雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月31日(土) 調子よくないのに…あっちこっちへ…

2013年08月31日 21時19分45秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月31日(土) 調子よくないのに…あっちこっちへ…

 8月の最後の日!今週は、あまり頭の調子良くないのに、なぜか、今日もあっちこっちへ。

 午前9時に則子さんと車で図書館へ。図書館へ、こんな朝から行ったことないよ!さらに2階の自分の部屋(と言ったら怒られました「2人の部屋でしょ!」「はい!」)の片付けのために、市野のカーマへ板きれを購入に。則子さんに払ってもらいました。すみません、4千円。

 ここずっと、まだ則子さんが仕事行かないので、炊事は則子さんの仕事になってます。

 午後はぼくは浜北へ届け物に。その最中に電話がかかってきて、長女が「午後、車、出してくれる?」というので、OKして、午後3時に行きました。

 今日は忙しかったので、そのあとゴミは1袋だけ出して、今日のノルマ終了としました。

  ☆

 写真は馬込川の真っ黒いハグロトンボです。茎が緑色できれいです。ハグロトンボを見ると、ああ、夏も終わりだなあと思います。

  ハグロトンボ 緑の茎に 秋始まる

 


遠州の遺跡・寺社・地名 111 北区細江町「銅鐸の谷」の不動平銅鐸

2013年08月31日 20時56分27秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 111 北区細江町「銅鐸の谷」の不動平銅鐸「出土地」

 写真は、銅鐸の谷の「支谷」である「不動平」谷の最上部の銅鐸出土地を台地上の道路から眺めた写真です。(現地比定は,浜松市博物館「浜松市の銅鐸」p27によります)

 出土地はすでに埋め立てられてみかん園になっています。

 『浜松市の銅鐸』では「昭和42年(1966年)」と書かれていますが、昭和42年は1967年ですので、他の文献も参照するとたぶん1967年だろうと思います。

 写真は「滝峯不動尊」と「二宮神社」のあいだ、滝宮不動尊から二宮神社までの4分の3の距離、つまり二宮神社まで4分の1の距離の北側です。

 道路のカーブミラーと「野良猫に餌を与えないで…」という警告版があります。

 この年の1月に開墾のためブルドーザーで工事中に出土しました。

 近畿式で、高さは72.3cm。さらに西から出土した近畿式の「滝峯七曲り1号鐸」(高さ68.6cm)と紋様がよく似ています。

 高さが微妙にちがうので,同じ「鋳型」ではないでしょうが、同じ「鋳造所」で作られたことは、ほぼ間違いないでしょう。

 なお、銅鐸の個々の模様まで実測したわけではないので、「実測」した論文がないかどうか、探してみますね。

   ☆

 「鋳造所」の問題については、もうすこし都田の銅鐸出土地を巡ってから、あらためて考えます。

 

 

 


雨宮家の物 13 (写真保存)学校で作った皿(サソリ座)

2013年08月30日 21時07分11秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 13 (写真保存)学校で作った皿(サソリ座)

 中学校?高校?いつ作ったか、もう忘れましたが、その頃の美術の授業で作った物であることはたしかです。「天文マニア」であったぼくが、たぶん宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」からとった題材だろうと思います。

 「川の向う岸が俄(にわ)かに赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。

 まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになってその火は燃えているのでした。

 「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云(い)いました。

 「蝎(さそり)の火だな。」カムパネルラが又(また)地図と首っ引きして答えました。(以下略)」

 なお宮沢賢治さんなど著作権(没後50年)の切れた著作は、「青空文庫」などで読むことができます。

  ☆

 「サソリ座」で思い出すのは、浜松の詩人・埋田昇二さんの作詞の合唱曲「ビキニの海は忘れない」ですが、そのなかで「サソリ座のアンタレスが赤く燃えていた」と歌われます。

