雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

今年はミカンが甘い

2009年12月09日 04時48分35秒 | 雨宮日誌
 今年はミカンが甘い

 昨夜はある会議で、Kさんがミカンを持ってきてくれました。
 1個、食べてみたらすごく甘くて、おいしい!
 細江(奥浜名湖のミカンの有名な産地です)から会議に参加していたTさんに「温暖化で甘いの?」と聞いたら、そうではなくて、何年かに1度に巡ってくる「今年はミカンがおいしい年」なのだそうです。
 何が原因なのかなあと考えましたが、わかりません。
 会議の後、家に帰って、遅番の仕事から帰ってきた妻に、そういう話をしたら「そういえば、家の近くのストアで買った浜名湖ミカンも、すごくおいしかった」と言っていました。

 寒くなってインフルエンザもはやってきました。昨夜の会議でも、マスクをしている若い子に「インフルエンザなの?」と聞いたら「予防です」とのこと。
 
 今年もあと1ヶ月を割りました。
 今年(来年)の年賀状はどうしようかと、妻と2人で、迷っています。そろそろやめたいけど、やめると、ぼくや妻に何かあったのかと誤解されても困るし。
 妻60才、ぼく57才、悩みや苦しみや、ちょっとした体の症状はありますが、まだいちおう健康なようです。
 




 

哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」

2009年12月08日 04時10分49秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」

 ヘーゲルさんと言えば、代表作は『大論理学』と『小論理学』ですが(ぼくが言っているだけかも知れませんが)、これを読むのはきわめて難解です。
 「有」「無」「成」から始まるやつです。
 それで、いい逐条の解説書が欲しいのですが、『小論理学』のいい解説書だと思う本が出版されました。
 高村是(よし)あつさん著、広島県労働者学習協議会編『ヘーゲル『小論理学』を読む1&2』一粒の麦社、2009年9月10日発行、の2冊です。
 (すみません、著者の「あつ」の漢字が出ません。)
 さっそく買い求めたところ、『小論理学』の本文の前の異常に長い「序文」「序論」「呼び概念」をきちんと開設してくれています。なんと、全4冊を予定しているうち、この2冊が全部、「序文」「序論」「呼び概念」の解説です。
 現にこの部分は、岩波文庫、松村一人さん訳の2冊本『小論理学』の上巻の322ページのうち255ページを占めている部分です。
 ぼくの買ったのは1982年1月第32刷ですから27年前、まだぼくが……才の頃ですね。
 高村さんの解説をたよりに、ぼくも27年間放っておいた小論理学を少し読み進んでみたいと思います。
 一粒の麦社は、電話 082-231-6170 です。

 なお、さっき、岩波書店のホームページにアクセスしてみましたが、文庫も、ヘーゲル全集も、いま品切れ状態です。
 岩波書店に「再版して!」と呼びかけませんか?
 人類の知的「世界遺産」が読めないなんて、おかしいですよ。

 誰か、ヘーゲルさんの全著作を、正確に、わかりやすく日本語に翻訳して、誰でもいつでもアクセスできる「ヘーゲルHP」を作ってくれないかな?

 





哲学の学習1 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定

2009年12月05日 04時27分47秒 | 人間・生命・宇宙
 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定

 哲学とは何でしょうか、といきなり聞いてみても、誰も答えてくれないので「わからないときはまず辞典」というわが親の教え(親の商売は本屋さん)に従って辞典を見てましょう。
 手元にある青木書店の『哲学辞典 第4版』で「哲学」を引くと、その冒頭に「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学であり、したがって全体としての世界についての見解をしめす世界観である。また論理学および認識論をそのうちにふくんでいる。」(p321)と書いてあります。
 書いてあるから正しいというわけではありませんが「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という規定は、ぼくとしては共感します(それが真実かどうかはまだ未定)。
 なぜかと言うと、結論の押しつけや定義集ではなくて「知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という角度です。

 ところで、哲学と言えばヘーゲル、ヘーゲルと言えば哲学の、ヘーゲルさんはどう言っているでしょうか。
 岩波文庫版のヘーゲル『小論理学(上)』の「エンチクロベディーへの序論」では、こう述べています。
 「意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用にたよってのみ思惟的な認識および把握に進むものである」(一、p61)
 「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる。」(二、p62)
 「感情、直感、要求、意志等々の諸規定性は、それらが意識されているかぎり、一般に表象と呼ぶことができる。したがって一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる。」(三、p65)

 つまり、哲学は対象の表象を思惟によって考察し、カテゴリーや概念に変えることだというのです。
 ヘーゲルさんのここでのこういう規定にはぼくは賛同します。ところが、『小論理学』『大論理学』の実際の本文を読むと、最初から「有(存在)」「無」「成」などの概念から概念へ自動進行していくように読めます。
 これはどういうこと?
 こういう疑問から哲学の自主勉強を始めます。

 


雨宮日記 11月28日(土) 馬込川のカモのお腹の色 

2009年12月01日 23時14分40秒 | 雨宮日誌
 家のすぐそばに馬込川が流れていて、冬になると北から(たぶんシベリアから)カモたちがたくさん渡ってきます。
 遠鉄電車ででかける時には、馬込川にかかる橋を歩いて渡ります。
 数日前、橋を渡っているとき、カモの1羽が川の中に首をつっこんで川の中に生えている植物を食べていました。つまり、尾っぽを立ててお腹を丸出しにして。
 そのお腹が真っ白なのが印象的でした。
 上から見ると濃い模様のカモでも、下から水底から見ると特に雲のある時には見つけにくい保護色になっているのではないでしょうか。
 水中でカモを襲う肉食動物は馬込川ではいないかもしれませんが、渡りの最中に、木にとまっている鷹や鷲のような肉食鳥類からはみつけにくくなるのではないかと思います、
 すべてのカモがそうかどうかは知りません。