雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月29日(火) 暑くて眠れなくてばてています

2010年06月30日 05時30分15秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月29日(火) 暑くて眠れなくてばてています

 このところ昼間が真夏のように暑くなってきました。
 今、仕事から帰ってきて、このブログを打っていますが、午前5時32分です。
 冷房もない部屋で、窓を開けて寝ていますが、しばらく身体が慣れるまでは眠れません。
 
 眠りをとりかえさないと、仕事は車の運転なので、居眠り運転になって危険なので、夕方から夜に寝たりして、睡眠を取り戻しています。
 会議など欠席する場合がありますので、ご迷惑を、関係者のみなさんには、おかけします。
 こう書くと、昔、結婚したての頃(あるいは、まだつきあっていた頃?)、N子さんが『私は誰にも迷惑を掛けず、一人でちゃんと生きています』みたいな、感じだったので、「人間って、おたがいに支え合って、迷惑を掛け合っていきているんで、1人で生きているというのは錯覚だよ」みたいな話をした覚えがあります。
 自分一人では、衣食住すら、生産できません。
 考えていること、しゃべっていることも、たいはんは、自分で考えた事じゃないでしょ?もし「100%自分の考えたことだけをしゃべっている」と言える人がいたら、表彰したいけど、そんな人は1人もいないと思います。

 みんな、「借り物」「もらい物」による人生でしょ?
 ぼくもそうです。
 そういう「借り物」「もらい物」を基礎にして、少しは「自分自身の人生」「自分たち2人の人生」を築いてきたかな、とは思いますが。
 
 ですから、きついときは平気で休んで休養する雨宮ですので、迷惑をおかけします。
 というより、ほんとうの仲間には「お互い、迷惑をかけあおうね」と言っています。

 つまり、何かあったら、お互いに、あるいは、周りのみんなに「助けて!」とSOSを発信できるようになろうね、ということです。
 実はこれは、プライドの高い(ほんとは高くないんですけど)人には、すごくむずかしいんですね。
 自分はプライドがないので、推測で言ってますけど。

 いつでも、なんでも、わかっているように物を言ってる人、そういう人はすごく危ない状態です。
 知ったかぶりは、やめた方がいいです。
 知らないことは「ボクは知らない」、わからないことは「ぼくはわからない」と言います。
 身の丈サイズ以上のことは、言えません。
 
 ところで、「河童のクゥと夏休み」を見て思うのは、やはり河童は水の生きもの、川でクゥと康一が泳ぐシーンが涼しそうで、生き返ります。
 そういえば、N子さん、夏にいっしょに川で泳いだことって、ほとんどないですね。
 今年は、N子さん、どっかに泳ぎに行かない?
 ○○才になっても、昔とほとんどプロポーションは変わらないし、だいじょうぶですよ。
 市野のイオンに、水着を買いに行って。
 (うわ、自分の妻に、ブログで呼びかけて、どうしようというんでしょうか?
  でも、行きたいな、生きたいな…)
 

遠州の遺跡・寺社15 十軒町の「十軒観音さま」

2010年06月29日 05時10分21秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社15 十軒町の「十軒観音さま」

 私の住んでいる十軒町は馬込川の東西に分かれていて、南北に長い町です。
 馬込川の太鼓橋の東へすこし歩いたあたりに「十軒観音」さまがあります。
 「十軒観音さま」というのは私の命名で、そういう名前が明示してあるわけではないです。
 東向き、つまり日の出の方向向きです。
 
 横に掲げられている碑文によれば、古い茶色い方は、江戸時代の享保十五年(西暦1730年)に作られ、十軒新田村(いまの東十軒町)と早出新田村(いまの早出町林)の人々が守ってきたものです。
 新しい方は、平成14年12月15日に再建されました。
 石碑によると、現在でも例祭が毎年12月の第二日曜日の午後1時からおこなわれています。
 わたしは、まだ参加したことがありませんが、今年は出てみようかな。

本と映像の森55 ゆうきまさみさん『鉄腕バーディー 1』

2010年06月28日 05時51分42秒 | 本と映像の森
本と映像の森55 ゆうきまさみさん『鉄腕バーディー 1』<ヤングサンデーコミックス>、小学館、2003年7月5日初版第1刷、203ページ、定価505円+消費税