 日本列島からは南に低くしか見えないサソリ座ですが、赤道近くのマーシャル群島ではサソリ座のアンタレスが真上に見えるんですね。

 埋田さんに聞いて見て、いま手に入りそうな本があったら「本と映像の森」で紹介します。

  ☆

 このお皿、色は付いていないのが残念です。だから「赤いアンタレス」じゃないです。

 一度、割れて、接着剤でくっつけました。写真保存にして、実物は「廃棄」にします。

 ボクが生きているあいだに、ボクが生きた証しの紙や物は、すべて「廃棄」して、この「雨宮ブログ」だけにしないといけないんです。それは、則子さんとぼくの「約束」ですし。それに自分が死んだ時に、自分の中に持っているものだけが、自分の財産なんですね。

 肩書きも、名誉も,お金も、物も、自分がいく世界へは持って行けません。持って行けないものだけが、自分がこの世界でなした成果なんですね。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 110 細江町中川の滝峯不動尊

2013年08月30日 19時26分17秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 110 細江町中川の滝峯不動尊

 北区細江町中川の「銅鐸の谷」の支谷の台地上近くで湧き出している湧き水信仰でしょうね。つまり水の信仰です。

 「根洗」信号から西へサークルKが南側にある最初の信号を北へ入っていくと、「銅鐸の谷」,現在は「テクノランド細江」です。

 そこを北へ曲がらずにまっすぐ南西へ、「ミニストップ」前を北へ(右へ)曲がって、道なりにすこし走ると北側に「滝峯地蔵尊」が見えてきます。小さい駐車スペースがありますから、車を降りて、石段を北へ深い森を下りていきます。

 1年中、三方原台地からの地下水が湧き水としてわき出ているようです。この日も、ずっと雨の降らない暑い夏でしたが、冷たい湧き水が湧き出していました。

 台地の上の「夏」とは別天地のようでした。

 「水の信仰」という点で「銅鐸」と共通していて、弥生時代の「銅鐸」信仰が現在まで受けつがえていると考えます。

 「銅鐸の谷」の支谷から銅鐸が1個づつ出土する例が多いです。

 奥でいうと、北側の支谷「コツサガヤ」のたぶん奥から1個、同じく北側の「穴ノ谷」の奥から1個、南へ回って南の一番奥の「滝峯才四郎谷」の入り口で1個、そして「滝峯不動尊」の谷を抜いて、すぐ西の「不動平」の谷の奥から1個。

 だから、「滝峯不動尊」の谷のどこかに、まだ1個の銅鐸が眠っているのではないでしょうか。


雨宮家の物 12 ぼくの誕生日祝いの腕時計

2013年08月28日 22時24分09秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 12 ぼくの誕生日祝いの腕時計

 2013年8月27日は、ボクの62回目の誕生日でした。娘が買ってくれた「腕時計」、うれしくて、ここに「陳列」しちゃいます。ばかですね。

 夜光時計ですので、真夜中に目が覚めても時間がわかります。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 109 西区呉松町の亀塚古墳

2013年08月28日 21時39分56秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 109 西区呉松町の亀塚古墳

 舘山寺街道の「すじかい橋」信号を西へ曲がらずに、そのまま直進します。最初の信号「すじかい橋北」を左へ曲がると道が北へ曲がっていくので、最初の信号をまた左折、信号からバス停「深萩西」を越えて、距離でその2倍くらいのところです。

 南に用水池が見えます。道路の北側に、古墳らしい盛り土が見えます。東西が長いです。ただし、何の看板もないので、「まあ、たぶん、これだろう」と思います。

 このあたりでは貴重な前方後円墳ですから、看板くらい立ててほしいです(間違っていたら、ごめんなさい)。

 文献に寄れば亀塚古墳は、全長21m、後円部の高さ1.8m、前方部の幅推定9mです。

 「葺石と埴輪(円筒(Ⅴ式)・形象)」が確認(静岡県教育委員会『静岡県の前方後円墳』2001年による)。

 方位はどうみても東西で、しかも東向き。『静岡県の前方後円墳』で「方位 Nー85度ーW」とですから、東向きで、5度だけ北へそれているということです。5度ですから、それているというほどでなく、ほぼ「東向き」です。

