雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月28日(日) 今日はサ条約・安保条約発効の日…

2013年04月30日 06時06分26秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月28日(日) 今日はサ条約・安保条約発効の日…

 今日は4月28日です。

 1951年9月8日に日本の全権委員(代表は吉田首相)が署名した2つの条約、サンフランシスコ条約と、日米安保条約が1952年4月28日に「発効」しました。

  ぼくが生まれたのは1951年(昭和26年)8月27日で、サンフランシスコ条約の調印のために代表団が渡米する直前です。

 ぼく「雨宮智彦」の本名「信和」は、当時の新聞やラジオ報道で、サ条約を「信頼と和平」の条約と報道していたのを、ぼくの父が真に受けて、ぼくの名前に命名してしまったのです。

 ずっと自分の実名「信和」はきらいでしたが、まあしょうがないので、ペンネームは「知は力」の「知性」と、エネルギーの源泉であるわが妻の則子さんの「太陽」=「日」を足して「智彦」としました。

  ☆

 今日の「主権回復の日」政府式典に,保守のはずの沖縄県知事は出席せず、しかも天皇ご夫妻が退出する瞬間に、突然、不自然な「天皇陛下万歳!」の声。

 報道で「天皇陛下も壇上で一瞬立ち止まった」と書いてます。

  ☆

 実は「主権回復」どころか、アメリカの言いなりになって「安保条約」に調印し、当時の、今の自民党につらなる保守政権が、「主権と沖縄」をアメリカに「売り渡した」日です。

 つまり、魂をアメリカという悪魔に売った日です。

 「屈辱の日」なのか、どうかが問われています。

 あ!売った人、吉田首相以下の人たちにすれば「屈辱」も何もないですね。できるだけ有利に売るという、当然の「商行為」でしょうね。でも、二束三文で売られた側は?

 なにが信頼、なにが和平。

 

 

 


古代史ニュース 4月22日(月) 奈良県桜井市大福遺跡で「筒状銅器」発掘

2013年04月30日 05時32分52秒 | 古代史ニュース

古代史ニュース 4月22日(月) 奈良県桜井市大福遺跡で「筒状銅器」発掘

 もともとは別々の遺跡とされていた橿原市北東部の「坪井遺跡」と、桜井市北西部の「大福遺跡」は同じ「坪井・大福遺跡」と認識されるようになったようです。

 弥生時代前期から古墳時代まで継続する遺跡です。

 以下は「かしはら探訪ナビ」内の 「橿原市/坪井・大福遺跡」 を参照。 

 報道では、「弥生時代後期から古墳時代前期初頭」の地層から「筒状銅器」が見つかって、「銅鐸」を鋳つぶした再利用の可能性とあります。

 筒状銅器は、長さ9.1cm、直径2.2cm、厚さ 最大4mm、74gです。

 祭祀用の「やり」に固定する「目釘ぎ穴」があるとされています。

 そして「装飾用」?ともいう「すかし穴」があるのは、銅鐸と同じですね。

 銅鐸を作った同じ「工人」が作ったのかどうかです。

 筒状銅器は、いまのところ静岡県・岐阜県・愛知県・滋賀県など9県の10遺跡から出土していて、奈良県では初です。

 つまり、近畿の「銅鐸圏」より少し東に分布がずれて東海地方を中心にしているということですね。

 これは「弥生時代後期」なのか「古墳時代前期」なのか、考えないといけませんね。10例の出土状況がわからないと判断できないのですが、どうでしょうか。

  ☆

 報道では「筒状銅器」となっていますが「筒型銅器」とは違うとされているようです。

 つまり「筒状銅器」は、「弥生時代後期から古墳時代前期初頭」ですが、「筒型銅器」は「古墳時代前期(4世紀)後半から中期(5世紀)前半」とされています。

 つまり時代が違うのです。でも、似ている!

 この「筒型銅器」は、朝鮮半島との関係があるようです。おもしろい!

 大福遺跡の「筒状銅器」などの写真は、ネットで写真がいっぱいあるので皆さんの自分の目で見てください。

 おもしろいです!探求します!