 廃墟マニアのふつうの(「廃墟マニア」は、普通じゃないって!)中学三年生の、千川(せんかわ)つとむが主人公です。
 
 つとむは、同級生と廃墟探検に行った先で、銀河系規模の、宇宙人同士の抗争に巻き込まれて、もう一人のメイン主人公「連邦捜査官」バーディーの誤射で射殺されてしまい、責任を感じたバーディーの身体に心と人格をコピーされて同居するはめになります。

 身体は、地球人・千川つとむと宇宙人・バーディーの両方にスイッチできて、心はつねに両者が存在する「二重心理」状態で、2人の共同の探索が、はじまります。

 目的は、バーディーにとっては、アルタ帝国復活をたくらむ重犯罪人「クリステラ・レビ」の逮捕です。
 でも、つとむにとっては?

 問題なのはバーディーは若い女性で、つとむは若い男性です。、

 おもしろいのは、レビ側の宇宙人である中年男性「ゴメス」でしょうか。
 「レビ」も「ゴメス」も、たんなる悪役ではなく、
 存在に意味のある、ある意味、魅力的な人格として描かれていると思います。
 それでなければ、彼らが異星の地球に根付けるわけがありません。

 おすすめは巻末の「らくがきまんが」です。バーディーを俳優にして同じ設定で映画を撮るという設定で、撮影所の3ページ。
 いちばん好きなのは、撮影終わって、夕方、魚屋で「シャケの切り身ください」「今日はサバがうまいよ!」「えーと、じゃあサバ」という会話!

 同じような設定で、違う意図で、一色登希彦さんがマンガ『日本沈没』の最終巻で、映画の登場俳優、全員集合飲み会みたいなネタで盛り上がっていましたね。

 いま現在、第1部は20巻で、第2部に以降。
 第2部もおもしろいです。
 また紹介したいです。


本と映像の森54 原恵一さんアニメ映画「河童のクゥと夏休み」

2010年06月28日 05時19分18秒 | 本と映像の森
本と映像の森54 原恵一さん監督、アニメ映画「河童のクゥと夏休み」

 なんで、このアニメ映画を知って、この「限定版 コレクターズDVD」を買ったのか、さだかではありません。
 古代史の九州との関連で、水神としての河童のことを、ネットで調べていて、という可能性が高いです。

 メイン主人公は、やはり現代に生きる少年・康一くん。サブメイン主人公は、江戸時代に住んでいた河童のクゥさんです。

 クゥさんは、父河童と住処の「沼」が干拓される話を聞いて、領主の侍に直接お願いにいきます。
 その夜の道で、父河童は、侍に腕を切り殺され、クゥ自身は、同時に起こった大地震で地割れに飲み込まれ…。

 康一くんは、帰宅途中に、街を流れる小さな川で、川底に露出した何か「化石」のようなものを発見し、ランドセルに入れて家に持ち帰ります。

 前半は、康一くんの家族とクゥさんの家族物語。
 お父さん、お母さん、康一くん、妹、そして犬のオッサン。

 1人だけ300年も未来に飛ばされてしまった孤独なクゥと人間たちの物語。
 そして、康一くんと同級生の女の子・菊池さんの切ない感情。

 第2幕、康一くんは、生き残った河童を求めて、岩手県遠野へ、クゥをリュックに入れて
 1人ででかけます。
 大人になるための旅行に。
 
 第3幕、康一くんとクゥが家に帰ってくるあたりから、物語はクゥの存在がマスコミにも知れてしまい、家族も変化していきます。

 テレビ局への出演から、物語は大転換し、クゥは犬のオッサンとともに脱走し…東京タワーへ!