 未発掘です。

 古墳時代後期前半(6世紀前半)の古墳です。

 「108」の「火穴古墳」は、ここからすぐ(東名高速をはさんで)近くですが、6世紀後半の古墳です。しかも、火穴古墳は円墳で直径22m、亀塚古墳は前方後円墳で長さ21m(削られているようですけど)と、長さが近いように見えるのは、偶然の一致か、なにか、古墳の作り方についての考えの一致なのでしょうか。

 同じ一族が数十年を経てつくった古墳ということもありえるでしょうか。

 いくつかネットを見ましたが、「埴輪なし」とかいう表現もありましたので、正確な文献を参照していただきたいと思います。

 則子さんと行きましたが、あたりの畑も、石ころだらけで古墳の裾の石ころも、これはたぶん周りの畑の石ころだよね?と話をしました。

 古墳の頂上に立っても浜名湖は見えないし、あまり眺望はよくありません。なぜ、ここに築いたんでしょうか?

 

 


雨宮日記 8月27日(火) 今日は宮沢賢治さんの誕生日です…

2013年08月27日 21時22分33秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月27日(火) 今日は宮沢賢治さんの誕生日です…

 今日は、ぼくの大好きな「SF作家」宮沢賢治さんの誕生日です。もちろん、戦前にはSF(サイエンス・フィクション=科学小説)というジャンルがないのですが、「銀河鉄道の夜」など、もろにSFそのものだと、ぼくは思います。

 そういう意味では宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」あるいは「ハウルの動く城」も全部SFです。

 あ、SFって言うより「ファンタジー」というほうが良いですね。

  ☆

 今日は宮沢賢治さんの誕生日なので、なぜか、ぼく、雨宮智彦の誕生日です。則子さんに数日前、「ボク、誕生日に、腕時計がほしいなあ」とつぶやいていたら、なぜか、昨夜、次女のアイさん(小松左京さんの傑作『果てしなき流れの果てに』の「アイ」ではないですよ)が、「お父さん、時計を明日、買いに行くけど、イオンでいい?」と言うので、「うん、ありがと」と言って、今日、イオンへ行きました。

  1万6千円の薄い「美しい」のも候補でしたが、2万1千円のちょっとぶ厚い「夜光時計」を選びました。

 アイさん、ありがと。

  ☆

 則子さんが「智彦くん、今日、何才_?」って聞くので、「え、1951年生まれだから,今日で82才…」と考えて答えました。

 国民年金をもらえるまで、あと3年です。それまで、則子さま、よろしく。

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名 108 西区深萩町の火穴古墳(円墳)

2013年08月27日 20時39分51秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 108 西区深萩町の火穴古墳(円墳)

 初めて、則子さんと2013年8月に探訪しました。

 位置的には地図に出ていますし、わかりやすい場所にあります。

 根本山(ねもとやま、標高129.0m)の頂上から真東へ約670mくらい。道路でいうと「深萩北」信号を東北東へ道路が走っていますが、最初に左へ入る道を入って、北西へ。住宅地のなかの緑の一角にあります。

 大きな駐車場もありますので、すぐわかります。

 かなり古くなってますが、説明看板も立っています。この看板は書き直した方がいいと思いますけど。いったい、何年前の看板?