雨宮日記 4月27日(土)夜 父の90才(卒寿)お祝い会でした

2013年04月29日 05時37分28秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月27日(土)夜 父の90才(卒寿)お祝い会でした

 ずっと準備してきた「中谷節三さん90才卒寿お祝い会」を、夕方6時から「ホテルクラウンパレス」(むかしの名鉄ホテル)3Fの「竹の間」でやりました。

 午後5時に遠鉄タクシーを呼んで、父と則子さんとボクの3人で乗りました。運転手さんと「いつからホテルクラウンパレスになったんでしたっけ」という話になって、「ああ、ちょうど2年半くらい前ですね。ボクが昼勤務になって、制服が変わった時ですね。名鉄タクシーが遠鉄タクシーに合併されたんですよ」と言われて、ああ、そうだっけ、と思い出しました。

 ちょうど玄関に着くと、目の前で兄(長男)の長男一家も、名古屋から車で着いたところでした。

 ぼくらの長女夫妻も到着。次女はメイワンでの仕事がおわってから来るので、開会に間に合うかどうか、という感じでした。

 兄と兄の長男一家は、今日、このホテルクラウンパレスへ宿泊するので、フロントへチェックインの手続きに。

 父とぼくらと長女夫妻で、エレベーターで3階へ。長女夫妻は今日、夫のTくんの実家の岡崎へ行くので大荷物です。

 会場に到着して、細長い部屋で3つの丸テーブル、会場の準備をしました。則子さんが考えた「花の名前のテーブルに、その実際の花を置く」ということで、買って来た花を花瓶に挿して置きました。

 長女のTさんに「今日の参加者から参加費もらうの、おねがい」と頼んで「いいよ」ということで、やってもらいました。

 長女の夫のTくんと「中谷節三さん90才卒寿お祝い会」の横幕を張りました。ちょっと小さかったですね。

  ☆

 参加の世帯ごとに、本「落葉松」と、今年の「市民文芸」をお渡しして、会を始めました。参加者は、体調の不良やカゼを引いたなどあり、22人でした。

 父の弟のT男さんが、入院先のM病院から車いすで「どうしても出たいから」と、息子のFさんが付き添って参加してくれて、みんな、ちょっとウルッとしました。

 意思表示はむずかしくても、周りの言うことは、ぜんぶわかるということでした。

 「次男の嫁さん」の則子さんに司会をしてもらいました。やはり、則子さんの「司会」は、安心してまかせられます。

 長男のYに乾杯をしてもらい、ぼくがあいさつ(則子さんの「司会」が早く終われ、短くしろ、とうるさかったです)をして、そのあと、花束の贈呈、則子さんの「絵手紙」の贈呈などなど、そして全員の自己紹介をしました。

 約2時間をあっというまに終えて、みんなで記念写真を撮りました。あっ!せっかく歌詞を準備した文部省唱歌「ふるさと」を歌うのを忘れましたね。

  ☆

 「落葉松」の補足を、当面、紙ではなくて、この「雨宮ブログ」でやっていこうと思います。

 

 

 


本と映像の森 251B 近藤誠さん著『「余命3ヶ月」のウソ』ベスト新書の索引

2013年04月27日 06時11分07秒 | 本と映像の森

本と映像の森 251B 近藤誠さん著『「余命3ヶ月」のウソ』ベスト新書の索引

 索引 あいうえお順

胃ガン     p97
胃ガン手術   p82
胃ガンの進行度 p100
逸見政孝さん  p41
イレッサ    p127~130
咽頭ガン    p86

エビデンス(医学的証拠) p132
延命効果    p61

ガン      p70~71、p79、p103~104
ガン幹細胞   p71、p105
ガン検診    p98、p135~137
ガン告知    p21
間接撮影    p143
肝臓ガン    p25
ガンと闘う   p73~76
がんもどき   p72、p102
緩和ケア    p28、p49

QOL ⇒ 生活の質(QOL)

