雨宮日記 2月27日(金)の2 自主独立の思考ということ
自主独立の思考という路線は楽しいです.だって、自分で自由に考える権利あるいは義務があるということですからね。間違う権利も保障されていますし。
則子さん曰く「智彦くん、また間違ったね?」
「はい、間違えました。だって科学は、間違えることで、失敗することによって進歩・発展するだから」
「だから、間違っても、ごめんなさいと、自分の誤りを謝る必要は無いのね?」
「うん、科学は間違った論文・間違った死骸の上に伸びていくんだから。」
「でも、間違っているか、正しいかどうかは、他人ではなく自分で決めるのが科学でしょ?」
「うん、そうだよ。だからこそ、多数決、多数が正しく、少数が間違っているのではないということ。1人ひとりに全責任がかかるのが科学で、そこが組織や宗教と違うということかな。」
「1人ひとりに決定権があるって、資本主義を超える社会である社会主義・共産主義社会と同じね?」
「そうだね。1人ひとりに決定権があるって、すごく重い。地球を支えられないくらい重いね。ぼくや則子さんやみんなが間違った決定をしたら、幸せな未来には行き着かないんだから。行き止まりの道、崩壊する社会、核戦争や破局的な未来に行き着くんだから。」
「でも、幸せな未来に行きたいよね」
「うん、行けるかどうかは、わからないけど、みんなで努力したい。これが、ただ1つの道だなんて決めつけをしないで、いろんな選択・いろんな道があるんだと分かって欲しいな。」
「則子さんは、智彦くんと40年近くいっしょに生きてきて、それはよくわかるけど、みんなにどうわかってもらえるかな?」
「科学・芸術・文化‥‥いろんな作品を具体化して、発信をしようね。則子さんの「自由律俳句」も、その1つだよ‥このブログもその1つ」
自覚的になったみんなが、いろんな発信をすれば、この末法世界も、少しは変わるかもしれません。変わらないかもしれません。親鸞の時代のように。
ぼくや則子さんは、ただ、自分や自分たちのできることをするだけです。結果は、わかりません。
もっとよくなれば、いいなと思いますが。よくなるかどうかは、結果です。