をまわり、クリスマスのために準備された料理を力づくで奪い去った。パイは「禁断の愉しみである」と見なし、罪深い料理であるとしたのである。又伝統的なミンスパイをも禁じてしまった。クリスマスはチャールズⅡ世( Charles II, 1630/5/29-1685/2/6 )が亡命先のオランダ, ブレダから1660/5/29にロンドンに入城してやっと元の姿を取り戻した。』と言う犯罪歴(?)があるからだ。

 

クロムウェルが現れた時代背景を少し知っておく必要があると思うので此処に少し述べておこう。

1641-1649年にかけて起きた清教徒革命またはピューリタン革命( Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms )は、主因はチャールズⅠ世の政治能力の欠如だろうが、エリザベスⅠ世 ( 1533/9/7 – 1603/3/24 ) の治世末期に既にその原因が芽生えていた。農村や社会構造の急な変化に国家体制が対応できず、社会のひずみが次第に大きくなった時代である。ヨーマンは( Yeoman、イングランドの独立自営農民 )次第に裕福になってジェントリになる者と、より貧しくなって離農する者へ二極化する。エリザベスⅠ世は救貧法などで社会的安定を保とうとしたが、貧農が都市に集中して急激な人口増加がおきた、ここに宗教改革、修道院の解散などが起こり、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成し、ついに1642年には議会軍と国王軍の内戦が始まった。

当初は実戦経験でまさる国王軍が有利であったが、軍制改革が行われて議会軍が強化されると、議会軍が優勢になった。当初騎兵隊の隊長であったオリバー・クロムウェルが議会軍のなかで次第に頭角をあらわし、ニューモデル軍結成時にはその副司令官となった。

議会軍はネイズビーの戦い( The Battle of Naseby ; 1645/6/14 )で勝利を決定づけ、急進的になった民衆や議会の下、1645年にウィリアム・ロード( William Laud、1573/10/7-1645/1/10、国教会の改革と宗教統一を持論とし、祈祷書の遵守と礼拝の統一、聖職者の統制政策を推進した。

聖職者が世俗問題に積極に関与することを勧めた。これに対し清教徒らは激しく抵抗したが、高等宗務官裁判所や星室庁裁判所を舞台に徹底的に弾圧した、政治家・聖職者であり、チャールズⅠ世の側近であった)が処刑され、1647年になるとオリバー・クロムウェルによりクリスマスの禁令が出され12月25日は平時の就業日とされた。暴動が起こる地域もあったがいつも通りにクリスマスを祝う処もあった。

教会での儀式、奉仕活動は兵士によって阻止され、クリスマスの商品を扱う店は権力により閉鎖された。ロンドン市長でさえもクリスマスの飾りをうち捨てた。クリスマスプディングも作ることは許されず、闇市場から手に入れる始末であった。1649年にはチャールズⅠ世が処刑された。

 

ジョン・テイラー ( John Taylor , 1578/8/24 – 1653 ,イギリスの詩人。自らを "The Water Poet"と称す ) は、「伝統的なクリスマスの食べ物は禁じられた。特にプラムプディングとミンスミートがその標的となった。ミンスパイ(横長の円形をしていた)を幼児キリストが寝ていた飼い葉桶であると言い、そこに加えるシナモン、クローブ、ナツメグが降誕をお祝いに来た東方の三博士※の贈り物を象徴すると言う。何をもってカソリック教的であると断じるのか!」と批評した。東方の三博士の贈り物の話は聖書からの引用であろう。少し長いが「マタイによる福音書」を引拠しておこう。

 

『 2:1イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、

2:2「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」

2:3ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。

2:4そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。

2:5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、

2:6「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」。

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、

2:8彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。

2:9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。

2:10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。

2:11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

2:12そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。』とあり、贈り物は必ずしも3種ではなく、ましてやシナモンの類ではない。確たる証拠はないが。

ミンスパイの元となった食べ物はイスラム経由のものである。

高い文化を誇ったイベリア半島のトレド、南イタリアシチリアのパレルモを見れば解るように661-750年の間統治したウマイヤ朝、750-1258年まで続いたアッバース朝の下で、その地で暮らしていたイスラム人がヨーロッパに食文化-ミンスパイを伝えた。

 

1200年代に書かれた料理書、「Two Anglo-Norman Culinary Collections Edited from British Library Manuscripts Additional 32085 and Royal12.C.xii. Speculum, Vol. 61, No. 4. (Oct., 1986), pp. 859-882」にはチュベット或いはペティペラウントらしき料理はなく、現在手にする事のできる最も古い、ミンスパイに繋がるレシピは、MS Harley 5401 ca.1100-1485. の中の次のものである。

 

チュベット ( Chewets. )

シャポン又はメンドリの肉を細かくチョップする。粉にしたジンジャー、クローブ、ペッパー、塩を全て小さなコフィンの中に入れる。

周りを閉じて新鮮な脂でフライする。デイッシュに2個入れてサーヴする。

 

1200年代に編まれたアンダルシア地方の Kitab al tabikh fi-l-Maghrib wa-l-Andalus fi `asr al-Muwahhidin, li-mu'allif majhul. からミンスパイに似た料理を引用した。

この頃はまだスペインのレコンキスタが完了しておらず、イスラム色が濃いレシピであると判断したからである。( できればアラブ諸国の料理を紹介したかったのだが。)

 

ラムパイ ( Mukhabbazah of Lamb )

卵白をかき混ぜ、スパイスで香り付けをしたラムのミートボールを作る。ポットにスプーン一杯のオイル、コリアンダーの汁、スプーン一杯のタマネギの汁、1/2杯の murri 、ペッパー、シナモン、チャイニーズシナモン ( Cinnamomum cassia, カシア )、松の実を一握り、コリアンダー、少量のキャラウェイ、スプーン一杯の水を入れる。ミートボールが固くなるまでクックする。

ソースをクックする。卵2個をその中に入れてボイルし、炉端から取り出す。白い小麦粉、水、オイルを錬ってドウを作る。

これでパイクラストを作る。ここにミートボール、ボイルした卵を入れる。割って入れる。ドウのシートで蓋をする。オーブンに入れて焼く。  神の思し召しがありますように。

 

Mukhabbazah:パイ

Murri :赤い色素、スパイス?

 

上の2つのレシピを見る限り、ヨーロッパにミンスパイが伝わったのは1200年より以前のように思われる。カール大帝の頃の料理書が見つかる事を願うばかりだ。

 

ジョージ・トマソン ( George Thomason , 生年不詳-1666/4没 ) が1646年にバラッド、“ 世の中がひっくり返った ( The World Turned Upside Down ) ” でクリスマスが禁じられたことを悲しむ詩を発表した。

 

To conclude, I'le tell you news that's right,  結論を言えば、本当の事なんだ、
Christmas was kil'd at Naseby fight:     クリスマスはネイズビーの戦いで殺された
Charity was slain at that same time,     同時に慈悲の心も虐殺された、
Jack Tell troth too, a friend of mine,     友のジャックも本当のことだと言っていた、
Likewise then did die,               ローストビーフにシュレッドパイも
Rost beef and shred pie,             同じように殺された、

Pig, Goose and Capon no quarter found.   豚やガチョウ、シャポンだって容赦はない。                        

Final Chorus:                  繰り返し:
Yet let's be content and the times lament,   時代を嘆くほどにまだ納得はしていないが、
You see the world is quite turned round.   世の中本当にひっくり返ってしまったのだ。

     

                            上は“世の中ひっくり返ってしまった”と言う絵。

         The world turn'd upside down:London:  Printed for John Smith, Jan 28 1646.

馬が馬車を駆り、ネズミが猫を追いかける、兔が犬を追いかけて、手押し車が人を運ぶ等々。人々の驚きぶりが理解できるだろう。清教徒達は、ホリディはその名の通りHoly (神聖な) day(日)であり、騒ぎ立てずに厳粛に過ごすべきであると考えたのである。

                   

このような社会の変化を料理書はどのような影響を受けていただろう。社会が変貌する1550年頃から1660年の約100年間に出版された料理書を詳しく調べてみた。( 此処では見やすく、比較できるように料理書が発行された年代のみを記載した。著者、書名等は下記の参考文献を見られたい。)

 

1550年;チュベット、パイのレシピ有、プディング無、カンタベリー大司教 Matthew Parker所持。

1562年;フィッシュパイのみ、野菜のプディングのみ。

1573年;骨髄で作った豆の鞘、類似のレシピ有、プディング無。

1584年;パイ、プディングのレシピ多数有。著者はA.W.と記載。

1594/7年;チュベット4種、プディング8種、パイは無、著者不明。

1597年;チュベット無、パイ2種、プディング7種。

1615年;チュベット、パイ有。ミンス、シュレッドパイ無。

1646年のバッラドによればシュレッドパイと呼ばれるミンスパイがあったようだ。

1653年;アーティチョークのパイのみ、アーモンドパイのみ、著者不明。

1669年;パイ、プディング多数、チュベットは姿を消す, ミンスパイが姿を現す。

1684年;ミンスパイが溢れるように多数現れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1747年;パイ、プディング多数。

 

矢鱈(失礼)抑圧された内容になっているのでは?と思うのだが。1660年を境に溢れるように、真新しい、斬新なミンスパイが登場した事を持ってしても、料理書が歴史的な出来事に大きな影響を受けていたと考えて良いだろう。

 

ここで料理人以外の意見をもう一つ紹介しよう。

1659-1669年の間に日記をしたためていた人物がいる。サミュエル・ピープス( Samuel Pepys, 1633/2/23 – 1703/5/26 、イギリスの官僚。王政復古の時流に乗り、一平民から出世しイギリス海軍の最高実力者になった人物であり、国会議員及び王立協会の会長も務めた。王政復古後の海軍再建につくし「イギリス海軍の父」と呼ばれている。)の書き残した日記からミンスパイを引用する。日記を書いた時期は、その頃の様子を知る上で恰好のタイミングである。ミンスパイの記載は10年間に13回ある。

 

1661年の12/5,12/7,12/23、1662年の1/4,1/6、12/25,1663年の12/24、12/31,1665年の12/24、1666年の12/24、12/25にはミンスパイを巡る話題が語られている。その中から2つ引用した。

 

1661年12/5日.

今朝は早くから画家のところに出かけたが、四度も書き直しがあり、満足のいく結果が得られなかった。そこで財務省まで行き、既に来ていたドウブリュ・バッテン卿に会い、セント・ジョージの支払いを済ませた(?)。間もなくダブリュ・ペン卿が見え、話をしていたのだが、そのうちダブリュ・バッテン卿はディナーで帰られた。しばらくして戻ってこられ、三人で私の家に食事に来られた。

我々の注文で方々に出しておいたミンスパイが二つ、きれいに飾られて、使いのスレーターがもって来たので非常に幸せな気分になった。

ディナーのあと彼の馬車でホワイトホール※へ出かけた。妻と一緒にオペラ ”ハムレット” を観たが、見応えのある内容であった。

教会堂に行きターナー夫人に会った(彼女はまだ重症でいる)、そこから家に戻り床に就いた。

 

※ホワイトホール宮殿 ( Palace of Whitehall ) :ロンドンに1530年から1698年まで存在した宮殿で王室の居住地であった。1691年および1698年に発生した火災で大半が焼失した、ジェームズⅠ世も宮殿の拡張を行い、1622年にはバンケティング・ハウスを完成させた。建物の装飾は1634年にチャールズⅠ世(1649年に宮殿前で斬首された)の命により、サー・ピーテル・パウル・ルーベンス ( Sir Peter Paul Rubens, 1577/6/28 – 1640/3/30 ) の設計で完成した。1650年の時点ではイングランド最大の建物であり、部屋数は1500に及んだ。
建物群は不規則に配置され、複雑な様相を呈していたため、宮殿というよりも街の様相を呈していた。

 

1666/12/25日(クリスマス)

起き出すのが遅かった。寝ている妻をそのままに、座って朝の4時まで彼女のメイドがミンスパイを作るのを見ていた。教会では牧師のミルが説教をしていた。家に帰りビーフのリブロースのローストとミンスパイを食べた。妻と、弟、バーカーとだけで自分用のワインをたくさん飲み、心から楽しかった。今日の日のあることを神に感謝して、全能の神に祝福を。

 

ピープスによれば1660年には既にミンスパイが存在していたようだ。料理書では1669年ケネルン・ディグビイ( Kenelm Digby によるThe Closet of Sir Kenelm Digby Knightの料理書 )以降にミンスパイが顔を出す。

 

ディグビイから10年経った1675年のハナ・ウーリィの The Queene-Like Closet, The Second edition では数多くのパイが紹介されている。

 

101. すばらしいミンスパイ

仔牛の肉と脂を各1ポンド細かく刻む。レーズン2ポンド、カラント2ポンド、プルーン1ポンド、デイツ6個、砕いたスパイス、キャラウェイシードを少量、塩少量、ヴェルジュ、ローズウオーター、砂糖を入れる。パイに入れて1時間オーブンで焼く。

テーブルに出すときに上に砂糖を振る。

ディグビイ ( 1603/7/11 – 1665/6/11 ) は大きな政治力を持った人物であり、はっきりと自分の意思を料理に示すことができた。

次に取り上げたロバート・メイの ( 1588 –ca.1664 ) Accomplisht Cook はイングランド内戦の間、貴族の家庭を渡り歩いた料理人が、王政復古が終わって出した料理書である。ハナ・ウーリィ( Hannah Wooley , 1622–c.1675 ) は医師として名は知られていたが政治力を持たない女性である。その彼女が料理書の中にミンスパイを採用した。やっとミンスパイが一般社会の中に戻ってきたと言えるだろう。

(シュレッドパイがミンスパイと名前を変えて。)

 

1684年のAccomplisht Cookでは、

マトンのミンスパイを作る


マトンの脚、ビーフの脂4ポンドを用意して脚の骨を取り生のまま小さいピースにする。脂もピースにする。一緒に細かくミンスする。

カラント2ポンド、レーズン2ポンド、プルーン2ポンド、キャラウェイシード1オンス、ナツメグ1オンス、ペッパー1オンス、クローブ1オンス、メイス、塩6オンスを一緒に混ぜる。パイに入れて前と同じように焼く。


             

              

上の奇妙なかたちをした物はミートパイを作る型である。右上の図は、それらを並べた、いわゆるミートパイをサーヴするときのデザインであり、右の写真はパイの完成図である。
この時代は一口大に作った様々な形をしたパイを万華鏡のように左右、前後対象に飾り付けた。その為に一つ一つは奇抜な形をしたパイの形になったと言える。
形が自由なら中に入れるフィリングもウシのタン、牛肉、仔ウシの内臓、野兎、ターキィ、シャポン、マトン、コイ、ウナギ、サーモン、チョザメ、干し魚、オイスター、カニ、卵と変幻自在であった。この時代には、言葉を変えれば、湧き出すように、吹き出すようにミンスパイが姿を現した。

同書の中で更にミンスパイを探すと;

 

ビーフのミンスパイを作る

睾又はビーフを8ポンド、脂を8ポンド用意して非常に細かくミンスする。そこに塩を8オンス、ナツメグを2オンス、ペッパーを1オンス、クローブを1オンス、メイス、カラントを4ポンド、レーズン4ポンド入れて一緒に混ぜる。パイに入れる。

 

同書の中の二つのミンスパイは、フィリングの中でミートの占める割合が60-70%と半分以上を肉(肉類)が占めている。 

              

       Mince pie designs from Henry Howard England's Newest Way  London 1703


上図は1703年に発表されたミンスパイの型である。この時点ではまだミンスミートがなかったのでは?と思われる。

  

ミンスミートパイが現れたのは料理書の中では、1723年のジョン・ノットの ( Jone Nott , Cooks and Confectioners Dictionary ) 当たりからである。

ミンスミートを作ってそれをコフィンに詰めて焼いたものがミンスミートパイである。


1859-1861年に出版されたイザベラ・ビートンの料理書 ( Isabella Beeton, The Book of Household Management ) でミンスミートは;


ミンスミート ( MINCEMEAT. )

1309. 材料—レーズン2ポンド、カラント3ポンド、ビーフ1 1/2ポンド、牛の脂3ポンド、砂糖2ポンド、シトロン2オンス、オレンジピールの砂糖漬け2オンス、レモンピールの砂糖漬け2オンス、ナツメグ1個、りんご1ポトル、レモンの皮2個分、レモンのジュース1個分、ブランディ1/2パイントとなり、肉と脂の割合は約27%となった。現在では牛の肉と脂は香り付け程度に入れる程度である。

 

イギリス本国から発せられた清教徒革命の波はアメリカのイギリス植民地、その他の植民地にまで波及したに違いない。お菓子もその影響を受けたことだろう。これについては又の機会に述べるとしよう。ひとまずミンスミートパイのお話に幕を引くことにする。

 


蛇足ではあるがサミュエル・ピープスがクリスマスに家族と一緒に食べたミンスパイは鯉、ウナギ、サーモン、蟹、卵, 仔牛、マトン、タンなどいろいろな材料をミンスした作ったフィリングをコフィンに詰めた焼いたミンストパイであった。恐らく右のような(イヤ、遙かに手の込んだものであったに違いない)、形が違えば、中に入っているフィリングも異なる-日本で言えば、にぎり寿司の盛り合わせのような-ものであったろう。このすばらしいミンスパイと一緒に、自ら管理しているワインセラーから家族の為だけのワインを取り出して過ごしたクリスマスは、ピープスならずとも神への感謝の言葉が口をついて出たことだろう。

                
                                 Photo: © copyright   HistoricFauxFoods.com

 

 

 

参考文献

Two Anglo-Norman Culinary Collections Edited from British Library Manuscripts . Additional 32085 and Royal 12.C.xii. Speculum, Vol. 61, No. 4. (Oct., 1986), pp. 859-882, ca.1200.

Kitab al tabikh fi-l-Maghrib wa-l-Andalus fi `asr al-Muwahhidin, li-mu'allif majhul., ca.1200.

MS Harley 5401 ca. 1100-1485.

The Forme of Cury, 1390.

Harleian MS 279, 1435.

The Boke of Kervynge, 1435/1508.

A Noble Boke off Cookery, 1467.

A Proper newe Booke of Cokerye. ca.1550.

William Turner, A Garden of Herbs, 1562.

John Partridge, The Treasuree of commodious Conceits, 1573.

A.W., A Book of Cookrye, 1584.

The good Huswifes Handmaide for the Kitchin, 1594.

Thomas Dawson, The Second part of the good Hus-wives Jewell, 1597.

John Murrell, A new Booke of Cookerie, 1615.

George Thomason , Ballad ; The World Turned Upside Down, 1646.

A Book of Fruits and Flowers, 1653.

Samuel Pepys, Diary of Samuel Pepys, 1659-1669.

Kenelm Digby, The Closet of Sir Kenelm Digby Knight,Opened, 1669.

Hannah Wooley, The Queene-Like Closet, The Second edition, 1675.

Robert May, Accomplisht Cook, 1684.

Jone Nott , Cooks and Confectioners Dictionary、1723.

Hanna Glassse, Art fo Cookery, 1747.

Isabella Beeton, The Book of Household Management, 1859-1861.

