雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 10月28日(水) 今日もまた静岡へ

2015年10月28日 22時31分04秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月28日(水) 今日もまた静岡へ

 昨日に続いて、今日も静岡へ(静岡市へという意味です)来ました。

 今日は浜岡原発永久停止裁判の弁護団・原告団会議です。

 JR静岡駅のすぐ近くの「交通会館・国労会議室」なので、長く歩かなくていいので楽でした。

 11月2日(月)の口頭弁論の内容と準備を検討しました。

雨宮日記 10月27日(火) 国民大運動の静岡県との交渉に参加

2015年10月28日 22時22分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月27日(火) 国民大運動の静岡県との交渉に参加

 まだ昼間は暑くて、ぼくはまだ半袖です。夜は涼しいので、上着を必ず持って外出します。

 週末の「日本平和大会イン富士山」の準備で忙しいのですが、午後は、静岡県庁での「国民大運動の静岡県との交渉」に参加しました。ボクは今年が初めての参加です。

 2日間、午前午後と、静岡県の各部課と綿密な交渉をします。あらかじめ提出した質問項目について、静岡県の担当部課の方が口頭で回答してくれます。その回答について、
こちらから疑問や質問をします。

 ボクはもちろん、静岡県平和委員会としての参加ですが、おもしろかったです。

 詳しくは「静岡県平和委員会」ブログや「ピース浜松」で報告していきたいと思います。

 今週は、まだ平和大会準備で飽和しているので、掲載はそのあとになります。


雨宮家の歴史 47 「「父の自叙伝『落葉松』 第7部 Ⅱ-44 十軒町」

2015年10月21日 21時52分47秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 47 「「父の自叙伝『落葉松』 第7部 Ⅱ-44 十軒町」


 十軒町の土地は新聞広告で見つけたが、最初は息子夫婦たちのそれぞれの勤務先の上島あたりをと当っていた。しかし、マンションは多いが、土地は割合高かった。馬込川の東と西の違いで、そんなに遠いわけでもないので、現地を見て、十軒町でもよかろうと決めた。遠鉄電車の曳馬駅へ歩いて十分もかからないから、浜松駅へ出るのも便利であった。

 ところが、土地の登記簿を取って見てびっくりした。和合町の某氏の抵当権二千五百万円あ付いているのである。それに現状宅地であるが雑種地となっている。これは難しい土地をつかんだかなと思ったが、一応この和合町の人に電話をして確かめてみた。近日中に、新栄住宅と決済することになっているという。最終的には、新栄住宅との五月三十日の決済の時には、抵当権も抹消され、雑種地も宅地に変更になったきれいな登記簿を渡されて、心配は解消した。

 七月初めに地鎮祭があり、私と家内が参列した。早いもので八月末には、もう上棟式が行われた。家の前の道路は四メートル幅しかなく狭いので、内輪に弟妹たちだけが集まって祝った。

 年末には引っ越しをして、平成三年の正月には新居で迎えることが出来た。

 馬込川にかかっている三浦橋から、東に向かって一直線に伸びている道路の南側はまだ畑で、家が建っていないので冬の日射しは家の奥まで届き、明るい室の炬燵から、庭を眺めることが出来た。もう早出町に近い所であった。

 十軒町の名の由来は、家数が十軒あったとから、とかいろいろあるが、現在は馬込川の東岸と西岸の両側に分かれ、七百弱世帯の住宅地区である。

 古来、馬込川沿いの低地で、イ草の栽培が行われ、茎は畳表や茣蓙(ござ)の原料として利用されていたが、今はその痕跡もない。家から南側の太鼓橋の近くに、高く聳える大きな樹木の見える広い屋敷を持つ何軒かの家に、若干その面影を感じる。

 十軒町に移って、私たちの生活もガラリと変わってしまった。松城にいた時は、朝トラックが荷下ろしをして行く、その荷を解いて部数を調べ、配達品と店売りに分ける。配達品は伝票を作り、学校や遠くの個人分は車で運んでいく。近所の分は家内が歩いて廻る。家内にはそれがストレス発散の場でもあった。また、魚屋、八百屋、菓子屋などそれぞれ目的に応じて買物ができた。