 直径22mの円墳ですが、土はかなりなくなって石室が露出しています。天井石もほとんどありません。つまり、石室がまともに太陽光で観察しやすい、貴重な古墳です。

 「火穴」の名前の通り、真っ赤な石で石室がつくられていて、本には「根本山のチャート」で作られていると書かれています。

 ほんとうに真っ赤(おおげさかな?実際は、写真の通り、黒ずんだ赤です)です。

 浜松市が発行した小冊子『浜松の古墳めぐり』では、「根本山周辺の古墳」「では最大規模」、「整った形態の両袖型の横穴式石室」、「石室の大きさは全長9.3m、玄室長4.7m、幅2.1m、玄室での天井までの高さ2.2mである。6世紀後半の築造と推定される、」と書いてあります。

 横穴式古墳の「石室」は奥の「玄室」と前の「羨道」からなります。つまり、火穴古墳の場合は、全長9.3mですから、奥の玄室が4.7mなので、前の羨道は9.3-4.7=4.6。

 つまり、玄室と羨道が同じくらいの長さになります。

 この玄室と羨道の長さの比率は,なにか、時代的に変動し,意味があるんでしょうか?まったくのアマチュア考古学者のぼくは、これから調べてみます。

  ☆

 『浜松の古墳めぐり』では、この「根本山古墳群」は、もともと200~300の古墳があったが、今残っているのは「65基程度」と書いてあります。

 「え、そんなに残っているの?!」とびっくりですね。

 少しでも見れたら、ここでレポートしていきます。

  ☆

 補足。火穴古墳の横穴式石室は、完全に南向きです。というより、これを祭る人から見ると「北向き」です。

  ☆

 雨宮の「古代における太陽の方位学」でいえば、たぶん「聖なる山」の根本山の真東にあるということは意味があるんでしょうか?

 でも、それにしては石室が南北方向では、あまり意味がないのかな?

 深萩町のあたりは、ごみ環境ネットでミダックの呉松産廃処分場の調査に何度もきたし、根本山の頂上近くにある第2次大戦中の戦争遺跡「本土決戦のための監視穴」も来ました。

 そういう、歴史の重層・ジグザグを通して、現在があるんですね。

 古代史だけを考える「古代史マニア」より、もっともっと先へ生きたいと思います。

 


雨宮日記 8月26日(月) 谷川健一さん(24日)、森浩一さん(10日)永眠…

2013年08月26日 20時39分27秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月26日(月) 谷川健一さん(24日)、森浩一さん(10日)永眠…

 昨日、書かなかったのですが、昨日の朝刊を、朝(ボクも朝、起きるようになりました!)広げたら、谷川健一さん、24日に92才で死去、というかなり詳しい記事が載っていました。

 谷川健一さんの著作では、やはり『青銅の神の足跡』ですね。ぼくの手元にあるのは、1979年6月20日発行の集英社版、第1刷ですから、出版されてまっさきに買ったことになりますね。

 この谷川さんの『青銅の神の足跡』に強く、深く影響されて、ボクの「古墳・神社・遺跡・地名」探索が始まったので、いわば、ぼくの師匠です。

 ぼくにとって、「師匠」と言える人は、やはりカール・マルクスさん、谷川健一さん、そして森浩一さん、そして古田武彦さん(晩年の「東北王朝」論は論外で拒否しますが)、平和運動の谷中敦さんでしょうか。

 ☆

 『青銅の神の足跡』の内容で、遠州に関係する部分は、ここで、また紹介していきますね。 

 森浩一さんの著作と「遠州」というより「東海地方」とのかかわりについても、あまり一般市民の知識になっていないと想うので、書いていこうと思います。

 

 

 

 


雨宮日記 8月25日(日) 昨日と今日、お湿りの雨がやっと…

2013年08月25日 17時51分49秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月25日(日) 昨日と今日、お湿りの雨がやっと…

 全国各地では豪雨のところもありますが、浜松は昨日も今日も、ちょっと振っただけであっという間に止んでしまいました。

 今日の午後、少し強く降りましたが、すぐやんてしまい、今、夕方の夕陽がきれいです。

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 写真は、則子さんが作って、おいしかった「ゴーヤーのおやき」です。