Wikipedia ; free-access, free-content Internet encyclopedia, https://en.wikipedia.org/

 

 

 


フルーツケーキ

2018年05月11日 | お菓子の歴史

フルーツケーキ

  

 57スペルト又はファリナ(穀粉)プディング

スペルトとナッツ、皮を剥いたアーモンドを白くするために湯に漬けて白い粘土で洗ったものを一緒にボイルする。レーズン、煮詰めたワイン又はレーズンワインを加え、一緒に丸いディッシュに入れる。
潰したナッツ( ナッツ、フルーツ、ブレッド又はケーキクラム )を上に振る。

これはアピキウスのレシピである。詳細な作り方は述べられていないが、粉の中にレーズンを主体としたフィリングを入れて、恐らく蒸したのであろう、それをディッシュにのせてアルコール度数の高い甘いワインをしみ込ませ、その上に刻んだナッツ等をのせた。

”デザート”とはっきりと言える、この時代には珍しいレシピである。このプディングが今日本で認知されているイギリスのフルーツケーキの元となったのではないか ? と思うのは私一人ではないだろう。( プディングについては別項で詳しく述べようと思う。)

ザ・フォルム・オブ・クーリィのレシピの中で一番フルーツケーキに近い?ものと言えば、次の “ルスチューズ” である。

 

182. フルーツのルスチューズ

イチジクと葡萄を用意し、掃除をしてワインで洗い、皮を剥き種を取った( あるいは傷んだところを取った )リンゴ、ペアといっしょに挽く。そこにグッドパウダーとホールスパイスを入れる。これでボールを作る。オイルの中でフライする。サーヴする。

これは ”フルーツの“ と断っているところからレントのレシピである。オイルは勿論植物オイルだ。

バターが使えるようになるのはインノケンティウスⅧ世 ( Pope Innocent VIII, 1432 – 1492/7/25 ) が1490年に「バター書簡( ドイツ北部のザクセン地方で作るシュトーレンにバターを使うことを許可した教皇書簡 )」を出してからである。「多くの悪しき息子達が生まれ、娘達も生まれた。まさにこの人こそローマの父である」という言葉は、贅沢を尽くし、派手な女性関係を持ち、乱れた私生活を送り、聖職売買、親族登用など、堕落した中世的のキリスト教の範でもあった教皇への痛烈な皮肉の言葉である。回勅によって魔女狩りと異端審問を活発化させたことでも有名である。

イングランドでは1600年代になるとバター、卵、砂糖を使った「ケーキ」が盛んに作られるようになる。1615年に出た次の料理書( The English Huswife by Gervase Markham、1615 )にはこれまでになくたくさんの種類のケーキレシピが入っている。バーバリーケーキもその一つである。このあたりからプディングとケーキがはっきりと分かれたようだ。正確に言うならば、プディングの中にケーキが入り込んできた感がする。

 

バー バリーケーキ

旨いバーバリーケーキを作るには、カラント4ポンドをきれいに洗い乾いた布で乾かす。卵3個を用意して卵黄を1個取る。溶きほぐしてパン種と一緒に漉す。クローヴ、メイス、シナモン、ナツメグを入れる。クリーム 1 パイント、ミルク1パイントを火にかけて暖める。粉、バター、砂糖を卵とパン種の中に入れる。一時間以上混ぜる。一部分を取って残りはピースに分けてカラントを入れる。形づくり、カラントを入れていないペーストでまわりを薄く包む。大きさに応じて焼く。

パン種を使って膨らませているところは、ブレッドとケーキの区別がされていないからだが。卵を使って効率よく膨らませる技術が確立するまではこの状態が続くのだろう。

ロバート・メイ1660年刊のTHE ACCOMPLISHT COOKに「フルーツケーキ」の名は見あたらない。「特別に立派なケーキ」、「アーモンドプディング」の2レシピ引用する。

 

アーモンドプディング

アーモンドを茹でて皮を剥いて潰す。クリーム1パイントで濾して挽く。篩ったペニーマンシェット、卵を4つ、砂糖、挽いたナツメグ、デイツ、塩をボイルしてバターと一緒にディッシュに入れてサーヴする。
ムスクダイン又はウエファーを突き刺す。すりおろした砂糖を振る。

 

特別に立派なケーキ

非常に細かく篩った最上の粉を1/2ブッシェル用意してそれを大きなペーストリィボードの上に置く。その真ん中に穴を作り最上のバターを3ポンド入れる。きれいに摘んだカラント14ポンド、新しい濃い温めたクリーム3クオート、潰した砂糖2ポンド、新しいエール3パイント、パン種又はイースト、細かく潰して篩ったシナモン4オンス、潰したジャンジャー1オンス、細かく潰して濾したナツメグ2オンス、これらの材料を一緒に入れて普通の固さのペーストにする。オーブンが熱くなるまで温めておく。作って焼く。11/2時間焼いたら砂糖掛けする。二回精製した砂糖を4ポンド用意して潰して篩う。深いきれいに磨いた1ガロンの大きさの鍋に入れてキャンディの温度にまでボイルする。ローズウォーターを少量入れてケーキの上に流す。糖衣になるまでオーブンに入れる。

ハナ・ウーリィ( Hannah Wooley , 1672年刊 )のクィーン・ライク・クロジット( The Queen-like Closet or Rich Cabinet, stored with all manner of Rare Receipts for preserving, candying and cookery, very pleasent and beneficial to all ingenious persons of the female sex. )の中にプラムケーキのプディングがある。そのレシピは;

 

272. プラムケーキのプディング ケーキをスライスしてクリーム又はミルクの中に入れる。冷めたら卵、砂糖、少量の塩、マロウを入れる。平鍋にバターを溶かして焼く、又は腸にそれを詰める。
1802年にはジョン・モラード ( John Mollard ) がディ・アート・オブ・クッカーリー・メイド・イージィ・アンド・リファインド( The Art of Cookery Made Easy and Refined )でリッチ・プラムケーキを取り上げている。

ハナ・ウーリィから130年後の プラムケーキである。

 

リッチ・プラムケーキ 溶いた卵白5,卵黄10個の中に篩った砂糖1ポンド、バター1ポンドを入れて分離しなくなるまでよく混ぜる。そこに洗ったカラントを 1 1/2ポンド、シトロンを 1/4ポンド、粉を 1/4ポンド、スライスしたオレンジ又はレモンの皮の砂糖漬けを 1/4ポンド茹でて潰したヨルダン産のアーモンドを 1/4ポンド、サルタナレーズンを 1/4ポンド、甘口のワインを 1/4パイント( 140ml/4 ),ブランディ 1TBS を加える。卵白5個を加えてできるだけさっくりと混ぜる。

これは明らかに今日言うところのフルーツケーキだ。フルーツケーキは時代、地域、国別でそれぞれ呼び名が異なる。カナダ及び英連邦ではクリスマスケーキとして、フランスでは gâteau aux fruits ( "fruit-cake" ) 又は単にケーキという呼び名で、ドイツではシュトーレン、アイルランドでは barmbrack の名でハローウィンに、イタリアのシエナではPanforteが、GenoaではPandolce、MilaneseではPanettoneと呼ぶ。ポーランドではKeks 、ポルトガルではBolo Rei、ルーマニアではCozonac、スペインではBollo de higo is 、スイスではBirnenbrot。そしてイギリスではカラント、チェリーの砂糖漬けが入った物をGenoa cake、スコットランドのチェリーの入っていない物をDundee Cakeと呼ぶ。

フルーツケーキといえばイギリスと言われるように、中世になってポルトガル、東地中海からドライフルーツがイングランドにもたらされると、今日のフルーツケーキに似たフルーツブレッドが作られるようになる。スコットランドにはスコティッシュ・ブラック・バン( Scottish Black Bun )があり、イングランドでは1700年に入るとブライドケーキ、プラムケーキが作られるようになる。

フルーツブレッドとフルーツケーキの関係を示すレシピがある。

それが、1727年、エリザ・スミス( Eliza Smith )のThe Compleat Housewife, or, Accomplish'd Gentlewoman's Companion-プラムケーキである。

 

プラムケーキ

カラント 6ポンド、粉 5ポンド、クローヴ 1オンス、メイス 1オンス、シナモン少量、ナツメグ 1/2オンス、粉にしたアーモンド 1/2ポンド、砂糖 1/2ポンド、スライスしたシトロン 3/4ポンド、レモンとオレンジのピール 3/4ポンド、サック酒 1/2パイント、少量の蜂蜜―水、エールのイースト1クオート、クリーム1クート、溶かしたバター11/2ポンドを粉の真ん中に注ぎ入れ、滑らかになるまで錬る。紙に粉を振った篭に入れ、火の前に置いて膨らませる。

2001年刊、キャロル・ウイルソン編になるフェイバリット・ホーム・ベイキング・レシピ ( Favourite Home Baking RecipesからBreads, Buns & Trecakes ) の中にあるランカシャー・バン・ローフを紹介してフルーツケーキの説明を終えようと思う。( 下はスコティッシュ・バンブラック )「古い」レシピであると記されているが、一体それが何時なのかはっきりしない。

 

ランカシャー・バン・ローフ 

         

1ポンド用のローフパンに脂を塗る。強力粉 11/2ポンド、塩 1/2オンス、イースト1袋をボールに入れてバター 2オンスを擦り入れる。暖めたミルク 280ml、暖めた水 140mlを入れて混ぜる。粉を打って滑らかになるまで錬る。薄く脂を塗ったボールに入れてきれいなタオルを被せる。暖かい場所で 11/2~2時間、二倍の大きさになるまで膨らませる。粉を打った場所に移して空気を抜く。ドライフルーツ( カラント 6オンス、レーズン 3オンス、サルタナ 3オンス )、ピールの砂糖漬け 2オンス、ミックスト・スパイス 1tsを入れて練込む。平らに延ばして巻き、型に入れる。二倍の大きさに膨らませて190℃で30-35分間焼く。

ハレー彗星の尾のように時代と共に過去のレシピを引きずりながら、時には大きく光ったかと思えば、消滅し、消えたかと思えば長々と尾をたなびかせて時代の流れの中で光を放つレシピがある。
今も生き続ける「バン」はそんな料理だ。ランカシャー・バン・ローフの説明にある、「恐らくブレッドの残ったドウで作ったものであろう」の言葉はフルーツケーキの源流を求める旅の中で一筋の光を見た思いがした。

又。同書のリンカンシャー・プラム・ローフのレシピの中にフルーツケーキに関する興味ある記述があったのでそれを次に引用する。

 

リンカンシャー・プラム・ローフ ( Lincolnshire Plum Loaf )

過去にドライプラムをフルーツケーキ及びブレッドに使ったので、プラムケーキ又はプラムブレッドの名がある。今はドライフルーツを使いプラムを使わなくなったが、名前には「プラム」が残っている。

 

材料:

強力粉、塩、バター、砂糖、ドライフルーツ( レーズン、カラントなど )、ピールの砂糖漬け、卵、ベーキングソーダ、ミルク

 

 

参考文献

Joseph Dommers Vehling, Apicius 1936

Satoh Yosinori, The Forme of Cury, translation 1390

Robert May, The Accomplisht Cook 1660-85

Gervase Marham, The English Hus wife 1615

Eliza Smith, The Compleat House wife 1727

Hannah Wooley, The Queen-like Closet or Rich Cabinet 1672

 

 

 


ブラマンジェ-2

2018年05月10日 | お菓子の歴史

ブラマンジェ-2

 

1691年、フランソワ・マシアロ ( François Massialot ) Le Cuisineir Roïal et Bourgeoisでは、2種類のブラマンジェが記されている。
一つはブラマンジェ blanc manger、トリのストックに仔牛の足を入れてゼラチン質を強化し、オレンジフラワーウォーター、シナモン、レモンの皮を香り付けに使い、様々に着色してアスピックとしてサーヴする。二つめは削ったシカの角を加えたブラマンジェ
( blanc-manger de corne de Cerf )
1ポンドの削ったシカの角を使ってゼラチンで作ったブラマンジェである。

 

イギリスでは1450-1750年間料理書から「ブラマンジェ」の文字が消える。ブラマンジェに似た別の名前の付いたレシピはこの間も存在 していたが、「Blanc Mange」とはっきりと明記したレシピが再び料理書の中に現れるのは、1777年のシャルロット・メイスン

( Charlotte Mason ) The Lady’s Assistantからである。下は其のレシピで、この時代になると魚の浮き袋から作ったゼラチン(Isinglass が使われるようになる。

 

ブラマンジェ :  BLANC MANGE

アイシンググラス(Isinglass)を1オンスに水を1パイント入れボイルして溶かす。少量のシナモン、クリームを3/4パイント、茹でて潰したスイートアーモンド2オンスビターアーモンド1オンス、レモンピールを入れて火にかける。漉して冷めるまで混ぜる。
レモンジュースを絞る。型に入れる。型から取りだしてカラントジェリー、ジャム例えば、マーマレード、ペア又はマルメロの砂糖漬けを飾る。

 

1800年代初期のアントナン・カレーム ( Marie-Antoine Carême, 6/8/1784-1/12/1833 )の時代には既にブラマンジェに肉のブイヨンを使うことは廃れていた。甘いアントルメ(デザート)としてのみ供されるようになっていた。ブラマンジェはアーモンドミルク、グラニュー糖、魚の浮き袋から取ったゼラチンで作り、ラム酒、マラスキーノ、レモン、バニラ、コーヒー、チョコレート、ピスタチオ、ヘーゼルナッツ、イチゴで味付けしてもよいと薦めている。白くて滑らかなことがブラマンジェの条件である。

 

フランス、1849年アレクシス・ソイヤー ( Alexis Soyer 2/4/1810-8/5/1858 ) によるThe Modern Housewife or Menagereから、

 

753. ブラマンジェ :  Blancmange.

ミルク1クオートにアイシンググラス1オンス、砂糖1/4ポンド、シナモン1/4オンス、少量の挽いたナツメグ、レモンピール1/2、ベイリーフを加えて弱火でアイシンググラスが溶けるまでかき混ぜる。
ナプキンで漉して水盤に入れ、型の中に注ぎ入れる。ミルクを固めることのない色又は香りを使うことができる。香り付けにビターアーモンドを加えることができる。

 

かつて医薬としてのみに使われていたビターアーモンドを少量、健康に障らない範囲内で香り付けに、料理に使うことになったのは大きな進歩と言える。

 

1907年フランス、オーギュスト・エスコフィエ ( Auguste Escoffier, 10/28/1846-/12/1935 )A GUIDE TO MODERN COOKERYから、

 

2624.ブラマンジェ :  BLANC-MANGE ブラマンジェは今では余り作ることもないが、ディナーの前にすばらしいアントルメの一つとして出されていたことを思えば、これは残念なことである。
イングランドのものは素晴らしいだけではなく健康にもよく、普通のアントルメとは全く異なる。そこで次に其のレシピを記しておく。長い年月のうちに従来の意味は失われたが blanc-mange とは、元来美しく白いものであった。形容詞と名詞から成る言葉は従来の意味を失い、今や均一に色付けされた商標の中に埋まってしまったものもある。言葉の取り違えは古くカレーム以前に遡り、今や訂正することは不可能である。

 

2625.フレンチブラマンジェ :  FRENCH BLANC = MANGE  

準備-1ポンドのスイートアーモンド、4-5個のビターアーモンドの皮を剥き、フレッシュウォーターに漬けて白くする。1パイントの水をスプーンで入れながらできるだけ細かく潰す。丈夫なタオルで、きつく絞って漉す。絞ったミルクに1ポンドの砂糖の塊を入れて溶かす。1 1/2パイントのミルクができる。ゼラチンを1オンス少し暖めたシロップに溶かす。モスリンで漉して香りを付ける。

型入れ-ババロアのようオイルを塗った型の中に漏斗で入れる。氷に入れて固まらせる。

註-アーモンドミルクは、今では上のような時代遅れの手順を踏む代わりに、潰したアーモンの中に水2-3TBSと非常に薄いクリームを適量入れるだけの代用品を使う。

 

60年後、ポール・ボキューズ ( Paul Bocuse2/11/1926 ) 1998年の La cuisine de marchĕ に載せたブラマンジェを見てみよう。

 

ブラマンジェ Le blanc-manger

 

材料:スイートアーモンド250g、ビターアーモンド2、ライトクリーム4デシリッター、グラニュー糖又は角砂糖100g、ゼラチン15g

 

方法:ボイルしている湯でスイートアーモンドを茹でる。冷まして皮を剥きフレッシュウォーターに1時間入れて白くする。水気を切って少し乾かしてモルタルで水を2-3スプーン入れながら潰す。
クリームで薄めながら滑らかなペーストにする。タオルの中央に入れて両端を捻って漉し、ボールの中にミルクを入れる。砂糖を溶かしバニラシュガー1/2スプーンを加える。冷水で柔らかくして水気を切ったゼラチンを暖めておいたアーモンドミルクの中に加える。アーモンドミルク、砂糖、ゼラチンから約3 1/2デシリッターが得られる。固まり出したら少量の砂糖と一緒に泡立てたヘビィクリームを1デシリッター入れる。ババロアと同じように型に入れて冷やす。同様にサーヴする。

 

エスコフィエとボキューズのレシピはアーモンドを絞る際に使う材料が水又はクリームの違いのみでその他はほとんど変わらない。彼らが目指すブラマンジェはほぼ完成の域に達したのだろう。
それではエスコフィエが称賛した「イングランドの素晴らしいブラマンジェ」とはどのレシピを指すのだろう。

 

 エスコフィエが述べた 「言葉の上の誤りは古く、カレームの時代よりも前であり元に戻ることや訂正は無駄なようだ。」 という言葉の中で「カレーム以前」とは何時のことで、何を指すのだろう。

 

イングランドで 「ブラマンジェ」 と記述のある、一番古いレシピは1390年のThe Forme of Curyであろう。米、シャポンの胸肉、アーモンドミルク、砂糖を使った料理である。(これを古典的ブラマンジェと呼んでおこう)これに習ったと思われるレシピは1435年のHarleian MS 279以降、1452年のジョン・ラッセル( John Russell )著、The Boke of Nurtureの中の肉料理の最初のコース ( 48. First course of a flesh Dinner ) のブラマンジェ ( Blanc Mange ) と次の2件のみである。

 

1467年、アレキサンダー・ナピエール編 ( Mrs. Alexander Napier ed. ) によるA Noble Boke off Cookryの中で料理名としてblanch mang of fleschを取り上げている。( レシピはない

1594年、The good Huswifes Handmaide for the Kitchin. ( 著者は不明 ) を最後に古典的ブラマンジェはイングランドの料理書からその姿を消す。
最後のブラマンジェを引用しよう。ブラマンジェの綴りは逆さまになっている。しかし非常に克明なレシピで当時のブラマンジェの作り方等が目の前に鮮明に浮かぶ貴重な記述である。

 

ブラマンジェ :  To make Maunger Blaunche

選別をして非常にきれいに洗った米1/2ポンドを細かく潰し細かい篩を通す。朝に絞ったミルク1クオートに入れてストレイナーで漉す。
きれいなポットに入れて火にかける。弱火で幅の広いスティックで混ぜる。少し濃くなったら火から下ろす。柔らかいシャポンの肉をできるだけ小さく裂く。シャポンはきれいな水で煮て肉は手で、できるだけ馬の毛のように細く裂かなければならない。半分に煮詰めた
ミルクの中に入れる。同量の砂糖を入れて甘くする。良質のローズウォーターをスプーンで12杯入れる。再び火にかけてよく混ぜる。
スティックでパンの端から端まで混ぜる。粥のように濃くなったらきれいな平皿に入れる。冷めたらディッシュの中にスライスして3枚入れ、その上に砂糖を少し振る。サーヴする。