 河童のクゥを助けるのは、人間だけじゃありません。
 遠野の○○も、沖縄の○○○○○も。

 康一くんと、少女・菊池さんの切ない恋物語も、すてきです。
 
 もしまだ見てない人がいたら、ぜったい見てください。
 宮崎駿さんのアニメ以上だと想います。
 違いは何かというと、やはり、日本列島の古い、自然や生きものやくらしや人間を
 きちんと描いているから、でしょうか。
 つまり「ナウシカ」や「ラピュタ」や「ハウル」などより、
 自分たちの生きているこの現実世界に、より近いからでしょうか。

 ここまで書いてきて、気がつきました。
 「クゥ」の世界と「トトロ」の世界が似ていることと、違っていることに。

 「トトロ」は最初から最後まで、田園・里山の世界に終始しますが、
 「クゥ」は自然に住む河童を、都市の人間の家に住ませてしまい、
 マスコミにも出演させてしまう。
 よりリアルに、端的な表現で、自然と人工の相克を表現できているように想います。
 「トトロ」は、自然のなかでの物語に終始することで、自然と人間、自然と人工の相克は回避しているのではないでしょうか。

 



 
 
 

本と映像の森53 ル=グウイン「ダークローズとダイヤモンド」

2010年06月26日 05時41分36秒 | 本と映像の森
本と映像の森53 ル=グウインさん「ダークローズとダイヤモンド」

 ル=グウインさんの連作『大地海シリーズ』、日本語訳『ゲド戦記シリーズ』、岩波少年文庫版では、第5巻『ドラゴンフライ ーアースシーの5つの物語ー』は、6巻のうち唯一の短編集です。
 
 「ダークローズとダイヤモンド」は、今までぼくが読んできた限りでは、時代順のどこに入るのかよくわかりません。
 何か、ヒントがあるかもしれませんが、まだ読み取っていません。

 これは、恋歌です。
 ダークローズ(暗い薔薇)という若い女性と、ダイヤモンドという若い男性の恋歌です。

 「愛しい人の行くところ ともに私も おもむかん
  愛しい人の こぐ方(かた)へ ともに私も こぎゆかん

  ともに笑って ともに泣き
  ともに生きて ともに死ぬ

  愛しい人の行くところ ともに私も おもむかん
  愛しい人の こぐ方(かた)へ ともに私も こぎゆかん」

 英語の原詩と楽譜が掲載されていたので、意訳ではなく、直訳をしてみました。

 「私の恋の行くところへ 私も行こう
  彼のボートのこぐところへ 私もこごう

  私たち ともに笑って ともに泣き
  彼が生きれば 私も生き
  彼が死ねば 私も死ぬ」

 これはダークローズの歌なので、蛇足ですが、ダイヤモンドの歌も勝手につくってみました。

 「ぼくの恋の行くところへ ぼくも行こう
  彼女のボートのこぐところへ ぼくもこごう

  ぼくたち ともに笑って ともに泣き
  彼女が生きれば ぼくも生き
  彼女が死ねば ぼくも死ぬ」

 1人ひとりが、自分のボートを自分でこいで、二人で、同じ方向にボートをこぐ人生って、好きなイメージです。

 「一人ひとりが自分自身の船長」で、おたがいに針路を教え合って相談することはできるけど、その針路を操縦して維持するのは、自分しかいないのですね。
 そうですよね?N子さん。

 この浜松市内の北区三ヶ日町の「静岡県立三ヶ日青年の家」での、ボート事故がありましたが、だれかが決定したことに言いなりに従って、嵐の海に、ボートを乗り出すのはすごく危険です。
 ほんらい「学校教育」は、そういう時の判断基準をもち、判断決定のできる人間を形成するのが目標のはずと想いますが、何かが違ってきているのでしょうね。

 
 


 

雨宮日記 6月24日(木) 何が食べたい?

2010年06月26日 05時25分04秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月24日(木) 何が食べたい?

 夕方、N子さんを助手席に乗せて、車を走らせていました。

 「明日は、何をつくろうかな?何が食べたい?」(まだ、N子さんは職探しをしているので、時間の余裕があります)。
 「うーん(「天ぷら」って言うと「二日前に作ったばかりじゃないの!」と怒るだろうなあ)、お茶漬けか、おにぎり」
 「それはすぐできるけど、ちゃんと野菜も食べないとだめよ」
 「ぼく、青虫じゃないし、チョウチョの幼虫じゃないから、野菜は、あんまり、いらない」
 N子さんは、苦笑いして「じゃあ、私は、青虫の生まれ変わりか」
 
