雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

人間宇宙生命社会 44 井村喜代子『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)の紹介 2021072

2021年07月25日 14時43分34秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 44 井村喜代子『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)の紹介 20210725


 井村喜代子さん『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)の紹介をするのですが、実はまだ読んでいっません。


 ボクが見たのは『学習の友 2021年8月号』p64~67、萩原(はぎわら)伸次郎さんの論文「不破哲三『『資本論』完成の道程を探る』をめぐって」です。


 萩原さんは不破さんの著書を紹介し、プラスの紹介だけに終わっているように見えます。


 しかし、その最後、小見出し「井村喜代子氏の業績」のあと13行が萩原さんが言いたかったことだと感じました。こう書いています。


「ところで、不破氏がここで指摘した事実を、すでに50年も前に発見し、そのマルクスの残した課題にとりくんだ研究者がいたことを私たちは忘れてはなりません。


 慶應義塾大学名誉教授・井村喜代子は、著書『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)において、これを『資本論』において残された問題と理解し、マルクスのやり残したこの問題に果敢に挑戦し、『資本論』第2部第3編拡大再生産表式分析において解明されなかた、拡大再生産における生産と消費の関連について、詳細に論じたからです。


 井村氏のこの著作は、不破氏のいう「マルクスの新しい恐慌の考え方」にもとづく見事な作品といっていいでしょう。」(p67)

 以上、蛇足はつけません。みんなで、このことの意味を考えましょう。



人間宇宙生命社会 43 個人ひとりひとりで仲閒の範囲は違う 20210722

2021年07月22日 13時45分25秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 43 個人ひとりひとりで仲閒の範囲は違う 20210722


 「仲閒」という言葉・概念がある。


 たとえばぼくは20年くらい前、ある平和運動上の上司からある会合の別れ際、「仲閒なら仲良くしてくれよ」と言われたことがある。


 すでにぼくはそのころ、「一人ひとりにとって仲閒の範囲は違う」という結論に到達していたので、「同じ平和組織の役員だって、ぼくにとって仲閒とは限らない。平和運動は組織のなかで仲良くするのが目的なんですか」と瞬間的に思ったが、いいかえす時間はなく、けっきょくいいそびれた。


 いまでも、いや今こそ、ぼくはそう思っている。


 たとえば、ぼくのほんとうの「仲閒」は、たとえばぼくの妻・雨宮則子さんの「仲閒」とは微妙にちがうと思います。


 ぼくらはそれでいいのですが、問題は、ふつうの平和活動家が「平和活動家はみんな仲閒」と思っているかもしれないということです。そういう誤った認識を大声で訂正してあげる気は全然ないのですが、ふつうに交流のできる人となら対話してみたい気はあります。


 「レッテルを無批判に信じるな」


 「平和運動は宗教ではない」


人間宇宙生命社会 42 階級社会の成立とともに人間は王・皇帝・貴族の存在を必要とした 20210720

2021年07月20日 10時14分08秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 42 階級社会の成立とともに人間は王・皇帝・貴族の存在を必要とした 20210720


 日本社会には古くから「天皇家」という「神聖な」人たちがいる。その人たち「天皇家」のトップが天皇になる。


 もちろん、むかしは日本列島にも「王」はたくさんいた。


 ここは「日本」でさえなかった。この列島の一部を「倭」といい「倭国女王卑弥呼」や「倭の五王」がいた。沖縄は琉球といい、「王」がいた。


 そういう「王たち」を淘汰して、最終的に明治維新で今の「天皇家」が最終レースを勝ち抜いて「大日本帝国」のトップになった。


 いまの天皇家は「象徴天皇制」として残っている。他の世界の「王家」と同じことだと思う。


 まだ世の中は、どこも階級社会、人間は王・皇帝・貴族の存在を必要とする。だから階級社会が終われば、誰も王・皇帝・貴族の存在を必要としなくなる。


 気にしなくなるといっていい。自分が王・皇帝・貴族の末裔であると名乗っても、歴史的興味はもたれても、誰もそれによって「区別」「差別」「尊重」「ちやほや」はしなくなると思います。