遠州の遺跡・寺社・地名 107 都田の滝峯才四郎谷銅鐸

2013年08月25日 16時43分02秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 107 都田の滝峯才四郎谷銅鐸

 今まで紹介してないのが、おかしいくらいですが(もう何度も行っているのに)、細江テクノランドの南側の谷で、いま「どうたく公園」になっているところです。狭い入り口ですが駐車場があります。

 駐車場から階段を上がると「滝峯才四郎谷銅鐸」のレプリカが発掘時の状態で置かれています。(写真参照)。

 発掘時の状態は、地下20センチで「傾斜に対して横向きに」(浜松市博物館発行『浜松の銅鐸』)、つまり谷と等高線に平行して「横向きに、鰭(ひれ)を上下に立てて}埋められていました。

 飾り耳が目立つ近畿式銅鐸です。長さ72.7cm。

 この「銅鐸の谷」で発見された「6個」の銅鐸のうち、谷の最上流で発見されています。

 この銅鐸は平成元年/1989年12月28日に、大阪府八尾市のアマチュア研究者・羽間義夫さんが金属探知機を使って,現地で発見しました。すごいですね!

 ここは、駐車場の北東側に湿地があって、豊富な湿地植物があります。とくに今の時期は、いいですよ。

 銅鐸出土地点への階段も、8月末行った時点でも、濡れていて、地下水の豊富さを思い起こさせます。

  ☆

 実物は、たぶん「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にあるようです(平成23年4月1日より観覧料、無料に)。「あるようです」というのは、浜松市は市内の博物館類の小さなもの(合併前に各市町村がつくったもの)を整理統合しているので、いつなくなくるかわからないからです。

 もともと「細江町の銅鐸の谷」ですが。


雨宮日記 8月23日(金) 暑い中、遺跡・神社巡りを再開…

2013年08月23日 19時38分20秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月23日(金) 暑い中、遺跡・神社巡りを再開…

 今日も浜松は雨が降らず暑いです。昨日、『銅鐸の谷』が見つかったので、それを片手に、今日は午前中から都田へ車を走らせました。

 「銅鐸公園」を見て、湿地帯の生きものを見て、車で「銅鐸の谷」を走らせましたが、何も「看板」はなくて、何もわかりませんでした。

 それで、三方原台地の上へ回り込んで、「二宮神社」や「滝峯不動尊」を見ました。

 「滝峯不動尊」は、「銅鐸の谷」へ下りていく途中で、ずっと浜松は雨が降っていないのに、地下水が湧き出していて、谷へ川が流れていました。

 台地の北側なので、すごく涼しいです。

 なにに使うのか、大きな能舞台のような広間の建物がありました。

 この「水の信仰」については、また書きます。

 そこで携帯が鳴って娘から、「1時間後に、車で送ってくれる?」というので、「いいよ!」と発信して都田を後にしました。

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 その後、コジマ電器に寄ってプリンターのインクを買う。

 家に戻って,午後はゴミ出し。

 夕食後、則子さんと、「雑紙」の無料ステーションへ車で出しに。

 

 


遠州古代史の本 大野勝美さん『銅鐸の谷』丸善名古屋出版サービスセンター

2013年08月22日 21時03分32秒 | 遠州古代史

遠州古代史の本 大野勝美さん『銅鐸の谷』丸善名古屋出版サービスセンター

 一度紹介したかったんですけど、「地層」の奥深くに埋もれていた本が「発掘」で出てきたので,紹介します。

 大野勝美さんは「まったくのシロウト」のアマチュア考古学者で現在の浜松市北区三ヶ日町在住の方です。

 平成6年、1994年刊行なので、19年前ですね。

 浜松の古代史ファンでしたら、絶対おすすめの、必読文献です。というのは、旧細江町の「銅鐸の谷」で出土した銅鐸の出土地をひとつひとつ,リアルに踏査して書いているからです。

 浜松市内だけでなく、愛知県や全国の銅鐸出土地の踏査報告も魅力ですし、「銅鐸は何に、どのように使われたか」という点で、核心に迫っているとボクは思います。

 その「核心」については、少しづつ書いていきますね。

 今は、たぶん,古書店でしかないかもしれません。あるいは図書館で。

 


雨宮日記 8月21日(水)の2 わかりました!これ恋文(ラブレター)ですね!

