Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 92

2020年07月30日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

※ヤハウェ

旧約聖書および新約聖書における唯一神の名で、日本語ではエホバとも表記されます。遅くとも14世紀にはJehovaという表記が使われ、16世紀には多くの著述家が Jehovah の綴りを用いているところから、現在は当時の原音に基づいて、「Yahweh(ヤハウェ)」と読んでいます。

                   

https://rjosephhoffmann.wordpress.com/2011/02/10/darwin-profile-on-ancient-coin/

4世紀にペルシャのイェフドメディナタ(Yehud Medinata;ユダヤ人の知事によって統治されたペルシャのアケメネス朝帝国の植民地)から出土したドラクム銀貨。 硬貨は翼と車輪のついた太陽の玉座に座る主、ヤーウェ(Yahweh (Yahu);ヤハウェ)を描いたものと思われます。太陽神と車輪のモチーフは古代ギリシャだけではなくインドでも不変のデザインです。                        

 

※アブラハム

アブラハム( Abraham、 אַבְרָהָם (ab-raw-hawm'、 Αβραάμ Avraám)は、ユダヤ教・キリスト教、イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。

 

『受胎告知』レオナルド・ダ・ヴィンチとアンドレア・デル・ヴェロッキオが1472年から1475年ごろに描いた。フィレンツェのウフィツィ美術館蔵 ルカによる福音書1:26~38に記述があります。左がガブリエル

 

※ガブリエル

ガブリエル(ヘブライ語: גַברִיאֵל‎、アラビア語: جِبرِيل‎、英語: Gabriel)は旧約聖書『ダニエル書』にその名があらわれる天使。ユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれ、キリスト教美術の主題の一つ「受胎告知」はよく知られています。聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」であり、ガブリエルという名前は「神の人」という意です。キリスト教において、最後の審判のときにラッパを鳴らし、死者を甦らせる天使でもあります。天使の姿をしたジブリール(ガブリエル)は預言者ムハンマドに神の言葉であるクルアーン(قرآن qur’ān、コーラン)を伝えます(2章97節等)。

         

天使ガブリエル(左)から最初の啓示を受け取るモハメッド。ムハンマドに天啓を授ける。ジブリール。ラシードゥッディーン編※ 『集史, Jami 'al-Tawarikh』からエジンバラ大学図書館蔵 1307年

※ラシードゥッディーン

ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー(ペルシャ語: رشیدالدین فضل‌الله ابوالخیر همدانی‎)(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Abū al-Khayr Hamadānī)、1249 - 1318)はイルハン朝後期、第7代君主ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシャ語による世界史『集史』の編纂者。

預言者ムハンマド( محمد、Muḥammad、ca.570 – 632/6/8;イスラム教の開祖)は、ブラックストーンの歴史で重要な役割を演じたとされています。最初の預言的啓示を受ける以前の602年、ムハンマドはカーバを再建中、黒石は一時的に別の場所に移されていました。イブン イスハーク(ibn Isḥaq)の『預言者伝』に伝えられる内容によると、ムハンマドは、どの部族が黒石をカーバに据えるかでメッカの部族間に起きていた争いを和解させました。解決方法は、ブラックストーンを布に載せ、全ての族長がこれを持ち上げて運び、ムハンマドが自分の手で所定の位置に収めるというものでした。

ムスリムの間の言い伝えでは、黒石は、どこに祭壇を築き神に犠牲を捧げれば良いのかをアダムとイヴに示すため、天国から落とされたものとされているが、別の伝承によれば、黒石は、アダムが堕落した罰としてアダムの守護天使が姿を変えさせられたものだとされています。 

                          

イラクの国旗。中央にアッラーフ・アクバル((アラビア語:الله أكبر)とは、「アッラーフは最も偉大である」を意味するイスラム教の祈りの言葉)の文字が書かれています。

630年にマディーナの支配権を確立したムハンマドは、大軍勢を率いて、敵対していたメッカに進軍しました。ほとんど無血のうちに街を征服したムハンマドは、カーバの黒石に触れて「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)と叫び、周囲の者も唱和したと言われています。その後の632年3月(ヒジュラ暦10年巡礼月)、ムハンマドは、生涯で最初で、最後となる巡礼(別離の巡礼)を行います。後述するハッジにおける黒石の果たす役割も、この別離の巡礼の際にムハンマドが示した作法に基づくものです。

現在のハッジの儀礼には、巡礼がムハンマドの行為にならい、黒石に7度(カーバを1周するごとに1度)接吻しようとすることが含まれています。第2代正統カリフであるウマル (c.584-644) は、黒石に接吻する際に、参列者全員の目前でこう言った。

恐らく、あなたは石であって誰も傷付けもしなければ誰の益になることもしないでしょう。アッラーの預言者であるムハンマドがあなたに接吻したのを見たのでなければ、私もあなたに接吻などしなかったでしょう。

多くのムスリムはウマルの言葉に従っている。彼らはムハンマドを信じる精神で石に敬意を払うのであって、石そのものを信仰するのではない。しかし、それは黒石を軽視していることを意味するのではなく、害や益をもたらすのは神の手であって、それ以外の何者でもないという信仰そのものを意味するのです。現代では、カーバは大群集が訪れ各人が黒石に接吻するのはもはや不可能です。巡礼は建物の周りを巡る度に黒石の方向を単に指差すだけで良いということになっています。黒石はタワーフの周回数を数えるのに便利な、単なる目印であると良いと言う者までいます。

一部のムスリムは、最後の審判(キヤーマ)の際には、黒石が自分に接吻した者の弁護をしてくれるという、ティルミズィーが伝える次のようなハディースを信じています。

イブン・イーサーはこう言ったと伝えられています:アッラーの使徒は石についてこう言った『アッラーによれば、復活の日にアッラーは石を持ち出し、石には2つの目ができて物を見、舌ができて話し、かつて石に誠実な心で触れた者のために証言をするであろう。』 

次回 8/2 にはニュージーランドから、ハーバリスト{ニュージーランドハーブ協会※(The Herb Federation of New Zealand)会長の薬草学者、カリーナ・ヒルターマン(Karina Hilterman)}氏による、薔薇の花をハーブの観点から見たレポートをご紹介します。今までは北半球からの内容に偏っていましたので興味を持たれるのではと思います。

                                

※ニュージーランドハーブ協会は;

ハーブに興味を持つの方を対象に一つの組織にしようと1986/2に設立された協会です。

 

 


ダマスクローズ 91

2020年07月28日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

メッカの大モスク ٱلْمَسْجِد ٱلْحَرَام  https://pxhere.com/en/photo/1600661

 

※カーバ 

カーバ神殿(カーバ又はカーバ(كعبة‎ Kaʻba または Kaʻaba)は、メッカのマスジド・ハラーム(アラビア語でٱلْمَسْجِد ٱلْحَرَام、、まわりの光に照らされた建物)の中庭にある黒い建造物で、イスラム教における最高の聖地(聖殿)です。アラビア半島西部のヒジャーズ地方の町、(ターイフの北側)メッカにあるイスラム教のモスク「聖なるモスク」)の中心にあります。中の構造は次のようになっています。

 

香水はブラックストーンが置かれた反対側の イエメンコーナー(Yemeni Corner、イエメンに面しているからこう呼ばれています)で使います。

     ブラックストーン https://ja.wikipedia.org/wiki/黒石から1315 Jami al-Tawarikhから。

 

サウジアラビアのメッカにある大モスクのマスジド・ハラームの中央に位置し、世界のムスリムがその方角を向いて祈る古代の聖なる石造建築カーバ神殿に据えられた要石、ブラックストーンはテクタイトもしくは隕石、或いは黒曜石であると考えられています。

アラート(اللات Al-Lāt、イスラム以前の時代、ジャーヒリーヤ時代に崇められていた女神)の御神体がブラックストーンです。ヘロドトスによれば、アラビア人はアプロディーテー(愛と美と性を司るギリシャ神話の女神)のことをアリラトと呼んでいました。アラートは、のちに男神に変えられ、イスラム教のアラーになったのです。ターイフ近くの渓谷に主神殿があり、飾りつけられた白い立方石をご神体としていました。この白い石が何故黒くなったかについては理由があります。

ご神体のブラックストーンは、カーバ神殿の東南角にはめ込まれており、メッカへの巡礼(すなわちハッジ)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされると、信じられています。ハッジはイスラム成立期のアラビア半島での伝承を色濃く残している事は上のお話からも理解できます。

巡礼者たちは、ハッジのタワーフの儀式(巡礼の際に行う儀式の一つ)としてカーバの周囲を回ります。このとき、巡礼者の多くはできれば、足を止めてブラックストーンに7度接吻しようと試みます。(イスラムの伝承によれば、預言者ムハンマドはかつてそうしたとされているからです。)巡礼者たちは、ブラックストーンに触れることができないので(沢山の人達でとてもそんな状態では無いので)、カーバを7度回るたびにブラックストーンの方を指差します。

 

        The Yemeni Corner  https://hajjumrahplanner.com/rukn-al-yamani/

伝承では、ブラックストーンの祭壇をどこに築き、神に犠牲を捧げればよいのかをアダムとイヴ(天地創造の終わりにヤハウェ※によって創造された)に示すため、天国からブラックストーンを落とされたとされています。石は、最初は純粋な輝く白であったのが、長年に亘り人々の罪業を吸収し続けたために黒くなってしまったといわれています。祭壇と石は一度大洪水で失われ忘れ去られたのを、大天使ガブリエルがそのありかをアブラハムに示し、黒石と祭壇の場所が再発見されたのです。アブラハムは息子イシュマエル(アラブ民族の伝説上の祖先)に、石を埋め込むための新しい寺院を建設するよう命じたのです。これがメッカのカーバです。

アッラーフ(アッラー (الله, Allāh) 或いはアラー、唯一神ヤハウェに対するアラビア語呼称のひとつ。)がイスラム教の聖典コーランを授けたとされるムハンマド(モハメッド、Muḥammad[、ca.570 - 632/6/8、アラブの宗教的、社会的、政治的指導者,

