人間・心・集団の学習8 自分と他人、自立と他律(つながり)
自己と他己、自分と他人、同じ人間(という生物種)で「個体」としては違う他人。
そういう関係を考えていきたいと思います。
すみません。未完で、続きます。
今日の行事の準備をして体調を整えているため書ききれません。
(10月8日の追加)
人間を自者の人格としてとらえると、自己決定論あるいは「自己責任論」にもなりますが、他方では、人間関係論・つながりでとらえることもできます。
このどちらかに偏るのではなく、この両者の統合として人間はあるのだと思います。
たとえば「人間性は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてそれは社会的諸関係の総体である」(マルクス「フォイエルバッハについての第6テーゼ」)。
これは部分的真実であると思います。これが全面的分析であると見誤ると、人間を社会的関係のあやつり人形にしてしまうのではないでしょうか。
たとえば1人の人間は、「資本家」あるいは「自営農民」あるいは「労働者」という階級的カテゴリーだけでとらえるのは狭すぎると思います。
そこには、その人間個人が、1人ひとりが「人間性」をもち「人格」であるという、自立した自己性が無視されています。
そういう意味で、人間を全面的に見る習慣をつけないといけないと思います。
写真は自分の注文したアイスコーヒーと、他人の注文したマンゴウアイス(だっと思う…)。
(10月9日(土)朝、追加)
もちろん「自立」していればいいということでもなくて「孤立」している場合もあるし、その自我が「お山の大将」であることもあります。
「つながり」「人間関係」があればいいということでもないですね。そのつながり・関係は、フラット(水平)な、平等な関係でないと、どんどん人格にゆがみを生じてくると思います。
そうか、もしフラットな人間関係でもそのつながりの先の相手の人格が歪んでいれば、そのゆがみをもろに受けてしまうと言うことですね。
いろいろな場合について考えないと、いけないですね。
それと、個人と個人のつながりではなく、集団全体の民主的性格が問題になるでしょうか。
今日は、ここまでにしておきます。
自己と他己、自分と他人、同じ人間(という生物種)で「個体」としては違う他人。
そういう関係を考えていきたいと思います。
すみません。未完で、続きます。
今日の行事の準備をして体調を整えているため書ききれません。
(10月8日の追加)
人間を自者の人格としてとらえると、自己決定論あるいは「自己責任論」にもなりますが、他方では、人間関係論・つながりでとらえることもできます。
このどちらかに偏るのではなく、この両者の統合として人間はあるのだと思います。
たとえば「人間性は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてそれは社会的諸関係の総体である」(マルクス「フォイエルバッハについての第6テーゼ」)。
これは部分的真実であると思います。これが全面的分析であると見誤ると、人間を社会的関係のあやつり人形にしてしまうのではないでしょうか。
たとえば1人の人間は、「資本家」あるいは「自営農民」あるいは「労働者」という階級的カテゴリーだけでとらえるのは狭すぎると思います。
そこには、その人間個人が、1人ひとりが「人間性」をもち「人格」であるという、自立した自己性が無視されています。
そういう意味で、人間を全面的に見る習慣をつけないといけないと思います。
写真は自分の注文したアイスコーヒーと、他人の注文したマンゴウアイス(だっと思う…)。
(10月9日(土)朝、追加)
もちろん「自立」していればいいということでもなくて「孤立」している場合もあるし、その自我が「お山の大将」であることもあります。
「つながり」「人間関係」があればいいということでもないですね。そのつながり・関係は、フラット(水平)な、平等な関係でないと、どんどん人格にゆがみを生じてくると思います。
そうか、もしフラットな人間関係でもそのつながりの先の相手の人格が歪んでいれば、そのゆがみをもろに受けてしまうと言うことですね。
いろいろな場合について考えないと、いけないですね。
それと、個人と個人のつながりではなく、集団全体の民主的性格が問題になるでしょうか。
今日は、ここまでにしておきます。