雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2020年5月31日(日) 平和行進「引き継ぎ」

2020年05月31日 19時26分54秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月31日(日) 平和行進「引き継ぎ」

 静岡県平和行進から愛知県平和行進への「引き継ぎ集会」が湖西市新所原であった。30人ほどが参加した。雨だったのでたいへんだったようだ。

 N夫妻が参加したので、その撮影動画をもらう。次回にビデオを創れたらいいな。



 午後、Nくんとビデオ作り。5月19日のTさんのうた(5分ちょっと)完成。あたらしい試みとして「分ビデオ」の第1弾をつくる。

 題して「浜松駅前の静かな風景」。1分33秒だから、すこし長い。これからいろいろつくっていくつもり。


雨宮日記 2020年5月30日(土) 平和行進の日

2020年05月30日 22時19分08秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月30日(土) 平和行進の日

 例年、きのうと今日は「平和行進の日」で、則子さんは2日間、浜松の平和行進にかかりきりになる。事務局としてたぶん20年以上だ。それはボクが4年前に脳出血で右半身不随になっても変わりない。

 それは頭が下がることです。わが○○さま。

 今日は久しぶりに図書館へ2人でいった。5月の外出としてははじめて。ボクは合計9冊を借りた。12冊借りられるけど、あまりに重くなるので、9冊でやめた。

 高い本や珍しい本やわからい本は図書館で借りるのが便利だ。

 そのうち時々、ボクが日常的に必要な本は自分で買うことにしている。

  ☆

     コーヒーで水死した羽虫あわれ



雨宮智彦古代史メモリー 36 20200529 遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛 201004021

2020年05月29日 13時41分36秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 36 20200529 遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛 201004021

 タイトルが「遠州の遺跡・寺社 8」となってましたが前回とダブリ、正しくは「9」ですが10年経ってはどうしようもないですね。

 ボクの古代史SF的妄想では滅亡した「殷王朝」の音楽関係者が日本列島へ亡命して浜松くんだりまで落ち延びて…という話になってるんですが。


「遠州の遺跡・寺社 8 古代中国の土笛「ケン」と弥生の土笛
2010年04月21日 05時32分10秒 | 遠州古代史

 浜松市の弥生時代を代表する全国的にも有名な遺跡が伊場遺跡です。
 その伊場遺跡で、弥生後期の地層から、土笛が1つ、出土しています。

 この「弥生の土笛」「弥生のオカリナ」は、実は、古代中国の殷王朝の時代の楽器で、出雲地方を中心に、弥生前期の日本海沿岸で遺跡から出土しています。

 正式名称は「陶ケン」と言い、「ケン」という漢字は、「土」へん+「員」です。

 口から息を吹き込む大きな穴が1つと、指で押さえるための表て4個、裏で2個の6つの小さい穴があります。

 出土しているのは、福岡県・山口県(下関市・綾羅木(あやらぎ)遺跡)・島根県(松江市・タテチョウ遺跡)・兵庫県(丹後町・竹野遺跡)などの10遺跡で40個余です。

 この土笛を、どういう祭りや祭儀で、どんなメロディーを吹いたのか、再現できないものかと思います。
 もとの「殷」のメロディーが再現できればいいのですけど。

 他の出土が弥生前期なのに、浜松市の伊場だけが弥生後期なのは、想像すれば、やはり、日本海文明「出雲文明」が、何らかの理由で崩壊したときに、そこから逃れて伊場まで「亡命」してきた「亡命者」が持ってきたのでしょうか。

 それとも、出雲から何らかの交易や交流で誰かが持ってきたものでしょうか。

 あるいは、出雲を征服した占領者が戦利品として持ち帰ったものでしょうか。

 古代中国の殷王朝と日本列島の交流という点では、もっと考察したいと思います。」



新・本と映像の森 332 志位和夫『改訂綱領が開いた「新たな視野」』新日本出版社、2020年

2020年05月28日 16時05分32秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 332 志位和夫『改訂綱領が開いた「新たな視野」』新日本出版社、2020年


 5月10日、A5版、156ページ、定価本体1100円

 日本共産党の委員長・志位和夫さんの改訂綱領についての講義録です。日本共産党は今年1月の大会で党綱領を大改訂しました。

 まず中国を「社会主義をめざしている」というこれまでの評価をあらためたことです。それにともなって歴史から「社会主義国」というのが消えてしまったことです。

 すでに共産党は「ソ連は社会主義社会ではなかった」という評価をしているので、これで地球の歴史に「社会主義」時代という時代はなくなって、すべて資本主義の時代になるはずです。