抗がん剤    p58~62、p118~125
抗がん剤治療  p74~75、p116~127
甲状腺ガン   p95
告知 ⇒ ガン告知
固形ガン    p70
5年生存率   p26

サーバリックス p103
再生能力    p70
再発      p26

C てー 検査 p140~142
C てー 装置 p140
子宮頸がん手術 p87
子宮頸がんワクチン p103、p138
子宮頸がんワクチン「サーバリックス」 ⇒ サーバリックス
重粒子線治療  p89~91
食道ガン    p34~41
食道ガン手術  p34
人体実験    p117

スキルス胃ガン p41、p45~51
ストレス    p178

生活の質(QOL) p94
生存曲線    p56
生存率     p73
セカンド・オピニオン p112
舌(ぜつ)ガン p87
前立腺ガン   p95

総ガン死亡率  p95
早期ガン    p95

タバコ     p79

治療法     p159~163

抵抗力     p114
転移      p79
転移巣     p80

中村勘三郎さん p32~41

乳ガン     p43~45
「乳がん月間」 p101
乳がん検査   p136~137
「乳管内乳ガン」p44、p72、p137

肺ガン検診   p136
肺ガン4期   p30

PSA検査   p176
「ピンク・リボン」 p101

腹腔鏡(ふくこうきょう)手術 p83
副作用     p128~130
分子標的薬   p128

放射線治療   p37
ポリープ    p175~176

マンモグラフィ検査 p102、p136~137

無治療     p94

メタボ     p143~145
免疫      p113
免疫治療    p92

予防医学    p133
余命      p54~65
余命診断    p24~25
余命宣告    p18~23、p110

リード・タイム・バイアス p57、p60
リンパ節手術  p87、p111

 


本と映像の森 251 近藤誠さん著『「余命3ヶ月」のウソ』ベスト新書

2013年04月27日 05時59分09秒 | 本と映像の森

本と映像の森 251 近藤誠さん著『「余命3ヶ月」のウソ』<ベスト新書>、KKベストセラーズ、2013年4月20日初版第1刷、新書版、187ページ、定価本体686円+消費税

 本を注文しに行ったお店の店頭で見つけました。近藤誠さんの最新の本だと思います。近藤さんは、以下のように主張しています。

 医学的な「余命」の診断には3ヶ月以上かかる。
 診察していきなり「余命3ヶ月」という診断は、医師の脅し。
 余命にはすごく幅がある。本当はその人が何年生きるかは、わからない。
 ガンには本当の転位するガンと、似ているが転位しない「がんもどき」がある。
 「がんもどき」を「手術」してはいけない。
 本当のガンなら、すでに他に転位しているので、手術は無意味。


 中村勘三郎さんは、手術ではなく、放射線治療にとどめるべきだった。
 「放射線治療は手術より再発しやすい」という医師の言葉のトリック。手術ではガンを取り去るのだから、そこは「再発」するはずがない。
 予防医学、「ガン検診」「早期発見」で寿命を縮める。
 「検診」でガン死が少なくなったというデータはない。
 日本は医療放射線による被曝がひどい。
 手術や抗がん剤治療で苦しみ抜いて死に至る、ガンで死ぬのではなくて、手術や抗がん剤で殺される患者もいる。
 「抗がん剤治療」で余命が延びているように見えるのは、昔より早く発見できるようになったため終末が延びているという、統計上の錯覚である。
 無治療でも長生きする場合がある。

 今の日本で、大人が「病気」と思っているのは、ほとんど「老化現象」で医師にかかったり、薬を飲んで治せるものではない。
 日本人の3人に1人はガンで死ぬ。ガンと共生する生き方を考えよう。
 本当のガンがあっても意外に余命はあって、長生きできる。すぐ手術に走らないでじっくり考えよう。
 ガンと「闘う」(ガンを「鬼畜」のように敵視し根絶しようとする)のではなく、ガンと生きる選択がある。
 患者は医者と治療法を選ぶ自由がある。