 

153年後、ブラマンジェはハナ・グラッセ ( Hannah Glasse ) 著、1747年のThe Art of Cookeryのムーンシャイン ( Moon Shine ) というレシピの中で材料として料理書の中に再び姿を現す。ブラマンジェのレシピ名で登場するのは1777年のシャルロット・メイスン ( Charlotte Mason ) The Lady’s Assistantからである。下はシャルロットのレシピ。

 

7. ブラマンジェ :  Blanc Mange

アイシンググラスを1オンスに水を1パイント入れボイルして溶かす。少量のシナモン、クリームを3/4 パイント、茹でて潰したスイートアーモンド2オンス、ビターアーモンド1オンス、レモンピールを入れて火にかける。漉して冷めるまで混ぜる。レモンジュースを絞る。型に入れる。型から取りだしてカラントジェリー、ジャム例えば、マーマレード、ペア又はマルメロの砂糖漬けを飾る

 

すっかり様変わりして、まるで異国のレシピを見るようだ。エスコフィエは恐らく1594年までの古典的ブラマンジェに賛辞を送ったのであろう。
1594
年から1777年の間に、ブラマンジェに何が起こったのだろう。イヤ、ブラマンジェに何かが起こったのではなく、何か他の大きな力がブラマンジェに働いたように思われる。

 

こんな時は、権力、金力に勝る政治家に御登場願って彼が食した料理をチェックするに限る。1665年にケネルン・ディグビィ (  Kenelm digby, 1603/7/11—1665/6/11 , イギリスの廷臣、外交官、自然哲学者 ) が書いたThe Closet of Sir Kenelm Digby Knight Opened ( 出版は1669 ) から、

 

オオムギの粥  : BARLEY PAP

メイス2枚、ナツメグ1/4、オオムギを水に入れて長時間ボイルする。オオムギの外皮を漉す。同時にローズウォーターで茹でたアーモンド2オンスをよく潰し漉したミルクをオオムギの粥の中に入れる。( 大麦を漉すときに一緒に漉しても良い ) しばらく煮る。砂糖で好みの甘みを付ける。中略。胃袋が丈夫であれば大麦を漉さずに食べても良い。 ( 但しアーモンドは必ず漉すこと ) 好みでバターを入れても良い。

オートミール又は米或いはよく洗った松の実をアーモンドと一緒にクックしても良い。

 

“ Pap “ とは「病人食としての粥」の意であるが「主要な何かが欠けた、大人の心を持った者にとっては詰まらない物」 の意味もある。ブラマンジェの主要な材料は米、アーモンドミルク、砂糖、ニワトリの胸肉であるから、最後の材料が欠けた料理と見ることもできる。

“ Pap “ 1450年~1600年の料理書の中に見ることができるが、時代を下るにつれて姿を消していく。このように1600年中頃の料理書に記載されることは稀である。

繰り返しになるがPapは病人の為に作るので塩、卵黄を入れるが、此処には入っていない。

 

ディグビィは宗教にはさほど執着がないようだ。「ローマンカソリックを信奉するジェントリの家系に生まれたが、1625年、カソリックであることが政府役人として妨げになると判断し、英国国教会の信徒に転向。1635年にはカソリック信徒に戻ったかと思えば、思想、良心の自由を信じる
オリバークロムウエルの護民官政府のもとで、イギリスローマンカソリックの非公式な代理人として1655年教皇への使者を務め、王政復古時に於いては、チャールズ世の母親に当たるヘンリエッタとの繋がりで新しい政治体制下に入った。」 という人物である。強いていえば火の如く燃えさかる過激なる自然科学者である。その彼が書いたレシピである。この際彼の人となりを述べておこう。

1628年私掠船( 海賊 )の船長となり、1/18ジブラルタルでスペインとフランドルの船を捕獲1641年再び英国からフランスへ渡る。フランスの著名なMont le Ros を決闘で殺害し、ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス( Henrietta Maria of France11/25/16099/10/1669、イングランド王チャールズ1世の王妃 )が1644年イギリスへ戻るや、共にイギリスへ戻り彼女の閣僚となる。英国学士院を設立し、1661年植物の生育に関する論文を発表し学士院に物議をかもした。彼は植物の維持に欠かせない物質として酸素に言及した始めての人物である。1622-1633年には評議委員を務め、数学者ピエール・ド・フェルマー(1601-1665)との書簡の中にピエールによる無限降下法による数学的証明が残る。

 

常人ではないと同意していただけると思うのだが。その彼が上のような( 自らを偽るような )レシピを書いているのだ。天地がひっくり返るようなことが起こった違いない。

 

一つ前の blancmange 1 で、1354年のEin Buch von Guter Spiseから引用したレシピに、「白い色は純潔~聖母マリアを表している。」の下りがある。白い色に対して常にヨーロッパ人の胸の内を占めていた、今もそうであろう、思いである。しかしそのことはカルヴァンの考えに反した、彼の思想に相容れない事柄であった。

彼の言葉を借りれば、「ブラマンジェそれ自体としては悪いものではない。ただ、そのおかれている状況をよく考えなければならない。
それ自体としては悪ではないが、人を悪におちいらせる機縁になることを忘れてはならない。更に、一種の社会革命を遂行しているとき、市民としての生活規範が一段と要求されることも理解できよう。さらに、具体的な問題として、享楽的傾向がいつも反動分子と結びついていたことをおもいおこそう。」 と言うに違いない。

( カルヴァン、渡辺信夫著、59-60ページ。1988。岩波 )

 

ディグビィが「王女ヘンリエッタのオオムギのクリーム」を書き残している。

 

王女のオオムギのクリーム料理 THE QUEENS BARLEY-CREAM

オオムギ水を作る。最初の水はボイルしたら直ぐに3回続けて捨てる。ボイルするには約3/4時間かかる。オオムギと一緒にたくさんの水を1時間又はそれ以上かけて(固いオオムギはそれくらいかかる、胚芽層を取ったパールオオムギが一番良い)ボイルして(こうすることで水が赤く或いは小豆色にならない)ピースに切った若いメンドリと切り離した脚を入れる。長く煮ると汁は肉の味がきつくなる。十分に煮たらオオムギとトリを取り除く。ブロスでアーモンドを潰して漉す。砂糖で甘味を付ける。少なくても2クオートできる。私はブロスでボイルしたオオムギの実を入れてアーモンドミルクと一緒に漉したものが好きだ。好みでメロンの種を入れても良い。レモンジュース又はオレンジジュースを入れても良い。
シナモンで香りを付けブロスの肉の味を濃くしても良い。

 

英国のオオムギ水は 胚芽層を取ったオオムギをボイルして、その熱い水をレモンの皮の上に注ぎフルーツジュース、砂糖を加える。
(
皮はオオムギと一緒にボイルすることもできる。) というのが一般的なレシピなので、ディグビィのレシピはこれとは少し異なる。
ボイルして細かく裂いたニワトリの胸肉ではなくメンドリのブロスで潰したアーモンドを濃しれ繊細な味を演出している。ブラマンジェの代わりに考え出したレシピなのか、それとも単に凝った大麦水を女王の為に作りだしたのか。真意は解らないが召し上がった女王様は何を感じられたのか想像はできる。

 

ディグビィの頭をこれほどまでに働かせたのはやはりカルヴィニズムに違いない。ローマンカソリックから英国国教会、再びカソリック、そして親プロテスタントからまたもやカソリックへとめまぐるしく変位したディグビィだが、それはキリスト教内でのこと。彼にとってそれよりも恐ろしいことは教会外に放り出されることだったに違いない。『最後の審判』で救われるのであれば怖いものはない。ルター派であろうとカルヴァン派であろうと、異端審査を受けて骨も残らないほどに破壊されない限り最後は救われることを固く信じていたのであろう。ディグビィはそんな人間であったように思う。

 

トリのブロスでアーモンドミルクを漉すという行為は後に、仔ウシのブロスへと変化してゼラチンを使った新しいブラマンジェへの足がかりとなる。

 

昔からつづいてきたブラマンジェは宗教下の重石の基で次第に姿を変えようとしている。

1650-1660年には仔ウシ、トリのブロスを使ったブラマンジェ、1690年に入るとシカの角を使ったブラマンジェへ、1770年代には魚の胃袋を使ったブラマンジェへと変化する。

仔ウシの関節、シカの角を使うあたりから、その中に含まれるゼラチンに新しい方向性を見出したように感じる。ゼラチンはやがて単独で取り出され、ブラマンジェのレシピの中で主役を演じるようになる。ブラマンジェへの脱皮が始まったと言える。

 

ところが物事はそう単純に断言できるものではなさそうだ。

魚の胃袋から取り出されたアイシングラスは古くは1500年後半から既に料理に使われていた。一例を取り上げよう。

 

1597年トーマス・ドーソン ( Thomas Dawson ) 著の The Second part of the good Hus-wiues Iewell. では、

 

ホワイトリーチ :  a white leach.

新鮮なミルク1クオート、アイシングラス3オンス、潰した砂糖1/2ポンドを混ぜる。ずっと混ぜながらボイルして1/2クオートになるまで煮詰める。
ローズウォーターを入れて漉す。プラターに入れて冷ます。四角に切ってきれいなディッシュに並べる。金箔を上に置く。

 

1602年のヒュー・プラット (Hugh Plat ) Delightes for Ladies By Hugh Plat から、

 

27. アーモンドリーチ :  To make Leach of Almonds.
スイートアーモンド1/2ポンドをモルタルで潰して牛のミルク1パイントと一緒に漉す。ムスク1粒、ローズウォーター2スプーン、細かい砂糖2オンス、非常に白いアイシングラス3シリングをボイルする。ストレイナーを通す。スライスしてサーヴする。

このようなアイシングラスを使ったレシピが1900年までつづく。1900年からゼラチンを使ったレシピに変わるのはブラマンジェだけではない。「 リーチ:leche, leech, leach の歴史は古く1597年に遡る。新しい姿を得たブラマンジェはこれまで先人達が積み重ねてきた全てを土台にして作り得た料理であると言えよう。

 

横道に逸れるが、此処でカルヴァンの 予定説 について述べようと思う。「 ブラマンジェの項 は満載艦のようで主体がどこにあるのか解らない程にごたごたしているが、18002000年の欧米を知る上でも、勿論お菓子の歴史に関しても大きな影響を、今も受けている 精神論 なので最後に少し述べておこうと思う。


予定説 とは人間はうまれる前から既に神の国(天国)に入れるか否かは決まっていると言う説。神は,『最後の審判』を行う際に一人一人の人間の生前の行為を検証することはない。何故なら人間はこの世に生まれる以前から、その人間の運命は予定されているからだ。カルヴァニズムの宗教改革の精髄は『完全無欠な創造主である神』に対置する『無力な被造物としての人間』の絶望的なまでの対比がカルヴァニズムの精髄である。選ばれた者だけが
救われるという考え―――教会さえも人を救い得ないということは―――これまでの善行では、神の心を動かすことができず、敬虔な信者が必ず天国に行けるという保障はなく、極悪非道な悪人とされている人物が天国行きを決定される可能性もあるのが予定説である。

このことは信者一人一人にとって大問題であり、心理内面に孤立化の感情を引き起こした。「自らが選ばれた存在であるか否かの確信をどのようにして得ることができるのか」という問題に対し、それぞれが従事している職業は、神が選び、神から与えられた『 天職 , calling 』であると説いた。自己確信を得る最上の方法は労働をすることであり、働くことにより神の恩恵が働いていることを意識し、疑念が追放され、救われているとの確信が得られるとしたのである。

マックス・ウェーバー( Max Weber4/21/1864-6/14/1920 )は、『 論理的に宿命論になるべき 予定論 救いの証明 」という考えと結びついたことにより、カルヴァニズムは正反対のものを生み出した。そして信者達は生活の中での、救いの確信を得るため職務に忠実でいられた者であることを自ら証明しようと努めるのである。「 天職に対する勤勉の精神 はやがては絶対王政を打倒する近代資本主義をもたらすことになった。』と考えた。

 

 
モスを冷水に15分間漬けて水気を切りミルクの中に入れる。

ダブルボイラーで30分間ボイルする。クックしすぎると固くなるので、ミルクだけの時よりも少し固い程度にクックする。塩を加えて漉す。バニラを入れて再び漉す。
前もって冷水に浸した型に入れて冷やす。ガラスのディッシュに入れる。周りにスライスしたバナナを並べ、上にバナナを飾る。砂糖とクリームを添えて供する。

 

 アイリシュモス ( Chondrus crispus )  Irish moss ( little rock ) 別名、カラギナン、pearl moss, carrageen moss, seamuisin, curly moss, curly gristle moss, Dorset weed, jelly moss, sea moss, white wrack, and ragglus fragglus。紅藻類に属しゲル状多糖でできた細胞壁を持つ。

 

著者のファニー・ファーマー ( Fannie Merritt Farmer , 3/23/1857-1/15/1915 ) はボストンに生まれ、16才からメドフォードハイスクール ( Medford High School ) で学んでいる。ボストンは、9/17/1630にイングランドから来た清教徒達によって、ショーマット半島に築かれたイギリス植民地であり、メドフォードもイギリス系の土地ではあるが、1800年後半にはアイルランド人、ドイツ人、レバノン人、シリア人、フランス系カナダ人、ユダヤ系ロシア人、ユダヤ系ポーランド人が住み始めた。
1800
年末には、ボストンの中心部は、異なる民族の移民居住地がモザイク状に化していた。ブラマンジェにかんする限りファニー・ファーマーのレシピはイギリス系?と思うが、確信はない。

 

1910年刊のピカユーン クレオールクックブック ( THE PICAYUNE'S CREOLE COOK BOOK , FOURTH EDITION ) から2つ、

 

ブラマンジェ Blanc Mangier.

クリーム        1クオート

砂糖          1/2カップ

プレインゼラチン    2

バニラエッセンス    1ts

 

ゼラチンを水に溶かしボイルしたクリームと混ぜる。溶けるまで混ぜてバニラを入れる。型に注ぎ入れて固める。サーヴする。

 

コーンスターチブラマンジェ :  Cornstarch Blancmange

ミルク         1クオート

コーンスターチ     3TBS

砂糖          3TBS

卵白          3

レモンエッセンス    1ts

 

コーンスターチを1パイントのミルクに入れて砂糖、固く泡立てた卵白を加えて混ぜる。これをボイルしている1パイントのミルクに入れ手ボイルする。
レモンを香り付けに入れてカップに入れて冷ます。冷えたらゼリーとクリームと一緒にサーヴする。6人分の量がある。好みでクリームソースを添える。

 

クレーオールは(フランス人と奴隷の混血の人々)を指す。詳細はタルトタタンの項に詳しく述べておいた。





 

 

 

 


ブラマンジェ-1

2018年05月10日 | お菓子の歴史

ブラマンジェ-1         

 

古代ローマ帝国崩壊後西ヨーロッパの料理の中でブラマンジェほど長い歴史を持った料理はないだろう。ブラマンジェほど多くの国で愛された
食べ物はないだろう。そしてブラマンジェほど今の世界で軽んじられている食品もないだろう。

時代を背負ってブラマンジェが様々に姿を変える800年ほどの 「ブラマンジェが辿ってきた道筋」 を述べようと思う。( ブラマンジェという言葉は時代によって、国によって変化する。参考のためにレシピ毎にスペルを書いておいた。又、文中に出てくる特徴ある語彙については「中世の料理書」を参照されたい。) 

 

註.長い歴史の中で姿を変える「ブラマンジェ」を見失うことなく読み進めるには; ブラマンジェを最終的にどのような形で食べるのか(スライス、パイ、ドーナッツなど)、ブラマンジェを固める食材に何を使っているのか( トリ肉、米、仔牛の足、ゼラチン、アロールート、コーンスターチなど )等に注目するとぶれずに読み終えることができる。

 

ブラマンジェはローマ時代にはなかったようだ。ローマではゼラチンを絵の具に混ぜて使っていたが、食用にすることは思い至らなかったようだ。
記録が残っていないのか、単に私が知らないだけかもしれないが。)

一番古いレシピは1300年代初めにフランスで書かれた Enseignements の中にある。よく似たレシピを2例引用しよう。

 

119-124. ブラマンジェ:por blanc mengier:

ブラマンジェを作るにはメンドリの手羽と脚を用意して水でボイルする。米を少量用意して澄んだ水に浸して小さな火の上でクックする。肉を髪の毛のように細く裂き、少量の砂糖と一緒にクックする。赤い色素(Lac)を入れなければ、そしてメンドリのブロス又はアーモンドミルクといっしょに米をクックしなければ、この料理は赤くはならない。

 

 “ Mangier “という表記 1400-1600年の間に “ manger ‘ に、1700年には “ mange “ に変わる。

 

105-110. メンドリの白いシチュ :  Por fere blanc brouet de gelines…:

メンドリの白いシチュを作るにはメンドリをワインと水でクックする。

アーモンドを用意して挽きブロスで調えポットの中でクックする。メンドリをピースに切りフライする。ポットの中に全て入れボイルする。
アーモンド、クローブ、シナモン、ロングペッパー、orage , ガリンゲイル、サフランと砂糖を用意して少量の酢で味を調え、全てをいっしょに提供する。これでよいシチュが出来る。

 

 “ brouet “ はシチュを意味する。アーモンドを潰してブロスで漉す。これら2種類の-「白いスープ」と「ブラマンジェ」-料理は1650年頃まで並行して存在する。

 

白く作るのが元来のレシピであろうが、色素を入れる事もあった。Lacはカイガラムシ( Kerria Lacca ) から取る赤い色素である。

肉食が禁じられているレントではニワトリの代わりに白身の魚を使った。アーモンドミルクもレント、断食日に使う牛乳の代用品であるが、近代になるまで牛乳を使ったブラマンジェが存在しないこと、レントにトリを食べることは禁じられていることからブラマンジェは最初からアーモンドミルクを使うことがブラマンジェの条件であり、「病人食」 であったと言えよう。

 

レント; イングランのレントについて説明しておこう。

断食日は卵、乳製品、家禽、野生の鳥を禁じていたようだ。下記の引用文献がそのことをよく示している。出典は1550年の A Proper newe Booke of Cokerye 及び1594年のThe good Huswifes Handmaide for the Kitchin である。一部分を引用した。

マラードは霜が降りてから聖燭祭( 被献日:2/2 )までが適期である。コガモやその他の野生の水禽も同じである。ウッドコックは10月からレントまでの季節、その他のクロウタドリ、ツグミやロビンも同じである。ヒーロン、ダイシャクシギ,, サンカノゴイ,ノスリは季節を問わないが、冬が一番である。キジ、パートリッジ、クイナはいつもいいが、鷹狩りで獲った物が一番である。ウズラ、ヒバリはいつでも良い。野兔はいつも良いが10月からレントにかけてが一番である。
去勢したアカシカ又はダマシカはいずれであろうといつでも良い。角を落とした雄鹿は3月が適期である。真夏には大きくなり5/3の聖十字架発見の記念日 ( Holy Rood Day ) から9/29のミカエルマス( Michaelmas )の間が一番である。成熟した雄のシカは5月が適期であるが同じように考えて良い。仔を連れていない雌シカは冬が適期である。二歳の雄シカと三歳の雌シカはいつでも良い。ニワトリはいつでも良いが、若いハトも同じである。

 

いずれの狩猟鳥、獣もレントまでが旬の時期であることが述べられ、レント以降イースターまではいかなる肉類も食していないことから、レント期間中の食事の内容が伺える。上は1550年のイングランドの有り様であり、断食の内容は地域、国、時代によって多少変動する。

 

1354年のEin Buch von Guter Spiseから引用する。

 

76.ブラマンジェ: Ein blamensir

ブラマンジェを作るには濃いアーモンドミルクを用意する。裂いたメンドリの胸肉をアーモンドミルクの中に入れる。米の粉、脂と砂糖を十分に入れる。これがブラマンジェである。

 

1300年代のドイツで、米とアーモンド、砂糖を料理に使うには相応の財力がなければ作れない料理である。上のブラマンジェと違うところはできあがりの料理の色、「白い」 色にこだわった点だ。手羽や脚の肉ではなく裂いたメンドリの胸肉を使い、高価な輸入品である米を使ったのも白い色を出したいためである。脂はケンネ脂であろう。著者がわざわざ「これがブラマンジェである」と断りを入れたのも納得できる。
この料理はBlanc mange ( 白い食べ物 ) の言葉どおり本当に白かっただろう。病人のための料理ではなく政治力を誇示する為の、アントルメ( コースの途中で出される視覚や味覚を楽しむ一品  )と言える。そして「白い色」は純潔~聖母マリアを表している。

イタリアで1350年頃に書かれたLibro di cucinaから、

 

5.ブラマンジェ :  Blancmange.

