「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

夏草や強者どもが… 横須賀城を訪ねて

2006年08月02日 22時31分03秒 | 紀行
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 横須賀城址に行って参りました。
 
 というより愛宕下羊羹が欲しくて、店を探そうと出かけたのですがお店が休みでした。

 ついでと言うことで横須賀城址寄ってみたわけです。

 城址公園の駐車場に行くと掛川市の森林管理課のトラックが停まっており、近くでおじさん達がお昼の弁当をつかっていました。

 言い回しが古いねどうも、弁当を使うなんて言い方は今はしませんね。僕も歴史小説で知った表現です。

 で、おじさん達はどうやら草刈りにきているようです。

 僕はその間を通り抜ける気になれず、北の丸方面を目指して歩いて行きました。

 

 大きな広場にでました。

 このお城は分類から言うと平山城なので高低差は殆どありません。

 このお城から東北東に位置するところに堅城「高天神」があります。

 ここに築城したのは高天神に備えるためだと言われています。指示したのは徳川家康、その家康を怖れさせたのは甲斐の武田家でした。

 今川家を離れた時から、そしてその今川家が実質的に滅んだときから家康は常に武田家の脅威と闘ってきました。

 織田信長との同盟関係が戦国史上最も長く続いた同盟関係であったことを家康の律儀と称える向きがありますが現実的にみれば織田との同盟を切ることは武田の参加に入ることですが三河、遠州をそのまま領有させてくれるとは思えず、何らかの形で取り上げられ何事かの難癖をつけて排除されると考えたのではないでしょうか。

 その後何をしても武田の思惑通りに動いているような錯覚にとらわれるような恐怖感に苛まれながら家康は長篠の戦い以後も慎重に慎重を重ねつつ腫れ物を触るように武田家の自壊を待ったのです。

 高天神は武田家が遠州に打ち込んだ橋頭堡です。高天神が武田側にある以上、徳川家は喉元に刃物を突きつけられているようなもので、状況が一変すれば地元の豪族達はオセロゲームのように一気に武田になびく可能性だってあるのです。

 高天神を攻略しようとしたとき家康は城の周りに蟻のはい出る隙間のない程厳重に包囲したと言います。

 そして本陣を含む8つの砦(とりで)を築き、更に自分たちの砦の外側にも備えたと言います。
 武田勝頼の来襲に備えたんでしょうね。
 そして自分自身は最も西よりの最も険峻な小笠山に本陣を構えます。そしてこの砦だけが小笠山山塊の尾根づたいに横須賀城の裏手にでることができます。

 

 横須賀城は今でこそ海岸線から2キロほど内陸にありますが、築城当時は海に面した港を備えた城でした。

 

 城址公園にあった立体模型をみるとそうなっているでしょ。

 江戸時代の大地震の地殻変動で一気に海岸線が引いてしまったそうです。

 恐るべし地球の力!

 

 家康は万が一武田本隊が救援にきて、万が一負けてしまった場合、遠州は武田に塗り替えられるから浜松城は放棄し、横須賀城の港から舟で脱出し一気に岡崎まで逃げ帰るつもりだったのではないでしょうか。

 この城が平山城であるせいもあるでしょうが、僕にはどうにも戦闘的な城には見えないのです。

 

 むしろ使い勝手の良さを強調した機能性を感じてならないのです。

 山国武田家の唯一の弱点と言っていい水軍の非充実度をもって脱出の手段としたとしてもあながち間違いとは言えないと思うのですがどうでしょう。

 本丸跡からやや急な階段を下りると先ほどの駐車場に出ました。

 木陰のベンチの周りには夏草がベンチの足を隠すほどに伸びてとても行こうと行った風情ではありません。

 これから城下町の夏祭りがあるのでしょうか。花火が上がるのにベンチが使えないのはいかにも寂しいことでしょうから、急ピッチで整備が行われることでしょう。

 夢多き強者はいなくなりましたが、浴衣を着た善男善女の語り合う姿は見られそうですし住宅団地になりそうだったところを史跡として残そうと立ち上がった人々も、そういう風景を望んだと思うのです。

 人気のない城址から遠い目をしたおじさんがいても結構絵になる城、そういう優しさをもっているのが横須賀城の、もしくは横須賀という街自体の良さなのかもしれないと思い城を後にしました。
 

 


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