 「原発」「放射能」と同じようなことが医学でも起きているようです。
 「ガン手術」「抗がん剤治療」「放射線治療」について、市民が自分で、知識と知恵と批判力を持ち、自分で判断することが求められる時代になったと思います。

 以下も参照してください。  本と映像の森 247 近藤誠さん著『患者よ、がんと闘うな』文春文庫 2013年03月23日 11時11分55秒


雨宮日記 4月25日(木)昼 珍しく予定のない日

2013年04月26日 05時37分57秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月25日(木)昼 珍しく、仕事以外の予定のない日

 午後2時頃目が覚めると、いい天気でした。則子さんは午前中、新しい仕事だったし、午後もいろいろ忙しそうなので、ぼく1人でカメラを持って散歩に行きました。まだ水曜日の雨で馬込川は増水しています。

 川が早いので、鴨類は見当たりません。いました!黒と白のオオバンが1羽だけ。繁殖期で残っているのに、あぶれ雄かあぶれ雌、でしょうか?

 アゲハチョウやキアゲハやモンシロチョウなど、蝶がたくさん飛んでいます。ハルジオンなど花もたくさん咲いています。

 雨の後の水たまり(最近完成した、携帯電話の電波塔の横です)で、ツバメが水浴びをしていたらカワラヒワが飛んで来てツバメを追い払いました。スズメも来ました。

 なんの変哲もない、普通の生きものたちですが、「ふつうであることが大事なんだ」と思います。鳥マニアや蝶マニアの中には、ひたすら「珍鳥」「珍蝶」だけを追い求める人、あるいは「種の数」を追い求める人もいますが、ぼくは「普通の自然」のなかの「普通の種」を見ていれば幸せです。

 ☆

 夕方、車ででかけ、事務所へ行って「今月の給料」をもらい、ついでに谷島屋三方原店(ぼくのいつも行く店です)へ行って、今月の注文をしました。

 「雨宮ですけど」と、いつものなじみの女性の店員さんに声を掛けたら、あっという顔をして「『邪馬台国』が来ていたんですけど、電話が変わったみたいで」と言ったので、「あ、すみません。携帯を変えたので」と。

 『季刊 邪馬台国』を買って、注文の紙を預けて、店内を歩いて、ガン治療問題の近藤さんの本を2冊買いました。

 ☆

 家へ戻って、遅い夕食を1人で食べてから、則子さんと、土曜日の企画をすこししました。父の誕生祝いの歌を、父の希望では、なんだか雰囲気が合わないので「ふるさと(うさぎ追いしかのやま…)」を歌おうと合意しました。

 丸テーブルが3個なので、則子さんは「テーブルに名前を付けたら?」と言うので、「いいね。花の名前をつけて、今咲いている花を飾ったら?」と提案したら、否決しないので、これで可決でしょうか。

 たとえば、たんぽぽ、なのはな、はるじおん、でしょうか?


雨宮家の歴史 6 父の著『落葉松』6 第1部の3 中谷家の誕生

2013年04月25日 05時57分36秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 6 父の著『落葉松』6 第1部の3 中谷家の誕生

 会計卒になった卓二は、最初被服課に配属されたが、すぐ服庫課に代わった。この服庫課が卓二の一生の職場となった陸軍被服廠の前身である。二年半、陸軍会計の勉強をした。

 卒の任務は糧秣(りようまつ)(編注①)の授受・倉庫監守・炊事・囚人警護と職制で定められていたが、会計に関する教育は、明治十九年、軍吏学舎(経理学校)開設まで一定していなかったから、局独自の方法で講習したものと思われる。

 陸軍会計事務手続きを定めた「在外会計部大綱条例」の実施手続開設書「記牒須知」などを基に様式簿記を修得して、明治二十年五月、陸軍三等書記(経理伍長)に任官し、名古屋鎮台(ちんだい、編注②)付となった。

 赴任するに当たり、卓二は上京以来五年ぶりに、養家のある大平を訪れた。妻子を同道するためである。故郷に錦を着て帰った訳であるが、ここで一頓挫をきたした。妻が首を縦に振らなかったのである。