ブラマンジェ12人分を作るにはアーモンドを4ポンド、米を1ポンド、メンドリを4羽、グリースを2ポンド、砂糖を1 1/2 ポンド、クローブを1/21/4(オンス)用意する。アーモンドは皮を剥き、一部は取っておく。残りは挽いて澄んだ水に浸けてアーモンドミルクを準備する。
籾殻を取った米を用意して、湯で洗い乾かした後、細かい粉にして篩う。ピースに切ったニワトリを用意して、少しボイルする。
ニワトリの肉を細かく裂いてグリースでゆっくりとフライする。

その間、そのほとんどのアーモンドミルクを平鍋に入れ、ボイルする。取っておいた冷たいアーモンドミルクを米の粉に混ぜて含ませる。
アーモンドミルクがボイルしたら浸しておいた米の粉を平鍋に移す。米粉とアーモンドミルクが濃くなるまでボイルする。裂いてフライしたニワトリの肉と脂をすぐに入れる。

この混ぜ物を鍋底に焦げ付かないように頻繁に混ぜて砂糖を加える。料理がクックしたらボールに入れてサーヴする。この料理をローズウォーター、砂糖、フライし取っておいたアーモンド、クローブで飾る。この料理は雪のように白くてスパイスが効いていなくてはならない。

 

ドイツのレシピを詳しくしたものがイタリアのレシピと言っていいくらいにこの二つのレシピは似ている。それは「ハンザ」が関係している。
1300年になると、舵、羅針盤、海図が一般化し最短航路を船が都市間を結ぶようになり、地中海からジブラルタル海峡を経て大西洋に出る航路が開かれイタリア人、ドイツハンザの商人達が行き来するようになる。1358年になると各都市間でハンザの同盟が結ばれる。
中でもブルヘ( ブリュージュ )は南北貿易の中心地であり、フィレンツェのベルッツィ家( Peruzzi )、バルディ家( Bardi ,アッチャイウォーリ家( Acciaiuoli )など、イタリアの商人達は大きな都市に定住し会社組織を設立した。」ことが大きく影響している。
イタリアはフランスよりもドイツに大きな影響力を持っていた。

 

フランスでは、Le Viandier de Guillaume Tirel dit Taillevent 13861393から、

 

19. 白いシャポンのスープ :  BLANC MENGIER D'UN CHAPPON POUR UNG MALADE.

ワインと水でクックし、切り分けて、ラードでフライする。アーモンドをシャポンの肝とダークミート(モモ肉)と一緒に潰し、ブロスに浸してボイルする。ジンジャー、クローブ、ガリンゲイル、ロングペッパー、グレインズオブパラダイスを(を挽いて)いっしょによくボイルする。よくほぐした(混ぜて濾した)卵黄をたらし入れる。十分に濃いスープであること。

 

199. 部分的に色を付けた白い料理 :  BLANC MENGIER PARTY.

 

湯がいて皮を剥いたアーモンドを用意し非常によく砕き、熱湯につける。(そしてアーモンドミルクを作る)とろみ付けにデンプン又は砕いた米を使う。ミルクがボイルしたら、いくつかに分けて、2つのポットに(2色にするなら)又は( お望みであれば )3又は4つに分けておく。ボールやプレートの上に置いたときに広がらないようにフルーメンティ位の固さにしておく。アルカネット、ターンソウル、良質のアズール、パセリ又はアヴェンスを用意する。ボイルした時発色がいいようにサフラン少量を緑色の(野菜)に混ぜてシーヴする。アルカネット又はターンソウルとアズールも同様にラードの中に混ぜておく。ミルクがボイルしたら砂糖を入れる。それを(火の)後ろに移して、塩を入れ、濃くなって得たい色
が出るまで強く混ぜる。

フランスでは病人用のブラマンジェとアントルメとしてのブラマンジェにはっきりと分かれている。「199. 部分的に色を付けた白い料理」はアルカネットの赤、ターンソウルのムラサキ~赤、アズールの青、パセリとサフランの緑、アヴェンスの緑、何も入れない白の4色の色を付けたアントルメである。下はお馴染みの JELL-O。色はいつも人を引きつけて止まない!?

     

イングランド同時代のレシピ :  The Forme of Cury 1390から、

 

 33.ブラマンジェ FOR TO MAKE BLOMANGER.

米を水の中に一晩入れ翌朝よく洗う。米が割れるまで火にかざす。煮過ぎてはいけない。煮たシャポンの(ホワイト)ミートを用意して細かく引き裂く。アーモンドミルクを用意して米といっしょによくボイルする。ボイルしたら濃くなるようにそこに肉を入れる。ディッシュに入れてその上にたくさんの砂糖を振って、ラードでフライしたアーモンドを突き刺して飾る。サーヴする。

 

1479-1484年に書かれた :  Wel ende edelike spijse, オランダのレシピから、

 

2.4. シャポンのブラマンジェ Een blancmanger met kapoenen

シャポンを水でボイルして白い肉を取る。冷水に入れる。挽いたアーモンド、ライスミルクをポットに入れて火にかける。シャポンの肉を潰す。

アーモンドミルクと混ぜて冷やす。砂糖、ポークの脂を加え、黒くならないように火から下ろす。アーモンドを砂糖と一緒に火を通しブラマンジェの 上に飾る。砂糖を振る。

 

イングランド1435Harleian MS 279から、

 

78.火を使わずにスー ( sew ) に色を付ける : Цветной десерт без огня

アーモンド4ポンド水に入れて皮を剥く。翌朝しっかりと挽く。濃いミルクを絞る。米を用意してきれいに洗い、しっかりと挽く。ミルクと一緒に ストレイナーで漉す。ボイルする。入れ物に分けて入れ白い砂糖を入れる。各入れ物にクローブ、メイス、クベブ、シナモンの粉末、を入れる。

白、 黄色、パセリで緑に色を付ける。各々スライスしてディッシュに入れる。ワインを入れたミルク又はレッドワインを添える。

 

スペイン ( Catalan ) 1520年のLibro de Guisados から、

 

この料理書には病人のためのブラマンジェ、普通のブラマンジェ、フリッターのためのブラマンジェの、3種のブラマンジェがある。

普通の ブラマンジェのレシピは長いので短くまとめたレシピ、魚のブラマンジェ, ひょうたんのブラマンジェが用意されている。

 

2レシピ引用しよう。

 

143.ブラマンジェ 要約 :  Blancmange in a Briefer Summary

米を1ポンド挽いて篩う。殺して直ぐのメンドリの胸肉をクックして細かく裂く。鍋に入れて少量のミルクを入れて胸肉が溶けるまでクックする。
挽いた米を入れてよく混ぜる。1ポンドの米に1羽のメンドリの胸肉、ミルク 2L, 砂糖1ポンドを使う。全て鍋に入れて火が真ん中に当たるように
セットする。濃くなったら脂をたくさん入れて残り火の横に置いて均一になるようによく混ぜる。 砂糖をディッシュの中に振る。

 

237.ひょうたんのブラマンジェ :  MANJAR BLANCO DE CALABAZAS  

一番柔らかいひょうたんを選んでナイフで白いところが出るまで削る。手の大きさ大に切る。水を火にかけてボイルしたらひょうたんを入れる。
クックしたら出してきれいな布の中に入れる。ひょうたんの量に合わせてアーモンドミルクを作る。しっかりと絞って水を出す。
ブラマンジェを作るポット又は鍋に入れる。砂糖を必要量入れ、火にかける。ミルクの中にひょうたんを入れる。ローズウォーターを振りかける。
しっかりとひょうたんを潰す。よくボイルするように強い火を用意する。濃くなるように絶えず混ぜる。固くなったらローズウォーターを入れて少しクックする。火から下ろしディッシュを用意する。上に細かい砂糖を振る。

 

各国色々な特徴がある。スパイスを多用するフランス、それに追従するイングランド。特にフランスはスパイスを社会秩序の保持と外交交渉を有利に 進める為に使ったことが、各国のレシピを比較すると鮮明に浮かび上がってくる。フランスはグレインズオブパラダイスを、イングランドはクベブを、 一体どういう手段で手に入れたモノかと、見たこともないスパイスを使って賓客達を煙に巻く姿が目に浮かぶ。

 

1604年のベルギー(リエージュ), ランスロ・ド・カストー( Lancelot de Casteau’s )によるOuverture de cuisineから、

 

ブラマンジェ :  Pour faire blane menger

シャポン又はニワトリを23日前に殺しておく。クックしたら胸肉を取り、小さなピースに切る。モルタルで挽き、牛乳を2-3スプーン入れて 湿らせる。牛乳7ポンド6オンス、細かい米粉1ポンドをシャポンの肉とよく混ぜる。非常に白い砂糖1 1/2ポンドを鍋に入れて火にかける。 木じゃくしで一日中かき混ぜる。1/4時間ボイルしたらローズウォーター8オンス、塩少量を入れる。プレート又はカップに入れる。 又は四角い中に入れる。

 

1600年代のフランスは、ユグノー戦争の最中にヴァロワ朝が断絶して、新教徒のブルボン家のアンリ世( Henri IV12/13/1553-5/14/1610 がカトリック教徒のフランス王として即位しブルボン朝を開いた。三代目のルイXIV世( Louis XIV9/5/1638-9/1/1715 )の時代には絶対王政 を築き、領土を拡大し最盛期を迎えた時代である。

スパイスを手放し、本来のブラマンジェを作れる時代になったとも言える。

 

少し時代が戻るが、1553年のドイツ, サビナ・ヴェルゼリン ( Sabina Welserin ) によるDas Kochbuch der Sabina Welserinから、

 

183.ブラマンジェ :  Blomenschir

生きていたシャポンから胸肉を取り、冷水に漬ける。それを湯の中で湯がく。小さなボールに入れてクックする。塩は入れない。半分できたらボールに取る。冷めたら糸のように細く裂く。そのあと米1/2ポンド用意して選って綺麗に洗う。再び乾かす。それをモルタルの中に入れてよく叩く。そうすると粉になる。細かいシーヴを通して小さな鍋又は平鍋に入れる。細かく裂いたシャポンも入れる。そのあとスイートミルクを用意して綺麗な入れ物の中でボイルする。ミルクをセットして米を火のおこった石炭の上に置きミルクをその上に注ぐ。ゆっくりと一定の速度で木のスプーンを使って米の粉の中を混ぜる。小麦のポリジのようになるまでクックすることを忘れてはいけない。中に砂糖を振り入れてローズウォーターを入れる。ディシュッに入れて塩を少し入れる。冷ましてサーヴするのであれば冷やす。冷たくなったら鉄のスプーンを添えてサーヴする。ボールの中に綺麗に並べる、これでドーナッツを作る事もできる。

 

この時代あたりから、レシピの内容が細かくなり、再現できるようになる。料理書が貴族の装飾物、蔵書として持っていることがステイタスだった 時代から、「料理を作るための書物」としての地位を得る。調理時間、重さなどが記載されて現在の料理書に近くなった。

Le Viandier 書いたタイユヴァンは字の読めない料理人の為に料理書を書いたのではなく、王様、シャルル世の為に、 料理書を献呈するために料理書を作ったのである。きわめて省略した記載~材料の名前と料理名だけの料理書~であるのも理解できるだろう。

ブラマンジェは固めてスライスするかパイにして食べた。此処ではブラマンジェでドーナッツを作っている稀な例である。

 

1651年のフランス, François Pierre de la Varenne  ( フランソア・ピエール・ド・ラ・ヴァレンヌ、1615–1678 ) による Le Cuisinier françois では2種記されている。一つはアントルメであり、後の一つは朝にブイヨンの代わりに食べる料理として取り上げられている。 この時代はアーモンドミルクに牛乳を入れる、丁度上の100年前のドイツのように、フランスのブラマンジェが新しく変わる転換点である。 少し長いが2レシピ引用しておく。

 

ブラマンジェ (アントルメとしてサーヴする)  :  Blanc manger pour servir d’entremets.

湯がいたアーモンドを1/4ポンドモルタルで潰す。ローズウォーターをスプーンで少しずつ入れる。好みでなければ水を入れる。

ナッツがしっかりと潰れたらトリ又はビーフ、仔牛で作ったハーブを入れていない、クローブを2-3、シナモンを少量入れて 塩で味をつけて澄ませたストックを1/2パイント又はもう少し多く入れる。

アーモンドミルクが足りなければ牛又は山羊のミルク 2-3スプーン入れる。ストックは脂を取って熱くなければならない。

よく混ぜたらモスリン又はリネンで漉す。 シャポンを2オンス又は別のローストした或いはボイルし、骨を取り、筋を取り、皮を取り、チョップするか モルタルで潰したトリの胸肉を加える。トリの代わりに仔牛を使うこともできるがキメが粗くなり繊細ではない。

卵大のクラストを取ったホワイトブレッドを付くこともできるがきめ細かく仕上げるには必要ではない。

モスリンで鶏肉を漉さない者がいるが、アーモンドと一緒に押せば漉すことができる。

肉を潰したら一人がアーモンドとストックを モスリンの中に入れて一人が汁を搾ればよい。

絞ったらもう一度ストックを少量入れて残っている香りを押し出す。 ミルクをキャセロール又は銀のボールに入れる。

1-2個のレモンジュース、約1/4ポンドの砂糖を入れる。 ブラマンジェを石炭の火の上にかける。しばらくすると濃くなる。

スプーンで時々混ぜる。一部分を取ってプレートに入れて冷ます。 冷めてアスピックのようになったらできている。火から下ろす。

 

朝にブイヨンの代わりに食べるブラマンジェ :  Autre blanc manger pour prendre le matin au lieu d’un boüillon.

大きなボールに脂を取り除き、ハーブのきつい香りが付いていない、適度に塩をしたミートストックを用意する。

香りがきついときには アスピックを作るようにホワイトワインを入れてボイルする。約一時間煮る。

焦げないように時々スプーンで混ぜる。 量が半分になったらスイートアーモンドをモルタルで潰しローズウォーター2-3スプーン、冷水、ミルク又はストックを時々入れながら 作ったミルクを加える。

再びブラマンジェを一時間又は濃くなるまで加熱する。前述したようにスプーンで混ぜる。

汁をリネン又はモスリンに 入れて絞って漉す。汁をキャセロール又は銀のボールに入れる。

ピースに割った砂糖を1/4ポンド、シナモンスティックを入れる。

バナナ ( プランエーションから手に入れた果物 ) 、龍涎香、オレンジフラワーウォーター、

レモンジュース又はオレンジジュースを入れる者 もいる。攪拌したものをボイルするまで加熱する。

 

いずれのレシピもストックの中に肉を残していない。ヴァレンヌははっきりとは述べていないが、ストックに仔ウシの関節を使った可能性を 否定できない。フランスでは1691, François MassialotLe Cuisinier Roïal et Bourgeois、イギリス1747年、Hannah Glasse The Art of Cookery にある、仔ウシの膝関節を煮て作ったプディングへと、ブラマンジェは枝分かれをしてデザートの道を進む。

 

 

 


パウンドケーキ

2018年05月09日 | お菓子の歴史

ウンドケーキ 

 

パウンドケーキは1700年代の初めに現れた。北ヨーロッパ発祥のお菓子である。アメリカではパウンドケーキ、イギリスではスポンジケーキ、フランスではカトルカール、ドイツではアイスヴェルクーヘンと呼ばれている。フランスとアメリカ以外の国では中にレモンピール、ドライフルーツ、スパイス、エッセンスを入れる。

      

                                    

最も古いと思われるパウンドケーキのレシピは英国の1747年刊のハナ・グラッセ(Hanna Glasse ,1708/3-1770/9/1著)のアートオブクッカリーの中にある。そのレシピは;

 

バター1ポンドを手でクリーム状になるまで混ぜ、更に卵6個、卵黄6個を混ぜる。小麦粉1ポンド、砂糖1ポンド、キャラウエイシード少量入れて、手又は木のスプーンで1時間かき混ぜる。
バターを塗ったパン(焼型)に入れて強火のオーブンで1時間焼く。きれいに洗ったカラントを1ポンド入れても良い。

 

手でバターを混ぜ、卵を入れた生地を手で混ぜるのは何故なのだろう?