 どうして階級社会では人間たちは王・皇帝・貴族の存在を必要とする必要とするのか、その心理的・社会的メカニズムについては別項目で考えます。


 現在の天皇家にかんしても別項で書くつもりです。期日未定。



人間宇宙生命社会 『資本論』ー自分なりの簡潔な中間まとめ  20210619   雨宮智彦

2021年06月19日 16時57分56秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 『資本論』ー自分なりの簡潔な中間まとめ  20210619   雨宮智彦





 『資本論』全3部を、ひとまず終えるにあたって「自分なりの中間まとめ」を簡単にしておきたい。細かく書けばきりがないし、いまはそんな時間もあまりない。つぎの『資本論』全3部を読むにあたって、自分の覚え書き・メモとして書きとめておくだけです。




『資本論』は第1に、形態の経済学だと思います。商品ー貨幣ー資本ー信用は、いずれも形態転換の1形態です。素材や内容ではありません。商品ー貨幣ー資本ー信用と発展していくのは「形態転換」によると思います。


 ですから「商品」「貨幣」「資本」「信用」を形態転換してやれば、「商品」「貨幣」「資本」「信用」ではなくなってしまいます。


 資本主義社会から共産主義社会への転換は簡単ではないが、いちじるしく困難なものではないと考えます。問題なのは「社会主義社会」の概念のあいまいさ・多義性でしょうか。




 『資本論』は第2に、主体ー客体の逆転・転倒の経済学です。


 本来は社会の主人公である国民・労働者は階級社会と資本主義のなかで最終的に主体でなくなってしまい、資本家の支配下・管理下におかれます。しかし、資本家も資本主義のなかで動かす主体でなくなり動かされる客体となり、「資本」が主体となります。


 そういう人間が物の支配下におかれる「物象化」「疎外」がおこり、人間を支配・管理します。『資本論』がていねいに教えてくれるとろです。


       4
       
 『資本論』は第3に生産・流通・消費のすべての段階で「貨幣」がはさがってくるために、「競争」「市場」「貨幣」があり「資本の剰余価値を追求する」かぎり、社会・国民の統制・管理はできないだろうということです。


 社会・国民の統制・管理ができないことと、「資本の剰余価値を追求する」ことが同等。メダルの両面ではないかと思います。


 このことはマルクス主義でも、あまり重視されていないと思います。しかし、『資本論』第2巻・第3巻では、そのことが深く分析されていると思います。それは『資本論』第2巻・第3巻を理解するうえでの中心課題だろうと思います。




 以上のことを、これからの『資本論』再読のガイダンスの1つとしながら、自分の中間まとめ「2~4」も正しいかどうかも含めて、学習していきたいと思います。




 『資本論』の学習に役だっている本として、マルクスでは『資本論草稿集 全9巻』大月書店(その1部が『剰余価値学説史』全集版)などが役に立ちます。『経済学批判』もいいです。


 マルクス以外では以下のマルクス主義経済学者の著者名をあいうえお順であげておきます。大谷禎之助さん、久留間鮫造さん(とくに『レキシコン』)、不破哲三さん、宮川彰さん。誰のものでも科学として批判的に読むなら有益です。以上。





人間宇宙生命社会 40 JR会社と歴史・自然の関係 伊場遺跡ー南アルプスー東京・髙輪築堤 20210617

2021年06月17日 16時58分41秒 | 人間宇宙生命社会

人間宇宙生命社会 40 JR会社と歴史・自然の関係 伊場遺跡ー南アルプスー東京・髙輪築堤 20210617


 『しんぶん赤旗 5月11日』(10面)「髙輪築堤ー世界的に珍しい 「海上鉄道」遺跡は全面保存を」という記事があった。切り抜いてあったのだが、今やっと見つかった。

 1872年(明治5年)、東京港区髙輪の海上に築かれた2.7kmの堤の上を列車が走った珍しい遺跡だ。

 ところがJR会社は、そのほんの一部30mだけを「移築保存」し、あとは破壊する、これを「記録保存」というのだ。

 これを聞いたとき、浜松市民のぼくは「ああ、またか」「浜松の伊場遺跡のように破壊されるのか」と思った。50年くらい前、浜松の伊場遺跡では国鉄による破壊にたいして市民と学者の保存運動がおこって裁判までおこなわれた。それでも伊場遺跡は無慈悲に破壊された。