 もっとも志位さんはそれを真っ正面から言ってはいませんが、論理的にはそれしかありえないとボクは思います。

 ボクは賛成です。「社会主義」は既存のものではなく、これからみんなで創造するものです。

 もうひとつ志位さんが強調するのは「ジェンダー」と「ジェンダー平等の実現のために」の問題。これも非常におもしろい論点をいっぱい含むので、共産党の過去の歴史の見直しが必要にになるでしょう。

 これは別項目で展開すること。

 3番目に、格差や核兵器や気候変動ど現代社会の諸問題を解決して未来にあゆむこと。そのための「5つの要素」。

 やはり「社会主義」とは何か、が分岐点となるような気がします。「社会主義」とは何を含まねばならないか。何を含んではならないか。

 今日はこれくらいで。

 志位さんの講義自体は共産党HPで見ることができます。たしか約5時間くらい。ボクは映像で見るより本で読む方が身につくし、好きです。



雨宮日記 2020年5月27日(水) 俳句だか川柳だか

2020年05月27日 22時18分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月27日(水) 俳句だか川柳だか

 友だちとそれぞれの家に何枚「アベノマスク」がくるかという話をした。

 わが家は表札を家族4人以外に「雨宮智彦」と「津和野ふき」さんを出している。みかけ6人います。さあ、6×2枚=12枚くれるかなあ。

 暑くなった。則子さんはすぐ扇風機をかけるでボクは涼しい。これから当分、扇風機合戦です。まあボクが弱い立場なんですが。

 夕食にカツオのたたきを食べた。デザートにわらびもち。

 そこで俳句とも川柳ともつかないものを2つつくってみた。


ベートーベンピアノソナタ5番鳴りカツオのたたき食う

   わらびもち4つ 口のなかで黄色にプヨプヨ


雨宮日記 2020年5月26日(火) 5月の総がかり行動のビデオを創る

2020年05月26日 18時56分47秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月26日(火) 5月の総がかり行動のビデオを創る

 5月19日の浜松総がかり行動のビデオを創る。4月はコロナ危機のためお休みだったので、1ヶ月ぶりの再開。

 30分の行動を6分にまとめる。5分の1だが、それでもたいへん。いやそれだからたいへんか。

 しゃべった人や歌った人は全員入れるのが、創っているぼくらのプリンシプルだが。声がどうしても聞き取れなくて掲載断念という場合もある。

 これから、もっと短い作品(秒ビデオ)をいっぱい創りたいというのが希望。はたしてどうなりますか。

夕方から雨。


雨宮智彦古代史メモリー 35 20200525 遠州の遺跡・寺社 8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎 20100419を再録

2020年05月25日 16時12分05秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 35 20200525 遠州の遺跡・寺社 8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎 20100419を再録


「遠州の遺跡・寺社 8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎
2010年04月19日 05時15分17秒 | 遠州古代史

 引佐町の龍湛寺の駐車場から南へ出ると、道は道なりに西へ曲がっていて,西へ曲がったすぐのところに「井伊氏の井戸」の看板が出ていました。

 初めて来たボクは、運転している車を慌てて、左折して細い道へ入りました。すぐ左側にその「井伊氏の井戸」がありました。
 
 井伊氏の始祖は、1010年(寛弘7年)に、この井戸で生まれたという井伊氏祖・備中守共保です。

 井伊共資さんという人が、渭伊社参詣時に 井戸脇に常人に見えぬ神童を発見して、我が子とし、一女と婚せしめたのが井伊家始祖共保という伝説があります。

 井戸のところに書いてあった解説では「又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります」とあり、びっくりしました。

 天日槍命なら日本に渡来した新羅の王子で、明らかに、古代朝鮮の新羅系の人です。
 そうすると、もしかしたら、「橘諸兄」など「橘」氏は、新羅系でしょうか?

 思い出しましたが、引佐町の西隣りの三ヶ日町は、橘諸兄の子孫の橘逸勢が、伊豆国への護送中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没しました。
 これも何か、井伊氏と関係あるんでしょうか?