 (そう、たぶん、とてもキレイなチョウチョのゼフィルスのね)。

 ちょうど、右手から、「片山さつき」さん(自民党の小選挙区制7区で落選した「小泉チルドレン」にしては年の女性)の宣伝カーが、ただただ「片山さつき、片山さつきです」と連呼していました。
 なんだか、語るべき政策もスローガンもポリシーもないのか、情けない政治家ですね。あ、違うかな。政治家ではないでしょうね。単なる議員だったのかな。
 
 「名前だけしか言わないのね」
 「せめて、何々をする片山さつき、とか言えないんだねえ」
 
 文芸大の前を通る頃から、曇り空からポツポツと雨が落ち始めました。
 明日は雨かな?

 夜は、部分月食なのですが、晴れないかな?
 いちばん欠けるのは、午後8時半過ぎです。

 写真は、ある日の雨宮家の夕食。
 いちばん右の白いのはご飯です。
 ぼくの食べる量ではないです。
 ぼくの食べるのは、夕食はお茶碗1杯です。

 

 
 
 
 
 
 

N子日記 6月23日(水) 大雨で智彦くんの車をきれいに

2010年06月25日 05時28分46秒 | 雨宮日誌
N子日記 6月23日(水) 大雨で智彦くんの車をきれいに

 早朝と朝と、大雨でした。
 起きて、玄関を開けたら、なんと、智彦くんの車の右ドアが開いていて、大雨が車内に降り込んでいました。
 しかたなく、智彦くんの車の大掃除をしました。
 こんなチャンスでもないと、「物置き」になっている車を掃除する機会がないので、ま、いいかな。

 午後、智彦くんが起きてきました。
 「おはよう」
 「おはよう、車の中、濡れてたよ」
 え!という表情になって、記憶を探るような顔の智彦くん。
 「ああ・・今朝は・・携帯を捜して、車を開けたから、そのときにかな?」
 「疲れてたのね」
 「うん・・たぶんね、大雨だったから」

 ほんとは、智彦くんの部屋を大掃除したいんだけど。
 それは、いつになるかな?



本と映像の森52 松岡正剛さん『白川静 漢字の世界観』

2010年06月24日 05時24分28秒 | 本と映像の森
本と映像の森52 松岡正剛さん『白川静 漢字の世界観』平凡社新書、2008年11月14日初版第1刷、269ページ、定価780円+消費税

 このところ「ゲド戦記」の世界に入り込んでいて、ようやくそこから出てきたところですが、「ゲド戦記」の魔法の世界と、あまり変わりないような「呪術の世界」が、この現実世界であったことをほとんどの方は知らないと思います。

 白川静さんは、男性の漢字研究者です。
 中国古代の漢字を意味論ではなく、中国古代社会の呪術との関係で、解明した方です。
 古代人は、本気でほんとうに「神との交流」をしていたのです。

 白川さんは日本の古代史とでも、『万葉集』に同じ意味があることを解明しました。

 人間は、現代も古代も、同じ人間という固定観念は大きな嘘です。

 目次は以下の通りです。

 第1章 文字が世界を憶えている
 第2章 呪能をもつ漢字
 第3章 古代中国を呼吸する
 第4章 古代歌謡と興の方法
 第5章 巫祝王のための民俗学
 第6章 狂字から遊字におよぶ
 第7章 漢字という国語



 



哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

2010年06月23日 05時42分53秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

 前回「哲学の学習17」で「狭い意味の平和」と「広い意味の平和」を考えましたが、それに関連して、「幸福」について考えます。

 「幸福」論は、たぶんいっぱいあって、まともに読んだことはないのですが、一つは、くらしが豊かで、戦争もなく命が安全であれば「幸せ」であるという、ある意味、物質的な幸福論と、いや「物よりも心だ」、「心の幸せ」さえあれば、物はいらないんだという2つの理論が対立して遊離しているように思います。
 
 私が思うのは、まず基礎(ベース)にあるのは、「いのちとくらし」、つまり一人ひとりの身体と命とくらしという物の一定の安定という「物の幸福」、それが基本ではないでしょうか。
 