 50年たっても「国鉄ーJR」の歴史軽視・歴史無視の姿勢はぜんぜん変わっていないようだ。

 同じような姿勢は南アルプスでの自然にたいする姿勢に現れていると思う。現代企業は歴史と自然を尊敬しなければ未来へは生き残れないと思う。



人間宇宙生命社会 39 人間の精神(心)の二重性について 202100613

2021年06月13日 08時20分34秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 39 人間の精神(心)の二重性について 202100613


 「人間の精神(心)は物質を反映する」というのは唯物論の初歩的基本的公理です。唯物論者でこれを否定する人はあまりいないでしょう。


 「物質」と「人間の精神(心)」を合わせて「実在」というと思います、たぶん。


 ところが「精神(心)」のほうは一筋縄ではいかない存在です。精神は物質を反映するんだけど、精神のなかには精神を反映する部分があるように思います。つまり自己認識ということです。


 自己認識の精神は物質を反映する部分と対立するのではなく、スペクトルの両側のように1つの虹の部分ではないでしょうか。


 その自己認識と空想・妄想・妖怪などとどういう関係にあるかは、まだわからない。創造ということと深い関係がありそうです。


 レーニンは物質の定義を書いていたけど、精神の定義を書いていただろうか?


 これから、いろろ考える。



人間宇宙生命社会 38 暴力について 20210525

2021年05月25日 18時37分36秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 38 暴力について 20210525


 この前、新聞に性暴力について出ていた。そこで暴力について考えたこと。


 性暴力は、暴力について分けると、① 肉体的暴力、② 精神的暴力、③ ①②の複合体としての肉体的=精神的暴力に分けられる。性暴力は、①②③のすべてに当てはまるのかな。


 その場所的なケースで分けると、家庭・会社職場・国家・学校・団体・都市農村・電車などに分けられよう。ようするにどこでも起きる。


 セクハラ・パワハラ・痴漢・飲酒強要・家庭内暴力・いじめ・おどし・命令なども暴力。


 暴力はそれを目的としているわけではない場合もある。暴力は他人の支配・管理のためにおこなわれるのが主な目的だからだ。


 お金がからむ場合はいちおう除いているが、同質の現象じゃないかと思う。


 暴力は知性がからむ人間社会的現象なので、いまのところ地球上では基本的に人間だけに見られます。サルなどに見られる「殺人的現象」は暴力ではないと思います。


 いそいで書いたので、あとで訂正するかもしれない。



人間宇宙生命社会 36 過去記録 25 哲学の学習14 量について その1 20210508

2021年05月08日 16時59分57秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 36 過去記録 25  哲学の学習14 量について その1 20210508

「哲学の学習14 量について その1
2010年03月22日 23時23分22秒 | 雨宮日誌


 数学から学ぶということですが、量とは何でしょうか。


 たとえば「お皿のなかに果物がいくつありますか」という場合で、「7個あります」というのは量です。


 数学的にいうと「お皿」の中に果物の「集合」があり、たとえばミカン3個とリンゴ4個の「集合」があります。
 
 量というのは、遠山啓さんによれば「3メートルの棒、高さ3メートルの家は、物体もしくは物質として存在するが、3メートルそのものは存在しない。つまり、量の背後にはじゃばらず物体もしくは物質が存在しているのである。」
 (『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』太郎次郎社、1984年新装版、p107)