 そこで病没したということは、そこで熱心に看病してくれた人たちがいるということだと思います。

 もうすこし「橘」氏のことも調べます。」



雨宮智彦古代史メモリー 34 20200524 本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3』白水社 20100413

2020年05月24日 17時44分03秒 | 遠州古代史
雨宮智彦古代史メモリー 34 20200524 本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3』白水社 20100413


「2010年04月13日 05時57分06秒 | 本と映像の森
本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社、2000年1月20日発行、231ページ、定価2800円+消費税

 奥野さんが批判する、日本古代史の「定説」は以下の通りです。

 ① 戦後の日本古代史の通説は、戦前の「皇国史観」と古代天皇家が朝鮮南部を支配したという「任那日本府」説を表面的には避けて否定するように見えながら,実は、それを受け継いでいる。

 ② 3世紀の卑弥呼は大和(現在の奈良県)にいて、3世紀から南朝鮮を支配する日本統一国家が成立していた。

 ③ 高句麗の「広開土王」碑文の「倭」は、近畿天皇家・大和政権の派遣軍である

 ④ 倭国の鉄は、5世紀まですべて輸入にたよっていて鉄の獲得が、近畿天皇家の南朝鮮への軍事的遠征と支配の理由である

 ⑤ 5世紀の『宋書』に出てくる「倭の五王」は、近畿の天皇のことである。

 ⑥ 前方後円墳は、近畿天皇家が、日本列島の地域豪族に、設計を配布し、その造作を許可したものである。

 このような問題について、奥野さんは、考古学の解明した事実に基づいて、この当時の流れは、南朝鮮から日本列島へ流れていくのであって、その逆ではないことを明らかにします。

 3世紀からの近畿天皇家による南朝鮮の軍事的支配という虚構は、2010年の今は、崩れ去る寸前です。

 このことを解明して、通説に反論していきたいと思います。」

雨宮智彦古代史メモリー 33 20200523 遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい) 20100413

2020年05月23日 16時23分01秒 | 遠州古代史
雨宮智彦古代史メモリー 33 20200523 遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい) 20100413


「遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)
2010年04月13日 05時19分57秒 | 遠州古代史

 4月11日(日)に、龍潭寺にも行きました。ここは、「井の国」=今の「引佐町」をすくなくとも平安時代(あるいはもっと前から)から江戸時代までの地域豪族「井伊氏」の菩提寺です。
 井伊氏の元祖・共保さんから40代の祖先をまつっています。

 ちょうど本堂の工事中でしたが、有名な、小堀遠州さんが設計した「石庭」は見ることができました。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんは、父親が豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、遠州さんは茶の湯では、千利休さん→古田織部さん→小堀遠州さんという流れの宗匠です。
 さらに、建築や庭造りにも才能を発揮したマルチタレントです。

 この小堀遠州さんが企画・設計・監督した「石庭」は、龍潭寺へ来る前に見た「天白磐座遺跡」と多くの共通点があります。

 ① 自然の中に、たくさんの石が散在していること。
 ② 中心的な巨石がいくつかあること(天白磐座遺跡では、山頂の3つの石と西南の2つの石、龍潭寺石庭では両脇と中心の3つの石)
 ③ 周囲に緑の森が茂っていて、鳥の声が聞こえること
 ④ どちらも周囲に水が流れていること(天白磐座遺跡は神宮司川が、龍潭寺石庭は人工的な水の流れが)

 ここからは推理なのですが、天白磐座遺跡では、小堀遠州さんの生きていた江戸時代まで、祭祀が続いています。
 
 小堀遠州さんが、井伊家の当主の依頼を受けて、この「龍潭寺石庭」を設計したときに、地元の人あるいは井伊家当主さん自身から天白磐座遺跡のことを聞き、実際に、この天白磐座遺跡を見にいった可能性は大きいのではないでしょうか。
 あまりにも類似点が多すぎます。

 これ以上のことは、もっと小堀遠州さんのことを調べて書きたいと思います。」




新・本と映像の森 331 岸本聡子『水道、再び公営化! ー 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと ー』集英社新書、2020年

2020年05月22日 09時40分48秒 | 本と映像の森

新・本と映像の森 331 岸本聡子『水道、再び公営化! ー 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと ー』集英社新書、2020年