という疑問があるだろうがその理由は後で述べる。

 

その前に、このレシピよりも少し後の時代の、あの有名なイザベラ・ビートン夫人のレシピを取り上げる。

 

バター1ポンドをかき混ぜてクリーム状にする。小麦粉を1 1/4ポンド入れて混ぜる。砂糖1ポンド、カラント1ポンド、スライスしたピー ルの砂糖漬け2オンス、ゆでてチョップしたアーモンド1/2オンス、好みでメイス1/2オンスをいっしょに混ぜる。卵9個を解きほぐして混ぜる。20分間混ぜて丸い型に入れる。底と横にバターを塗った紙を貼り付ける
、オーブンを熱して1時間半から2時間焼く。カラントが底に沈むようであれば卵黄と卵白を別々に混ぜる。ワインを1グラス入れても良いが、入れなくてもおいしそうに見えるので必ずしも入れる必要はない。

 

イザベラ・ビートンは1861年に出版した『ビートン夫人の家政読本』で、ヨーロッパでその名が知られた。1858-1861年に『家庭画報』で、毎月ファッション、保育、畜産、毒、
使用人の管理、科学、宗教について、いわゆる ”料理と家政” に関する記事を掲載した。産業革命により経済が成熟したイギリス帝国の絶頂期であるヴィクトリア朝に出版された
家庭運営書である。初年度に60,000部が、1868年までに合計2,000,000部を売り上げた。

                                             

読者の対象は家庭内にハウスキーパーを置き、料理人、バトラー、ヴァレット、ハウスメイドなどの使用人を置くことのできる、ごく一部の年収1,500-2,000ポンドの家庭である。
当時、家庭内にハウスキーパーを置く余裕のある家庭は中流上流~上流家庭に限り、大銀行家や大貿易商であったが、1851年にロンドンで第一回万国博覧会を開くほどの右肩上がりの社会情勢の中で、この料理書は飛ぶように売れた。 

パウンドケーキのレシピはビートン夫人の時代になっても大きな変化は見られない。

 

1931年刊の ”ジョイ・オブ・クッキング”( ロンバウアー、ベッカー著 )では;

 

バターを1ポンドクリーム状に混ぜる。砂糖3カップを数回に分けて混ぜる。卵を8個入れ、薄力粉4カップ、塩1ts、ベーキングパウダー2ts、バニラエッセンス2ts、ミルク1カップ( ブランデー2Tbs又はローズウオーター8滴 )入れる。バターを塗った2つの( 9x9インチのパン又は4 1/2x8インチのローフパン )に入れて焼く1時間焼く。とある。

 

1970年刊の ”マスターリング・ディ・アート・オブ・フレンチクッキング”(ジュリア・チャイルド、サイモン・ベック著)には;

卵3個、砂糖1カップ、卸したレモン又はオレンジの皮をボールに入れて2倍のかさになるまでハイスピードで4~5分混ぜる。篩った薄力粉6オンスをすばやく、さっくりと15-20秒さっくりと混ぜる。ボールをスタンドから外してゴムベラで生地をまとめバターを塗り,粉を打ったパン(4つの8x1 1/2インチのカップパン)に入れて、350°F(176℃ )で40分間焼く。

 

ジュリア・チャイルド著の“フレンチクッキング”でパウンドケーキは、カトルカール(Le quatre quarts) として紹介されており、副題にパウンドケーキ-イエローバターケーキという名が付いている。
彼女は、『このケーキには四つの材料;卵、砂糖、小麦粉、バターをそれぞれ1/4パウンドずつ使うことからカトルカールのフランス名が付いていると述べ、イギリス人はあらゆることに “パウンド” という言葉を使う。ケーキも”パウンド”と呼び、しかもこの作り方を好む。それ故にフランスでいうカトルカールはイギリスのパウンドケーキである。』と述べている。ジュリア・チャイルドは
フランスで料理を学び、アメリカ人がフランス料理を簡単に作れるように尽力した。しかもジュリア・チャイルドの時代には、彼女と時を同じくして、フランス料理をアメリカに紹介した料理家が大勢いた。フランスのカトルカールをアメリカに既にあったパウンドケーキとして紹介したのである。この時期にパウンドケーキを知った人達はパウンドケーキをカトルカールと思いこんでいる。

       

1796年にアメリカで初めて出版された料理書、アメリカン・クッカリィ(アメリア・サイモン著)に当時のパウンドケーキの様子が記されている。            

               

パウンドケーキ

              

砂糖1ポンド、バター1ポンド、小麦粉1ポンド、卵1ポンド又は卵10個、ローズウオーター140ml、 好みのスパイスを適量;弱火で15分間焼く。

 

                                     

                               

                                  American Cookery,” 1796 by Amelia Simmons.

 

ジュリア・チャイルドがフランスで教えを請うたオーギュスト・エスコフィエ著、1930年のガイド キュリナリエの中にカトルカールのレシピはない。

 

1900年頃からパウンドケーキの作り方が大きく代わったのは1891年にベーキングパウダーが売り出されたこととミキサーが使われるようなったことが大きく関わっている。手動式ハンドミキサーは1870年に、電動式ハンドミキサーは1908年に発明された。ビートンの時代にはまだ手動式のミキサーもなかったのでひたすら手で混ぜていた。1919年にはスタンドミキサーが一般家庭に売り出され、1936年には軽量になってテーブルの上に置けるようになった。現在のパウンドケーキ(クラシック)のレシピは;

 

”バター1ポンド、砂糖1ポンド、卵6個、卵黄6個、バニラエッセンス2ts、塩1ts、薄力粉(400g~1ポンド)を順にスタンドミキサーのボールの中に入れて攪拌し、ローフパンに入れて焼く。
”が基本になっている。しっかりと卵を泡立てることができるようになり、ベーキングパウダーは必要ではなくなり、卵の量も少なくてすむようになった。

 

ベーキングパウダー、電動ミキサーの発明は後のケーキ作りに大きな変化をもたらした

 

                                                                              

次に挙げるのは1954年に第一版が刊行された、東京ユニオンチャーチ婦人会編の料理書” Buy it and try it”である。 

戦後の日本に進駐した進駐軍と共にキリスト教伝道の為にやってきたアメリカ夫人が出した料理書である。

アメリカ国内とは異なる食環境の中で、日本で手に入る材料を使って、できうる限り本来の味に近い料理を作ろうと出版された。写真は1963年版である。第一回編集版は英文で1954,1959,1963年に、邦訳は1959、1961,1963年に3版ずつ出された。

 

バター1ポンド、砂糖1ポンド、卵6個、小麦粉4カップ、バニラエッセンス1ts

全ての材料を泡立てた卵の中に混ぜて粉を打ったパンに入れて325°Fで1時間焼く。

                                       
                                  

 Buy It 'N Try It: Hints on Cooking and Living in Japan (Third English Edition) Spiral-bound – 1963版

 

パウンドケーキの中に何も入れないレシピは主としてアメリカ経由のレシピである。

 

 

参考文献

Hanna Glasse, The Art of Cookery 1747

Ameria Simmon, American Cookery 1796

Buy it and try it 1963

Julia Child, Louisette Bertholle, Simone Beck, Mastering the Art of French Cooking 1979

Isabella Beeton, The Book of Household Management 1861

 

 

 


パイ

2018年05月08日 | お菓子の歴史

パイ

 

パイとはどういうものをパイというのだろう?料理に特に興味がなくてもパイには甘いアップルパイやストロベリーパイだけではなく主食となるミートパイやフィシュパイがあることをご存じだろう。様々な形をした、様々なフィリングを入れたパイは一体何処から来たのか、パイがこの世に現れた理由は、そしてその時パイはどんな形をしていたのか等々、疑問は尽きることがない。できるだけ古い文献;アピキウス( AD 300-400年に編纂されたローマの料理書 )にさかのぼり、パイの姿を探ろうと思う。アピキウスからパイのレシピを引用すると;

 

287 生又は塩漬けした豚肉のハム: [Baked Picnic] HAM [Pork Shoulder, fresh or cured] PERNAM(1)

ハムはイチジク、ローレルの葉と一緒に蒸し煮にする;豚の皮は取って四角に切り、蜂蜜に漬ける。小麦粉とオイルでドウを作りハムの周りに巻く、ドウと中身が焼けたことが分かるようにドウの上に皮を飾り付ける。焼けたらオーブンからとり出してサーヴする。
 

(1)      Pernamには通常、豚の生又は塩漬けの肩肉が使われた。

 

ローマ時代後期のアピキウスに記載されたパイは装飾的だが、肉にドウを巻いて高温で焼いたパイは日持ちが良く、栄養価も高いので遠征時の携帯食であった可能性も考えられる。ここでアピキウスから約1000年後の1450年頃の料理書、Contents of MS Sloane 468 (S)から、この時代に流行っていたヤツメウナギのパイを取り上げる。

 

生のヤツメウナギは臍の辺りで開き、血を取っておく。血を容器に入れて、内臓を取り除く。よく洗って焼く。ペイストを作り、その中にヤツメウナギをスパイスといっしょに入れる。

ブレッドでクラムを作り、ワイン又はヴィネガーと血を混ぜる。ギャランティーンを入れて穴を開けたクラストを上にのせ、る。オーブンに入れて焼く。

 

ヤツメウナギのパイはクラストを作ってヤツメウナギを包む。一番上に蒸気を抜くための穴を開けている。今も変わらないパイの作り方だ。クラストやパンの作り方を詳細に述べた料理書は存在しない。これは、パンやクラストを作るベイカーの仕事と料理人の仕事がはっきりと分かれていたからである。ベイカーに任された、彼にしか作ることを許されていない仕事であったからだ。
ベイカーはパイクラストを作り、その中身は料理人が作った。フィリングを入れたパイはベイカーに戻されオーブンで焼かれた。焼かれたパイは料理人に戻されて最後の飾り付けをしてテーブルに出された。

 

1596年にトーマス・ドーソンが著した、“ザ グッド ハウスワイブズ ジュウェルズにある;( The Good Huswifes Jewell, By Thomas Dawson )レシピを読めばパイの正体が判然とする。

 

 

骨髄のパイ                                 

卵白を1個、砂糖を入れて上質のペイストを作る。

小さなコフィンを作って紙の上に載せてオーブンの中に少し入れる。

取り出して骨髄を入れてふたをする。小さな穴を開けて再びオーブンに入れる。割って上にブランチ パウダー( ジンジャー、シナモン、ナツメグの粉 )を振ってサーヴする。

 

この料理書は、家政を任された主婦向けに書かれたせいか、レシピの内容が詳しい。卵白と砂糖を使った上質のペイストだが、クラストは相変わらず固くて食べられそうにない。
ペイストは一旦オーブンに入れてコフィンの形に焼き固め、中身を入れて蓋をして焼く。中に入れた食材を蒸し焼きにすることがパイの役目である。パイになる食物は、少し湿な性質を持った食材が適している。熱い熱で水分がなくならないように蒸し焼きにする。プラム、ペア、ピーチ、スイートチェリー、パンプキン、ホウレンソウ、アヒル、鴨、骨髄、生魚、甲殻類、ヤツメウナギ、豚肉、チーズなど、元来冷で湿な食物はパイに適した食材である。内臓肉、柑橘類、デイツ、マルメロ、リンゴ、サワーチェリーなど冷で乾な食材はクラストの中に水分を補ってパイにした。それ以外の物はラードしたり、スパイスを工夫してパイにした。( 中世ヨーロッパ料理、The Forme of Cury ; 四元素説 参照 )


    
 

写真左はペイストを型に押して文様を浮き上がらせたクラストの入れ物で、中にミートのフィリングを詰めて焼いたウサギパイ。右はその型である。パイクラストは上面だけでなく横も型があり,これらを使って入れ物(パイクラスト)を作った( 近世料理 Accomplisht Cookery 参照 )。

1553年にサヴィナ・ヴェルゼリンが家族の為に書いた料理書( Das Kochbuch der Sabina Welserin )にはパイペイストリィの作り方が詳しく述べられている。

 

61. あらゆる形をしたパイが出来るパイペイストリを作る



手に入れることのできる最上の粉をおよそ二握り用意する。その量はどのくらいの大きさに作るかによって決まる。その粉をテーブルの上にのせ、ナイフで卵を二個と塩少量をかき混ぜる。
小さい鍋に水を入れ、卵二個分の脂を1ピース入れてボイルして溶かす。それをテーブルの粉の上に注ぎ、よく捏ねて堅いドウを作る。夏であれば水の代わりにミートブロスを使い、脂の代わりにブロスに浮いた脂を使う。ドウが錬れたら丸いボールを作って中央が盛り上がるように指の脇又はローリングピンを使って縁を延ばす。冷えた場所で冷やす。
その後私が指摘したようにドウを形作る。残しておいたドウを丸く延ばして蓋にする。水を用意して蓋の上に水を塗って、形作ったペイストリのシェルの上に指でくっつける。
小さな穴を開ける。開かないようによく付いているか確認をする。開けたおいた穴に空気を吹き込むと蓋が持ち上がる。急いで穴を塞いで、オーブンの中に入れる。
前もって皿の中に粉を振る。オーブンは適度に熱せられていることに気を配る。そうすれば立派なペイストリができる。いろいろな形に作るペイストリィのドウはこの方法で作る。

 

果物を入れたパイが作られるようになるのは1550年以降である。 

 

時代が進み、小麦粉の製粉技術が良くなって、粉の粒が細かくなったことと、砂糖が比較的安く手にはいるようになったからである。( 固くて食べられないクラストの中に酸っぱい果物を入れてパイにする理由はない。)

熱の1度,湿の2度の性質を持つ砂糖をふんだんに使うことによって、冷の3度, 乾の2度のサワーチェリーに入れる、又、冷の2度、乾の2度の酸っぱいリンゴをパイにすることができたのである。

 

右図は1350-1550年頃に流行った健康全書。ルーアンで印刷されたタキュイナム・サニタティスである。図の下に酸っぱいリンゴの性質が明記してあり、これを目安に料理人と医者はレシピを考えた。非常に高価なものであり、所持していることがステイタスをあらわした。


                                                               

                               Mela acetosa ( Sour Apfel )

                                               Tacuinum Sanitatis

 

蛇足ではあるが、パイという料理が深い入れ物を使った料理であることを示す好例を引用して説明を終わろう。

 

ハウス-ワイブズ・ジュエルのsecond part of the jewelsから、パイをポットの中に作る。

脂身の少ないマトンの脚を用意して細かくミンスする。マトンの腎臓も同様にして陶製のポットに入れる。

マトンのブロスを-2レードル、ワインを少量、レーズン又はバルベリィを一握り入れて、一緒にボイルする。オレンジがあれば1/2、塩、ペッパー、クローヴ、メイス、サフランを入れて調味する。サーヴする。

 

 

 

 

 

 参考文献

 

  Joseph Dommers Vehling, Apicius 1936

  Sabina Welserin, Das Kochbuch der Sabina Welserin 1553

  Thomas Dawson, The Good Hus Jewell 1596

  Robert May, The Accomplisht Cook 1660-85

 

 

 


タルト・トロペジェンヌ

2018年05月07日 | お菓子の歴史

タルト・トロペジェンヌ

 

 タルト・トロペジェンヌ (Tarte Tropézienne ) を創ったのはアレクサンドル・ミッカ ( Alexandre Micka ) である。第二次大戦 後、ポーランドからプロバンスにやってきた。1955 年にサントロペ ( Saint-Tropez ) でベイカーを開き、クロワッサン、ピ ッザ、ブレッド、その他に祖母のレシピで作る 「クリームケー キ」 を売っていた。 

ある日サントロペ近くのラマチュエル(Ramatuelle)で、『 Et Dieu... créa la femme、そして神は …女を創造された 』( 1956 年作 )の映画製作で働いていた映画スタッフ※( その頃はまだ知られていなかった無名の女優、ブリジット・バルドー、Brigitte Bardot、9/28/1934 - )からケーキ の配達を依頼された。

                                                         

彼のクリームケーキは気に入られ、連日注文を受けた。バルドーはタルト の名前を 「サントロペのタルト」 に変えてはどうかとミッカに提案。「タルト・トロペジェンヌ」 が生まれた。 コート・ダジュールは 1950 年にはフランスを代表するアーティストたちが好んで夏を過すリゾート地となり、プロバンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏にあるヴァール県内のサント ロペ ( Saint-Tropez ) はバルドーよって広く知られるようになった。 

※ ブリジット・バルドーは、1956 年製作のヴァディムの監督作品、邦名『素直な悪女』で男達 を翻弄する小悪魔を演じ、名を馳せた。タルト・トロペジェンヌは祖母の代から続く秘伝のレシピとバルドーの話で広く知られることとなった。ミッカは 1985 年にリタイアし、後をアルベー ル・デュフレンヌ ( Albert Dufrêne ) に引き継ぎ現在に至っている。 

タルト・トロペジェンヌにはキルシュとオレンジフラワーウオーターで香りを付けたきめ細か いクリームと蜂蜜で甘みをつけたホイップクリームがサンドされている。ブリオッシュの表面 はパールシュガー( 別名ニブシュガー、ヘイルシュガー、あられ糖 )で飾られている。ナイフ を入れるとサントロペの甘い香りのする柔らかなクリームが流れ出すのが特徴だ。

                                              

 

作り方; ブリオッシュはバターをふんだんに使うのでドウを前日に作って、冷蔵庫に入れて発酵を抑えると扱いやすくする。ペイストリィクリームも前日に作り、冷蔵庫で保存しておくときれいに仕 上がるしサーブすることも容易である。 少し多めに作ってブリオッシュ・ア・テット ( Brioche à tête ) や、多めに残ったらブリオッシュ・ ナンテール( Brioche Nanterre ) を作っても良い。ドウは冷凍保存することもできる。

 

タルト・トロペジェンヌ Tarte Tropézienne  8-10 人分生地:

 

 小麦粉                250g 

 塩                  3/4 ts 

砂糖                 30g

イースト             1 1/2 ts 

暖めたミルク            45g

卵                   3 個

バター              140g

 塗り卵に卵1個と水                 1/2ts 

塗り卵: 卵                   1 個

水                  30g 

あられ糖               適量 

 

 

クリームフィリング:

 

ミルク                    225g

砂糖                      45g

卵黄                      3 個

コーンスターチ               8g

小麦粉                    8g

キルシュ                   1 1/2ts

オレンジフラワーウオーター      1 1/2ts

バター                    60g 

生クリーム                 160g

 蜂蜜                       30g   

 

ブリオッシュのドウはドウフックをつけたスタンドミキサーのボールの中で作る。 暖かいミルクとイーストを混ぜ、3-4 分間置いてイーストを完全に溶かす。 小麦粉、砂糖、塩の中に卵と入れて 1 分間ロースピードで混ぜる。溶かしたイーストを入れて更 にロースピードで 5 分間混ぜる。手で 5 分間混ぜる。 バターを少しずつ入れる。入れる度に 1 分間混ぜる。合計 10 分間混ぜる。 ドウを大きなボールに入れてプラスティックで覆う。2 倍の大きさになるまで約 2-3 時間置く。 ドウの空気をゆっくりと抜く。ボールの周りにオイルを軽く塗って冷蔵庫に 8-12hrs 入れる。 

ドウができたら 2/3 を切ってベーキングシートにのせる。22.5cm の円形に、高さ 1.8cm に形 作る。暖かい場所に置いて覆いをせずに約 1 時間置く。 オーブンを 204℃に加熱する。 ブリオッシュの表面に塗り卵を塗る。あられ糖を振る。約 20 分間、きつね色になるまで焼く。 キツネ色になったら直ぐにブリオッシュをオーブンから出してベーキングシートからワイヤーラックへ移して冷ます。 ペイストリィクリームは、白っぽくなるまで砂糖と卵黄を混ぜる。小麦粉、コーンスターチを加 え、滑らかになるまで錬る。ミルクを弱火にかける。卵黄の中に 1/2 入れて烈しくまぜる。これ をソースパンに入れて弱火でクックする。ボイルするまで混ぜる。火から下ろして少し冷ます。 漉してからバター、オレンジウオーター、キルシュを加える。ボールに戻して冷ます。ラップを のせて冷蔵庫でしっかりと冷ます。 クリームを蜂蜜と一緒にソフトピークまでホイップする。ホイップクリームを半分ペイストリ ィクリームの中に入れて混ぜる。残りのクリームを入れて滑らかになるまで混ぜる。 ブリオッシュを半分に水平に切ってクリームを挟む。 

タルト・トロペジエンヌの名前、「タルト」 について; 1979 年に出版のジュリアチャイルドらによる Mastering the Art of French Cooking ではブリオッ シュはブレッド、クロワッサン、ペイストリィと一緒に分類されている。ブリオッシュはブレッ ドの一種であるとの認識だ。 しかし、1903 年に Le Guide Cuinaire を出したエスコフィエは、ブリオッシュをショートペイス ト、ドレッシングペイスト、シュガードペイスト、ガレットペイスト、パフペイスト、サバラン ペイストと同列のペイスト ( pastry, pâte:生地 ) として分類している。 