 卓二の上京が合意だったのか、出奔だったのかは分からないが、とも角、そんな遠い所まで行きたくないと断られた。福井・金沢・富山など日本海に臨む北陸地方は一年の半分を雪に閉ざされる寒い国である。交通もままならぬところである。これには卓二も困り果てた。

 ところが、ここに強力な助っ人が現れた。卓二の生まれた船明と同じ天竜市二俣の、天井(あまい)儀平の次女まつであった。どうして彼女がしゃしゃり出て来たのか、詳しいことは知らないが、私はどこでもついて行くと言った。十五歳であった。当時の結婚年齢としては、別段早くはなかった。それだけ強い性格を持っていた。

 私たちには祖母となるまつは、後のち、私たちの生活に、良いにつけ悪いにつけ影響を及ぼすようになるのである(編注③)。 

 系図を見ると、私たちは中谷を名乗っているが、中谷の血は流れていない。中谷の血は養家のしまより長女のけんに流れており、私たちには卓二の河島家と、まつの天井家の血が流れているのである。

 また私たちは、中谷を「なかたに」と呼んでいるが、大平では「なかや」である。大平には、足立・沢木・平野・中谷の四つの姓しか無く、中谷は全部「なかや」である。祖父たちは、永年他郷で暮らす間に「なかたに」と呼ぶようになってしまったのであろう。

  しまは翌二十一年三月十九日付で正式に離婚し、自家を出て近くであるが、他村の家に嫁いでしまった。

 まつの入籍は後述するが、明治二十七年のことである。更に不思議なことは、先妻が離婚して他家へ嫁いでしまった養家ー卓二にはもう縁が切れた筈であるー中谷家を、明治二十九年に相続していることである。

 昭和十四年に「ヨーロッパ情勢は複雑怪奇」なる名言を残して退陣した首相があったが、中谷家も、ともかく複雑ではあるが、ここに誕生した。

(編注①)糧秣 兵隊の食料と軍馬が食べるまぐさ(秣)のこと

(編注②)鎮台 日本陸軍の編成単位。1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで存続し、「鎮台」から「師団」に変更された。

(編注③)まつ 父の祖母である「まつ」は父の次男である僕(雨宮智彦)にとっての「おおばあちゃん」であり、今回「中谷家年譜」を作成して初めてわかったのは、亡くなったのが1962年(昭和37年)だから僕が11才の時ということだ。僕が小さい頃の大家族(9人くらいだったと思う)の筆頭に君臨していたという記憶がある。ちなみに、父の母で、僕の祖母の「里子」が亡くなったのは1964年だとわかったので、ぼくにとっての「ちいばあちゃん」は、亡くなる2年前まで姑の下で生きていたことになる。

 ここに掲載するのは書籍『落葉松』そのままでは、ありません。ここでは新たに「編注②」「編注③」を追加しています。今後の掲載も、随時、補足をしていくつもりです。


雨宮日記 4月25日(木)早朝 朝5時には白々とする季節

2013年04月25日 05時41分23秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月25日(木)早朝 朝5時には白々とする季節

 仕事がおわる前の早朝5時過ぎには東の空が明るくなって白々してきます。今、家へ戻ってこれを打っていますが、午前5時42分、完全に明るくなって朝日が差してきました。

 昨夜の雨は深夜11時頃にあがって、今は青空です。今日は1日、いい天気です。

  ☆

 安倍首相が「侵略の定義がわからない」などと、まるで成績の悪い歴史学徒みたいなことを言ってます。

 「侵略の定義」をはっきりさせてから「侵略」した国家がどこにありますか?