 ただし、その「物(身体と命と暮らし)の幸福」は、
 ① 物の最大限の追求が目標ではなくて、その人の最小限の必要の内であること
 ② 「物の幸福」の上に成り立つ「魂と心の幸福」とバランスのとれていること、が必要であるということでしょうか。

 「魂と心の幸福」は、2つの側面があって、一つは、自分の最深の心の奥の魂が自分で決めて生きていること、もう一つは、その魂と心が、他のたくさんの魂との台頭平等の交流・つながりで生きているかどうか、です。
 
 そういう微妙なバランスを崩してしまうと、人間って歪んでしまって、他人を支配しようとしたり、他人や社会や自然を犠牲にしても最大限の自己の追求をしてしまうのではないでしょうか。

 大事なのは「均衡」だと、『ゲド戦記』でも言っていましたね。

 でも『ゲド戦記』では「すべてが変わるのだ」と(オジオンが)言っていますから、どっちなんだ?!ということにもなりますが、ぼくは「両方」だと思います。
 答えになっていませんが、直感では、ということです。

 いまの結論としては、ほんとうの幸福は、他人や、社会的条件に左右されないのではないでしょうか。

 19世紀の科学者にして革命家のカール・マルクスさんは、「超貧乏」でした。なにしろ、貧乏すぎて死んだ息子の棺桶の板を買うお金すらなかったそうです。
 「マルクス・エンゲルス全集」の書簡集を読むと、親友のエンゲルスさんに「金おくれ」の手紙がたくさんあります。
 では、マルクスさんの人生は貧困にまみれて不幸だったのか?
 そんなことは、言えませんよね。
 
 つまり、貧乏(収入)と幸福は比例しません。
 我が家も貧乏ですが、幸福です(というと怒る人がいると思います。いわく「革命的精神を忘れたのか」「革命なしに幸福はない」)。
 
 そういう方には、物の幸福と、心の幸福というバランスをどう取るのか、それが崩れると、どうなるのか、よく考えていただきたいと思います。
 
 物の幸福を否定せずに、心の幸福も尊重していきたいと思います。

 これは理論ではありません。
 いろんな文化・芸術を、みなさん、感じて、自分で考えてください。

 他の「幸福論」をもし読んだら、再論します。

本と映像の森51 小松左京さん『闇の中の子供』新潮文庫

2010年06月22日 05時35分29秒 | 本と映像の森
本と映像の森51 小松左京さん『闇の中の子供』新潮文庫、1975年発行

 なんせ1975年(昭和50年)、つまり35年前に買った文庫本なので、いま発行されているかどうかは保障できません。
 文庫本は、ほんとに「生もの」で、すぐに品切れ・絶版にされてしまうので。

 小松左京さんは、私の大好きなファンタジー(=SF(サイエンス・フィクション))作家の一人です。
 他の日本人ファンタジー作家としては、たとえば平井和正さん(誤解をしないように、私は「宗教オタク」ではないですからね)、筒井康隆さん、などでしょうか。

 この『闇の中の子供』の最高傑作は、やはり表題作の「闇の中の子供」でしょうね。

 語り手のたぶん小松左京さんの若い頃という設定でしょうか、「売れないSF作家」の上の「玄関のドアが、ほとほととたたかれた。」

 語り手の男性の自宅、妻と2人の小さな子供が眠った時間に玄関をたたく音。語り手が玄関を開けると、雨の中に立っていたのは、江戸時代の紋付きのような衣装を着た小さな男の子。
 その子が「おじさん、助けて下さい。私は殺されます」と言い「おそろしいおとなです」と必死に語り手に訴えるところから、幕が開きます。

 その江戸時代風の、おびえる男の子は、語り手の2人の男の子といっしょに、異次元の奥へ逃げてしまいます。
  
 そこへやってきた語り手の悪友が、隣町でやっている歌舞伎芝居「菅原伝授手習鏡」のことを思い出し、何か関係がありそうだと、その小屋へ向かいます。

 これは悲しい、子殺しの物語です。もちろん、現代の子殺しのように、ノイローゼでとか子育てに悩んでとかではありません。
 
 主人公と悪友がまごれこんだ時空に現れるのは、飢饉による子殺し、中世ドイツのヘンゼルとグレーテル、戦争による子殺し、ナチスドイツやモンゴル軍による、日本の江戸時代の飢饉時代の子殺し…。