 そして量とは、集合の要素が等質であるときに量となる。つまり、ミカン3個の集合、リンゴ4個の集合、あるいは果物7個の集合。


 そして、量よりさらに抽象的なものが数となります。たとえばミカン3個とリンゴ3個は量としては異なったものですが、数としては同じものです。


 つまり、集合 → 量 → 数、という概念の発展系列が考えられます。(遠山さんの同書、p82~83)
 
 量についての学習は次回に続きます。


 この遠山さんの本は、25年前に買ったので、今はどういう形で出ているのかは調べてありませんが、「水道教育」の著者として著名なので何らかの形で出版されているだろうと思います。」



人間宇宙生命社会 35 過去記録 24 人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20210506

2021年05月06日 09時52分10秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 35 過去記録 24  人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20210506




人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」
2010年03月19日 04時30分42秒 | 人間・生命・宇宙


 今年、森繁久弥さんが亡くなったあと、NHKラジオで深夜に、追悼放送があり、以前の森繁さんの録音が流れていました。


 その中で、森繁さんが「以前は、芸人というのは、芸のある人だと思っていたが、いまは、芸人というのは、芸+人だ、芸も、人もどっちもだいじだと思う」という意味のことを語っていたのが印象的でした。


 芸というのは、能力のことだと思います。
 それに対して「人」というのは、人間のなかで、ふつう「人格」とか「魂」とかいわれるもので、これが一人ひとりの人間の中心、司令塔なのだと思います。


 私のイメージでは、1人の人間の中心には「魂」「人格」とか呼ばれるものがあり、その周囲に、周りの人間や自然とコミュニケーションする「能力」が発達していきます。
 それを「労働力」「労働能力」と呼んでもいいでしょうね。


 「芸」という「能力」が発達しても、それは必ずしも「人格」「魂」の発達とはならず、その変質や後退になる場合もある、ということを森繁久弥さんは言っているのだと思いました。


 自分の能力が発達したことを、自分の「人格」「魂」そのものが発達して,他人より上に立ったように誤解してしまう人もいるのではないでしょうか。
 
 (未完、詳述します)」


人間宇宙生命社会 33 過去記録 22 哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包 20210430

2021年04月30日 14時14分58秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 33 過去記録 22 哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包 20210430


「哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包
2010年03月23日 04時14分13秒 | 人間・生命・宇宙

 遠山啓さんの本の続きです。


 遠山さんは、量を、まず分離量と連続量に分けます。
 そして連続量を、外延量と内包量に分けます。


 「物体もしくは物質に対するもっとも基本的な操作は合併である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水をあわせて1つにするような操作が、この合併という操作である。
 この合併に対して加法的なのが外延量であり、そうでないのが内包量である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水の体積がそれぞれ3リットルと5リットルだとすれば、あわせた水の体積は3リットル+5リットル=8リットルになる」
 「体積・重さ・値段などは問題なく加法的である。」(p107)
 
 「これに対して、合併が加法を意味しないような量も存在する。密度・濃度・温度・速度・単価などがそうである。20度の水と30度の水をあわせてかきまぜても50度にはならないで、20度と30度とのあいだのある値をとるだろう。つまり合併から加法がでてこないのである。」(p107~108)


 「べつのいい方でいえば外延量は“大きさ”もしくは“広がり”の量であり、内包量は“強さ”の量である」(p108)
 
 遠山さんは言います「このような内包量をくらべるのには計算という手段を必要とせず、感覚の助けによって判定することができる」


 つまり「熱い」「冷たい」「暑い」「涼しい」などの感覚で判定することができるということです。
 これは量?質?
 どっちなんでしょうか。



人間宇宙生命社会 32 過去記録 21 哲学の学習14 量について その1 20210430

2021年04月30日 14時14分22秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 32 過去記録 21 哲学の学習14  量について その1 20210430