バルドーがブリオッシュにはブレッドとペイストリィとしての二つの姿があるとはっきりと認 識していたか否かは明らかではないが、タルト・トロペジエンヌを食べてみて、ブリオッシュで できていることは判ったのだろう。当時ブリオッシュ生地を使ったお菓子がたくさん作られて いた。ブリオッシュがブレッドとしてではなく、主にお菓子の生地(ペイスト)としてコンフェ クショナリィで扱われていたことは知識としてではなく、社会の風潮の中でそれとなく判って いたのだろう。空焼きをしたブリオッシュ生地にクリームを挟んだお菓子をみてタルトと言っ たのは、当時のヨーロッパ人であればごく自然なことだと思われる。

 

 

 


タルト

2018年05月06日 | お菓子の歴史

タルト            

  

タルトとパイに似ているが、タルトにはパイと異なるいくつかの特徴がある。タルトのクラストの準備にベイカー(ペイストリィシェフ)が関わらないこと。タルトのクラストは平鍋(パン)の中で作り、背が低いこと。蓋をする、フィリングに肉や魚を入れるなどパイに似た料理方法を取ることがあるが、それは地域や、時代により変化する。順に、例を挙げて説明しよう。

 

1420年頃に編纂されたシカールによるデュ・フェ・デ・クイジーン( Du fait de cuisine )から;

 

28. アーモンドミルクのフラン

貴方が作ろうとしているフランの量に応じてアーモンドを用意する。しっかりと湯がき、洗わせて非常に強く潰させる。きれいな水を用意してアーモンドミルクを、フランの量に相応しい、きれいでしっかりとしたボール又は入れ物中に濾させる。

きれいなでんぷんを用意してきれいで新鮮な水で洗う。洗ったらきれいなボールの中に入れる。アーモンドミルクを用意して湿らせたでんぷんの中に入れる。色をつけるためにサフランを少量入れる。これをきれいなストレイナーで濾し、きれいで清潔なボールの中に入れる。塩を少量入れ、たくさんの砂糖を入れる。ここまでできたらクラストを作る。ペイストリィコックを呼んでオーブンの中に入れさせて少し固めさせる。ペイストリィコックにはしっかりとした木の、又は鉄の柄の付いたスプーンを使って上のフランの小さなクラストをオーブンの中に入れさせる。

 

フランはタルトでもパイでもないが、同じようにオーブンで焼く料理なので、この種の料理がどのように作られたかを知る上では貴重なレシピである。ベイカーとクックとの役割分担がはっきりとなされていたことが分かる。パイとフランのペイストはベイカーが、タルトのペイストは料理人が作った。

 

1390年頃に編纂されたイングランドの料理書、フォルム・オブ・クーリィでは;

 

164.タルト

 ボイルしたポークを切って潰す。そこへ卵、葡萄、砂糖、パウダージンジャー、パウダードウスを入れる。小さい鳥はラードをして入れる。プルーン、サフラン、塩を用意してパンの中にクラストを作る。そこに詰め物をしてよく焼く。サーヴする。

 

又、1300-1400年頃のイタリアのリブロ・ディ・キュシーナ( Libro di cucina/Libro per cuoco ) から;

 

98.最も完全で素晴らしいマシュルームタルト

フィリングがたくさん入ったマシュルームタルトを作るには、よく洗ったホールのマシュルームの皮を剥き、大きなピースに切って水を絞る。溶かして濾した塩漬けラードにマシュルームを入れてフライする。焦げ付かないように水を加える。クックしたら平鍋から取り出し、鉢に入れてたくさんのチーズと卵を混ぜる。このバターを非常に薄くて丈夫なクラストを入れたタルトパンの中に入れる。クラストは薄くて黄色くて、そのフィリングはスパイスが効いていて、たくさんのマシュルームと少量の卵が入っていなくてはならない。しっかりとクックする。

 

タルトは薄くてパン又はタルトパンに入れて焼いた。

 

1450年頃のイングランドのハーレリアン・エム・エス4016( HARLEIAN MS. 4016, ab. 1450 A.D. ) から;

 

フルーツタルト

イチジクをワインで煮て挽く。入れ物に入れてそこにペッパー、シナモン、クローヴ、メイス、ジンジャーパウダー、松の実、フライしたレーズン、カラント、サフラン、塩を入れる。背の低いコフィンを作り、詰め物を入れる。松の実、四つに切ったデイツ、少し茹でた切った生のサーモン又は生のウナギを上に並べる。同じペイストでコフィンを飾り、コフィンの外側をサフランとアーモンドミルクを塗ってオーブンに入れて焼く。

 

パイは背の高いコフィンで作り、タルトは背の低いコフィンで作った。即ち、同じペイストでパイとタルトを作る。パイとタルトを分からなくしているのがフィリングである。タルトの中に肉を入れたのはイングランドではca.1450年までであり、それ以降はタルトには果物、パイには肉類を入れた。スペインではタルトには果物を、パイには肉を入れた。フランスではパイにもタルトにも肉を入れた。イタリアでは1380-1410の間にパイの中に肉を入れるレシピが数例あるだけで、タルトが主であり、肉、チーズを詰めて焼いた。ドイツはイタリアに似てパイのレシピが少ないが、タルトの種類はヨーロッパ一である。

 

Das Kochbuch der Sabina Welserin 1553年のレシピから;

17.     立派なバービィアニッシュ※タルトを作る

脂を1/2ポンド用意して平鍋の中で溶かす。その後クリームを1/4クオート用意して脂の中に入れていっしょにコトコトと煮る。その後卵を10個用意してドウが固まらないように小スプーン1杯の良質の小麦粉と、特にしっかりと混ぜる。その後材料を全て入れて混ぜる。全ての材料をいっしょによく混ぜてかなり濃くなるまで再びいっしょにクックし、そして甘くする。クックしたら少し塩をしてパイクラストの中に入れて焼く。

 

※南チロル地方

  

     

パイにはパイ専用のクラストが用意されていたが、タルトはパイのクラストを使ってタルトを作っていたのである。

この写真は現在のジャーマンアップルタルトである。ドイツは今も昔もタルトの種類が多く、作り方もほとんど変わらない。アップルパイとの違いを示す好例である。

 

1685年刊のThe Accomplisht Cookにタルトの形、作り方など、タルトの概念を示す記述があるのでここに引用する。

 

タルト又はパティパン又はディッシュの中でピピンタルトを作る

きれいなピピンを10個、ホワイトワインの中に保存しておいたもの、ホールシナモン、スライスしたジンジャー、クローヴを8-10個、しっかりと保存したもので色がうまくついているものをショートペーストの上に切ってのせる。又は焼いておいたところに入れて二枚のディッシュを使ってオーブンに入れて前述したように作る。

 

タルトはパイと同じようにフィリングを入れる入れ物ではあるが、縁を高くして蒸し焼きにするものではない。

        

            

 

別の方法で作るマルメロのパイ

マルメロを用意してそれをプリザーブにする。皮を剥いて芯を取る。細かい砂糖と泉の水でシロップを作る。同量のマルメロ、砂糖1ポンドに付ききれいな水1パイントを用意してプリザービィンッグパンの中でシロップを作る。アクを取ってシロップをボイルする。マルメロに入れる。しっかり色がつくまでボイルする。冷ましたらホール又は半分に切ってパイに入れて焼く。丸いタルト、ディッシュまたはパティパンに入れる。カットカバー又は1/4に切ったカバーを被せて焼く。焼けたら同じシロップを入れる。焼く前に細かい砂糖をもっと入れる。あとで入れるシロップを残しておく。砂糖掛けする。このようにするとどんなカーネルドフルーツでも、例えばセイヨウナシ、ピピン、ペア、ペアメイン、グリーンコッドリングまたはどんなリンゴでもタルトに入れて、又は切って入れてタルトを作ることができる。

 

これはパイのレシピであるが、“マルメロをそのまま、又は半分に切ってパイに入れて焼くとパイができる。

マルメロを切って丸いタルト、ディッシュまたはパティパンに入れて、更に砂糖を追加して入れて焼くとタルトができる。“とパイとタルトの微妙な?相違点を挙げている。上に示した3つの型はタルトに被せる蓋である。砂糖を上に振ってサーヴしたのである。

 

 

参考文献

 

Du fait de cuisine 1420

Satoh Yosinori, The Forme of Cury, translation 1390

John Russell,  The Book of Nurture 1460-70

Libro di cucina ca 1350

Harleian MS. 4016. ab. 1450

Sabina Welserin, Das Kochbuch der Sabina Welserin 1553

 

 

 


ジンジャーブレッド

2018年05月03日 | お菓子の歴史

ジンジャーブレッド      

  

ジンジャーブレッドと聞いて、皆さんはどんなお菓子を頭の中に描かれるだろうか?

ジンジャーマンクッキー? それともヘクセンハウス? それともレープクーヘンだろうか。

 

ジンジャーブレッド或いはジンジャーナッツと呼ばれるこのお菓子には様々な名がついている。デンマークではスカンディナヴィアン・ジンジャー・ナッツ、ジンジャーブレッド又は、ブロンケイエ ( brunkager : brown biscuits ), スウェーデンではペッパルカーコル ( Pepparkakor ),フィンランドではピパルカック ( Piparkakut ), ラトヴィアでは piparkūkas、エストニアでは piparkoogid、ノルウエーではペッペカーケ ( pepperkaker : pepper cookies ),アイスランドではピッパクック ( piparkökur) 。これらはいずれもクローブ、シナモン、カルダモンを使い、厚さ3mm以下に延ばして焼くので食べるとカリカリとしてスパイスの香りがする。合衆国ではジンジャースナップス ( ginger snaps ) と言い3-6mm の厚さの丸い形をしたドロップクッキーを指す。

 

ジンジャーブレッドはジンジャーと蜂蜜又はモラセスを使い、柔らかくてケーキのようなものからジンジャービスケットまで範囲が広い。
元々はジンジャーのプリザーブを指していたが、蜂蜜とスパイスで作った糖菓に変化した。

 

ドイツではレープクーヘン又はプフェッファークーヘン( Lebkuchen or Pfefferkuchen;  pepperbread : pepper cake )という。
ジンジャーブレッドがヨーロッパにもたらされたのは992年、アルメニアの僧、グレゴリィ・ニコポリス( Gregory of Nicopolis,  Gregory Makar,  Grégoire de Nicopolis ) によってである。彼はポンペイのニコポリスからフランス、ピティヴィエ近くのボンダロワ( Bondaroy ) に移り住み7年間をここで過ごす。
その時フランスのキリスト教徒らにジンジャーブレッドの作り方を教えたと言われている。

フランスのパン・デピス( pain d’épices;spice bread ) は二種類ありスパイスの効いたサワードウブレッドとクッキータイプのものとがある。
アルザスのパン・デピスはクッキー風の菓子で、ドイツの老巡礼者がアルザスのヴイレ村に伝えたものが始まりとされ、12月6日の聖ニコラウスの日に配り、モミの木の蜂蜜を使う。

1200年代にはスウェーデンにドイツ人移民が入ってレシピを伝え、1444年にはヴァドステーナ修道院において修道女によって消化不良を和らげるジンジャーブレッドが作られ、白いジンジャーブレッドを着色して窓に飾った事が知られている。

ドイツでは1400年代、ギルドが其の製造を担った。ジンジャーブレッドが商品として扱われるのは1600年代からで、修道院、薬屋、野外の市場などで売られていた事が知られている。

イングランドでは医用目的で作った。シュロップシャーのマーケット・ドレイトン ( Market Drayton in Shropshire ) では町のカントリーサインにジンジャーブレッドを使い、1793年には既にお店で作られていた記録が残っている。イングランドのジンジャーブレッドはケーキ又はジンジャーブレッドマンの形をしたビスケットを指す。
よく知られているジンジャーブレッドマンはクイーンエリザベスⅠ世 ( Elizabeth I ; 1533/9/7 – 1603/3/24 )を模して作り、外国の高官にその像(ジンジャーブレッド)を出したのが始まりであると言われている。

 

1602年刊のDelight for Ladies より

 

ジンジャーブレッド

古くなったマンシェット3枚用意して挽く。それを乾かして細かい篩にかける。そこに潰したジンジャーを1オンス、同量のシナモン、リコリス(スペイン甘草)を1オンス入れる。焼いて潰したアニスシードを一緒に混ぜ、砂糖を1/2ポンド入れる。
鍋にクラレットワイン1クオートを入れて、全てを入れて火にかけ、ペースト状になるまで混ぜる。固くなったらテーブルの上に置いた型に入れる。型から抜いて細かい粉にして一緒に混ぜておいたシナモン、ジンジャー、リコリスの粉を振りかける。
これが宮廷でお祭りの時にお出しするジンジャーブレッドである。別名ドライリーチ ( dry Leach : 漉して作ったもの ) と呼ぶ。

                                         

ドライジンジャーブレッド 

アーモンド1/2ポンド、挽いたケーキを同量、細かい砂糖1ポンド、卵黄2個、レモンジュース、ムスクの粒2個、これらを一緒に潰してペーストにする。型に入れて抜き、紙の上にのせてオーブンに入れて乾かす。 

二種類あるが宮廷でのクイーンエリザベスⅠ世からの贈り物は恐らく下のレシピに従って作られたジンジャーブレッドであろう。

 

下はスチュアート時代の型。      

               

 

1615年に書かれた ( The English Huswife by Gervase Markham ) でもほぼ同様のレシピが紹介されているがマンシェットの代わりに普通の小麦ブレッドが使われており、アーモンドを使ったレシピは無い。宮廷のジンジャーブレッドはハウスワイフが作るものとはひと味も二味も異なるようだ。

 

スコットランドのパーキン ( parkin ) はオートミールと糖蜜 ( treale ) で作られており柔らかいケーキである。

合衆国のジンジャーブレッドはジンジャーブレッドケーキ又はジンジャーケーキと呼び、固いタイプである。

フランスのジンジャーブレッド( パン・デビス : pain d’épices )は合衆国のものに近く、糖蜜よりも蜂蜜を使いジンジャーが入っていない少し乾いたタイプである。

ドイツのジンジャーブレッドは二種類ある。一つは柔らかいタイプと固いタイプのレープクーヘン ( Lebkuchen ) であり、カーニヴァルやクリスマスマーケットなどの屋台で売られているもう一方のジンジャーブレッドは固く、スイーツや砂糖で装飾を施す。この型抜きのジンジャーブレッドは他の国でもよく見られ、ジンジャーマンブレッドが特によく知られている。ポートワインに浸して食べるのが伝統的な食べ方である。

冒頭で述べた北欧のジンジャーブレッドはクリスマスの期間にノルウエーとスウェーデンでは窓の飾りにも使われその為に少し厚く、砂糖のグレイズとキャンディで飾られている。イギリスではこれらノルウエー、デンマーク、スウェーデンのジンジャーブレッドをジンジャービスケットと呼ぶ。

 

スイスではビーバー ( biber 下図 ) といい、中にマジパンが入っている。アッペンツェル ( Appenzell )、ザンクト・ガレン ( St. Gallen ) の町の紋章が描かれている事で知られている。  

オランダ、ベルギーではもろくて柔らかいジンジャーブレッド( ペッパクック、クラウドクック、オントゥベイトゥクック: Peperkoek, Kruidkoek or Ontbijtkoek )で、厚く切って上にバターを塗って朝食や昼食に供する。

 

ロシアではツーラ ( Tula ), ヴァジマ ( Vyazma )、ゴロジェッツ ( Gorodets ) 等の歴史ある町にその町のジンジャーブレッドがある。
下図はツーラのジンジャーブレッド。
中にはアプリコットジャム、外側には砂糖が塗ってあり、一見木彫のように見える。

     
                       

 

ポーランドではピェルニク( pierniki : singular, piernik ) と言い、中世からあるトルンの町の Toruń gingerbread ( piernik toruński ) が一番有名である。ショパンのお気に入りであった事でも知られている。

ルーマニアではトルト・ドルチェ ( turtă dulce ) と言い、砂糖のグレイズをかける。

ブルガリアではメデンゼン( меденка : made of honey ) と言い、手のひら大の丸くて平たい形をしている。蜂蜜、シナモン、ジンジャー、クローブを使い、表面に薄くチョコレートを塗る。キルギス第四の都市カラコルでも同じようなものが見られる。


ヨーロッパのほとんどの国では専門のギルド達だけにジンジャーブレッドを焼くことを許されていたが、クリスマスとイースターには誰でもが焼くことができた。

    

ジンジャーブレッドは季節毎に開かれる屋台で様々な形をしたものが売られた。クリスマスやイースターにはキリスト教に関係のある図柄をしていた。
自分の名前の由来になった守護聖人の聖名祝日にはその聖人のレリーフが刻まれたジンジャーブレッドを贈り物とした。そして窓には装飾したお菓子を飾るのが習わしであった。砂糖で飾り金箔を貼った。時には戦いに出る戦士のお守りや悪霊を防ぐ護符とした。

      


                  ( 上はきれいに飾られたヴァレンタインのジンジャーブレッド )

                                     

ジンジャーブレッドで作る家ヘクセンハウス(魔女の家)は1812年にグリム童話の ”ヘンゼルとグレーテル” が出たのを機にドイツのベイカーがレープクーヘンを屋根にお菓子を,壁に,窓に砂糖細工を使って作ったと言われている。( グリム兄弟によれば当時既にあったということだが。)アメリカにはペンシルバニア州に移民したドイツ人によって伝えられた.