 それらの惨劇を背景に、語り手と悪友は、「菅原伝授手習鏡」の謎を解明します。

 現代は、生産力とエネルギーの過剰に悩む時代で、地球温暖化も過剰によるのですが、人類史の大部分は生産力とエネルギーの大幅不足に悩んできました。
 「グリム童話」が、本当は悲惨な話というのも、そういうことかなと思います。

 小説の終わりのシーン、印象的です。
 「 五色の短冊、私が書いた…
  子供たちの歌声は、森のむこうから、まだ聞こえてくる。」

 こういう子どもたちの声に、耳を傾けたいと思います。
 「闇」も。
 そこからすべてが始まるのではないでしょうか。 
 
 「笹の葉さらさら
 軒端に揺れる
 お星様きらきら
 金銀砂子

 五色の短冊
 私が書いた
 お星様きらきら
 空から見てる」

 ほかに、現代の小泉民営化を徹底的に茶化したような「第二日本国誕生」も思考実験をリアルに小説家した傑作です。
 
 蛇足ですが、「七夕(たなばた)」って何?っていう謎もありますね。あと少しで7月七日です。考えていきたいと思います。
 
 もう七夕の星、こと座のヴェガ(織り姫)とわし座のアルタイル(牽牛)が夜には天空に、高く輝いています。
 雲の向こうで。

 

雨宮日記 6月22日(火) ショパンとモーツアルト

2010年06月22日 00時33分57秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月22日(火) ショパンとモーツアルト

 高林のツタヤで「モーツアルト生誕250年記念CD(4枚組)」を借りてきて、たっぷり聞きました。これまで、モーツアルトは、ちゃんとは聴いたことがないので、ああ、モーツアルトもいいなあと思いました。
 雨宮の聴き方は、とにかくひたすらに、解説や評価など関係なく、とにかく自分の耳で聞くこと。

 ピアノ曲で、「あれ?これショパンじゃないの?」という曲がありました。たぶん、モーツアルトファンの方なら、あ、あれかとわかると思うのですが。

 楽器博物館でのショパンのレクチャーコンサートで講師の平野さんが、ショパンはモーツアルトのオペラがあこがれで、オペラを書きたかった、と言うので、ああ、このモーツアルトの曲がショパンの出発点なのかと勝手に納得しました。

 ショパンのピアノ協奏曲がオケによる長い前奏つきなのも、平野さんのお話では、モーツアルトはベートーベン以後のピアノ協奏曲の冒頭をピアノから始める形式には従わずに、モーツアルトのように冒頭をオケの前奏から始める様式に戻ったということで、それも納得しました。

 初めてちゃんと聞いた(たぶん何十年ぶりに)聞いたモーツアルトのピアノソナタの断片の美しいこと…。モーツアルト漬けになろうかな。




哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

2010年06月22日 00時22分03秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

 つい数日前、ある会で「平和とは」という話を提起したので、その話を書きます。
 「平和とは」というと、ふつう「戦争のない状態」という定義になると思います。これを「狭い意味での平和」と呼びます。
 この場合、戦争の反対語は平和で、平和の反対語は戦争です。

 これにたいして、「広い意味での平和」概念が提唱されています。
 この場合「平和」というためには、戦争がないだけではなく、人権が保障されていない社会は平和ではない、支配と従属がある社会は平和ではない、ハラスメントやいじめや暴力がある社会は平和ではない…自殺が多い社会は平和ではない。
 さいきん、ガルドゥングさんが提唱し、日本では安斉育郎さんなどが賛同している説です。
 わたしも、「平和」という時には広い意味での平和概念でとらえ、「戦争がない状態」のことを「狭い意味での平和」として考えたいと思います。
 これからの平和を願う運動は、社会のゆがみ・差別・貧困などをリアルにとらえ、人間と人間との関係、団体と団体の関係を正しいものに是正していく課題にも取り組まないと「戦争のない平和」でさえ来ないと思うようになりました。