 しかし、それが○○ストアになり、個人商店が消えていった。十軒町は住宅地なので、特にそれが顕著であった。商店がないから、隣町のストアに行かざるを得ないのである。個人商店なら、気軽な挨拶から人のうわさなど話はつきないが、ストアでは物と金の交換だけである。両隣は勤人で年寄りはおらず、日中は誰もいない。

 家の中にばかりいてはいけないと、家内と日光浴を兼ねて公園に行ったり、ストアも勿論二人で出かける。しかし、それにも限りがある。家内はだんだん、炬燵に入りっぱなしになって、新聞もテレビも見ようとしなくなった。

 静かな住宅地でよいと思ったが、却ってよくなかった。家内は、生来出しゃ張るような性格ではなかったが、ここへ来てから、輪をかけたような引込み思案になってしまった。引越しには万全を期したつもりであったが、家内の心理までには考えが及ばなかった。悔やんでも致し方ないことであった。




雨宮日記 10月21日(水)の2 則子さんが作ってくれた三脚袋

2015年10月21日 21時31分22秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月21日(水)の2 則子さんが作ってくれた三脚袋

 則子さんが、新品のミシンで、今日の休日に1日かけて作ってくれた、カメラ三脚の袋です。

 肩にひもで掛けられるように作ってくれました。

 則子さま、ありがとうございす。

 則子さんのバックアップ・後方支援あるいは「相棒」としての前方支援があって、ぼくは平和運動を生きていけます。

 そういう心から信頼できる相棒(「戦友」)を自衛隊では「バディ」と言うそうです。

 平和運動なので「戦友」では、ありません。

 「平友(へいゆう)」とでも言いましょうか。

    ☆

 この三脚は、超望遠レンズの撮影もできるように頑丈にできている三脚なので、縮めても長さは50センチあります。

 太さは10センチくらい。

 夜の月の拡大写真も、この三脚に載せて撮ります。

 でかいので、テロ対策が厳重な場所では、かなりやばい代物です。

 「すみません、この中身を見せていただきけますか?」

 「超小型ミサイルです」(もしくは「組み立て式狙撃銃です」か)

   ☆

 10月31日から11月1日の日本平和大会イン富士山(静岡県御殿場市)にはこの三脚袋とリュックサックをかついで、出かけます。則子さんには、留守支援を2日間、お願いしています。

 ありがとうございます。則子さま、よろしくお願いします。

 



 

雨宮家の物  則子さんが新しく買ったミシン

2015年10月21日 21時27分56秒 | 雨宮家の物
雨宮家の物  則子さんが新しく買ったミシン

 則子さんが新しく買ったミシン。

 もしかしてボクが「三脚を入れて運ぶ袋作ってくれませんか」と頼んだので、かな?

 昔のミシンは、足で回すので専用の台がついていましたね。
 
 今は電動で、動きも軽いです。


雨宮日記 10月21日(水) 天気もいいので浜松基地の買収緑地調査を始める

2015年10月21日 21時12分19秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月21日(水) 天気もいいので浜松基地の買収緑地調査を始める

 いい天気の日です.夏みたいで、ぼくは半袖シャツ。

 ひまではないのだが、なぜか則子さんの休日で家にいるので、午後「少し浜松基地調査に行こうよ」と言ってしまう。

 12時10分、2人で車で家を出て、基地周辺に向かう。基地調査と言っても、「航空自衛隊浜松基地」自体の調査ではなく、基地周辺にある「買収緑地」の調査です。現地を見て「買収緑地」かどうか1つ1つ確認して、地図に書き込んで行く面倒な作業です。

 でも「現場感覚」「現場百辺」、青島刑事「事件は現場で起きているんだ」の精神ですね。

 1時間半ほどやって、基地の外周道路に出て帰りました。基地内の道路を「軽装甲車」が走っていました。お値段は3000万円です。航空自衛隊の基地警備用だそうです。機関銃が載っていたかは不明。