 

    


ジンジャーブレッドの種類は限りなく多く、今回紹介したものはほんの一部分だった。しかし、案ずることはない。この文章を読んでおられる方々は、検索で知りたいと思う地名と、その地の言葉で “ジンジャーブレッド” と打ち込んで、エンターキーさえしっかり押せばクラッカーの紐を引いたときのように、溢れんばかりのレシピが飛び出す。それほどにジンジャーブレッドはヨーロッパ各地で愛されている、記憶の底にこびり付いて離れないお菓子である。その為にできるだけ多くの地名と、ジンジャーブレッドの名称を先に紹介しておいた。

 

 

 

参考文献

 

Sir Hugh Plat, Delights for Ladies 1602

 

 


シュークリーム

2018年05月02日 | お菓子の歴史

シュークリーム 

 

シュークリームあるいはクリームパフ、プロフィトロールの名でレシピを最初に記した料理書は1884年刊のボストン・クッキングスクールから出たクックブックです。
合衆国では1851年のレストランのメニューの中にクリームパフの名が残っています。イギリスではプロフィトロール( profiterole、prophitrole, profitrolle, profiterolle ) と呼ばれ、フランスでは1600年代にプロフィトロールの名でポタージュ( Potage de profiteolles 又はprofiterolles )の中に入れる小さな乾燥したブレッドとして紹介されている。
ギリシャではProphiterólと言い、トルコ、イタリアではボールに入れて上にチョコレートソース、ホイップクリームをかける。さまざまな形と名前で我々の目の前に現れるシュークリームとは一体どのような生い立ちを持つのだろうか。

最近になってシュークリームを紹介した書物があります。アントニー・ローリー( Anthony Rowley )著の『美食の歴史( A table ! La fête gastronomique )』です。
氏はその中でランスト・ド・カスト―( Lancelot de Casteau、1500s – 1613、ベルギー人にしてリエージュの三人の司教君主に仕えた ) が紹介したシュークリームの皮は今日にも立派に通用するレシピであると述べています。カスト―の『料理入門( De Casteau's book Ouverture de cuisine, 1604 右 )の中でシュークリームの皮とおぼしきレシピを次に取り上げました。

 

ドーナッツ又はフリッターのペイストリィ( Pour faire paste de bugnolle ou friture )

クリームと少量のバターを器に入れる。火にかけ小麦粉を入れてペイスト状にする。卵4個を割り入れ木杓子でよく混ぜる。さらに4個入れる、
ペイストが濃いポリッジのようになるまで混ぜる。ペイストが柔らかくなるまで卵を入れる。塩を抜いたバターが熱くなるまで火にかける。
銀のスプーンでパイストをウズラ卵大の大きさに取り、一度に18-20個、バターの中に落とす。穴の開いた杓子で返し、生地に火が入るまでクックする。取り出す。生地がしぼんでしまうようなら戻して、よく火が通るまでクックする。

      

これはベニエ( Beignet )です。ベニエには二種類あります。シュー生地を揚げたイタリアのツェッポレ( Zeppole ) や、ドイツのシュプリッツクーヘン ( Spritzkuchen ) と、これとは別にイースト生地を揚げたタイプがあります。フランスのブール・ド・ベルラン( boules de Berlin )とポーランドのポンチキ、 ポルトガルのボーラ・デ・ベルリン( Bola de Berlim )、ドイツでは果物の入ったものをベニエと呼び、入っていないものをクラップフェン ( Krapfen ) と呼んでいます。

 

因みに、1961年刊のThe New York Times Cook Book ( Craig Claiborne ) のクリーム・パフ・シェル( Cream Puff Shell, 531page )のレシピには;クリーム・パフ・ペイストは焼くだけではなく、ディープフライすると空気を含んだベニエができるとありました。

今のところカスト―がシュークリームの最初のレシピを書いたようですが、それにしても何ともややこしい、ルーツを辿ることがむつかしいレシピです。

1604年に早くもシュークリームの皮のレシピがあったとは、それも今日の内容と変わらないとは、驚きです。

 

 

 

参考文献

 

Anthony Rowley、A Table ! La fete gastronomique

Craig Claiborne, The New York Times Cook Book 1961

 

 


ジャム

2018年05月01日 | お菓子の歴史

ジャム(コンフィチュール)

          

ジャムは砂糖の脱水効果(静菌効果)と果物のクエン酸、ペクチンを利用した保存性の良い整腸作用、コレステロール低下作用などを有する食品である。ジャムに似たものにヴァレニエがある。

ヴァレニエ( Варенье、Varenye )は東ヨーロッパ(ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど)で見られる果物のプレザーヴである。ベリー、果物、ナッツ、野菜、花などを砂糖といっしょに煮て作る。ジャムに似ているが、柔らかくなるまで煮ることはなく、増粘剤を加える事もない。濃厚だが果物の自然な色をした透明なシロップがある。砂糖の代わりに自然の甘味料(蜂蜜や糖蜜)を使ったものもある。ヴァレニエはデザートや調味料として使用し、トッピング、ピローク( Pirog )、ケーキ、クッキーのフィリング、紅茶のお茶うけとして楽しむ。ヴァレニエ自体をデザートとして食べたり、紅茶に砂糖を入れる代わりに、ヴァレニエを舐めながら飲む習慣がある。ヴァレニエをお湯に溶かして飲むこともあるが、紅茶にヴァレニエを入れることは少ない。
ジャムは西ヨーロッパに特有の食品である。

 

砂糖を、料理を作る目的以外に使った( ジャムの?)初期の例を2つ挙げる。

一つはディライト・フォ・レイディーズ( Delightes for Ladies by Sir Hugh Plat、 London in 1602. )にある。

 

普通の砂糖からムスク-シュガーを作る

4-6粒のムスクを潰す:それをサーセネット( 薄い絹織物 )、二重にした細かい寒冷紗又は上質カナキン(固く縒(よ)った糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布)に入れる:

鍋の底に並べて煮る:蓋をすると2-3日でムスクの味とにおいが付く:砂糖を、使った時に追加しておくと同様の効果が得られる。このようなムスク-シュガーは1ポンド2シリングで売ることができる。

 

砂糖を保存の目的で使った例がニューブックオブクッカリ( A new booke of Cookerie; London Cookerie.  London 1615  By John Murrell )にある。

 

一年中キュウリを緑色に保つ方法

キュウリを6つに切って春の水に砂糖、オイルを入れて1-2度ボイルする。取り出して冷めるまで立てておく。

 

おそらく次のレシピがジャムの最初のレシピであると思われる。

1718年:メアリー・イール夫人のレシピ( Mrs. Mary Eales's receipts)から;

 

チェリージャム.

12ポンドのチェリーを用意してボイルする。ボイルしながら潰してジュースを出す。鍋の底が見えたら砂糖を3ポンド入れて混ぜる。2-3度ボイルしたらポット又はグラスに入れる。

チェリーは古くから好まれて使われた果物である。ペクチンの少ない果物をジャムにするにはコッドリング(リンゴ)を入れるなどの工夫がみられる。ペクチンが発見されたのは1825年にアンリ・ブラコノー (Henri Braconnot、1780/5/29-1855/1/15、フランスの化学者、薬剤師。キチンやグリシン、ペクチンなどを初めて単離した。)であり、1920年代になるとリンゴの搾りかすやかんきつ類の皮から工業的に生産されるようになる。1910年代はまだペクチンが無い時代で、フローレンス・ダニエルが砂糖を使わない、健康に配慮したジャムを考案している。

 

ヘルシィ・ライフ・クックブック(The Healthy Life Cook Book by Florence Daniel、Second Edition、1915)

 

砂糖を使わないジャム                  

生のフルーツ1ポンドにつきデイツ1/2ポンドを用意する。フルーツを洗い鍋に入れてゆっくりと加熱する。

混ぜてジュースを出す。洗って種を取ったデイツをフルーツの中に入れて弱火で45分間加熱する。きれいな、熱い、乾いたジャーに急いで入れる。羊皮紙の蓋をすぐに括り付ける。

           

写真はプリザーヴィング・パンでご覧のとおりジャムを作るときに使う。文中 ”鍋” と訳しているのはこのパンである。

 

 

参考文献

Sir Hugh Plat, Delights for Ladies 1602

John Murrell, A new booke of Cookerie 1615

Mary Eales, Mrs. Mary Eales's Recipes 1718

Florence Daniel, The Health Life Cook Book 1915

 

 


ザッハートルテ

2018年04月30日 | お菓子の歴史

ザッハートルテ

 

ザッハトルテに似たレシピは1700年代の初めに出版された料理書の中に既に見ることが出来ます。例えば1718年のクックブック・オブ・コンラッド。ハガー (Cookbook of Conrad Hagger) や1749年のガートラー・ヒックマンのトライドアンド トゥルー ヴィアニーズ クックブック(ヴィーネリッシィズ ベヴァルティス コッホブック (Tried and True Viennese Cookbook:Wieneriesches bewahrtes Kochbuch) です。                                        

                                     
                                                    
                フランツ・ザッハ

 

1832年にクレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773/5/115-1859/6/11、コブレンツ出身のオーストリアの政治家、外相としてウィーン会議を主宰し、後にオーストリア宰相に就任。ナポレオン戦争後のウィーン体制を支えた。)が司厨長に、『重要なゲストに特別のデザートを作るように。』命じた。『そのことで恥をかかせることはありません。』と言っていた司厨長がその夜、体調を崩し、代わりにその任務に当たったのが見習い二年目の、16才のフランツ・ザッハ(Franz Sacher (16 December 1816- 11 March 1907、写真) でした。彼が作ったトルテはメッテルニヒのゲストに大いに受けたのですが、トルテがその後すぐにウィーンで広がった訳ではないのです。

ザッハトルテはフランツの次男、エドゥアルト (1843–1892) がウィーンの王室ご用達のケーキ店 “デメル” でベイカリィとチョコレート職人として修行を積んだ後、父親が残したレシピを改良して現在の形にしたのです。トルテは最初デメルで出されましたが、後にエドゥアルトが1876年に開業したホテルザッハのレストランとカフェで提供されることになります。

 

1900年の最初の十年間、”オリジナル ザッハトルテ” の称号を巡ってザッハホテルとデメルの間で訴訟騒ぎが起きます。

エドゥアルトがザッハトルテを完成させたのはデメルで働いている時期であったこと、又、1892年にエドゥアルトが亡くなり、エドゥアルト夫人のアンナ(Anna Sacher、1859/ 1/2-1930/2/25) がホテルの支配人になると、辣腕を発揮し、ホテルを貴族や外交官が宿泊するような世界の最高の格式あるホテルの一つにしました。アンナは1912年にレシピをウィーン料理研究家であるオルガとアドルフ・ヘス(Olga and Adolph Hess)に与えました。彼らは、ヴィアニーズ クックブックにザッハトルテのレシピを掲載します。

アンナが1930年に亡くなり1934年にホテルが破産すると、三代目のエドゥアルト・ザッハはデメルに就職し“エドゥアルト ザッハ トルテ” の販売権をデメルに譲渡します。

 

1938年、新しいホテルザッハの持ち主が ”オリジナル ザッハトルテ” の名前を付けたザッハトルテを手押し車にのせて売り始めす。1954年、ホテルのオーナーは商標の権利と ”オリジナル ザッハトルテ” の名前はホテル側にあるとデメルを訴えたのです。

法廷での戦いが7年間続きます。争点は名前の変更とケーキの製法(ケーキの真ん中に挟むジャム、バターの代わりにマーガリンを使うこと)です。

デメル、ホテルザッハの双方に出入りしていた作家フリードリッヒ・トアベルグ(Friedrich Torberg、1908/9/16-1979/11/10) が、アンナ・ザッハがホテルを取り仕切っていた当時の証言をします。トルテの表面にはマーマレードが塗られていなかったこと、真ん中にジャムは塗られてはいなかったことを明らかにしました。1963年、両者は法廷闘争を避けて和解します。ホテルザッハは ”オリジナル ザッハトルテ” (Original Sacher-Torte)を名乗り、デメルは三角形のメダリオンの中に ”エドゥアルト ザッハ トルテ“(Eduard Sacher Torte)の名を刻むことになります。

オルガとアドルフ・ヘスに渡ったレシピと同じレシピがファニー・ファーマー ( Fannie Farmer, 1857 /3/ 23-1915 /1 /15 , アメリカの料理研究家。ボストンクッキングスクール クックブックを著した ) の著述の中にあります、又、ルース・エメロス夫人(ニューヨークタイムスのホームエコノミスト)はこのレシピに手を加えて公表しました。

 

ジェイン ニカーソン( Jane Nickerson ) が1956/9 にニューヨークタイムスに掲載したリアルザッハトルテのレシピは次の通りです;

"Real Sacher Cake”


バター          5 oz.

砂糖           5 oz.

卵黄           6 個

チョコレート       5 oz.

小麦粉          5 oz.
卵白           6個

 

バターをクリーム状になるまで混ぜ、卵黄を加える。溶かしたチョコレート、砂糖、固く泡立てた卵白を混ぜる。小麦粉を混ぜてバターを塗った型に入れて中火で焼く。冷めたら、上にアプリコットジャムを少量塗ってチョコレートをかける。

 

マダム・メラニー・ライチェルトによる有名なウィーンレシピ200選(Two Hundred Famous Viennese Recipes, selected by Madame Melanie Reichelt [Wm. Filene's Sons Company:Boston] 1931 ( p. 18 ) では;


"Sacher Cake ( Sachertorte )”

“このレシピはアンナ・ザッハ夫人のご厚意により提供されたオリジナルのレシピである” の註が付いています。 

バター                170g

セミスィートチョコレート       180g

砂糖                 170g

卵黄                  8個

小麦粉                120g

固く泡立てた卵白           10個

アプリコットジャム          2 tbs.


アイシング:
砂糖                 1カップ

水                  1/3カップ                         セミスィートチョコレート        7 oz.

 

バターを混ぜてクリーム状にする。チョコレートを溶かす。砂糖とチョコレートをバターに混ぜる。卵黄を入れて混ぜる。小麦粉を入れ、卵白を加える。8-9インチのケーキ型にバターを塗る。混ぜたものを型に入れて275°Fで約1時間焼く。つまようじ又はストローを刺してテストする。ボードに移して冷ます。上を切って、底を上に返す。熱したアプリコットジャムを薄く上に塗る。チョコレートアイシングを被せる。

 

チョコレートアイシングは次のように作る:

砂糖と水を細く糸を引くまで煮る。

チョコレートをダブルボイラーでとかす。

スプーンにアイシングが付くようになるまで混ぜる。

ケーキの上に広げる。

 

註:ケーキを2-3層にしてアプリコットジャム又はホイップクリームを挟む。

---Viennese Cooking, O. & A. Hess, adapted for American use [Crown Publishing : New York] 1952  ( p. 229 )]

このレシピはアンナ・ザッハ夫人のご厚意により提供されたオリジナルのレシピであると断っているが、アメリカ人の嗜好に合うように変えたようです。

 

フランツが作ったザッハトルテのレシピは残っていないようだ。時代を経ると共にその内容は変化しています。

現在日本で販売されているデメルのザッハトルテの材料は次の通りです。

砂糖、卵、カカオマス、バター、小麦粉、ココアバター、水飴、アプリコット、卵黄、ソルビトール、乳化剤、酸味料、増粘剤、香料。

 

ファニー・ファーマーのレシピ:

 

チョコレート ウィーン ケーキ

バター            3/4カップ

砂糖             7/8カップ

卵黄              5個

チョコレート          4片

小麦粉           1 1/2カップ

ベーキングパウダー       3ts

卵白              5個

アプリコット又はオレンジマーマレード

 

材料を順にまぜて小さな型で焼く。型から外して冷ます。ケーキの真ん中に小さな穴を開けてそこにマーマレードを詰める。ケーキの上にマシュマロのフロスティング又はチョコレートフロスティングをかける。

 

チョコレートフロスティング

砂糖             1 3/4カップ

湯                3/4カップ

チョコレート           4片

バニラ              1/2ts

 

スプーンの先端から落としたときに糸状になって落ちるまで砂糖と水をボイルする。溶かしたチョコレートの中にシロップを注ぎ入れる。均一な濃度になるまで混ぜる。香りを付ける。

 

2つのレシピは卵の量を除いて同じである。次に取り上げるレシピと比較してザッハトルテの本来の姿?を想像しようと思います。

 

モニカ・ケラーマン ( Moniia Kellermann ) が1994年に著したダス グローセ ザッハ バックブック ( Das gorße Sacher Backbuch ) から;

 

生地:

バター          130g

粉砂糖          110g

バニラビーンズ       1/2本

卵黄            6個

チョコレート       130g

卵白            6個

グラニュー糖       110g

小麦粉          130g

 

トッピング:

グラニュー糖       200g

                                              図省略

水            125g

クーベルチュール     150g                      

 

       

                                    アンナ・ザッハのレストラン

 

作り方は上と同じなので省きますが、砂糖、卵、小麦粉、チョコレートの量が年月の経過と共に変化していることが分かるでしょう。それは卵白を泡立てる技術と共に、砂糖の消費を抑えようとする時代の欲求が原因と思われます。卵の量は5個あたりが妥当な量だろうし、卵白を固く泡立てる為に必要な砂糖の量も110gは多い。ケーキの上にかけるフォンダンショコラの量とケーキの中に使う砂糖の量を秤にかけると、適切な砂糖の量が見えてきます。ただし、甘過ぎるのが特徴のザッハトルテであるから上のレシピが本来のザッハトルテなのでしょう。

本書はホテルザッハの窓際に置いてあったのを、売り物なのか断りをして手に入れました。今はネットで購入することも可能です。

 

 

 

参考文献

 

Tried and True Viennese Cookbook 1749

Jane Nickerson, Newyork Times 1956

Madame Melanie Reichelt , Two Hundred Famous Viennese Recipes 1931

Viennese Cooking, O. & A. Hess, adapted for American use [Crown Publishing:New York] 1952 (p. 229)

Moniia Kellermann, Das gorße Sacher Backbuch 1994

 

 


エンジェルフードケーキ

2018年04月29日 | お菓子の歴史

 エンジェル フード ケーキ(エンジェルケーキ)

 

アメリカの製粉会社キングアーサーフラワーが創立200年を記念して1992年に出版したクックブックのエンジェルフードケーキのレシピは次のような文章で始まる。

「これは手に入れて食べることのできる、空気よりも軽い( light )ケーキである。バターもオイルも卵黄も一切使わない他に類を見ない、この世のものとは思えないケーキである。しかし恐れることはない我々の簡単なレシピに従えば誰にでも作ることができる。」

        

        脚付きのエンジェルフードケーキパン

 

エンジェルフードケーキの作り方

1カップ      オールパーパスフラワー

1 1/2カップ   砂糖

12個       卵白(L)

1/2ts      塩

1ts       バニラ又はアーモンドエッセンス又は両方

1 1/2ts     クリームオブタルタル

                                   

1.小麦粉に砂糖を3/4カップ入れて混ぜる。

2.塩とエッセンスを卵白の中に入れて泡立てる。クリームオブタルタルを入れて光沢が出るまで泡立てる。                                        

3.砂糖を1/4カップずつ3回加える。小麦粉をさっくりと混ぜる。

4.3.を油を塗っていないエンジェルフードケーキパンに入れて162℃ で40-45分間、表面がキツネ色になるまで焼く。

5.パンをひっくり返して冷ます。

 

Light はフワフワした、の意味ですが、胃にもたれない、すぐに消化する、コレステロールの少ない、気にしなくてたくさん食べられるうれしいケーキであることを伝えようとした言葉のようです。コレステロールの多い卵黄、牛乳、バターを一切使わない、いくらでも食べられる天使のような優しいケーキです。

 

 

1953年出版のベター・ホームズ・アンド・ガーデンズ・ニュー・クック・ブック, 1962年のジョイ・オブ・クッキング, 1967年のバイ イット・アンド・トライ・イットのレシピは上とほとんど同じ内容です。

1896年刊のボストンクッキングスクールのクックブックにエンジェルケーキの名があります。この頃にエンジェルケーキが生まれたと思われます。そのレシピは;

 

卵白          1カップ

砂糖         3/4カップ

コーンスターチ    1/4カップ

小麦粉        1/3カップ

塩           1/2ts

クリームオブタルタル  1ts

バニラ         1ts

 

卵白を泡立て、砂糖を徐々に入れて混ぜる。バニラを入れ、コーンスターチ、小麦粉、塩、クリームオブタルタルを入れて混ぜる。パンにバターを塗らずに、中火で45-50分間焼く。(1896年から1967年のレシピまで、その内容はほとんど変わっていません。)

 

1897年に、フランスでポール・サバティエが接触水素化反応を発見し( 微細なニッケル粉末を触媒に使ってエチレンに水素を添加する方法を発見した。これにより彼は1942年にノーベル化学賞を受賞している )、1901年にはドイツの化学者、エドウィン・キュノ・カイザーが水素を脂肪に添加する方法を考案した。後にプロクターアンドギャンブル社で綿実油に水素を添加することに成功し、1911年クリスコの商品名で売り出した。( 液体である油に水素を添加すると、常温下で固形となる。 )

バター、ラードを食事の中からできるだけ減らしてコレステロールが原因の脳梗塞、脳卒中、脳溢血を防ごうという社会的な動きと、エンジェルフードケーキの出現は連動しているように思われます。

 

エンジェルケーキに似たケーキに、シフォンケーキがあります。これは、1927年にロサンゼルスのハリー・ベーカーが考案した、卵(全卵)、サラダ油を入れてエンジェルフードケーキパンで焼くケーキである。エンジェルフードケーキを下地に、考え出したお菓子です。

 

 

 

参考文献

 

Brinna B. Sands, The King Arthur Flour 200th Anniversary Cookbook 1992

Better Homes New Cookbook, 1953

Irma S. Rombauer, Marion Rombauer Becker, Joy of Cooking, 1962,1975

Women's Society Tokyo Union Church, Buy it'n Try it 1967

Fannie Merritt Farmer, Boston Cooking School Cook Book 1896, 1918

 

 


アップルパイ

2018年04月28日 | お菓子の歴史

アップルパイ


 

アップルパイを「栄養学」、「料理」、「料理の給仕」の3方向から眺めてみた。

 

まず、栄養学から。

1450年代に書かれたドイツの栄養学書、ダス・コッホ・デス・マイスターズ・エバーハード( Das Kochbuck des Meisters Eberhard )ではリンゴを次のように述べています。

 

“R-52. 