 「わからない」「わからない」と自分の頭がよくないことを自分から公言する日本の首相、とても恥ずかしいです。

 ついでに「戦争の定義がわからない」と言えば、100点の模範解答でしたが、そこまで「100%ぼける」のは超恥ずかしくてできなかったようです。

 安倍首相は、まず「自分の侵略の定義」をきちんと述べるべきです。

 そして、定義を誰が、どうしようと、「侵略戦争」は「侵略戦争」です。

 日本の対中国・対東南アジア・対アメリカの「15年戦争」、北朝鮮・ロシア・中国による「朝鮮戦争」、アメリカによる「ベトナム戦争」、どれも「侵略戦争」だと、ぼくは思います。

  ☆

 富士山の活動の活発化について、新資料を得ました。別項目で述べます。

 

 


雨宮日記 4月24日(水) 一日中雨、天竜区春野で地滑り

2013年04月24日 21時41分13秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月24日(水) 一日中雨、天竜区春野で地滑り

 1日中雨です。夜中には止みそうです。

 則子さんは数日前から半日勤務で新しい職場に仕事に行っています。正式に1日勤務になるのは5月1日からです。日曜日ともう一日週2日休みです。

 数日前から浜松市天竜区春野の「杉」というところで地滑りで危険といわれ、昨日23日には実際に地滑りになりました。まだ拡大しそうです。雨で更に悪化するでしょうか。

 この地域は、ちょうど東海大地震の震源域の北の端あたりで、このまえ、南海トラフ地震の想定震源域の北の端の淡路で地震があったのと、もしかして共通の原因かもとも思いました。

 なんの科学的根拠もない、たんなる「勘です」が。

 三宅島直下で地震もありました。東日本大震災以後、日本列島に歪み・圧力がかかっているのは確かですので。


雨宮日記 4月23日(火)深夜 エイワックスもキツネも見ました

2013年04月24日 06時38分03秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月23日(火)深夜 エイワックスもキツネも見ました

 「希望 第2号」を事務所で600部,印刷しました。必死で8ページ、4回を印刷して、家に持って帰って、則子さんに「できました」と渡しました。

 しばらくして則子さんが「この活字は、だめ!読みにくいでしょ!」と血相変えて言うので、ぼくも、ちょっと切れてしまい「わかった!明日、印刷しなおすから。これは廃棄処分」と居直って、印刷物を持って2階へ行ってしまいました。

 しばらくして則子さんが「これは、これでいいから.次からは気をつけて」というので、まあ、なんとか仲直りしました。

  ☆

 ちょっとすねて、深夜の仕事に行く前、2階の寝室で寝ていたら、ヘンな夢になりました。

 夜、空を巨大な宇宙船(あきらかに宇宙人の)が降りてきて、地上に降り立つと、まるで巨神兵のように突っ立っています。則子さんとぼくは手をつないで、大都会を、空から発見されないように、必死で逃げていく夢です。

 どうなったのか、わかりません。

  ☆

 深夜の仕事では、夜空ではエイワックスを、地上では、かわいい若いキツネを見ました。

  ☆

 最近は,家に帰ってくると、明るくなってしまいます。眠るために、必死で、飲んで、飲み過ぎても午後起きるときにアルコールが匂って困るので、適当なところで飲むのを打ち切って,寝ます。

 いまから則子さんの寝ているお布団にいくのだけど、昨日のこと、まだ怒っているかな?ちょっと心配…で、ドキドキします。

 

 


原発・放射能ニュース 4月22日(火) また福島第1でネズミ

2013年04月24日 06時30分57秒 | 原発・放射能ニュース

原発・放射能ニュース 4月22日(火) また福島第1でネズミ

 3月にネズミが原因で、深刻な燃料プール冷却システムの事故が起きましたが、また今度も、変電システムの変圧器のなかでネズミが2匹死んでいるのが見つかりました。

 まったく、つぎはぎで、適当な「応急システム」のようです。

 現実の事態は、かなり深刻なのではないでしょうか?