  ☆

 則子さんは、それから長女の家に孫を見に行きました。夕方帰って来て、ソーメンを作ってくれました。おいしかったです。ありがとう。

  ☆

 夜は、いっしょに支部の日曜版の仕分けに行きました。疲れているのか、部数を間違えて、数え直したりして大騒ぎしました。

  

雨宮日記 10月20日(火)の2 月面の「山地」の部分を拡大しました

2015年10月20日 20時56分40秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月20日(火)の2 月面の「山地」の部分を拡大しました

 写真は下が月の北極です。
 
 中心にある火口は直径110kmの「アルフォンサス」とその上(南)の直径153kmの「プトレマイオス」です。

 月のクレーターには、地球人の有名・無名な人の名前がつけられています。

 日本人の名前もたくさんありますよ。


雨宮日記 10月20日(火)の1 半月をカメラで撮影

2015年10月20日 20時48分37秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月20日(火)の1 半月をカメラで撮影

 ぼくのカメラ(静止画と動画兼用)キャノンSX50HSをちゃんとした三脚に載せて、望遠撮影した半月です。

 月齢は午後9時で7.5でした。(『天文年鑑2015』p36「10月の空」による。

 カメラの倍率は100倍。

 50年前に6センチの固定屈折望遠鏡で撮れた写真程度にはクレーターが見えていると思います。
・」
 則子さんが「穴、よく見えているね。何で言うんだっけ?」

 ぼく「クレーター。隕石がぶつかった跡。火山じゃないよ」

 

雨宮日記 10月19日(月)の3 三日月(四日月?)がきれいでした

2015年10月19日 20時18分06秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月19日(月)の3 三日月(四日月?)がきれいでした

 西空に三日月(四日月?)が輝いていました。

 則子さんと月を眺めました。

 これから何年、いっしょに月を見れるかな?

 いっしょに月を見れる幸せ、則子さんと生きてきてよかったと思います。

 自然現象とぼくたちの今の瞬間、何も論理的な関係はないけど、感覚的関係はありますね。

  ☆

 お魚の白い腹が見えたり。

 羽虫が舞っていたり。

 カワウが一羽、下流に飛んでいったり。

 コウモリがたくさん飛んでいたり。

 コスモスが咲いていたり。

 ススキが風になびいていたり。

 

 

雨宮日記 10月19日(月)の2 夫婦の貴重な時間・夕方の散歩に行きました

2015年10月19日 19時48分53秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月19日(月)の2 夫婦の貴重な時間・夕方の散歩に行きました

 忙しくても、時間が無くても、できるだけ夫婦の会話といっしょに行動するのは重視しています。

 今日は、夕方、馬込川の散歩に行きました。

 川面に、冬の渡り鳥のオオバンガいました。一緒にいたのは、最初「バン」かと思ったけど、図鑑で調べたら、オオバンの幼鳥でした。つまり生まれてまもないオオバンの子供です。

 

雨宮日記 10月19日(月) 久し振りの則子さんの休日、懐かしい旧友と会いました

2015年10月19日 19時37分06秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月19日(月) 久し振りの則子さんの休日、懐かしい旧友と会いました

 1970年代後半、いまから40年前です、浜松で平和を愛する青年たちが「サークル ブーゲンビリア」を結成して行動していました。

 その中にいたのが、ぼくであり、伊藤則子さんであり、磯部忍さんであり、杉山典子さんでした。

 その当時、杉山典子さん、今は磐田市に住む磯部典子さんと、ぼくたち夫婦と3人で、上島の喫茶店で会いました。

 この3人が顔をそろえるのは、たぶん30年ぶりくらいでしょうか。

 懐かしいですね。

 10月末の日本平和大会イン富士山に参加する磐田からのマイクロバスの行程の相談でした。

 ぼくの知っていることをアドバイスしました。

 則子さんとぼくの理想とする「助け合い世界」です。

 他人から何かしてもらえるか、ではなくて、他人に何かしてあげることがあるのか。そのために普段から能力と態度を鍛えないと。

 