イスラム教の創始者)は、神(アッラーフ)より派遣された大天使ガブリエルから神(アッラーフ)の受託をアラビア語で語った使徒であり、最後にして最大の預言者とされます。

しかし、ムハンマドはあくまで神(アッラーフ)から被造物である人類のために人類の中から選ばれた存在に過ぎないと考えられています。そもそもイスラム教ではアッラーフ(神)自体が時間と空間を超越した存在という考えですから、キリスト教におけるキリストのように、ムハンマドを“神(アッラーフ)の子”と見なすような信仰的、神学的位置付けがされていません。即ち、全知全能唯一絶対であり、すべてを超越する、つまり(目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語るとされる)意思だけの存在ですから、絵画や彫像に表すことはできません。イスラム教が偶像崇拝を完全否定しているのはこのためです。   

 

 


ダマスクローズ 90

2020年07月26日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

    

ターイフの南からの自然の眺め

ターイフ シティツアー https://www.tripadvisor.jp/AttractionProductReview-g298553-d19893917-Taif_City_Tour-Taif_Makkah_Province.html のホームページには薔薇の花の中に座る男性の姿とダマスクローズが写っています。

         

 

الورد الطائفي الذي تتميز به الطائف サウジアラビア、ターイフの名高い宗派の花(ダマスクローズ) https://ar.wikipedia.org/wiki/الطائف から

   

※ itr(イター)のつづき

『蒸留は、約50リットルの水がはいるスズで裏打ちした銅製ポットで行います。各コンテナには約10,000本のバラを入れ、ポットを密封して6時間煮ます。集められた蒸気は冷たい水のプールを通るチューブを経て、最終的にバラ水が集められるal-Arousaと呼ばれる大きなガラス瓶に入ります。この時点で、アターの液滴はまだバラの水に残っているため、2回目の蒸留が行われ、液体が冷えるにつれてアターの小球が表面まで上昇し、シリンジのような道具で容易に集めることができるようになります。

 

容器1つで収集したアタールは、1トーラ(tolah; 約11.7オンス、2000〜3000サウジアラビアリヤル/\28)になります。ローズウォーターは、アラビアで神聖な神事だけでなくお祝いの場でも使われます。キッチンで使用されるほか、聖なるカーバ※のイエメンコーナーに香りを付けるために使用されます。100キログラムのバラは2グラムのアタールしか産出しないため、ローズアタールは最もコストがかかります。伝統的なハイドロ蒸留プロセスでは、バティとして知られている火は牛の糞と木の火です。 

 

 

 


ダマスクローズ 89

2020年07月24日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

  

インドと中東の両方でイスラム教徒がアターを高く評価している理由の1つは、アルコールを添加せずに身体に直接塗布できる天然物質のみでアタールを作っているからです。この点で、溶剤と混合し、噴霧器で噴霧される現代の香りとは異なります。

湾岸地域では、年齢が上がるにつれてアタールの評価が高まります。

彼らはデザと呼ばれる木製のたんすのなかに金と共にお香を入れて結婚式の花嫁へのプレゼントとしてきたのです。

 

ローズオイルは最近女性にも使用されるようになりましたが、伝統的に湾岸では男性的な香りと考えられており、男性は手を握った時に他の人の手に良い香りが残るように、親指と人差し指の間にローズアターを付けます。アラビアの商人は何世紀にもわたってスパイスと香料を交換してきましたが、クウェートで貿易が始まったのは1900年代初頭になってからです。

      

Pragmati Aroma DistilleryのオーナーであるPushpraj Jainは、次のように述べています。『今日の世代は現代の香水にのみ関心があり、私はそれらの要求を満たすことができるように革新する必要があります。そうでなければ、カナウジが伝統的なアタールとルーアルガラブを供給し続けることができる期間は不明です。』

Muna Lal and Sons蒸留所の調香師は、『合成香料と天然香料の違いは、電子レンジで調理された食品と薪オーブンで調理された食品の違いに似ています。』と言います。それでも彼は、業界が徐々に衰退していくのではないかと恐れています。

                                  

ジェッダ(Jeddah)近くの西サウジアラビアのターイフ(Taif、下中央)※の谷は、バラのアタールとローズウォーターで世界的に有名です。タイフィ(taifi)として知られているバラは、太陽光線が香水のエッセンスを含むオイルを減らす前に、蕾が開いたばかりのものを摘み取ります。』

 

      https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Ta%27if,_Saudi_Arabia_locator_map.png 

※ターイフ(タイフ、Ta’if、サウジアラビア西部、マッカ州の都市)は6世紀には、すでに町は存在していました。1517年、オスマン帝国に降伏し、以後1916年までオスマンの支配下にありました

 


ダマスクローズ 88

2020年07月22日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

東西の医学に、勿論日本にも。現在に至るまで最も影響を及ぼしたのは、やはりイブン スィーナーの『医学典範』でしょう。この本に焦点を当てて述べようと思います

 

イブン スィーナーは『医学典範』で、以下の3つの方法を挙げています。

1.衛生と栄養

「衛生」は体の習慣に基づくもので、健康を保つためには薬の処方と適合しなければならない。「栄養」は、患者の気質や体液の状態、病気の度合いを念頭に置き、食材の性質を考慮して、その内容を指導せねばならない。食事を禁止したり、量を調整することも必要です。

2.生薬を使った治療

病気の質と反対の質の薬を処方する。医師は、病にかかっている器官の性質および病気の度合いを把握し、患者の性別、年齢、習慣と癖、季節、環境や気候、職業、体力や体格に合わせて薬を処方しなければならない。

3.身体摩擦法

現代でいうマッサージ、整体などによる身体調整法で、瀉血も含まれます。

タクリイェ(下痢・嘔吐・瀉血などで悪い体液を排泄する治療)、ヘジャーマット(吸玉療法)、焼灼術(中国の鍼灸の影響を受けているようです)も行われました。又、精神療法、音楽療法を取り入れ、電気ウナギを使った療法も行ったといいます。また、『医学典範』の第4巻整骨篇では、本書を日本語に訳したサイード・パリッシュ・サーバッジュー( Saeed Sarvatjoo、1957 -、武道医学を継承 ) によれば、アンブロワーズ・パレ( Ambroise Paré, フランスの王室外科医1510-1590 )の外科書の整骨編に多く引用されており、パレを通して日本の整骨技法に影響を与えています。

 

イブン スィーナーの『医学典範』はウイグル語にも翻訳されています。パキスタン、インド等のユナニ医学校では今も教科書として用いられています。

    

中世のオスマン帝国の外科医、SabuncuoğluŞerefeddin(セレフェディン・サボンジュール、1385 - 1468)は、彼自身の実験から作成した薬学と治療法の本で医学界を導きました。焼けた鉄を皮膚に押し当て治療する焼灼術。https://karishmachugani.com/wp-content/uploads/2017/11/boum-blog-illustrations-karishma-chugani-23.jpg

新疆ウイグル自治区にみられるウイグル医学は5-11世紀にかけてイスラム地域からもたらされました。400年代にはネストリウス派によって、800-900年代にはペルシャのイブン スィーナーの『医学典範』が、1000年代にはスペインを経由してユナニ医学が伝搬したのです。中央アジア、インド、マレーシア、ジャワはイスラム教とともにユナニ医学が伝搬しました。(イスラム教を信仰している国には何らかの影響を及ぼしていると言うわけです。)

ユナニ医学はすでに述べたようにギリシャが起源ですが、エジプト、ペルシャ、シリアの医学知識の上にギリシャ、インドの医学が入り、さらに東ローマ帝国の迫害から逃れたネストリウス派のキリスト教徒が交流した結果生まれたものです。アラビア語で表現された文化と言えます。現在最も発展したユナニ医学が存在するのはインドとパキスタンです。

  

Physicians employing a surgical method. From Şerafeddin Sabuncuoğlu's Imperial Surgery (1465). Turkish manuscript, 15th Century, reproduction in Lebedel, "Les Croisades, origines et consequences"

外科手術をする医師。 セラフェッディンサブンクオウル(1385–1468) の帝国外科(1465)から。15世紀のトルコの写本から、レベデルの複製、「レクロワサデ、起源など」

     

  ディオスコリデスのアラビア語訳『薬物誌』より、薬酒を作っているところと思われます

       

        アラビア語訳『薬物誌』より、クミンとディル (ca. 1334) , 大英博物館蔵

https://ww w.wikiwand.com/ja/%E3%83%A6%E3%83%8A%E3%83%8B%E5%8C%BB%E5%AD%A6

       

        右がディオスコリデスのクミン London: printed Josias Rihelius 1561

      上の絵はおそらく銅版画でしょうからアラビア語訳の絵とは随分と異なります。

アラビア医学を代表する医師イブン スィーナーは、古代ローマの医師ディオスコリデスの本草書『薬物誌』を基に『医学典範』の薬物に関する巻を著し、約811種の生薬が収録された。ユナニ医学の薬物学は、ギリシャ、ローマの薬物学を受け継いで発展し、インド医学の薬物も多く取り入れている。アラビアの薬物書に載せられた薬物は、初めは数百種類であったが、最も充実していると言われています。      

 

イヴン・ズフル( Avenzoar, 1094-1162 )は、薬の調剤は医師ではなく薬剤師が行うべきだと考え、アラブ世界で一般的だった医薬分業を強調しました。12世紀のアラビア世界では、調剤業務に関する規則が定められ、薬局の監督官が置かれるなど、薬局制度の基礎が確立されました。その結果、医学と薬学の法律上の地位を同等とする考えが広まり薬学の研究が進みました。

生薬製剤には、錠剤、トローチ剤、麝香入り製剤、丸剤、ミロバラン練り薬、消化剤、健胃剤、バラやスミレの保存剤、点眼剤、カルシウムコーティング剤、練り薬の一種、口中で徐々に溶解させる練り薬、蜂蜜入り練り薬、軟膏、興奮剤、保存剤、解毒剤、水薬、座薬、歯磨きなどがあります。また、錬金術の発達で蒸留などの化学技術も進んだため、精油や芳香蒸留水が作られ治療に利用されました。薔薇を含むスパイスは、油やアルコールに溶かして用いられたのでしょう。