「哲学の学習14 量について その1
2010年03月22日 23時23分22秒 | 雨宮日誌


 数学から学ぶということですが、量とは何でしょうか。


 たとえば「お皿のなかに果物がいくつありますか」という場合で、「7個あります」というのは量です。


 数学的にいうと「お皿」の中に果物の「集合」があり、たとえばミカン3個とリンゴ4個の「集合」があります。
 
 量というのは、遠山啓さんによれば「3メートルの棒、高さ3メートルの家は、物体もしくは物質として存在するが、3メートルそのものは存在しない。つまり、量の背後にはじゃばらず物体もしくは物質が存在しているのである。」
 (『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』太郎次郎社、1984年新装版、p107)


 そして量とは、集合の要素が等質であるときに量となる。つまり、ミカン3個の集合、リンゴ4個の集合、あるいは果物7個の集合。


 そして、量よりさらに抽象的なものが数となります。たとえばミカン3個とリンゴ3個は量としては異なったものですが、数としては同じものです。


 つまり、集合 → 量 → 数、という概念の発展系列が考えられます。(遠山さんの同書、p82~83)
 
 量についての学習は次回に続きます。


 この遠山さんの本は、25年前に買ったので、今はどういう形で出ているのかは調べてありませんが、「水道教育」の著者として著名なので何らかの形で出版されているだろうと思います。」



人間宇宙生命社会 31 自分と世界ーストレスをどう発散しうるか? 20210427

2021年04月27日 19時50分04秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 31 自分と世界ーストレスをどう発散しうるか? 20210427


 自分も含めて人間はみんな「他世界=自分以外の他の個人と世界」との軋轢をストレスとして抱えている。


 ボクはほぼ10~12年ぐらい前後ごとに自分の精神が狂うというふうに自覚している。そのころは気をつけないといけないということです。今はたぶんその中間の好調期。


 ボクはふつうには自分のなかに深く沈潜してしまう。洋上は嵐でも深海に潜ってしまえば、静かです。


 もうひとつストレスを発散するのには、宇宙と世界全体に自分を分散・散らばってしまう方法もあると思う。するとストレスもたぶん発散してしまう。


 まあ自分が弱いのか強いのかは、さっぱりわからない。たぶん弱いのを自覚しているから強いのかも。保障しないないけどね。


 簡単に「逃げる」のがボクだから。



人間宇宙生命社会 30 不破哲三さんの年譜 第1稿 20210421

2021年04月21日 20時52分11秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 30 不破哲三さんの年譜 第1稿 20210421

年譜 不破哲三 Ver1 20210421

 ☆まだきわめて不十分ですが、詳しい年譜が世間にはないためアップしておきます。
 ☆各項目の最後尾の小数字は月日(06は6月、0611は6月11日)を示す。
 ☆著書は明示されたもの以外は新日本出版社から刊行。




1930年 東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)に生まれる。本名・上田建二郎。兄         は上田耕一郎


1947年 日本共産党に入党


1952年 共産党東大細胞内でスパイ疑惑で長期の査問を受ける 2~4


1953年 東京大学理学部物理学科卒業
      鉄鋼労連に就職 


1956年 兄・上田耕一郎と共著で『戦後革命論争史(上)』(大月書店)を出版 12
     
1957年 『戦後革命論争史(下)』(大月書店)出版 01


1963年 「ユーゴスラビア修正主義批判」を『前衛11月号』『12月号』に発表 10~11


1964年 「現代修正主義とグラムシの理論」を『文化評論5月号』に発表 04
      日本共産党中央委員会に勤務する
      上田耕一郎とともに『戦後革命論争史』を絶版にする


1965年 『マルクス主義と現代修正主義』(大月書店、330ページ)出版 0415


1966年 ベトナム・中国・北朝鮮3国への日本共産党代表団団員


1968年 北朝鮮への日本共産党代表団団員 08


1969年 東京六区(江東・墨田・荒川)から衆議院議員に当選 12


1970年 第11回党大会で規約改訂による新ポスト・書記局長に選出される


1975年 日本共産党中央委員会社会科学研究所主催「理論・政策問題についての会議」で         「理論戦線の到達点と課題について」報告 09
雑誌『前衛11月号』に「理論戦線の到達点と課題について」掲載 10