雨宮家の歴史 46 「「父の自叙伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-43 閉店」

2015年10月16日 04時18分43秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史 46 「「父の自叙伝『落葉松』 第6部 Ⅱー43 閉店」

 「おや、今朝(けさ)の時計はいやに響くな」

 普段は、チン・チンと、澄んだ音で鳴るぜんまい巻きの柱時計である。それが、今朝はジジィン、ジジィンと重なるような音に聞えた。

 毎朝六時、この時計の音で起きるのであるが、この日は日中、電話のベルで受話器を取ると切れてしまうことが二、三回あった。それは右耳であったが、左耳では切れずに初めて話が通じた。右耳の時は、切れたのではなくて、聞こえなかったのである。これで、右耳がおかしい事に気がついた。それに、耳鳴りがひどくなってきて、頭もふらつき、気持が悪くなった。

 E総合病院耳鼻科を受診したのは昭和六十二年(1987年)七月九日であった。レントゲンを撮り、一週間後に再診の予定で内服薬を出された。

 入院して治療を始めたのは七月十七日であった。「突発性難聴」で、内耳に異常があるが、原因がはっきりしない病気で、治療が遅くなると治りにくいと言われていた。それなのに、一週間も先送りにしたのはどういう訳であろう。点滴が主流だったが、点滴ならば通院でも出来る。

 点滴液は、血行促進剤「A・T・P(アデノシン・トリフオスファイト)」にビタミン剤を混ぜたもので、毎日一回二百CC点滴した。主治医は医大の研修生であったが、十二日目ぐらいの点滴で四十度の発熱を起こし、七月末に聴力を回復しないまま退院した。

 「突発性難聴」は特定疾患(いわゆる難病)に指定されていて、治療費は全額公費だったので、入院の食事代も含めて一銭も払わないで済んだが、耳が元に戻らないでは、どうしようもなかった。右と左で聴力に差があるから、音がダブって聞こえ始末に負えない。それに頭のふらつきも完全には治らなかった。それでも、どうにか配達に廻われるようになったのは九月も中頃であった。

 ある日、ちょっとしたミスがあった。繊維工業試験場のS課の室を出る時、私を呼ぶ声を微かに聞いたように感じられたが、私はそのまま室を出て帰ってしまった。帰ってから、電話があった。課長のY氏だった。やはり、私を呼んだのだった。

 完全に耳に入らなかったのである。 私は深く考え込んだ。Y氏は私の後輩で、私の耳の悪い事情も知っているので、ああ、やっぱり呼んだかいで済ませられるが、何も知らないお客だと、こうはいかない。折角のお得意を失ってしまうとも限らない。何れにせよ、このことはショックとなり、商売をやめる第一の原因となった。

 林泉書房の開業は昭和十三年(1938年)であるから、五十年になる。松城へ移ってからでも三十年である。家屋も三十年経って建替えの時期になっていた。

 ここは昭和五十八年(1983年)四月一日付で、中央公区土地区画整理事業が終わり、番地も松城町二〇〇番地の十六となった。浜松城公園を一〇〇番として三〇〇番地まで町の名前は従来のまま残して、割り振った。松城町を始め、元城・連尺・伝馬・鍛冶町など昔からの町名をそのまま残したのは賢明であった。郵便物は町名はなくても、番地だけで届くのである。換地で土地の増えた人は差額を払い、減った人は支払いを受けた。当家は減少であったが、換地の値段が高かったので、若干支払った。

 閉店を決意して、取次の東販へ連絡したのは昭和六十三年(1988年)十月で、年末を以て送品の停止を頼んだ。ただ、学校図書館関係へ納入している雑誌類は、六十三年分が六十四年の四、五月頃までかかった。これらは直接仕入分や、同業者に頼んで仕入れた。