薬の性質は、その薬が身体の気質に及ぼす作用によって決められ、患者に投与された時の反応から判断された。「緩和性、熱性、寒性、湿性、乾性、これらの増強型である強熱性、強寒性、混合型である熱乾性、寒乾性」の9種に分けられています。

緩和性の薬剤を除いた「熱、寒、湿、乾、強熱、強寒、熱乾、寒乾」の性質のものは、体の状況や性質に影響を与える。緩和性を除いた8種類の性質は、強さによって4度に分けられます。

 

第1度;効果が感じられない程度におだやかで、副作用はない。

イチジク(熱の1度)、アスパラガス(熱の1度)、サヤインゲン(熱の1度)、カブ(熱の1度)、干しぶどう(熱の1度)、ひよこ豆(熱の1度)、山羊の肉(熱の1度)、仔ウシの肉、アーモンド(熱の1度)、カモミール(熱の1度)、スペインカンゾウ(乾の1度)、スミミザクラ(湿の1度)、ニオイスミレ(寒の1度)、薔薇(寒の1度)など。

 

第2度;効果が体で感じられる程度にあり、副作用はない。

松の実(熱の2度)、バジリコ(熱の2度)、サフラン(熱の2度)、ラード(熱の2度)、蜂蜜(熱の2度)、ヤツメウナギ(寒の2度)、米(寒の2度)、小麦(寒の2度)、ショウガ(乾の2度)、ヨザキスイレン(湿の2度)、レタス(湿の2度)など。

 

第3度;第2度より強い効果があり、副作用があっても致死的ではない。

カラシナ(熱の3度)、ニガハッカ(熱の3度)、カミメボウキ(熱の3度)、ハシバミ(熱の3度)、カラシナ(熱の3度)、西洋ねぎ(熱の3度)、アニス(熱の3度)、スベリヒユ(寒の3度)、ブラッククミン(乾の3度)、ビターオレンジ(湿の3度)、モモ(湿の3度)スイートチェリー(湿の3度)マンドラケの実(湿の3度)など。

 

第4度;第3度より強い効果があり、有毒なものもあります。

雨水(寒の4度)、湧き水(寒の4度)、春の水(寒の4度)カラシナ(熱の4度)、ニンニク(熱の4度)、玉ねぎ(熱の4度)、ナス(熱の4度)、ケシ(寒の4度)、ホオズキ(寒の4度)、チョウセンアサガオ(乾の4度)など。

 

このような生薬の性質の分類は、アラビア世界以外に、中世ヨーロッパの養生書、近世ヨーロッパの本草書で見られ、現在の欧米のハーブ療法でも一部で利用されています。

生薬は単体で用いられる単純薬剤(Mufradat)と、ガレノス製剤と同様に、数種の生薬を混ぜた複合薬剤(Murakkabat)があります。ユナニ医学を含むアラビア文化は、モンゴル帝国の破壊によって衰退の道を辿りますが、南アジアを中心とするイスラム文化圏に現在まで受け継がれ、パキスタンやインド、エジプト、新疆ウイグル自治区などで広く行われています。

  

Physician letting blood from a patient. Attributed to Aldobrandino of Siena: France, late 13th Century. British Library, London,

瀉血をする医師。 シエナのアルドブランディーノに帰属、13世紀後半のフランス。 大英図書館蔵

病根は傷口の近くにあると考えられた為、その部分の血液を出して病を治すと判断したのです。

 

 

 

 

 


ダマスクローズ 87

2020年07月20日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

      

ティムール朝( تیموریان‎、 Temuriylar、現在のウズベキスタン中央部に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつ。)中央アジアからイランにかけて支配したイスラム王朝1370―1507で出されたアヴィセンナの『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の初版本の巻頭。

                                                   

13世紀後半のクレモナのジェラルド(ゲラルド Gerard of Cremona, Gherardo ca. 1114 - 1187, イタリアの学者)が翻訳した医学論文集 ( Recueil des traités de médecine )

Recueil des traités de médecine de Al-Razi traducido por Gerardo de Cremona, segunda mitad del siglo XIII 

           

クレモナのジェラルド※の著書 医学専門書(Recueil des traites de medicine.1250-1260)の中に描かれたイラン人医師アル ラーズィー
                          

http://www.medarus.org/Medecins/MedecinsImages/MedecinsArabes/この23巻の医学教科書には、婦人科、産科、眼科手術の基礎が含まれています。徳のある人生(al-Hawiالحاوي)

 

この大規模な医学百科事典は9巻で構成されており、ヨーロッパでは「大規模包括的または大陸リーバー(جامعالكبير)」としても知られています。ギリシャの哲学者アリストテレスとプラトンに対する考察と批評が含まれ、多くの主題について革新的な見解を示しています。この本だけでも、多くの学者はアル ラーズィーを中世の最高の医者だと考えています。

 

※ クレモナのジェラルド(ゲラルド Gerard of Cremona, ゲラルドゥス クレモネンシス (Gerardus Cremonensis), ca. 1114 - 1187イタリアの学者)。 12世紀に多くのアラビア語の学術書をラテン語に翻訳しました。エウクレイデスの注釈書を書いたアル ファーラービーの著書をもとに De scientiis (科学について)を著し、さらにエウクレイデスの幾何学の書『原論』をはじめ、アル ファルガーニー (al-Farghānī) の天文学書をラテン語に訳しました。他にテオドシウスの『球面学』、アルキメデスの論文など幾何学・代数学・工学の分野の翻訳や、ガレノスやヒポクラテスなどの医学書があります。弟子たちが作った目録で知られているだけでもアラビア語による著作の翻訳は71種があり、中世初期を通じて「最も熱心で多作」な翻訳家です。

 

古典の文化がイスラム、ビザンツを経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えました。また哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられました。

翻訳活動の中心地シチリア王国の首都パレルモのフリードリII 世の宮廷ではイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)の文献がラテン語に翻訳されました。

 

カスティーリャ王国(スペイン)の都市トレドでは、レコンキスタの進展により1085年にカスティーリャ国王アルフォンソ6世がイスラム勢力から奪還。トレド大司教ライモンド(スペイン語)の支援によりトレド翻訳学派(スペイン語、英語)(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれるグループが形成され翻訳に従事しました。

 

ユナニ医学の薬物学は、ギリシャ、ローマの薬物学を受け継いで発展し、インド医学の薬物も多く取り入れています。アラビアの薬物書、イヴン アルバイタール※(1188-1248)の本草書には、2,324の生薬が記載されています。ユナニ医学で使われる生薬の80%は植物由来で、その他に動物性・鉱物由来の生薬も含まれます。     

 

コルドバのカリフ(アラビア語:خلافةقرطبة; trans。KhilāfatQurṭuba)は、ウマイヤ朝によって統治された北アフリカの一部とともにイスラムイベリアの州でした。 コルドバは10世紀にアブド アッラフマーンⅢ世とハカムⅡ世の治世下で繁栄をとげ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍しました。トレドと並んで西方イスラム文化の中心地として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となります。この地域は、コルドバのウマイヤド首長国(756–929)によって支配され、貿易と文化の拡大によってアンダルス建築の傑作を見ることが出来ます。

          

                   イヴン バイタールの像

※ イヴン バイタール(Abu Muhammad Abdallah Ibn Ahmad Ibn al-Baitar Dhiya al-Din al-Malaqi also Ibn al-Baytar 1188 - 1248、アラブの科学者、植物学者、薬剤師、医師。)アンダルス地方(スペイン アンダルシア地方を中心とするイスラム統治下のイベリヤ半島一帯)の最も偉大な科学者であり、イスラム世界の黄金時代、農業改革における最も偉大な植物学者、薬剤師。スペインのマラガに生まれ、アブー アッバース アルナバティーから検証に基づく植物学を学びました。

1219年、植物採取のため、トルコのアナトリア地方から、北アフリカの海岸まで旅をし、又、ベジャイア, コンスタンティーヌ, チュニス, トリポリ、バルカ、アダリアをよく訪れた。1224年、植物学者として、フリードリヒⅡ世※とも交友のあったアイユーブ朝のスルターン、アル カーミルに仕えました。1227年、ダマスカスまで支配を広げたアル カーミルに同行したため、植物の研究はサウジアラビアやパレスチナを含む広大な範囲に広がりました。 1248年、ダマスクスで亡くなります。

イヴン バイタールの重要な著書は『薬と栄養全書』(Kitab al-Jami fi al-Adwiya al-Mufrada)で、処方書(医薬品百科事典)は、少なくとも1400の植物や食品、医薬に関し、彼が発見した300項目を含んでいます。古いアラビア語の文献150册、ギリシャ語の文献20册への参照を引用した『薬と栄養全書』は1758年にラテン語に翻訳され、ヨーロッパで19世紀初頭まで使用され続けました。

イヴン バイタールのもう一冊の重要な著書は『生薬全書』(Kitab al-Mlughni fi al-Adwiya al-Mufrada)で、この本には、頭、耳、眼、等の病気と、さまざまな病気の治療のための植物に関する広範囲な彼の知識との関連が記載され、イスラム医学の百科事典となっています。「イスラム世界の黄金時代」「ムスリムの農業改革」における最も偉大な植物学者でもあります。

        

        Copia Recopilación de medicamentos simples de Ibn Al Baytar

                Ibn Al Baytarによる薬草集

            

    From his book De arte venandi cum avibus (The art of hunting with birds). From a manuscript in             Biblioteca Vaticana, Pal. lat 1071), late 13th century

    彼の著書De arte venandi cum avibus(鳥との狩猟術)の2ページ目。 From a manuscript in             Biblioteca Vaticana, Pal. lat 1071), late 13th century から

 