 3月22日、216ページ、定価本体820円 

著者は1974年生まれの研究者です。2003年からオランダの「トランスナショナル研究所」に所属して活躍しています。

 「水道民営化」という一部大企業、とくに外資系資本の動きとそれに対抗する世界と日本の市民の反撃を細かく追っています。

 ヨーロッパではフランスやイギリスやスペインなどの最新の動向が精細にわかってためになります。

 2012年の時点では世界の水道の12%にすぎないこと。

 同じ2012年の国単位でみたとき、世界でフランス・イギリス・チェコ・チリ・アルメニアの5カ国のみだったこと。

 水道民営化大国フランスでは2001年から2016年で水道公営化率が28%から40%に増加、下水の公営化率は45%から57%に増加した。

 再公営化の動きは革新自治体だけでなく保守自治体でもあること。

 日本では外資系資本の「コンセッション」を狙った動きとそれにたいする浜松など市民の反撃が語られます。。

 とくに浜松市民のボクとしては「浜松市の水道民営化を考える市民ネットワーク」のことを好意的にとりあげてくれるだけでうれしい。

「浜松市の水道民営化を考える市民ネットワーク」のブログでは岸本さんのこの本のことがとりあげられているので見て欲しいです。

 ボクは「浜松市の水道民営化を考える市民ネットワーク」を応援しています。





雨宮智彦古代史メモリー 32 20200521 遠州の遺跡・寺社 6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 20100411

2020年05月21日 22時16分02秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 32 20200521 遠州の遺跡・寺社 6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 20100411


「遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡
2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。
 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。」


雨宮日記 2020年5月20日(水) 玄関をかたづける

2020年05月20日 21時58分05秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月20日(水) 玄関をかたづける

 「コロナ騒ぎ」という他人事的表現や認識はやめようよと思う。

 ニュースショーで中国批判をやっている。ほぼ適切。安倍さんも、トランプさんも、かなりひどい。



 月1度のケアマネさんの訪問。ボクは「ステイホーム」の優等生です、という話。みんなたいへんです。



 則子さんは玄関のボクの郷土本をかたづけた。つまり新しく来るウサギのゲージ優先。本は倉庫と台所へかたづけた。

 いつ新しいウサギが来てもいいよ。

 いろいろ新しいウサギ、じゃなくて、新しい思考がいっぱい浮かんでるんだけど、文章に定着させるのは一定の時間がかかる。やきもきするけど、しかたない。



雨宮智彦古代史メモリー 31 20200519 遠州古代史 3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖 20100329

2020年05月19日 14時32分15秒 | 遠州古代史



雨宮智彦古代史メモリー 31 20200519 遠州古代史 3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖 20100329


「遠州古代史 3 銅鐸・さなぎ・猿投・佐鳴湖
2010年03月29日 20時50分29秒 | 遠州古代史

 日本の古代「弥生時代」には、祭りや政治で使われた金属器に、銅鐸・銅矛・銅剣などがありました。
 問題はこの銅鐸です。
 当初は九州などの西日本で出現しますが,次第に東へ移動して、出雲や近畿地方・東海地方で主に出土します。

 出雲の加茂岩倉遺跡でいっきょに39個の銅鐸が出土して、出雲は50個、奈良県は16個ですから、数だけで言えば銅鐸の分布の中心は出雲ということになりますが、簡単には言えません。

 近年では関東地方でも出土し始めたので、関東も銅鐸圏にしないといけないですね。

 弥生時代後期に、遠州地方でも多数出土し、とくに都田川下流域は「銅鐸の谷」とも呼ばれています。

 この銅鐸を「さなぎ」「猿投(さなげ)」との説があります。

 「さなぎ」はもちろん昆虫の蛹(さなぎ)です。
 蛹と銅鐸は形が似ているでしょうか?どうでしょうか?

 前回のイザナギさん・イザナミさんの夫婦神=クジラ説からいくと、
 クジラ=蛹=銅鐸となるんですが、無理なような気もしますが。どうでしょうか。

 愛知県には猿投山(さなげやま)という標高629mの山があって、巨石信仰でも知られています。 

 浜松市最大の淡水湖である佐鳴湖(さなるこ)は古くは「猿投」とも呼ばれ、遠州地方が銅鐸の宝庫であり、佐鳴湖の西・北・東の3方向で銅鐸が出土し、佐鳴湖の南の伊場遺跡からは銅鐸の破片が出土しています。
 
 まさに佐鳴湖は「銅鐸の湖」です。

 いずれにしろ銅鐸は今から約2000年前、弥生時代の最先進の。当時のハイテク技術による金属器です。
 銅鐸の解明なしに、浜松の弥生時代の解明はありません。
 いろいろと考えていきたいと思います。

 浜松の銅鐸は浜松市北区細江町の「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」や浜松市博物館などで見ることができます。

 浜松市博物館で遠州で出土した銅鐸の詳しいカラーガイドブック『浜松市の銅鐸』(A4版、45ページ、400円)が出ていますので博物館で買うことができます。
 
 同じく浜松市博物館で『発見!!滝峯才四郎谷銅鐸』というのもでています。これもおすすめです。A4版、25ページ、300円。

 さて、これを読んで「それがどうした?」「銅鐸のことがわかっても、私の暮らしに何の関係がある?」と思う人もいらっしゃると思います。

 これは雨宮の追求している楽しみのひとつです。

 2年前の11月7日に73才で亡くなった筑紫哲也さんは、死を自覚したときに「お墓には何も持って行けません。残る物は何かというと、どのくらい自分が人生を楽しんだか、それが最後の成績表だと思うんです」と思わったそうです。