2013年08月21日 22時00分11秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月21日(水)の2 わかりました!これ恋文(ラブレター)ですね!

 この「雨宮日記」の原形は、2人が結婚してから書き始めた「交換ノート」(と言っても、毎日、ぼくが1ページくらい書いて則子さんが1行くらい書く…)が十数冊残っています。

 そのあと、ぼくがパソコンで毎日打って「×××くんより××××へ」という文書に移行して。もちろん、則子さんの返事は歴史として残っていません。

 2つとも主な内容は、今日、2人はどうする、子どもをどうする、会議の文書をドウするという中身なのですが、この「雨宮日記」はそれの継続です。

  ☆

 2013年の8月21日になって、やっとわかったのですが、ぼくは、ずっと則子さんへの恋歌・恋文を毎日、書き続けていたんです。

 だから、それ自体として「恋歌」なので、返信があろうとなかろうと、それを発信した時点で満足なんですね。

 真夏の蝉が恋歌を歌い続けるように、夜の蛍の雄が光を発し続けるように、ぼくは恋歌を書き続ければ満足で…もちろん、返歌があれば、もう死んじゃうくらい満足かも。

 

 


雨宮日記 8月21日(水) 則子さんは湖西市へ、ぼくは静岡市へ

2013年08月21日 21時32分11秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月21日(水) 則子さんは湖西市へ、ぼくは静岡市へ

 則子さんは湖西市新居図書館での「原爆と人間展」の準備で、昼間、湖西市へ。ぼくは「浜岡原発裁判弁護団・原告団会議」で夕方、静岡市へ。

 この暑いのに、移動するときに、かなり疲れました。ウオークマンでマーラーの交響曲第9番や第10番を聞きながらでした。

 静岡駅からの新幹線で、こだまが数分遅れたので、おかしいなと思ったら、静岡県東部で豪雨だったようです。

 豪雨でも降ってもらいたいのですが、一滴も降りません。

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 会議の準備のために、昼間も,何回もコンビニへ行ってコピーをしていたので、今日は、8月には珍しく、ゴミ1袋も出ません。

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 夜8時過ぎ帰って来て、則子さんが作った「ゴーヤーのおかき、味噌味」がおいしかったです。則子さま、ごちそうさまでした。

 あ、ほんとうは「ごちそうさま」という言葉は、自分が食べてしまった「いのち」に対して感謝の言葉としていうのが正式ですけどね。

 「いただきます」というのも、ほんとうは「あなたのいのちを、自分のためにいただいてしまいます。ありがとうございます」という意味ですけどね。

 ☆

 今日は満月で、満月のお顔を薄い雲がお化粧していました。馬込川の川面に白い雲が移動していくのが映っていて、きれいでした。

 こういう心地よい夜を、則子さんとずっと、馬込川の堤防をどこまでも、どこまでも歩いていきたいです。

 まだ、もうすこし先まで歩けるのかな?いえ、ここまででも、十分、満足ですけどね。でも、もう少し先まで、2人で行けるなら、行ってみたいです。

 そして、2人で歩いた、生きた意味も書き残しておきたいです。むずかしいですけどね。2人の個人的ないのちの意味を、どうやったら一般化できるのかな?いや、個別具体的なこととして書き残す、そのことが難しいんですね。

 もちろん、2人別々なんだけど、2人別々ではないんですね。

 「一心同体」というのは大嘘ですし、そうなっちゃったら、これはもうダメなので…そこがむずかしいところですか。