甘いリンゴは湿をもたらす。酸っぱいリンゴは寒で乾な性質を持つのでたくさん食べると熱をもたらす。少量食べると心臓と脳を強くする。又体の中に風をもたらす。
アヴェロエス ( Averroes、1126-1197”、スペインのコルドバ生まれ、哲学者。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学者によって、ラテン語に翻訳され、ラテン・アヴェロエス派を形成した。) は;リンゴジュースは胃を強くするが、たくさん食べるとzieh adern(ある種の血管)を痛め、熱っぽくなると述べている。イブン・スィーナー(Avicenna 、980-1037/6/18、アリストテレスと新プラトン主義を結びつけ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼした)は,リンゴを食べる者はそのジュースをたくさん飲むべきではない。味の悪いリンゴは害があると述べている。     


                                                   

                         Galem

又、ガレノス( Galem, Claudius Galenus 、129-200、ローマ帝国時代のギリシアの医学者。多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラム医学において支配的なものとなった)は、リンゴは胃の調子を調え、他の食べ物が逆流するのを防ぐ、しかもリンゴは寒であり乾の性質を持つので粘液と胆汁のバランスを取り消化を助けるので食事の後で食べるべきであると述べています。

ガレノスから1300年後に書かれたドイツの医学書、エバーハードはガレノスの学説を忠実に守っていると言える。それでは料理書に書かれたレシピは、医学書で述べられている事柄をどの程度遵守しているのでしょう。

 

1390年のフォルム・オブ・クーリィ(The Forme of Cury)から;

158.レントに作るアーモンドフルーツパイ

水で濃いアーモンドミルクを濾す。デイツを用意し下処理をする。リンゴとペアを用意しダムソンプルーンといっしょにミンスする。プルーンの種を取り、二つに切る。そこにレーズン、砂糖、シナモン抹、ホールメイス、クローヴ、グッドパウダー、塩を入れる。サンダルウッドで色を付ける。これとオイルを混ぜる。以前にしたようにコフィンを作り、この詰め物を中に詰めてよく焼く。サーヴする。

 

上の料理ではコフィン(ペイストリィで作った入れ物)の中にアーモンドミルク、デイツ、リンゴ、プルーン、メイス、クローヴ、グッドスパイス(メイス、シナモン、ジンジャー、クローヴ、クベブ、ブラックペッパーを予め混ぜておいたスパイス)、を入れて蒸し焼きにしている。リンゴは寒で乾、プラムは寒で湿、ペアは温で湿。これに対してスパイスは熱で乾(クローヴは熱で湿)の性質を持つので体液的にバランスが取れた材料を使っていると言える。(四元素説では料理が全体として暖で湿の状態であることを重視しています。暖で湿の状態に保つことが、即ち人間の体の中を巡る体液のバランスを取ることであり、健康でいられる必要十分条件であるからです。)

 

同じくCury, 23.アップルタルトから、

立派なリンゴ、グッドスパイス、イチジク、レーズン、ペアを用意する。しっかりと潰したらサフランでよく色を付ける。コフィンに入れてしっかりと焼く。

 

リンゴは寒で乾、ペア、イチジク、レーズンは熱で湿、サフランは熱で乾。一方に偏った食材を使うのではなく全体としてバランスが取れている。強いてスパイスを入れる必要がないので上のようなレシピになったと考えられる。それではフォルム・オブ・クーリィから約150年後のプロパー・ニュー・クッカリィ( A  Propre new booke of Cokery (1545), written by Richard Lane and Richarde Bankes )ではアップルパイはどのように変化しているでしょう。

 

グリーンアップルのパイを作る

アップルを用意して皮を抜き、きれいにして

マルメロのように芯を取る

次の方法でコフィンを作る

きれいな水を少量、その半分のバター、サフランを少量用意する

全てを、熱くなるまでチャフティングデイッシュに入れる

この中に粉を入れて水分と一緒に熱する

卵白2個を入れてコフィンを作る

アップルをシナモンとたくさんの砂糖で味を付ける

それをコフィンの中に入れる、そうして焼く。

 

1350年頃とは異なり料理に使うことのできる砂糖の量が、1550年になると飛躍的に多くなります。プルーン、デイツ、イチジク、レーズンに頼っていた甘味の役割は砂糖に移るのです。バターもたくさん使えるようになる。しかもコフィンにはサフランを使い、蒸し焼きにするための単なる入れ物ではもはやなさそうです。たくさん使っていたスパイスは姿を消し、シナモンとサフランが生き残る。リンゴは寒で乾。砂糖は熱で湿、シナモンとサフランは熱で乾なので、リンゴとスパイスのバランスが考慮されていると考えられます。


それでは1700年代のアップルパイを見てみよう。ハナ・グラッセのアート・オブ・クッカリィ(The Art of Cookery Mrs Hannah Glasse 1708–1770)から;

 

アップルパイを作る

ディッシュの縁にクラストを貼り付ける。リンゴの皮を剥いて4つに切る。芯を取ってリンゴを並べる。砂糖を半量入れて、レモンピールを少量ミンスして振りかけ、その上にレモン汁を搾る。
クローヴをあちこちに入れ、残りのリンゴと砂糖を入れる。更にレモンを搾り入れる。甘い味に仕上げる。リンゴの皮と芯、メイスを一片入れてきれいな水でボイルする。漉して砂糖を入れてシロップを少量作る。それをパイの中に注ぎ入れる。クラストの上に塗って焼く。好みでその中にマルメロ又はマーマレードを入れても良い。この方法でペアタルトを作ることもできるがその際はマルメロを入れない。オーブンから出したらバターを塗る。又は2個の卵黄、1/2パイントのクリーム、砂糖で甘くしたナツメグを少量混ぜたものをパイの中に注ぎ入れる。
パイの3隅を切り取り、パイの上に刺してテーブルへ運ぶ。

 

ローマ帝国時代のガレノス(129-200)の影響は1700年代になって消え去ったのだろうか。

 

それでは第三番目の方向(「料理の給仕」)から見てみよう。

ジョン・ラッセル、1452年著の食事と身だしなみに関する作法と習慣について書かれた、ブック・オブ・ナーチャー( Harl. MS. 4011, Fol 171; The Boke of Narture, John Russell) から引用します;

 

ディナーの前にはプラム、ダムソン、チェリー、葡萄を、食事の後にはペア、ナッツ、ストロベリー、ワインベリー、ハードチーズを、サパーの後にはローストアップル、ペア、ブランチパウダー(ジンジャー、シナモン、ナツメグ)を差し上げて胃の働きを助けるのです。

 

食事の前には寒で湿な果物を(ただし葡萄は熱で湿)食事の後には熱で湿又は乾な果物、ナッツ、スパイスを給仕する。寒で乾な性質を持つリンゴはオーブンの中で十分に熱して温で湿な食べ物に姿を変えた。100%ではないがほぼガレノスの学説通りの生活を送っていたようです。

 

アップルパイは、砂糖、小麦粉、バターの需給変化によって姿を少し変えたが、ガレノスの影響は今も引き継がれているようだ。リンゴの中にレーズン、シナモンを入れた、
ガレノスの影響を今も引きずるアップルパイをみていると妙な気分になってきます。レーズンの代わりに酸っぱい干したサクランボ (冷で寒) を、シナモンの代わりに薔薇の花びら (冷で寒、薔薇の花びらはスパイスである) を入れたアップルパイであっても味は悪くはないと思われるが、食べる気にならないのは私だけではないでしょう。

 

「父なる神、神の子、聖霊の御名において。」で始まるキリスト教精神満載のブック・オブ・ナーチャーがなぜガレノスの学説を採用しているかについては機会があったときに述べようとおもっています。

 

 

 

 

参考文献

 

T. Gloning, Das Kochbuch des Meisters Eberhard, transcription 1450

Satoh Yosinori, The Forme of Cury, translation 1390

A Proper Newe Booke of Cokerye 1550

Hanna Glasse, The Art of Cookery 1747

John Russell,  The Book of Nurture 1460-70

 

 

 


コブラ

2017年09月03日 | お菓子の歴史

コブラ 

コブラ(又はコブラー)はアメリカのお菓子です。初めてアメリカの料理書に現れるのは1877年刊のTRIED AND APPROVED. BUCKEYE COOKERY AND PRACTICAL HOUSEKEEPING. COMPILED FROM ORIGINAL RECIPES. あたりではないかと思われます。(あたりでと言うのは、私の持っている本で調べた結果、一番古いという意味です)とりあえずこの本に記されたレシピをご紹介しましょう。

コブラと言えば、ピーチコブラだと思っていたのですが、意外にもプラムコブラが取り上げられていました。

   

 上の絵は https://www.bettycrocker.com/recipes/fresh-plum-cobbler/587ce605-008c-4af5-a5d9-eb6ecdd38943 から引用させていただきました。プラムの上にクッキー生地が乗っています。これもコブラです。1877年のレシピはどのような内容でしょうか。

 

プラムコブラ

小麦粉1.1 L、溶かしたラード4 TBS、塩1/2 ts、ベーキングパウダー2 tsをミルク又は水でビスケットを作るように混ぜる。薄く延ばしてプディングディッシュ又は9 x 8 インチの大きさのドリッピングパンに敷き込む。

小麦粉 3 TBSと砂糖2 TBSを混ぜて上に撒く。缶詰のダムソンプラムを1.4 Lのせて砂糖をその上に1カップ振りかける。淵を小麦粉と水を混ぜたもので濡らす。上にクラストをのせて淵をくっつける。十字の長さ1インチの長さの切り口を2カ所開けて1/2時間オーブンで焼く。ピーチ、アップル、そのほか新鮮な又は缶詰の果物を使って作ることができます。--- Miss S. Alice Melching.

 

小麦粉600gに対してラード60gを使った生地はパイ生地ではなくビスケット生地でしょうが、かなりリーンな生地です。このレシピを見れば、どう見てもパイです。コブラ “ cobbler “ を日本の辞書で引くと、”コブラ―パイ、フルーツパイの一種 “ と出てくるのも合点がいきます。

  

 https://civilwartalk.com/threads/the-white-house-cook-book.100422/ から

 

1887刊、ジレット夫人 ( MRS. F. L. GILLETTE. ) のホワイトハウスクックブック厳選レシピ集から、

 

ピーチコブラ

深いディッシュに厚めのリッチクラストを敷き込む。ジューシィな酸味のあるピーチを半分に、または4つに切る。砂糖、スパイスで味を調えて軽く煮る。ディッシュに入れて同じ厚みのあるリッチパフペイストで蓋をする。きつね色になるまで焼く。上のクラストを小さなピースに割って中のフルーツの中と混ぜる。熱くして、または冷たくしてサーブする。ソースがなくてもおいしいが、ブランディ又はワインと一緒に食べるのもよい。ピーチをほかの果物に代えてもよい。カラントをこの方法で作ると最もおいしい。カラントをシーブに通して筋を取る。果肉1パイントに対して砂糖を4オンス、ブレッドクラム2オンス入れて焼く。生クリームを添えてサーブする。ホワイトカラントをレッドカラントの代わりに使うこともできる。

 

"White House" cookbooks は次のサイトで見ることが出来ます。

https://babel.hathitrust.org/cgi/mb?a=listis;c=1508896029

 

 

  

http://www.simplyrecipes.com/recipes/blackberry_cobbler/ から

これはブラックベリーのコブラですが、これを見て、先のレシピを眺めると、「コブラ」というお菓子の、大げさに言えば、方向性がみえてきます。ああっ!そうなんだ。フルーツの上にビスケット生地をのせるのも、パフペイストリィをのせて焼くのも同じ目的なんだと気が付きます。アメリカのコブラのレシピは1877年から現在に至るまで、ほとんど変化がありません。

しかし、ホワイトハウスのレシピは、やはり頭一つ上に出ています。パフペイストリィをコブラに使うことは気が付きませんでした。格調高いコブラに仕上がっています。 

それではプディングのようなコブラはどこから来たのでしょう。やはりこれは、イギリスからではないかと思い、私の悪い癖で山を張ってみました。2つの理由を拾い上げてみました。

一つはアメリカのかつてのイングランド植民地のレシピ、二つ目はイギリスのレシピです。これを見て、一番最初に取り上げたコブラと次のイギリスがらみの2つのコブラが全く異なる内容であれば、二種類のコブラがアメリカに存在する理由がわかると思います。

   


http://12tomatoes.com/georgia-peach-cobbler/
 から

 

ジョージア州は「モモの州」と呼ばれ、州の中でもっとも有名なお菓子がピーチコブラです。又、ジョージア州は1732年から1802年までイギリス領北アメリカ南部植民地でした。そのジョージア州のコブラのレシピを取り上げました。

 

ジョージアピーチコブラ

 

材料(8-10人分)

生のピーチ            6-8個

溶かしバター             1本

小麦粉               1カップ

砂糖                1カップ

ブラウンシュガー         1カップ

ベーキングパウダー         1 TBS

塩                  1/8 ts

ミルク              1カップ

バニラエッセンス          1 ts

レモンジュース           1/2個

 

方法;

1. 溶かしたバターを9 x 13 インチの大きさのベーキングディッシュに入れる。

2. ボールに小麦粉、砂糖1カップ、塩、ベーキングパウダーを入れてゆっくりとミルクを注ぐ。バニラを入れて混ぜる。バターを (2) で作ったバターの上に流し入れる。

3. ブラウンシュガー、スライスしたピーチ、レモンジュースをソースパンに入れて強火で熱する。砂糖を溶かしてピーチから汁が出るまで混ぜる。

4. ピーチをバターの上に入れる。

5. 190℃で40-45分間、表面がきつね色になるまで焼く。

 

 

 

ここに用意した料理書はThe Pudding Clubによる “ Great Britsh Puddings “ です。その中からPlum and cinnamon cobbler を取り上げました。

 

材料(6-8人分)

プラム                700g

オレンジの皮とジュース        1個

ライトブラウンシュガー        75g

シナモンスティック          1本

バター                75g

小麦粉               175g

ベーキングパウダー          2 ts

塩                  -

シナモン               1 ts

ミルク                125g

デメララシュガー           1 TBS

生クリーム

 

方法;

プラムを半分に切って種を取る。大きなソースパンにオレンジジュース、ライトブラウンシュガー、シナモンスティックを入れてゆっくりとボイルする。3-4分ボイルして火から下ろす。45-60分間冷まして、23 cm のベーキングディッシュの中に6 cm の深さまで入れる。

ボールの中に小麦粉、ベーキングパウダー、塩を入れてクラム状にする。又はフードプロセッサーに入れてクラム状にする。シナモン、オレンジゼスト、ミルクを混ぜて、ドウのような混ぜ物にする。

混ぜ物を果物の上にひと匙ずつ入れてその上にデメララシュガーを振る。220℃で25-30分間きつね色になるまで焼く。熱いコブラにクリームを添えてサーブするのが一番美味しい。

 

   

 

これは、プディング・クラブの裏表紙に使われている絵ですが、思わず「エッツ!」と声を出さずにはいられないくらいに,精緻で正確なプディングの姿です。

ビートン夫人の頃のスタイルでもありますが、歴史が営々と引き継がれていることを思い知らされた絵でもあります。ここにご紹介しておきます。

 

 

それでは果物の上にビスケット、クラムをのせて焼く、コブラはどこから来たのでしょうか。賢明なる( このブログをごらんになっている ) 諸氏なら即座に “ フランス ” と答えられることでしょう。

ここにもう一つの料理書があります。Lee Bailey’s Country Desserts という本で、リー・ベイリーが子供の頃に家族が作っていたレシピを集めたものです。彼はルイジアナ出身です。150のレシピの中にコブラが4種。もちろんピーチコブラも入っていました。このレシピが今のアメリカの代表的なコブラであれば、私の思惑は当たったということになります。もちろん賢明なる諸兄の考えも。(ルイジアナ州は元フランス植民地で1812年、アメリカ合衆国の州になったのです。)


 

それでは果物の上にビスケット、クラムをのせて焼くコブラはどこから来たのでしょうか。賢明なる( このブログをごらんになっている ) 諸氏なら即座に “ フランス ” と答えられることでしょう。

ここにもう一つの料理書があります。Lee Bailey’s Country Desserts という本で、リー・ベイリーが子供の頃に家族が作っていたレシピを集めたものです。彼の家族はルイジアナ出身です。150のレシピの中にコブラが4種。もちろんピーチコブラも入っていました。このレシピが今のアメリカの代表的なコブラであれば、私の思惑は当たったということになります。もちろん賢明なる諸兄の考えも。(ルイジアナ州は元フランス植民地で1812年、アメリカ合衆国の州になったのです。)

それでは、ルイジアナのピーチコブラを見てみましょう。

   

               Lee Bailey’s Country Desserts から

 

ピーチコブラ 

材料;

小麦粉                 1 1/2カップ

塩                    1/4 ts

ショートニング             1/4 カップ

氷水                   5 TBS

大きく熟れたピーチ             7個

砂糖                  1 カップ

バター(小さく刻む)           1/4カップ

ホイップクリーム又はアイスクリーム    -

 

方法;

深い、7 x 9インチの大きさのディッシュにバターを塗る。

小麦粉、塩をフードプロセッサーに入れてバターとショートニングを入れる。小豆になるまで回す。氷水を入れてまとめて冷臓器に入れる。ワックスぺーパーに挟んで延ばす。ピーチをスライスする。

ドウを大きく延ばしてディッシュの中に敷き込む。その中にピーチを入れる。砂糖を振り、刻んだバターをのせる。延ばしたドウの端をパタッとピーチの上に折り返す。

オーブンに入れて220℃で45分間表面がきつね色になるまで焼く。ホイップクリーム又はアイスクリームを添えてサーブする。

 

コブラはアメリカに入植した人達が祖国の味を、大陸で手に入る果物を使って再現したお菓子です。その土地土地で少しずつ変化した結果、pandowdy, grunt, slump, buckles, crisp, croustade, bird’s nest pudding、crow’s nest pudding等とコブラはいろいろな名前で呼ばれています。Lee Bailey’s Country Desserts のコブラの表紙絵の左下にも “ コブラ等 ( Cobbler and the like ) “ と、書かれています。