 たとえば「核兵器は抑止力」としてとらえ「核兵器と生きる平和」を主唱する人々がいますが、このような「戦争はないが核兵器は存在する平和」は、限りなく戦争に傾斜した、いつわりの平和であって、ほんとうの「平和」ではないと思います。

 

雨宮日記 6月21日(月) 雨宮ブログ3万ヒットお礼

2010年06月21日 06時09分32秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月21日(月) 雨宮ブログ3万ヒットお礼

 今日、編集ブログにアクセスしたら「30019」ヒットでした。
 みなさん、いつも見に来ていただいてありがとうございます。
 みなさんが見てくださる熱意に答えて、毎日、書かないと、と思っています。

 雨宮ブログのコンセプトは、自分の人生のコンセプトと同じです。
 自分の身体で感じて、自分の心で判断して、自分の魂(人格)で決定する、
 という、それだけです。
 それだけ、ということが、なかなか、難しいのですね。

 自分の判断なのに、なぜか、N子さんの判断とか、混ざってきて。
 同じ「夫婦漫才」、じゃない「夫婦活動家」としての智彦=N子のデュオの場合は2人で判断します。3人なら多数決できるけど、2人だと多数決できないので、意見が違う場合はたいへんなんですよね。
 おたがいに、見下す立場で、意見を押しつける気はないので、事実と道理だけがよりどころです。
 でも、ここで、「俺の言うことを聞け」とか「私が稼いでるのよ」とか言ったら、2人の対等平等の30年以上の関係は、一瞬で(宇宙の最小のブランク時間)おしまいなので、「お父さん、お母さん、うるさい!」「またけんかしてるの」と娘達に言われながら、ただただ、台所で、話し合うしかありません。

 雨宮ブログは、個人と個人の対等平等、団体と団体の対等平等、国と国との対等平等をめざすブログです。
 雨宮智彦と妻のN子さんは、対等平等で、おたがいに意見をおしつけることはできません。


雨宮日記 6月17日(木)夜 娘たちから「父の日」プレゼント

2010年06月18日 05時20分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月17日(木)夜 娘たちから「父の日」プレゼント

 夕方、昼間の仕事から帰ってきて、夕食の頃、家の電話が鳴って、私が「はい」と取ると、「お父さん?お母さん、いる?」と長女のTさんからの電話でした。
 「いるよ。ちょっと待ってね」と2階にいたN子さんを呼びました。
 なんとなく聞いていると、娘は「お父さんの服のサイズは…」と聞いているようでした。
あ、そうかあ!と、なんだか、ワクワクしました。

 そのあと、しばらくして、また、家の電話が鳴りました。
 「はい!」と出ると、今度は、次女のIさんで、これも「お母さん、いる?」と聞くので、「ああ、いるよ、ちょっと待って」と、N子さんに変わりました。

 そばで聞いていると、「お父さんは、お酒なら何でもいいの?」という話のようで、N子さんは、ぼくのお酒の好みなどあまり知らないと思うので、慌てて、N子さんに「焼酎は飲まないよ!」と言いました。

 夜9時過ぎに、N子さんと家に帰ると、長女のTさんからシャツの、次女のIさんからお酒のプレゼント、娘の前では、どぎまぎしてしまい、なんだか形式的に「ありがとう」と言いましたが、心の中では、すごく感動していました。
 うれしい!
 
 あ、ごめんなさい。親ばかというか、バカ親ですね。
 これも、ここには書ききれないくらい、いろんな過去の苦労やら、歴史が積み重なっているのです。
 
 今日は、次女がプレゼントしてくれたお酒の写真を掲載します。
 明日は、長女のプレゼントのシャツを着た写真を掲載したいな。

 まだ長女も、次女も20代です。あれ?Tさんは30になったかな?
 私や妻のN子さんが出会って、結婚した頃、ふたりとも20代後半の「青年」でした。
 それから、30年、二人とも、成熟したのか、変質しなくてすんだのか、よくわかりませんが。まあ、だいじょうぶなようです。

 心から願うのは、恋愛関係であれ、仲間関係であれ、ほんとうに信頼できて、助け合うことのできる「相棒」「仲間」を見つけてほしいということです。
 
 また、いろいろ、話をしたいです。