※ フリードリII 世(Friedrich II. 1194/12/26 – 1250/12/13, 又はFederico II, King of Sicily from 1198, King of Germany from 1212, King of Italy and Holy Roman Emperor from 1220 and King of Jerusalem from 1225)学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主。彼が発布した法令の多くは現代にも影響を及ぼしています。その一つに、役に立たない(そして人体に危険な)薬を売りつけようといい加減な診断をする医師に対して、医師が薬剤師を兼ねることを禁止した法令があります。この法令によって医薬分業が生まれ、現在では広く一般的な制度となりました。アラブ人に制定された職業上の規制は、1220年になるとさまざまな宗教共同体にも採用されました。

12世紀ルネサンスの諸相 古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えた。また哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられた。

翻訳活動の中心地シチリア王国の首都パレルモのフェデリーコ2世の宮廷ではイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)の文献がラテン語に翻訳されました。

 

カスティーリャ王国(スペイン)の都市トレドでは、レコンキスタの進展により1085年にカスティーリャ国王アルフォンソ6世がイスラム勢力から奪還。トレド大司教ライモンド(スペイン語版)の支援によりトレド翻訳学派(スペイン語版、英語版)(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれるグループが形成され翻訳に従事しました。

 

アラブ人によって制定された職業上の規制は、1220年にナポリ王国のフリードリII 世によって解かれ、医師とは一線を画した薬局が組織されるようになります。

カリフアリマンズール{The Caliph Alimanzur、 c. 938—died 1002/8/10, Spain、ruler of the Umayyad caliphate of Córdoba for 24 years (978–1002)}がバグダッドに薬局を作り、そこで取り扱った薬のリストが残されていました。その内容から当時の文化の規模や程度を知ることが出来そうです。覗いてみましょう。

アニス、オーネア(Aunea)、ベンゾイン※(Benzoin)、キンマ1※2(Betel)、ボリジ、カチョウ※(Cachou)、スクラップ(Scrap)、コロキント※4(Coloquinte)、シナモン、フューミトリー※5(Fumitory)、ナッツ、サフラン、クローブ、マナ※6(manna)、ナツメグ、ホワイトポピー、除虫菊(Pyrethrum)、ルバーブ、ローズマリー、ローズ、サンダルウッド、シナヨモギ※7(Artemisia cina、 semen-contra)、クスノキ(camphor)が入っていました。”薔薇“があります。乾燥した薔薇の花びら或いは蕾でしょうか。 

(個々のハーブ、スパイスについては後日、機会を設けてご説明しようと思っています)

 

 


ダマスクローズ 86

2020年07月18日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

“ダマスクローズをさがして50 ”と” 51” でダマスクローズの絵を引用しました。絵の下には、次のような薔薇の特性が書かれていました。「薔薇;性質;寒の一度、乾の三度。新鮮な時が一番香りがよい。効果;感情の高ぶり。樟脳を一緒に摂ると効果がある。」これが体液説を元にした健康維持方法です。残念ながら西ヨーロッパでは、この絵を持つことがステイタスを示す手段となっただけで、ごく一部の貴族を除いては日々の生活に生かすところまでには至りませんでした。しかし、ダマスクローズと密接な関係を持つ“ユナニ医学”は西洋とイスラムを結びつける大切な試料です。詳しく調べることにしました。

    

            Chirurgie des Ilkhani de Sharaf al-Dîn ibn 'Alî ibn al 

手術に関する論文 Charaf ed-Din、1465、BNF http://histoirepharmacie.free.fr/main02-02.htm

ユナニ※医学はヒポクラテスとガレノスの考えをもとにしています。古代ローマ時代に書かれたガレノスは医学書の中で「薔薇」を扱ってはいませんが、ヒポクラテスは多量のと言ってもいいほど薔薇の記述が多いのです。何故彼らの考えを引き継いだユナニ医学書に「薔薇」の記述がみられないのでしょうか。 いや、ガレノスだけではありません。ギリシャ時代以降の書物には”薔薇”の記述を見つけることはできませんでした。どうしてでしょうか。

       

※ ユナニ

ペルシャ人が、最初に接触を持ったのがアナトリア半島(小アジア西岸)のギリシャ人だったのでギリシャ人全体をイオニア人と呼び、その呼び名がインドなど東方に広まりました。ギリシャ人のことをトルコ語ではYunan、さらに現代ペルシャ語ではギリシャのことをYūnānと呼びます。                    

          

https://history.wikireading.ru/76579  Kitâb al-Diryâq: Thériaque de Paris.: Bibliothèque Nationale de France. Ms. Arabe 2964. (Iran?, 1199) 

ガレノスの著作に擬せた『(解毒薬方)※』(Kitāb al-Diryāq:テリアカ)の写本(1200年頃)パリ写本

 

※解毒剤の本とも呼ばれるテリアカ(Kitâbal-Diryâq)は、匿名の著者によって書かれた薬理学のイラスト入り論文です。 1199年の日付で、現在も保存されている最古のアラビア語写本の1つで、フランス国立図書館に収められたいます。長い間、有名な医者クロードガリエン(Claude Galien , 129-200 / 216)の著であると言われてきたのですがそうではないことが分かったので、ガレノスの著作に擬せたとの説明があります。

  

Ms Sup Turc 693 fol.46v Cauterisation of leprosy lesions, 1466  

Charaf-ed-Din Ms Sup Turc 693 fol.46vハンセン病病変の焼灼.

上の絵は説明にあるとおり、ハンセン病で出来た瘤状の小結節を焼灼しているのですが、傷口が化膿することが多く、何の効果も無い治療方法でした。

 

解剖学に関しては、イスラム文化圏では、宗教的な制約で解剖が行われなかったので、ガレノスの誤りは修正されませんでした。外科は宋の解剖学の影響もあったのですが、ガレノス医学をそのまま維持しほとんど発展しませんでした。手術はメスでなく焼灼に使う焼いた鉄の器具で切開を行ったため、術後感染症をおこし、死亡する患者が後を絶ちませんでした。これは、ユナニ医学を取り入れた中世ヨーロッパでも同様です。

 

10世紀から11世紀にかけて、アラビアでは多くの医学書が書かれました。アリー アッタバーリーやアル ラージー(Rhazes, 864-930)などによって、その地方の医学とインドやギリシャ, ローマの医学が融合し、批判を加えつつ進化し、「ユナニ医学」として親しまれました。

さらにイブン スィーナー(Avicenna, 980-1307)は、ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させました。研究していたアリストテレスを参考に、ギリシャ・アラビアの全知識を包含した、整合的な隙のない医学体系をまとめ上げ、医学書『医学典範』を著しました。『医学典範』はアラビア・ヨーロッパの医学に絶大な影響を与え、アル・ラージーの『アル・マンスールの書』(医学の簡潔な手引書)や、エジプト出身のユダヤ人イスハーク・アル・イスライーリー(9~10世紀)の『尿の書』(尿診断の基本的なテキスト)も、中世ヨーロッパでよく読まれました。アル・ラージーの医学書は臨床中心、イブン スィーナーは理論中心でしたが、どちらも理論と実践の融合を目指しているといえます。アッ・ザフラーウィー ( Albucasis, 936-1019)が外科を、イヴン・ズフル( Avenzoar, 1091-1162頃)が食事療法の基礎を築きました。

 

 


ダマスクローズ 85

2020年07月16日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

フナインはヒポクラテス、ディオスコリデス、ガレノスといった医学書を、ギリシャ語からアラビア語へと訳しました。特にアッバス朝時代にはガレノスの著作の多くがアラビア語へ訳されました。これらの医学書をバグダードの学者たちは、ラテン語訳し中世ヨーロッパにも影響を与えたのです。その主役となったのが、先に述べたモンテ カッシーノの修道士だったコンスタンティヌス アフリカヌスです。ガレノスは西欧でも医学の正典となり、サレルノ大学やモンペリエ大学、パドヴァ大学といった医学で知られる大学で教えられました。しかし、ガレノスをそっくりそのまま受け入れた為に、瀉血が標準的な医療行為となり解剖学の実践は停滞しましたが、ガレノスの権威は16世紀までの西洋医学を支配することになります。

                        Averroes アヴェロエス※3

アブー アル ワリード ムハンマド イヴン アフマド イヴン・ルシュド(‎ abū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd,1126/4/14 -1198/12/10、スペインのコルドバ生まれ、イスラム教徒の哲学者、医学者 アヴェロエス (ラテン語: Averroes)

もっとも有名なのは「医学大全」(Colliget)で、1153年から1169年の間に書かれ、凡そ90年後にはヘブライ語とラテン語に翻訳されました。解剖学、生理学、病理学、診断、治療学、衛生学、病気の治療の七巻に分かれています。薬理学と栄養学は広範囲にわたり、300の単純薬と食物について述べられています。ラテン語訳は何世紀に渡って西洋の医学の教科書となりました。またガレノスの作品の要約やイヴン スィーナーの『医学の詩』についての註解を著しました。

1126年、コルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、1147年にコルドバに成立したムワッヒド朝の王アブーヤクブの侍医となって仕え(1169年頃)、国家的な事業としてアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳する事業に従事しました。アリストテレスの著作のアラビア語訳は10世紀末のイヴンシーナーの事業を受け継ぐものでしたが、12世紀のイヴン ルシュドは「新プラトン主義」の影響を受け、プラトン的な神学理論による解釈を行ったものであった。また当時有力になっていた、ガザーリーによって始められた、理論を排し直感的に神を感じ取るというスーフィズムの思想に反対して、イスラム神学の理論付けを行おうとしたものでした。しかし、北方のキリスト教徒のレコンキスタと戦っていたムワッヒド朝は次第に宗教的に不寛容となり、イヴン ルシュドの学説も受け入れられなくなりました。1197年突然その著作は発禁とされ、地位も追われてコルドバを去り、1198年にモロッコのマラケシュで生涯を閉じました。イヴン ルシュドと同じ頃、コルドバでアリストテレス哲学を研究していたユダヤ人のマイモニデスもモロッコのフェスを経てエジプトに逃れました。

   

ヤコブ(新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟。)スペインの守護聖人、レコンキスタの象徴※。ムーア(北西アフリカに住むイスラム人)殺しの聖ジェームズ像。馬に乗り、鎧をかぶり、剣を振り回し、馬で倒れたムーア人を飛び越え。サンティアゴカリオン・デ・ロス・コンデス(Carrión de los Condes)博物館蔵。