 


雨宮日記 4月20日(日) 「希望2号」と「中谷家年譜」が完成寸前

2013年04月22日 06時07分49秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月20日(日) 「希望2号」と「中谷家年譜」が完成寸前

 ここ数日、必死で作成していた「浜岡原発永久停止裁判静岡県の会」のニュース「希望 第2号」が完成近くなりました。なんとか8ページです。

 あとは、事務局長に見てもらい(ぼくは、いちおう事務局次長です)、S弁護士に裁判関係の原稿を点検してもらえば完成で、印刷にかかります。

 来週末、27日(土)の父の90才お祝い会にむけて、本の付録でつける「中谷家年譜」がA4縦で5ページになりました。ほぼ、完成です。

 


本と映像の森 250 テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト2199」始まりました

2013年04月22日 05時53分32秒 | 本と映像の森

本と映像の森 250 テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト2199」始まりました

 「雨宮さんは、こんなのも見るの?」と言われそうですが、ぼくは「こんなのも」好きです!

 1974年にテレビ放映された「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクですが、実は、元のテレビは見ていません。1974年というと、大学をドロップアウトして「市民生協」で働いていた時代で、のんびりテレビアニメを見るような環境ではありませんでした。

 第2話から見たのですが、なかなか、いいです!

 波動砲の威力に、副長の真田さんが「破壊すべきはガミラスの基地だけだ。浮遊大陸全体まで破壊する必要があったのか」と司令室でみんなに言ったり、沖田艦長が「宇宙をも滅ぼしかねない。我々は禁断のメギドの火を持ってしまったのだろうか」と自問するシーン。

 毎週、見ても損はないようです。

 


雨宮家の歴史 5 父の著『落葉松』5 第1部の2  祖父の上京

2013年04月20日 20時01分34秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 5 父の著『落葉松』 5 第1部の2  祖父の上京

 Ⅰ 2 祖父の上京

  養子に入った中谷家は農家だったと思うが、祖父の卓二にとっては、この太平の土地と家とが、祖父の性格に耐え切れなかったのか、養家の長女しまとの間に明治十五年長女けんが生まれたが、翌十六年、妻子を残したまま一人で上京してしまった。合意の上だったのか、出奔だったのかはわからない。


  上京するといっても、現在のように簡単な時代ではない。鉄道は、新橋ー国府津(こうづ)間しか通じていないし、貧乏書生としては歩くしかなかったであろう。

 当地の日本楽器(現ヤマハ)の創始者山葉寅楠翁が、職人河合喜三郎とで作ったオルガンを、音楽取調所(今の東京芸大音楽学部)で調べて貰うために、二人で天秤棒でかついで箱根の山を越えていったのは、更にその四年後の明治二十年のことである。東海道線が全線開通したのは明治二十二年七月一日であった。

  東京は新開地であった。武士たちと、入れ替わりに全国から一旗揚げようと、あらゆる階層の人々が集まって来た。卓二もその一人であった。


 この時機、明治新政府は岩倉具視を中心として、天皇神格化の強調を伊藤博文が引き継いで、民権運動を弾圧するとともに、大日本帝国憲法の制定に向けて着々と手を打っていた。序章の昭和天皇の行幸は、この明治初期にその芽を吹き始めていたのである。

  父の話によると、卓二は橋本屋という口入屋(私設の職業周旋業)の紹介で、陸軍の人夫になったようである。何の伝手(つて)も持たないぽっと出の田舎者には、その程度の仕事しかなかったのであろう。

 陸軍人夫は陸軍省会計局に属し、身体強健な身長五尺一寸以上(徴兵検査と同じ)の者で、一人で六貫目以上の荷物をかつぎ、また三十貫目以上の荷物を積んで車をひき、各々一日六里以上の行進が出来る者でなければならなかった。私は果たして祖父が、そんな力のいる仕事ができたのかなと考えこんだ。

  賃金は一般人夫で一日四十銭であった。外地に派遣されると五十銭になった。しかし、現実は親方がピンハネして守られなかった。その為後年紛争が生じた。当時東京では、人力車夫の日当が二十~三十銭だったから、鉄道馬車の出現で仕事にあぶれた人力車夫から、陸軍人夫になる者が激増した。殊に日清戦争が起き、外地派遣で五十銭になった故もある。

 陸軍人夫は軍の下請けだったが、輜重諭卒(しちようゆそつ)(編注①)となって、正式に軍に編入されるようになったのは、日露戦争ごろからではなかったろうか。「輜重諭卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」と、輜重諭卒を揶揄する言葉がはやったが、そのいわれは私にも分からないでもない。