1976年 「レーニンの「執権」論について、「生産手段の社会化」について」を雑誌『前         衛9月号』に掲載


1978年 「科学的社会主義か「多元主義」か」を雑誌『前衛1月号』に掲載 12


1979年 『続・科学的社会主義研究』(292ページ)出版 05


1981年 「宮本百合子没後三十周年記念の夕べ」で記念講演


1982年 書記局長を志位和夫に譲り、宮本顕治委員長の後任委員長に選出


1983年 雑誌『前衛8月号』に「民主集中制の原則問題をめぐってー党史の教訓と私の反         省ー」を掲載(p229~234) 07


1984年 キューバのハバナでフィデル・カストロと3時間20分にわたる会談 1120


1986年 『宮本百合子と十二年』出版 0920


1987年 心臓病(虚血性心疾患)の手術で委員長代行に仕事をゆだねて療養をはじめる 04
      第18回党大会で委員長を辞任し副議長に就任 11


1988年 『『自然の弁証法』ーエンゲルスの足跡をたどる』出版 0625


1989年 18大会5中総(第5回中央委員会総会)で副議長から委員長に復帰 06
パンフ『現代の世界をどう見るか ー 社会主義・資本主義の今日と未来 ー』   (日本共産党中央委員会出版局、45ページ)発行 1015


1990年 『科学的社会主義における民主主義の探求 ー マルクス、エンゲルス、レーニ         ンの活動から ー』(227ページ)出版 1005


1992年 『現代史のなかの日本共産党』(新日本新書、204ページ)出版 0420


1994年 『史的唯物論研究』出版 0220


1995年 雑誌『経済』に「エンゲルスと『資本論』」連載開始(15回) 09


1997年 『エンゲルスと『資本論』(上・下)』出版 0410


1998年 『レーニンと『資本論』①ー市場理論とロシア資本主義ー』出版 1025


1999年 日本共産党の東南アジア訪問団長として3国と香港を訪問


2000年 『日米核密約』(190ページ、定価本体950円)出版 0805
 委員長を志位和夫に譲り宮本顕治議長の後任議長に選出 1124


2003年 『マルクスと『資本論』ー再生産論と恐慌ー(全3巻)』出版 01~03
      衆院議員を退任(1969年より11回連続当選)
      第7回中央委員会で綱領改訂案を報告 07
      党本部の学習会で「「ゴータ綱領批判」の読み方 ー マルクス・エンゲルスの         未来社会論 ー」報告 0818
『前衛10月号』に「「「ゴータ綱領批判」の読み方 ー マルクス・エンゲル   スの未来社会論 ー」報告」掲載(p13~90) 09
      『「資本論」全三部を読む(全7冊)』出版(2004年まで)


2004年 第23回党大会で綱領改訂報告・討論の結語をおこなう 01
      『古典研究 マルクス未来社会論』出版 0720


2005年 『私の戦後六〇年 ー日本共産党議長の詳言ー』(新潮社、355ページ)出版


2006年 党大会で議長を退任し、常任幹部会委員として残留 0114
      雑誌『月刊学習 5月号』から「古典への招待」を連載 04


2007年 『日本共産党史を語る(上・下)』出版 0225


2008年 日本共産党本部有志で「資本論草稿輪読会」(2011年10月まで)
      『古典への招待(全3冊)』出版(2009年まで)
2006年1月の党大会で高齢などを理由に議長職を退任し、党中央委員会付属社会科学研究所の所長に就任した。
2010年 パンフ『「マルクスは生きている」公開セミナー講演録』(84ページ)発行 02


2012年 『『資本論』はどのようにして形成されたか』出版 0110
      妻・上田七加子『道ひとすじ ー 不破哲三とともに生きる ー』(中央公論新         社、236ページ、2980円)出版 0424


2020年 『マルクス 弁証法観の進化を探るー『資本論』と諸草稿からー』出版 0120
妻・上田七加子さん(91才) 0517
      『『資本論』完成の道程を探る』出版 1015