(聖ヤコブはスペイン語ではサンティアゴ(Santiago)」です)。

 

※レコンキスタ 44 年、アストゥリアス王ラミロⅠ世((Ramiro I de Asturias、ca.790 – 850/2/1)とイスラム教徒との戦いの間に白馬に乗ったヤコブが現れ、イスラム教徒を殺戮し、勝利に導いたところから、「イスラム教徒殺しの聖ヤコブ」と呼ばれるようになりました。スペイン諸王国の守護聖人として祀られ、後に、キリスト教国の兵士たちは「サンチィアゴ!」と叫んでイスラム軍に向かって突撃したという。サンチィアゴ信仰が始まりました。

イヴン ルシュドのアリストテレス翻訳事業は上のような事情でイスラム世界では断絶しましたが、コルドバがレコンキスタの結果、キリスト教徒の手に落ちた1230年代以降に、彼の著作がラテン語訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになります。特にパリ大学の神学者が熱心にその著作の研究を行ったのでイヴン ルシュドはラテン名でアヴェロエスとしてヨーロッパで知られるようになり、中世のスコラ哲学に大きな影響を与えました。しかし、アヴェロエスのもたらしたアリストテレス哲学は、その合理的解釈を推し進めれば宗教的真理と理性的真理の二元論に向かっていきました。パリ大学の急進的なアヴェロエス派に特にそのような傾向が強く、ローマ教皇庁はそれを危険視し、トマス アクィナスをパリ大学に派遣しその学説の修正を求めました。ついに1270年に教皇庁はアヴェロエス主義を教授することを禁止したのです。

     

         テオトコス(Thotokos)受肉した神の子の母としての聖母マリア

ネストリウス派は、古代キリスト教の教派の1つでしたが、431年のエフェソス公会議で異端認定されました。ネストリウス派の教義ではキリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考え、イエスの神性は受肉によって人性に統合されたと考えています。このため、イエスを生んだマリアを神の母(テオトコス Θεοτοκος)と呼ぶことを否定し、キリストの母(キリストトコスChristotokos)と呼んだのです。キリスト教教義は、異端とされた説への反駁によって形成されていったと考えることができます。

 

  


ダマスクローズ 84

2020年07月14日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

            

            ※2 Regimen sanitatis Salernitanum 1480年表紙絵 

         https://en.wikipedia.org/wiki/Regimen_sanitatis_Salernitanum 

上の絵のRegimen sanitatis Salernitanum(又は The Salernitan Rule of Health, Flos medicinae, Lilium medicinae, The Flower of Medicine)はヘクサメトロス(Hexameterの形をとる詩で、1行が6つの(hexa)の韻脚からなる)の形式で書かれた医学書です。本書は12世紀から13世紀に書かれたと言われていますが、1050年頃にその存在がすでに知られていました。この本はSchola Medica Salernitana(サレルノ医学校)の著述であると言われていますが、いささか疑問です。

 

しかし、サレルノは1100年代最高の、そして先進の医学校です。そんな医学校の医学書には何が書かれているのだろうと、興味が湧きました。現在にも通じると思われる項目を取り上げました。

 

第五章 Regimen sanitatis Salernitanum 1492年刊 “時間と食事”

『食事をするのに適切な時間とは、上記の第3章で述べたように、真に空腹であるときです。つまり、夏は涼しい時間、日の出前と夕方の夕べに選ぶのがよいでしょう。そして、本当に必要なのは食物を摂取する必要があるときに摂る事です。GalenはRegemine sanitatisの中で、健康の規則を遵守するように強いられるべきではなく、そうでない人はそうすべきだと述べています。強制的な理由に縛られず、あらゆる事に自由である時、人間は完全に元気でいることができます。

冬は春と秋のように、暖かい時間を選び食事をします。これらの暖かい時間は、夏と、冬にも割り当てられています。夏に近い時間帯と冬に近い時間帯では適度な暖かさの時間を選びます。』

       

フナイン イブン イスハーク  A physician with a flask of urine, possibly comparing it to pictures or descriptions of variously colored urine in a book. Fol. 42v

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/123284/1/22yaguchi.pdf

フナイン イブン イスハークが書いた『医学の質問集(Kitāb masā᾿il fī al-ṭibb)』、『学習者のため の医学の質問集(Kitāb masā᾿il fī al-ṭibb lil-mutaʻallimīn)』、『医学入門(Kitāb madkhal fī al-ṭibb)』が上記 pdf で紹介に述べられています。フナイン イブン イスハークに関する説明文(『』内)は上の pdf から引用させていただきました。

 

※フナイン イブン イスハーク

『フナイン イブン イスハーク { ’Abū Zayd Ḥunayn ibn ’Isḥāq al-‘Ibādī、ca.808–873、バグダードに置かれた学術機関 (バイト アル=ヒクマ)で活躍した学者。}

は、ネストリウス派のキリスト教徒で、翻訳者、医者、神学者でした。バグダードでユーハンナー イブン マーサワイヒ Yūḥannā ibn Māsawaih(777–857)のもとで医学を学び、ギリシャ語に習熟したといいます。その後アッバス朝カリフのマアムーンから、「知恵の館(Bayt al-Ḥikma)」で翻訳活動の総指揮を任されることとなり、息子のイスハーク イブン フナイン Isḥāq ibn Ḥunayn(d.910)や甥のフバイシュ イブン アル ハサン Ḥubaish ibn al-Ḥasan al-Dimashqī(fl.ca.860)らと共に、ギリシャ語で書かれた哲学書や医学書などを翻訳しました。キリスト教徒にはシリア語に、イスラム教徒にはアラビア語で翻訳を作成したのです。翻訳の際フナインは原典の写本を複数集め、まずそれらを校合して正確なテキストを決定することから始め、既存の翻訳を参考にして、それらを改訂することもありました。訳文についても、原文の意味を自然なアラビア語やシリア語で表現することを目指しました。フナインらが翻訳した文献はプラトンやアリストテレスの著作も含まれていましたが、 ヒポクラテス、ディオスコリデス、ガレノスといった医学の著作が主でした。医学に関する文献の翻訳は、フナイン以前に既にいくつか存在していましたが、その正確で優れた翻訳によって、彼らはギリシャ医学のイスラム圏への伝達において最も重要な役割を果たしました。さらに、アラビア語に専門用語として使える語彙を生み出したのです。彼らは既存の医学をイスラムの医学者が使用できるようにしただけでなく、医学を研究するための言葉という道具を用意することで、その後の医学の発展の基礎を造りあげたのです。』

 

このところ ”ダマスクローズ” の話題に全く触れていません。いったいどうしたのか?と疑念を抱いておられる方も多いのではないでしょうか。かくいう私もいささか消沈気味です。この梅雨の、無残な雨にも。ここいらでバーッと薔薇の花を咲かせましょう。それから次に入ることにしましょう。

  

ぱあーっと一発、二発、三発!!  香りに酔いそうです。

    

カムサール(Qamsar)はイラン中心部の小さな町ですが中東一のローズウォーターの産地です。メッカのカーバ神殿では毎年この地のローズウォーターが使われます。  https://alchetron.com/Qamsar

( カーバ神殿については少しあとで触れることになります。)

 

 


ダマスクローズ 83

2020年07月12日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

少し歴史を遡ることにします。アラブの医学が西ヨーロッパに伝播した過程をもう少し丁寧に見ていこうと思います。

 

健康全書(Taqwim al-Sihhah)は1266年にシチリア島で、ラテン語のTacuinum Sanitatisというタイトルで翻訳されたのが始まりです。そこからヨーロッパに広まり人気を呼びました。、(イブン ブトーラン(Ibn Butlân; circa. 1001 - 1066)が書いたタクウィームッスィッハ(Taqwim al-Sihhah)がそれにあたり、健康の維持の為には6つの要素; 「健康的な飲食習慣、 運動と休息、 睡眠、 ユーモアのバランス、 喜び、怒り、恐れ、苦痛の節度を守ること。」が重要であると説いています。 イブン ブトーランはギリシャの医師で、ヒポクラテス ( Ἱπποκράτης、Hippocrates , BC460 – BC370、古代ギリシャの医者。医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、病気は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという四体液説を唱えました。人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液をもち、それらが調和していると健康ですが、どれかが過大、過小すると、その部位が病むとした)の理論を引き継いでTaqwim al-Sihhahを書きました。

     

ローマの南東約50 km、アナーニにあるアナグニ大聖堂(ラツィオ)の地下室のフレスコ画に描かれたガレノス(左)とヒポクラテス(右)12世紀。二人が並んでいる絵は、正にユナニ医学の象徴とも言えます。

 

サレルノで最も有名な教師であり、医学書の翻訳者でもあった、コンスタンティン アフリカヌス※1(Constantinus Africanus 若い時代、チュニジアに過ごした後、イタリアで暮らしサレルノ医学校の教授を務めた1018-1087)のような人物が、ノーマンとホーエンシュタウフェンの庇護の下で何人も現れます。医学は盛んになり、パリ、ボローニャ、オックスフォード、モンペリエへとその流れは広がり13世紀には大学組織へと引き継がれることになります。

             

       尿を差し出す医師に診断を下すコンスタンティヌス 作者、制作年代不詳

 

アヴィセンナの医学典範に描かれたサレルノ医学校 Die Schule von Salerno in einer Darstellung in einer Ausgabe des Kanon des Avicenna

 

10世紀にはフランスやイギリスの王族が治療のためにサレルノを訪れました。当時はギリシャ、ローマの学説を伝統としていましたが、11世紀末にコンスタンティヌス アフリカヌスによってもたらされたアラビア医学の影響を受け、12世紀には名声が頂点に達します。サレルノを訪れたノルマンディー公ロベールⅡ世に献呈した『サレルノ養生訓』(Regimen sanitatis salernitanum)※2 は後になって、ヨーロッパ中に広まるほど有名になりました。

              

          講義するコンスタンティヌス 作者不詳、1573発刊の表紙絵

 