 閉店して年が替わった六十四年一月七日、昭和天皇が亡くなり、平成の世となった。林泉書房は昭和の終わりとともに、その幕を閉じた。

 平成元年は、店を閉じたまま過ぎたが、商売をしないのなら、ここでなくてもいい訳である。 平成二年(1990年)の年賀状の、小学校の同級生のS建設社長に、土地売却依頼の旨を書いておいた。仕事始めと共に、社員が来店して相談し、一般の広告に出す前に、同業者の会報に載せてくれた。

 早速、業者の中に買主があり、二月二日には売れたという知らせがあった。いくらで売ったのかと思ったところ、一坪二百三十万円の二十六坪で五九九三万八千円であった。これには私も驚いた。前にも書いたが、ここを買った時は六〇万円だったから、実に百倍の値段である。バブル景気の時代だったとはいえ、この値が景気の頂点であった。坪二三〇万円の値段をつけた理由は次のようなためであった。

 同じ町内の、中央図書館の駐車場になっている所は、同業者の支配人の土地で百坪あった。区画整理事業が完了した時、この土地は一千万円ぐらい払ったという噂があり、彼はその資金調達のために、ここを売却したのである。その値段が坪二三〇万円であり、百坪あったから二億円以上になった。その年の高額納税者に彼の名も並んだのは、そのためであった。この土地に名古屋の業者がマンションを建てる話が持ち上がり、近隣の人々の反対で、結局浜松市で買い取って、中央図書館の駐車場としたのである。この時の二三〇万円を参考例として、家の場合にも二三〇万円で売り出したのである。

 しかし、このあとバブル景気は去って、買った業者が売る出した時には、その値段でも売れず結局損失となった。既に売ってしまった私には関係ないが、買った業者は不動産部を廃止してしまった。本業は他にあったのである。

 二月十五日、S建築不動産にて、売買契約調印(契約金一一九三万円受領)。五月末までに明け渡すことになった。

 二月二十二日、中山町に二軒借りる。

 三月十日、新栄住宅と十軒町に建築条件付土地を契約。

 五月十三日、中山町へ引っ越した(十軒町に新居が出来るまでの仮住まい)。

 五月二十四日、浜松信用金庫本店にて、松城町の売買契約を決済し,残金を受領。

 五月三十日、新栄住宅と土地売買の契約決済をした。

 年末には家も出来、新住居に移るが、閉店してから、二年の年月を要した。


雨宮日記 10月15日(木)の1 「おうちコープ」を待つのは時間のムダ

2015年10月16日 04時06分25秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月15日(木)の1 「おうちコープ」を待つのは時間のムダ

 毎週木曜日の午後は、コープの宅配車「おうちコープ」が来るのですが、これを「受け取ってね」と則子さんが言うので、出かけられなくて困るんです。

 午後1時から待って、実際に来たのは午後2時半、1時間半の時間が無駄になりました。

 実際にいて荷物を受け取ることをしなければ、コープの労働者も、面倒な「箱から出して渡す作業」がいらないので、時間短縮になると思うのですが。

 「平和新聞」の宅配に行けませんでした。明日にします。

10月14日(水)の2 善意の人・悪意の人。安倍首相の心理構造

2015年10月15日 03時44分35秒 | 雨宮日誌
10月14日(水)の2 善意の人・悪意の人。安倍首相の心理構造

 この頃、非常に疑問なんですが、誰も指摘してくれないので自分で書きます。

 安倍首相を始め「靖国派」「右翼勢力」であることと、TPP支持の「新自由主義」賛成とは、どうして両立しうるのでしょうか。

 「日本絶対」なら、「新自由主義」とは両立しないと思うのですが。

 精神分裂=二重人格か、どっちかが本音でどっちかはカモフラージュなのか。

 いまだに、納得のいく議論に出逢ったことはありません。

 みなさん、どう思っているのですか?

 応答を期待します。

 ぼくは、どっちかがフェイクで、偽りだと思うんです。

 「日本復古」は、偽りのウソで、「アメリカべったり」が本音のほうだろうと。