  陸軍人夫になったといわれた卓二が、約一年後に次ぎのような辞令を受けて、兵士となって正式に会計の勉強を受けることになった。そのことは、やはり卓二は人夫よりも、実務の方が身についていると思われたのだと思う。

 「 辞令
                       中谷卓二
  会計卒申付候事
        会計局付
   明治十七年九月十一日
    陸軍省会計局 」      

 明治五年二月、兵部省が陸軍省となり、第五局が会計部より明治十二年十月会計局となった。卓二が一生を陸軍人夫で終えることなく済んだのは、時の陸軍省野田会計局長のおかげであった。

 野田家は代々熊本藩細川家の勘定方を勤め、明治維新の時、野田は脱藩して京に走り、横井小楠(しようなん)(編注②)の門下に入って勤王方に属した。小楠が暗殺された後、東征軍の軍監となって、会津・函館戦に従軍し、維新後は青森県大参事(知事)となった。その際、派閥に関係なく困窮子弟の面倒をみて、書生や給仕として向学心に燃える少年たちにその場を与えてやった。その中に、のちの斉藤実・後藤新平・柴五郎たちがいた。

  野田は物事にこだわらない豪快な、面倒見のよい性格の持ち主であった。その藩政時代の経験を買われて陸軍に入り、明治十年の西南戦役には第二旅団会計部長となり、その後陸軍会計局長となった。会計局は発足したばかりで幹部は充足していたが、兵卒が足りなかった。それを補う為に、人夫の中からめぼしい者を選んだものと思われる。

  祖父は私の生前に亡くなったので、私には残っている一枚の和服姿の写真以外に、祖父の面影を偲ぶものはない。その写真の顔は父に似ていて、性格も同じように几帳面だったのではないか。それが野田局長の目にとまって、会計卒に採用された第一条件だったと思うのである。

(編注①)「輜重輸卒」  輜は軽い車、重は重い車。郡の輸送兵のこと。

(編注②)「横井小楠」  幕末の思想家・政治家。維新政府の参与となるが翌年暗殺され  た。

 


雨宮家の物 10(過去編) 昔のノートパソコン「メビウス」を捨てました

2013年04月20日 19時36分50秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 10(過去編) 昔のノートパソコン「メビウス」を捨てました

 むかし(いつか?不明)使っていた、シャープのノートパソコン「メビウス」は、夜、お酒を飲みながらパソコンを打っていて、うっかりお酒をこぼしてパソコンが消えてしまい、電源が入らなくなりました。

 さすがに、則子さんには告白できなくて、こっそり、奥の部屋の書棚にしまっていました。

 今年3月から、浜松市が公民館などで(「協働センター」と名称変更)、「使用済小型家電」の「ボックス回収」を無料ではじめたので、午後、則子さんがいないあいだに、曳馬協働センターへ捨てにいきました。

 ただし「小型家電」ですので、サイズが大きいと、設置したぼっくすの入り口から入りません。

 15センチ×30センチ×60センチが最大サイズです。

 このメビウスは、厚さ5.0センチ、縦24センチ、横29.4センチなので、余裕を持って入りました。

 携帯電話、ビデオデッキ、パソコン、ハードデスク、カメラ、音響器機、電話機、懐中電灯、時計、リモコン、ケーブル、ドライヤー、電気かみそり、ゲーム機、などなど、かなり、いろんなものを「回収」してくれるので、家のなかの「もう使わない物」を持って行こうと思います。

 ☆

 蛇足ですが「メビウス」は、18世紀~19世紀に生きたドイツの数学者で「メビウス・ループ(メビウスの帯)」を考え出した人です。

 ちょっと数学的に知識がなくて説明できないので、疑問に思った人は、自分で勉強してしらべてください。

 ようするに、空間と道がひんまがっていて、普通に歩いていくのに、なぜか、周囲の空間が「反転(わかりません!?、何が反転するの?)してしまう」という不思議です。