※1コンスタンティンアフリカヌス( Constantinus Africanus、1017– 1087 )バグダードで医学、イスラム科学と外国語を学び、薬草の貿易に携わった。医学の知識を得て、カルタゴで医師として成功したが、1077年にサレルノ医学校の教師となった。翌年、さらに優れた医書を求めて、ギリシャ、アラブの各地を旅した。ローマ教皇ウィクトル3世の保護を受け、その後、ベネディクト会の モンテ カッシーノ修道院に定住し、ヒポクラテスやガレノスの著作を含む医書の翻訳を行った。キリスト教に改宗した。コンスタンティヌスによって、サレルノ医学校の評判は高まった。 コンスタンティヌスが翻訳したイスラム医書に アリー イブン アッバース アル マジュシ('Ali ibn al-'Abbas al-Majusi、マソウディ, masoudiとも呼ばれる)の 『王の書』やイブンアルジャザール(Ibn al-Jazzar)の『旅人の備え』などがあります。

 

 


ダマスクローズ 82

2020年07月10日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

健康全書(Tacuinum Sanitatis、Taqwim al-Sihhah)についてヨーロッパから見たお話をしました。今まで書いたところと一部分重複するところがありますが、ここからはイスラム側から眺めたお話をしていこうと思います。

 

ヨーロッパではローマ帝国滅亡後、長く社会全体が著しく停滞しました。特に政治は無政府の状態でした。ただひとつキリスト教組織は無傷のまま残っていましたので、これが政治機能をも果たす事になります。このことが、不運な結果を産むあらゆる事象の発端になっていると思うのですが。そのことはともかく、西ヨーロッパでは三圃制と重量有輪犂※の普及で耕地化が広がります。

             

       https://ja.wikipedia.org/wiki/ ベリー公のいとも豪華なる時祷書 から

※重量有輪犂 11~12世紀のヨーロッパでは、アルプス以北のしめった重い土地を深く耕す為に重い犂に車輪を付けて牛に引かせる方法が考え出されました。重量有輪犂は重く大きいので方向転換が難しく、耕地は細長い形態をとるようになり、これと細長い耕地をいかした三圃制農業が普及したことで農業生産力は向上しました。

そのことがさらに、農村の共同体の形成を促します。当然生産性も向上するわけで、余剰生産物を市場で売りさばく事になります。初期商業主義の勃発です。領主は市場の使用許可、ある程度の自治を認めたときはそれに対する課税を、河川の通行、道路の通行、あらゆる場所で税金を課し始めます。それでも市場は拡大を止めません。儲かった商人は教会への献金を始めました。あちこちで城は建て替えられ、教会は大きく建て替えられるようになります。当然意識も変わるわけで、社会全体で十字軍遠征機運が盛り上がります。

 

ヨーロッパの荘園は、法的・経済的な権力が領主(貴族、司教、修道院)に集中していました。領主の経済生活は、自らが保有する直営地からの収入と、支配下にある農奴※からの貢納(労役、生産物、金銭)によって支えられていました。

農奴は自由民ではないですが、奴隷だったわけでもなく、地域の慣習に従い、法廷料を支払えば訴訟に訴えることもできました。農奴が保有財産を転貸することは珍しくなく、下で述べるように余剰農産物が市場で捌かれるようになると(13世紀頃からは)領地での労役の代わりに金銭納入が行われるようになります。

    

※農奴 D'après une miniature figurant sur le manuscrit de la Sainte-Chapelle (Bibliothèque Nationale) -12世紀の労働者-サント・シャペル写本のミニチュア(国立図書館)から

 

上で述べた7行の内容は末期ローマ帝国の状態とほぼ同じです。ヨーロッパの国々は農奴制を何故か古代ローマから引き継いだようです。労働を奴隷に頼る世界は、どのような最期を迎えるかは、古代ローマ帝国の例をしっかりと見てきた、あるいは学んできたはずなのですが、1000年、2000年のスパンで歴史を眺めることができないのか、あるいは目先の金に目が眩むのか、今なお同じことを繰り返しているのは、皆様よくご存じのとおりです。農奴に道具と、機会を与えればどのように社会に好影響を与えるかは、以降のヨーロッパ社会の変革をみれば、納得できるはずなのですが。

       

民衆、兵士を先導する隠者ピエール(生年不詳 – 1115/7/8、11世紀末にフランス北部のアミアンにいた司祭で、第1回十字軍における重要人物。十字軍本隊に先立ち、民衆十字軍を率いてエルサレムを目指しました。イーガートンコレクション(大英図書館に所蔵の歴史的写本集)から。

Miniature of Peter the Hermit leading the People's Crusade (Egerton 1500, Avignon, 14th century)

 

力が体の中に蓄えられてくると、それを使いたくなるのは個人の場合でも、団体の場合でも同じことで、外に向かって吐き出されるようになります。十字軍遠征の始まりです。西暦1000年は、西ヨーロッパは未だほとんど100%キリスト教組織世界ですから、その人たちが武器を取って向かえば、死ねば殉教することになるわけですから、これほど恐ろしい事はありません。遂に十字軍を先導するキリストが登場します。戦争の度にキリスト教の教義は大きく変節してゆきます。

   

十字軍を戦いに導くキリスト。“クイーンメアリー黙示録”から。14世紀初頭f. 37(大英図書館蔵)Christ leading crusaders into battle, detail from an Apocalypse, with commentary (The “Queen Mary Apocalypse”), early 14th century, f. 37 (British Library)

 

結果はともかく、このことがきっかけで、ヨーロッパ人がアラビアと接触をします。

自分たちとは全く異なる、次元のかけ離れた文化に西ヨーロッパ人は接することになります。格段の差のある、優れたものに接すると、人は見境無く飛びつくようで、アラビアの医学を、自らの教義との違いなど全く気にせず、次第にヨーロッパに取り入れてゆきます。

サレルノ医科大学の教師コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017–1087)らが翻訳した、アル ラージーやイブン・スィーナーの医学書がヨーロッパに入ってきます。12世紀になると、イタリアなどで大学が設立され、医学部ではアラビアの医学書を教科書とした専門教育が行われるようになります。15~16世紀まで、医学部では主にユナニ医学が教えられ、18世紀までイブン・スィーナーの『医学典範』が教科書として使われます。16世紀には、アンドレアス ヴェサリウス※((Andreas Vesalius、1514/12/31- 1564/10/15、解剖学者、医師。人体解剖で最も影響力のある“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。現代人体解剖の創始者。)がガレノス解剖学の誤りを証明し、19世紀になると西洋医学は伝統医学的思考から自然科学へと方向を転じますが、ユナニ医学の体液病理説(四体液説)は、ヴィルヒョー※(Rudolf Ludwig Karl Virchow、1821/10/13 -1902/9/5、ドイツの医師、病理学者、白血病の発見者として知られ、「全ての細胞は細胞から生じる」と述べ、細胞病理説を唱えました。)まで引き継がれます。

        

          ※アンドレアス・ヴェサリウス(1514/12/31- 1564/10/15)

 

            

               ※ ヴィルヒョー(1821/10/13 -1902/9/5)

 

 


ダマスクローズ 81

2020年07月08日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

Common Cold Ronald Eccles著, Olaf Weber Springer Science & Business Media, 2009から。 『』内はヒルデガルトの“Physica”からの引用です。

 

『風邪や咳にはタンジー※1(tansy ( Tanacetum vulgare) をスープ、ケーキ、肉と一緒に取ることを勧めます。オランダフウロ※2(Erodium cicutarium、Redstem filaree、別名redstem filaree, redstem stork's bill, common stork's-bill or pinweed,)、アナキクルス・ピレスルム※3(Anacyclus pyrethrum 、Mount Atlas)、ナツメグの粉末を一緒に吸入すると苦痛が和らぎます。』

ヒルデガルトの病気の理論は、古代の体液性病理説とほとんど変わりませんでした。

とりわけ、複合医学の本(Causae et Curae" 『病因と治療』(1151 - 1158) は、ガレンの理論を反映しています。

『風邪は寒気や脳内の湿り気のせいで起こり、やがて毒になるので追いださなければなりません。すなわち、人は宇宙の反射にすぎません。空気の中に存在する星も又この方法で清めるのであって、地球も又その汚れ、四つの悪臭のする物質を取り除くのです。』

ヒルデガルトはくしゃみを体の自己浄化メカニズムであると見ていました。

『人の血管を流れる血液は活発で速いわけではなく、むしろ眠っている時のようです。

体液が早く流れず、緩慢なとき、魂はこのことを関知してくしゃみで身体を揺らし、身体の血液を流すのです。体液は再び動き出し正常な状態に戻すのです。つまり、嵐や洪水によって水が動かなくなった時、腐敗が起こるのです。

同様に、くしゃみをしなかった場合や、くしゃみをして鼻の中をきれいにしないと、人は内部が腐敗します。』

体液が減るのを防ぐためにヒルデガルトは、医学書の中で、幾つかのレシピを推奨しています。例えば、『フェンネルとディル※4を加熱し、その蒸気を吸入し、残ったハーブをパンと一緒に食べなさい。加熱した松の木からでる煙は鼻の粘液の流れを良くします。。灰から灰汁を作り、それを使って頭を洗う事ができます。』

12世紀と13世紀になると、法王は公会議に基づく布告を出し修道院における治療行為を禁じたので、ヒルデガルトが修道院での治療の最後の施術者となりました。聖職者が治癒を実践することは禁じられたのです。治療行為は、学校や大学に移されました。 

   

https://www.dreamstime.com/stock-photo-wild-medicinal-plant-tansy-lat-tanacetum-vulgare-flowering-image98656348 から

 

※1タンジー(Tanacetum vulgare、ヨモギギク、別名common tansy, bitter buttons, cow bitter, golden buttons.キク科の多年生草本。)ヨーロッパからアジアにかけて分布。古代ギリシャ人が薬用に栽培したものとして最初に記録されました。西暦8世紀には、シャルルマーニュのハーブガーデンで栽培され、スイスの聖ガリ修道院のベネディクト会の修道士によって栽培されました。腸内の虫、リウマチ、消化器系の問題、発熱、びらんの治療、はしかの発生に使用されていました。中世以降、中絶に使用され高用量が使用されましたが、適量使用し、女性の妊娠を助け、流産を防ぐためにも使用されました。15世紀、四旬節に魚や豆類と一緒に食べ、鼓腸を制御し、魚を食した結果生じる腸内寄生虫を防ぐという目的で食したと思われます。葉をカスタードプリンやケーキにごく少量用います。