人間宇宙生命社会 28 過去記録 19 資本論の学習4 商品の交換価値(現象形態)と価値 20210413

2021年04月13日 18時44分31秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 28 過去記録 19 資本論の学習4 商品の交換価値(現象形態)と価値 20210413




「資本論の学習4 商品の交換価値(現象形態)と価値
2010年03月15日 04時08分26秒 | 人間・生命・宇宙


 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第4回目です。
 今回から価値とその「現象形態」である「交換価値」の考察に入ります。


 マルクスさんは言います。
 「交換価値は、さしあたり、1つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち、比率として現われる。それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。」(新日本新書①p62)
 
 そして「ある特定の商品、たとえば」300リットルの「小麦は、X量の靴墨、Y量の絹、Z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の商品と交換される。」
 「それゆえ、こういうことになる。
 第1に、同じ商品の妥当な諸交換価値は1つの等しいものを表現する。
 しかし、第2に、交換価値は、一般にただ、それ【交換価値】とは区別されるある内実の表現様式「現象形態」でしかありえない。」(p63)


 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。


 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)


 正確に雨宮流に翻訳して「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であり、相異なる量かあるいは同じ量であるが、交換価値としては、なによりもまずまったく同じ質であり、相異なる量である」という風になりますか。
 
 つまり 使用価値は 異なる質 異なる量か同じ量
     交換価値は 同じ質  異なる量か同じ量


 交換価値で「同じ質、異なる量」と私が規定するのは、等号「=」で結んだ等式「300リットルの小麦=akgの鉄」という場合には、小麦の交換価値と鉄の交換価値は、等式の左右で同じ量でなければならないからです。


 この交換価値の「質」をマルクスさんは、次のパラグラフでこう解説しています。


 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(p64)


 やっと、労働生産物という、商品を生産する労働の問題が出てきました。以下、続きます。


(お知らせ)一度投稿した原稿を後で見直して修正している場合があります。そういう場合は明示してありませんのでご注意ください。」



人間宇宙生命社会 27 過去記録 18 人間・心・集団2 自尊心と自負心 2010年03月14日 22時49分35秒 20210409

2021年04月09日 08時18分07秒 | 人間宇宙生命社会

人間宇宙生命社会 27 過去記録 18 人間・心・集団2 自尊心と自負心  2010年03月14日 22時49分35秒 20210409


「人間・心・集団2 自尊心と自負心
2010年03月14日 22時49分35秒 | 人間・生命・宇宙


 妻のN子さんとの会話から考えました。
 N子さんの知り合いに、自分もプライドの高い人で、自分の夫は他人より出世して偉い人だという感じの人がいるそうです。
 
 英和辞典を引いて「「プライド」って優越感とか自負心とか、ほとんど悪い意味なのね」「よく子供の自尊心を育てなさいというけど」と言うのでぼくは考えて答えました。


 「自尊心は大事だけど、それが変質して自負心、他人に負けないというマイナスの精神になるんじゃない?大事なのは、正常な自尊心がどうして曲げられて自負心や優越感になるかっていうことだと思う。そういう変質のプロセスを学習すれば、そうならないのじゃない?」
 
 「正しい自尊心が変質していくのは、正常ではない支配や従属の人間関係、差別や格差を受け入れてしまってあきらめて生きていたら、精神も変質していくと思うけど」


 その人はN子さんに「あなたは自分を持っていていいね」と言ったのだそうです。その人は、まだ見えているけど、もう自分を元にリセットして自分を自由にする余力はないのでしょうね。


写真は浜北区・不動寺の仏さまです【 ごめんなさい。今回は写真無しです 】。リラックスした、いいお顔でしょ?自分の心をきちんと持っているという感じです。


むかしの人は(いや、今生きている人も)、揺らぐ自分、自信のない自分、他人と比較してしまう自分を認識していて、そこから抜け出るためにも、神仏に祈って、自分の確立を願ったのではないでしょうか。」