雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 10月12日(火) ヤマハホールでフルートコンサート

2010年10月15日 05時17分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月12日(火) ヤマハホールでフルートコンサート

 「芸術の秋」と誰がいつどこで最初に言ったのか、知りません。
 どうして「芸術の春」「芸術の夏」「芸術の冬」でないのかな?

 N子さんといっしょに、フルーティストでピアニストの中村泉さんの追っかけになって、初めて、鍛治町のヤマハビル8階の「ヤマハホール」に行きました。

 今夜は、中村泉さんは、フルートの仲間の伴奏ピアニストでずっとピアノ弾きでした。
 ということは、ぼくは、フルートを聞いているのか、ピアノを聞いているのか、どっちかというとピアノの音をずっとたどっていたりして。
 フルートもピアノも堪能しました。

 100人くらいの小さなホールでしたが、いちばんの問題は「椅子!」。
 なんと、移動式の木の椅子で、ぼくたちの前に座っていた小さな男の子が、退屈してすこし体重移動すると「ギギッッ」とこすれる音をさせる代物。
 なにが「ヤマハホール」なんだか。
 「ヤマハ」の名前が恥ずかしくなるような椅子でした。
 
 やっぱり、専門的な「音楽ホール」で聞きたいです。
 ヤマハの社長さん(誰だか知りませんが)に電話して、直訴しようかな。
 200年前の江戸時代なら、農民が「お上」に直訴すると、ふつうは首が飛ぶんですけど、現代では大丈夫ですよね。

 

遠州の遺跡・寺社35 内野古墳群の北西・朝鮮系の二本ヶ谷積石塚古墳群

2010年10月15日 04時48分36秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社35 内野古墳群の北西・朝鮮系の二本ヶ谷積石塚古墳群

 「にほんがやつみいしづかこふん」ですが、浜北区の内野台の地名としては「染地台」の谷にあります。
 日本では、古墳は普通は土で盛る「円墳」が多いのですが、ここは石で築く「方墳」です。このような「積み石塚」が全国でいくつかまばらに分布しています。
 
 この「二本ヶ谷積石塚古墳群」では26基の石塚が見つかっていますが、そのうちこの谷を東西に横切る、最近できた道路の北側はすべて消滅しています。
 この東西の道路から南へ入る入り口があって、車を止めることができる駐車場が午後5時まで開放されています。

 谷の両側は草原の公園になっていて、谷の真ん中を川が流れていて、南の端っこは洪水調節用の池になっています。

 私とN子さんがいったときは夕方で、散歩やランニングをする市民が何人もいました。駐車場で仮眠しているドライバーも何人もいました。お疲れさま。

 タイトルに「朝鮮系」と書きましたが、いくつか積み石塚古墳が原形どおり再生されて展示されていて、その説明文では「渡来人」となっていますが、ちゃんとハングル文字の説明があるので、中国系ではなく「朝鮮系」の渡来人ということです。

 さらに言えば、こういう「積み石塚」は高句麗の系統ですから、なんで「高句麗」と明記してくれないのかな、という気がします。まあ、北朝鮮との政治的関係で、なかなかむずかしいんでしょうね。

 でも、この「二本ヶ谷積石塚古墳群」は時代でいうと西暦5世紀(400年代)末から6世紀(500年代)はじめの年代とされているので、高句麗の歴史からいえば、新羅や百済と抗争を繰り返していた時代です。
 なぜ高句麗人の墓がここにあるのでしょうか?
 高句麗が滅亡した7世紀末以後というなら、まだわかりますが。
 
 そして、こういう谷で、沖積平野や天竜川からは見えない谷にある意味ですね。

 古代浜松では、百済人や加羅人や新羅人のことはわかってきましたが、知られざる高句麗人たちも追いかけたいと思います。

 一番の問題はここに墓をつくった高句麗人たちは、いったい、どこに高句麗人として生きていたのでしょうか。
 今のところ、謎です。