 

花を利用する場合は、黄色い花頭を夏の終わりから晩夏にかけて摘み取ります。香りはローズマリーを思わせるカンファーの香りがあります。葉や花は大量に摂取するとけいれん、嘔吐、および子宮からの出血を引き起こす場合があります。重篤な場合、呼吸停止や多臓器不全に至り死亡することもあります。揮発性油にはツジョンを含む有毒化合物が含まれており、けいれんの他、肝臓や脳の損傷を引き起こします。タンジー種に含まれる揮発性油は、接触性皮膚炎を引き起こす可能性があります。内服すると油成分が肝臓と消化管で分解され、内部寄生虫に有毒な代謝産物が生成されるので何世紀にもわたってタンジー茶は寄生虫を駆除するために薬草学者によって処方されてきました。又、節足動物に対しても非常に毒性があります。人体に用いることは避け、その香りを楽しむか、虫除けに使うのが無難です。

   

       オランダフウロ https://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_4235.htm 

※2 オランダフウロ(Erodium cicutarium、別名redstem filaree, redstem stork's bill, common stork's-bill or pinweed)

 

ヨーロッパやアフリカ、西アジアに分布しています。柔らかいうちは全て食用になり、鋭いパセリに似た味がします。ピンクの花は蜂蜜の貴重な供給源になります。 ズニ族(Zuni、アメリカ南西部に住むアメリカインディアン)の間では、噛んだ根の湿布剤をびらんや発疹に使い、腹痛時に根を服用します。

        

      ※3 アナキクルス・ピレスルム https://yoteiniwa.exblog.jp/9457376/ 

            

※ディル4 Tacuinum Sanitatis, Dill フィレンツェDeutsch: Abbildung von Anethum graveolens 14. Jahrhundert  ( Dillはラテン語でAneti )

     

※フェンネル4 Cod. Ser. n. 2644, fol. 41v: Tacuinum sanitatis: Feniculus A woman harvesting fennel Österreichische Nationalbibliothek - Austrian National Library

 

教皇の布告がなされたずっと前から、すでに10世紀にサレルノ医学学校は、ヨーロッパを代表する地位にありました。多くのテキストはトレドで翻訳され、後にイタリア南部の町では、さまざまな古代アラビア語の資料がラテン語でも利用できるようになりました。

 

 


ダマスクローズ 80

2020年07月06日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

ヒルデガルトの “Liber subtilitatum diversarum naturarum” と題した、生き物のさまざまな性質、自然の治癒力に関する本、(原因と治癒、Causae et curae:Ursachen und Behandlungen)は、“Physica” と題し、彼女の死後 1150から1160年の間に編纂され世に出たものです。

    

” Physica" から https://www.kraeuter-buch.de/magazin/bedeutende-kraeuterbuecher-im-mittelalter-9.html 

“Physica” は9冊からなり木、石、魚、鳥、動物、爬虫類、金属、植物など、あらゆる生物と自然の姿が描かれています。薬草は ”Über die Pflanzen“ ( 植物について ) の中で、当時知られていたほとんどの植物とハーブを非常に詳細に取り上げられています。

 

ヒルデガルトが人間の小宇宙と宇宙の大宇宙との間の医学的および科学的関係を詳述するとき、彼女は相互に関連している4つの形態、つまり火、空気、水、地球、4つの要素、4つの季節、4つの体液、地球の4つのゾーン、4つの主な風に注目しています。

彼女は体液理論の基本的な枠組みを古代医学から受け継いではいるのですが、ヒルデガルトが抱く4つの体液(血液、粘液、黒胆汁、黄色の胆汁)の階層的相互平衡(体液にもヒエラルキーがあると考えていたのでしょう)の概念は、「上位にある」又は、「下位にある」という基本物質の調和に重きを置くものでした。血液と粘液が天上界の要素である火と空気に、黒胆汁、黄色の胆汁が地上の要素である水と土に対してバランスが取れているか否かに注目しました。

ヒルデガルトは、病気の原因がこれらの体液の不均衡にあり、下位の体液によってアンバランスになった状態に原因があると解釈していました。このアンバランスな状態は、そして人間の病気の原因は、体液の不均衡の原因は、アダムとイブの堕罪によるものであると考えていました。それでは、具体的にどのような治療を行っていたのでしょうか。彼女の著書から二例引用しました。

“Physica" 『自然学』1151 - 1158 著から “ベルトラム” を引用しました。

ベルトラム※は Anacyclus pyrethrum ( アナキクルス・ピレスルム 別名 pellitory, Spanish chamomile, Mount Atlas daisy , Akarkara ) でカモミールに似たキク科の多年草植物です。     

 

※ベルトラム(piretri)(熱の3度,乾の2度) Tacuinum sanitatis in medicina)    

1300年代にヴェローナ(北イタリア)のセルッティ家が作らせた細密画入りのタキュイナム・サニタティス・イン・メディキナ

    

※ベルトラム https://jp.123rf.com/photo_53778630_anacyclus-pyrethrum-plant.html

            

           ※ベルトラムの根 http://bertramproject.be/?page_id=14 

Physica I-18. Bertram. / (Piretrum) から
『1. ベルトラムの根は温でやや乾燥した気質を持っているため、優れた強力な作用

    があります。

2. 健康な人では、血液中の老廃物を減らしきれいな血液を作ります。

3. それは純粋な知性を提供します。

4. すでに体重が減少している病人の場合、ベルトラムの根はそれを元の状態に戻します。

5. 十分に消化されない限り、体から離れることはありません。

6. 頭の中に多くの粘液がある病気の人は、ベルトラムの根をしばしば使うと、頭の 粘液が減ります。

7. 頻繁に使用すると胸膜炎を治し、きれいな体液になります。

8. 目をはっきりさせます。

9. この薬草は乾燥させて、食品と一緒に調理して使うと、病気に対して有効で健康 な人にとっても優れています。

10. ベルトラムの根を定期的に使用すると、病気を治し病気になるのを防ぎます。 口の中に唾液を生成し、その結果悪い体液を取り出し、健康を回復させます。』

ベルトラムは、北アフリカ、地中海、ヒマラヤ、北インド、レバント、アラビア半島で見られ、スパイスとしても使われています。皮膚に塗布すると、発赤、炎症を引き起こします。名前は、植物の古代ギリシャ語の名前 πύρεθρον (Pyrethrum) に由来します。アーユルヴェーダとシッダ(Siddha)にはこの植物の根が使用されており、何世紀にもわたって薬として使用されてきました。

 

 


ダマスクローズ 79

2020年07月04日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

      

       パート1、ビジョン1、『神の業(わざ)の書』13thのルッカ写本から。

This illumination introduces Part 1, Vision 1 of Hildegard von Bingen's final visionary writing, the Liber Divinorum Operum" Hildegard completed the ca.1173, but this illumination comes from a 13th century copy known as the Lucca manuscript.

『神の業(わざ)の書』から;

『この作品は、神の姿を詳細にしかも、人間の形で描いたものです。神の燃えるような生命の呼び、創造と創造物の間に起きるさまざまな軋轢、神は人間を神に似せた姿で創られたことをあらわしています。献身的な信仰は神の愛をも包み込みます。これにより、神は三位一体であると理解されるのです。信仰の功徳によって、神ご自身が人間を天国へと導かれるのです。神と隣人の愛は切り離せず、信仰の美徳によって強められます。謙虚な献身をもって神に服し、聖霊の助けを借りることのできた者は、自分の内と悪魔により堕落させられた両方に打ち勝つことができます。天使たちは正義のおこないを喜び、神が全能であることを讃えるのです。

宇宙は神の中に永遠に存在し、神はそれぞれを数、順序、場所、時間で区別して創造されたのです。正義を捨てた悪魔と天使たちは、かつて大きな力を持っていたのですが、彼らの忘恩、高慢のために今のような状態に変えられたのです。だから、天の許しがない限り何もすることができないのです。』

 

ヒルデガルトが書いた絵を4枚見ていただきましたが、如何でしたでしょうか。

ヒルデガルトには予知能力と幻視能力があったと言われていますが、あなたはどのように思われましたでしょうか。幻視した光景をこのような絵にするには彼女にどのような力が働いたのでしょうか。

記憶の底に光景が畳み込まれていなければ描けない絵です。しっかりと、ハッキリと、頭の中にこの光景が刻み込まれていたのでしょう。このことと彼女の病気とは関係があるのでしょうか。子供のころから幻視を体現していたという彼女は、レビー小体型異常の可能性はなさそうですし、驚異的な映像記憶能力の持ち主でもないようです。テンカンによる有形性幻視のせいでしょうか。ともあれ、何をもって彼女に、生涯にわたって『私には幻視、予知能力があると』言わしめたのでしょう。(これから述べる内容に異論のある方もおられるでしょう。しかし私は、人間には予知能力も幻視能力もないと考えています。啓示と思われたのは、単なる思い込みでしょう。絵は霊感、閃きを自分の脳内に蓄積しておき、そのあとは描く過程で沸き起こる閃き(インスピレーション)で絵を完成させたと思っています)

注目すべきは、絵に分厚い金箔を用いている点です。身分の高い貴族出身であったことに強い自負心があったようです。そのことが「幻視能力がある」という思い込みを生涯貫けた理由の一つでもあります。

「因みにヒルデガルトは、神聖ローマ帝国のドイツ王国のマインツ大司教区・ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メヒティルト(Mechtild)の10番目の子供として生まれ、1106年から同大司教区オーデルンハイム(Odernheim)のディジボーデンベルク(Disibodenberg)にあるベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイム(Jutta von Sponheim)に育てられます。ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族(シュポンハイム伯シュテファン1世の娘)で、兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイム(de:Hugo von Sponheim)がいます。」 (Wikiから)