 今日は妻のNこさんが今の職場をやめてしばらくフリーになる、最後の勤務(朝7時までの夜勤)の日です。
 N子さんといっしょに、あるいは1人で、あるいはみんなで、自分のために精一杯生き、他人のためにも精一杯生きたいと思います。



雨宮日記 2020年5月18日(月) 3月の浜松総がかり行動のビデオを創る

2020年05月18日 19時43分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年5月18日(月) 3月の浜松総がかり行動のビデオを創る

 3月19日の浜松総がかり行動のビデオを創った。約6分。ピースはままつにアップ。もともと雨だったしウイルスの危険もあったので30分で終わった。元30分から選択するのは1時間から創るより楽だ。

 4月は完全に中止だったので、明日のが2ヶ月ぶりの浜松総がかり行動となる。ただしボクは行けない。則子さんが出勤なので。

 今日は夕方から雨。明日の浜松総がかり行動が降られなければいいけど。

 浜松の図書館は貸し出しが始まるのが来週。

 


雨宮智彦古代史メモリー 30 20200517 日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰 20100327

2020年05月17日 15時27分52秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 30 20200517 日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰 20100327


「日本古代史4 クジラって誰?イザナギさん・イザナミさんは誰
2010年03月27日 19時32分14秒 | 古代史を考える

 このまえ、西欧人の組織「シー・シェパード」の人が日本の調査捕鯨船を妨害するために侵入して逮捕されたという話を聞きました。

 「シー・シェパード」の人の抗議は、「人間並みに知性のある同じ哺乳類であるクジラやイルカを日本人が狩って食べるのは野蛮だ」「豚や牛など知性のない哺乳類を食べるのは人間にゆるされる」という主張だろうと思います。

 違っていたら、抗議、受け付けます。

 どこかの映画祭で上映されたという、イルカ撲殺映画の話を聞いても、なにか、最初のボタンの掛け違いがあるのではないでしょうか。

 「本と映像の森」で紹介した「ブンナ」の話を再録します。

 「ブンナは、自分たちの人生(いやカエル生)が、他の動物たちを食べて、他の動物たちに食べられることをリアルに学び、自分を生かしてくれる動物たちに感謝するようになっていきます。

 人間も同じだと思います。

 食事をするときに「いただきます」と言いますが、これは、「生き物であるあなたたちの体を,今から自分のからだにいただきます。」ということなんですね。
 食事のあと「ごちそうさまでした」というのも、食べてしまった生き物たちへのお礼の言葉なんだと思います。

 私は思うのですが、食べるのは敵だからではなくて、同じ仲間だからこそ食べるんですね。
 食べた動物や植物が毒ではなくて、自分の体の栄養になることを知っているからこそ食べるんです。」

 さて、そこで大転換です。
 『古事記』『日本書紀』の最初に出てくる,日本列島を産む夫婦神「いざなぎ」さん・「いざなみ」さんは何物なのか?

「いさな」は古語で、クジラのことです。
 これは万葉集の解釈でも、確定しています。

 記紀伝承の元を創った「あまぞく」「海女族」「天族」は、朝鮮半島と日本列島のあいだの海洋を支配する海洋民族だったのではないでしょうか。
 
 「アマテラス大神」はやはり天(あま)(ではなく、海女(あま)の海のことで、海を照らす太陽神ではなかったでしょうか。

 そして、この「あまぞく」の祖先神(トーテム)が、鯨である「いざなぎ」「いざなみ」なのではないでしょうか。

 トーテムとは、1つの部族が動物、たとえばヘビとか鳥とか、熊とか虎を祖先神として信仰し、自分たちがその子孫であるという信仰です。

 アメリカインディアンの「トーテムポール」もその1つです。

 記紀伝承(ぼくは「日本神話」とは言いません)では、イザナギさん・イザナミさんが天の浮き橋の上に立って、玉(たぶん勾玉でしょうか)で飾った矛を下ろして探ると、青海原がみつかり、矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になりました。
 この島をオノゴロシマと名付けました。
 イザナギ・イザナミさんは、オノゴロシマに降りて、国(洲)を生みみました。

 この稿は、まだ続きます。
 「さなぎ」に続きます。]