      

                   プサルテリウム

https://www.alamy.com/stock-photo-medieval-historical-re-enactment-woman-playing-psaltery-music-musical-19332608.html 弦の数が目まぐるしく変化した楽器なので当時のものとは少し形が異なるかも知れませんが、ヒルデガルトはプサルテリウムをよく演奏していたといわれています。

 

しかも当時は、12世紀頃にアイルランド人でベネディクト会系の修道士であったマルクスがラテン語で執筆した異世界幻視譚である“トゥヌクダルスの幻視:Visio Tnugdali” が世に出るなどの幻視ブームの真っただ中でもありました。

『トヌグダルスの幻視』からその一部分を引用すると、『トゥヌクダルスが天使の後を追うと、光に満ちた場所に出た。そこには高い壁があり、その壁で風雨を避ける大勢の男女がいた。天使は、彼らは悪人だが極悪人ではなく、貧者に充分な施しを与えなかったもの達で、数年間にここで風雨を耐えたのちにより良い場所へ導かれると言った。』物語はトゥヌクダルスが発作で倒れてから、天使に導かれて死後の世界を幻視し、目覚めるという異世界幻視譚の構成になっています。

                                

『トゥヌクダルスの幻視』地獄の口 強欲とその懲罰について;守護聖人がトゥヌクダルスに向かって巨大な獣、アケロンの口を指す。片方の巨人は頭を下にした状態で柱のようになっています。

Hell's Mouth, by Simon Marmion, from the Getty ManuscriptBeast Acheron etwa 147

 

『トゥヌクダルスは、山よりも巨大な獣(アケロン)を見る。強欲な者を飲み込む巨大な獣の口は、二人の巨人(フェルグシウスとコナルス))によって支えられており、三つの門のようになっていた。天使が去るとトゥヌクダルスの魂は悪霊たちによって獣の腹に入れられ、さまざまな獣や怪物による攻撃、悪霊の打擲、炎、寒さ、悪臭で拷問を受けた。トゥヌクダルスが罪を思い知ると獣の外に出され、天使と再会した。』 

     

St Patrick tramples on a snake in Purgatory, in St Patrick’s Purgatory. England, 1451. British Library, Royal MS 17 B XLIII, f. 132v. 悪魔と魂に囲まれた聖パトリック。15世紀半ばにイギリスで出版。Royal 17 B. XLIII、f.132v から引用しました。

 

又同じ頃、1186年から1190年の間には、聖パトリキウスの煉獄譚 ( Tractatus de Purgatorio Sancti Patricii、中世ラテン語で記された幻視譚 ) が出ます。

「聖パトリキウスの煉獄」は、臨死体験を通して、異界を訪問し、無数の悪霊の襲来、灼熱、悪臭、寒冷、虫、蛇、猛獣が跋扈する煉獄で、執拗な拷問と懲罰を受けた後、甘美にして至福の天国を見学し、現世へと帰還する物語です。

 

ヒルデガルトが再び注目を集めたのは、彼女が亡くなってから実に760年を経た第二次世界大戦時です。『薬草学の書』がオーストリアの軍医ゴットフリートヘルツカ( Gottfried Hertzka、ヒルデガルト医学の創始者. 1913/10/12—1997/3/6 )により再評価されることにより世に出たのです。一時は名を知られていたヒルデガルトですが、幻視を誰も体現することはできません。亡くなればすぐに忘れ去られるのは当然のことだったのでしょう。

 

 

 


ダマスクローズ 79

2020年07月04日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

      

       パート1、ビジョン1、『神の業(わざ)の書』13thのルッカ写本から。

This illumination introduces Part 1, Vision 1 of Hildegard von Bingen's final visionary writing, the Liber Divinorum Operum" Hildegard completed the ca.1173, but this illumination comes from a 13th century copy known as the Lucca manuscript.

『神の業(わざ)の書』から;

『この作品は、神の姿を詳細にしかも、人間の形で描いたものです。神の燃えるような生命の呼び、創造と創造物の間に起きるさまざまな軋轢、神は人間を神に似せた姿で創られたことをあらわしています。献身的な信仰は神の愛をも包み込みます。これにより、神は三位一体であると理解されるのです。信仰の功徳によって、神ご自身が人間を天国へと導かれるのです。神と隣人の愛は切り離せず、信仰の美徳によって強められます。謙虚な献身をもって神に服し、聖霊の助けを借りることのできた者は、自分の内と悪魔により堕落させられた両方に打ち勝つことができます。天使たちは正義のおこないを喜び、神が全能であることを讃えるのです。

宇宙は神の中に永遠に存在し、神はそれぞれを数、順序、場所、時間で区別して創造されたのです。正義を捨てた悪魔と天使たちは、かつて大きな力を持っていたのですが、彼らの忘恩、高慢のために今のような状態に変えられたのです。だから、天の許しがない限り何もすることができないのです。』

 

ヒルデガルトが書いた絵を4枚見ていただきましたが、如何でしたでしょうか。

ヒルデガルトには予知能力と幻視能力があったと言われていますが、あなたはどのように思われましたでしょうか。幻視した光景をこのような絵にするには彼女にどのような力が働いたのでしょうか。

記憶の底に光景が畳み込まれていなければ描けない絵です。しっかりと、ハッキリと、頭の中にこの光景が刻み込まれていたのでしょう。このことと彼女の病気とは関係があるのでしょうか。子供のころから幻視を体現していたという彼女は、レビー小体型異常の可能性はなさそうですし、驚異的な映像記憶能力の持ち主でもないようです。テンカンによる有形性幻視のせいでしょうか。ともあれ、何をもって彼女に、生涯にわたって『私には幻視、予知能力があると』言わしめたのでしょう。(これから述べる内容に異論のある方もおられるでしょう。しかし私は、人間には予知能力も幻視能力もないと考えています。啓示と思われたのは、単なる思い込みでしょう。絵は霊感、閃きを自分の脳内に蓄積しておき、そのあとは描く過程で沸き起こる閃き(インスピレーション)で絵を完成させたと思っています)

注目すべきは、絵に分厚い金箔を用いている点です。身分の高い貴族出身であったことに強い自負心があったようです。そのことが「幻視能力がある」という思い込みを生涯貫けた理由の一つでもあります。

「因みにヒルデガルトは、神聖ローマ帝国のドイツ王国のマインツ大司教区・ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メヒティルト(Mechtild)の10番目の子供として生まれ、1106年から同大司教区オーデルンハイム(Odernheim)のディジボーデンベルク(Disibodenberg)にあるベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイム(Jutta von Sponheim)に育てられます。ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族(シュポンハイム伯シュテファン1世の娘)で、兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイム(de:Hugo von Sponheim)がいます。」 (Wikiから)

      

                   プサルテリウム

https://www.alamy.com/stock-photo-medieval-historical-re-enactment-woman-playing-psaltery-music-musical-19332608.html 弦の数が目まぐるしく変化した楽器なので当時のものとは少し形が異なるかも知れませんが、ヒルデガルトはプサルテリウムをよく演奏していたといわれています。

 

しかも当時は、12世紀頃にアイルランド人でベネディクト会系の修道士であったマルクスがラテン語で執筆した異世界幻視譚である“トゥヌクダルスの幻視:Visio Tnugdali” が世に出るなどの幻視ブームの真っただ中でもありました。

『トヌグダルスの幻視』からその一部分を引用すると、『トゥヌクダルスが天使の後を追うと、光に満ちた場所に出た。そこには高い壁があり、その壁で風雨を避ける大勢の男女がいた。天使は、彼らは悪人だが極悪人ではなく、貧者に充分な施しを与えなかったもの達で、数年間にここで風雨を耐えたのちにより良い場所へ導かれると言った。』物語はトゥヌクダルスが発作で倒れてから、天使に導かれて死後の世界を幻視し、目覚めるという異世界幻視譚の構成になっています。

                                

『トゥヌクダルスの幻視』地獄の口 強欲とその懲罰について;守護聖人がトゥヌクダルスに向かって巨大な獣、アケロンの口を指す。片方の巨人は頭を下にした状態で柱のようになっています。

Hell's Mouth, by Simon Marmion, from the Getty ManuscriptBeast Acheron etwa 147

 

『トゥヌクダルスは、山よりも巨大な獣(アケロン)を見る。強欲な者を飲み込む巨大な獣の口は、二人の巨人(フェルグシウスとコナルス))によって支えられており、三つの門のようになっていた。天使が去るとトゥヌクダルスの魂は悪霊たちによって獣の腹に入れられ、さまざまな獣や怪物による攻撃、悪霊の打擲、炎、寒さ、悪臭で拷問を受けた。トゥヌクダルスが罪を思い知ると獣の外に出され、天使と再会した。』 

     

St Patrick tramples on a snake in Purgatory, in St Patrick’s Purgatory. England, 1451. British Library, Royal MS 17 B XLIII, f. 132v. 悪魔と魂に囲まれた聖パトリック。15世紀半ばにイギリスで出版。Royal 17 B. XLIII、f.132v から引用しました。

 

又同じ頃、1186年から1190年の間には、聖パトリキウスの煉獄譚 ( Tractatus de Purgatorio Sancti Patricii、中世ラテン語で記された幻視譚 ) が出ます。

「聖パトリキウスの煉獄」は、臨死体験を通して、異界を訪問し、無数の悪霊の襲来、灼熱、悪臭、寒冷、虫、蛇、猛獣が跋扈する煉獄で、執拗な拷問と懲罰を受けた後、甘美にして至福の天国を見学し、現世へと帰還する物語です。

 

ヒルデガルトが再び注目を集めたのは、彼女が亡くなってから実に760年を経た第二次世界大戦時です。『薬草学の書』がオーストリアの軍医ゴットフリートヘルツカ( Gottfried Hertzka、ヒルデガルト医学の創始者. 1913/10/12—1997/3/6 )により再評価されることにより世に出たのです。一時は名を知られていたヒルデガルトですが、幻視を誰も体現することはできません。亡くなればすぐに忘れ去られるのは当然のことだったのでしょう。