雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月26日(金) 則子さんは千羽鶴つくりで忙しい…

2011年08月27日 05時32分25秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月26日(金) 則子さんは千羽鶴つくりで忙しい…

 則子さんの実母のふでさん(故人)が追ってくれたり、「原爆と人間展」でみんなが追ってくれて広島や長崎へ持って行きそびれていた整理してない千羽鶴を、この際だからと、則子さんは針と糸でつなげて、最初の「千羽鶴」をつくりました。

 手渡されると、かなりずっしりと重いです。

 被爆者の会の会長さんとも相談して、9月26日に毎年、清水(現在の静岡市清水区)の鉄舟寺(てっしゅうじ)の慰霊碑前で開かれる慰霊祭で奉納しようということです。

 今日は、ぼくが「50代」「最後の日」です。

 則子さんが「明日はどんなケーキがいい?」と聞くので「ケーキはいらない。お酒がいい」と答えておきました。

 日曜日の長女の結婚式の写真を、整理してコンビニで1枚30円でプリントしました。1回目は2010円、2回目は630円でした。

 これから雨宮家関係の親族に近くは持って行って、遠くは郵送します。

 いまネットニュースを見たら、関東の大雨で東京の羽田空港が「冠水」して、水浸しでした。やはり地球環境の異常、異常気象ですよね。なんだか3・11での仙台空港の「冠水」を思い出しました。

本と映像の森 172 野尻抱介さん『沈黙のフライバイ』

2011年08月25日 22時46分23秒 | 本と映像の森
本と映像の森 172 野尻抱介さん『沈黙のフライバイ』

 野尻抱介さんのSFは初めて読みました。

 なかなかいい本です。

 「沈黙のフライバイ」は、地球外生命探査のために考えたアイデアを太陽系近傍のロス248という恒星の惑星系の住民が先に現実化して、太陽系に探査機を贈ってくる話。
 
 「轍の先にあるもの」は現実に2001年に小惑星エロスにNASAの探査機が着陸したときの写真の「蛇行谷」の謎を追って、有人着陸をめざす話。

 「片道切符」は、火星への有人飛行をめぐる計画機関と実際に飛ぶ宇宙パイロットたちとの葛藤を描いています。

 「ゆりかごから墓場まで」は、太陽電池を動力にして閉鎖生態系で生きられる宇宙服のような装置をテーマに、舞台をタイ・日本・火星と拡げていき…。

 「大風呂敷と蜘蛛の糸」は、若い女性・さえのアイデアから大きな凧のようなグライダーで風に乗り、宇宙へ行く話。

 ぼくとしては、「沈黙のフライバイ」と「「大風呂敷と蜘蛛の糸」の2編が好きですね。

 なお、野尻抱介さんのブログは、とてもいいです。おもしろい!「初音ミクさん」が大活躍です!このブログを読むようなまじめな人は知らないかな?ぼくは好きなんですけど。

 むかし読んでいた「SFマガジン」、1冊買おうかな?
 

雨宮日記 8月25日(木)朝 早朝、大雨でした

2011年08月25日 22時40分25秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月25日(木)朝 早朝、大雨でした

 8月半ばで退職した則子さん、ぼくの体調を心配して「今日は、智彦くんの仕事について行く」というので「眠らないでいてくれるなら、どうぞ」と言いました。

 あいにく雨っぽい天気で、仕事の前から遠雷が光り、鳴っていました。降ったり止んだりの天気でしたが、早朝、仕事を終える頃に、短時間の大雨になりました。

 二人ともずぶ濡れでしたが、則子さん、ありがとうございました。

 一緒に走りながら,約6時間、いろいろ話をしました、

雨宮日記 8月23日(火) 長女の結婚式の写真整理

2011年08月25日 22時30分50秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月23日(火) 長女の結婚式の写真整理

 自分のデジカメ2台で撮影した式の写真を、パソコンにダウンロードしました。長女のTさんが夜、「写真ちょうだい」と来たので、USBメモリーに入れて渡しました。247枚でした。デジカメの時代は、やたらと撮影してしまうので、あとの整理がたいへんです。

 「雨宮家の側の親族には、ぼくが整理して渡すから」ということにして、パソコンのなかで、それぞれの家のフォルダーをつくって、渡したい写真をそこにコピー・貼り付けしていきます。

 あとは、このフォルダーをコンビニに持って行って、プリントするだけです。

 自分のパソコンでプリントすることもできますが、インクの心配をしなくて良いので、できるだけコンビニで1枚30円ですることにしています。


雨宮日記 8月22日(月) 次女と将棋をしました

2011年08月25日 22時25分11秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月22日(月) 次女と将棋をしました

 結婚式も終え、ホッとした翌日、次女は日曜日・月曜日休みなので、ほんとうに久しぶりに将棋をIさんとうちました。

 写真は途中経過。ぼくも、かなり長い間、将棋は打ってないし、Iさんも始めたばかりなので、お互い素人将棋です。

 

雨宮日記 8月21日(日) 長女のTさんの結婚式でした

2011年08月23日 05時28分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月21日(日) 長女のTさんの結婚式でした

 朝、次女のIさんは、ピアノのリハーサルをするので、先にT夫妻といっしょに行きました。 

 滅多につけないネクタイをどう結んだらいいか、わからなくて、則子さんに「ごめん、手伝って!」と救助をたのんで、なんとか形をつくって、3人でタクシーに乗って東伊場の呉竹荘に向かいました。

 ここの教会で「人前結婚式」をあげました。

 式の前に、ドレスを着たTさんと彼氏が雨宮家の控え室に着たので、Tさんの友だちの若い女性たちなどとの写真をカメラマンとして撮影しました。

 我が子とはいえ「こんなにきれいになって(「サンライズ・サンセット」)という感じで、すこしウルッとしました。

 30何年前の則子さんの花嫁姿を思い出しました…則子さんも可愛かったな…いまも可愛いけど…。

 教会での式が無事進行して…外に出て坂道を「フラワーなんとか…」で二人に花びらをみんなでかけました。

 そして、花嫁にはびっくりの「いちごケーキカット」を花婿さんが準備していました。

 式の後、親族だけで会食をしました。

 お互いの「親族紹介」をして、花婿のTさんから「なれそめ」を聞き、則子さんはやけに「やめなさい」と止めたのですがボクが「ミュージカル・屋根の上のバイオリン弾きから、サンライズサンセット」を歌い、いろいろ楽しく語り合いました。

 花婿の弟さんが、アフリカのナミビアに農業指導に行っていて、アフリカの「○○○」の話にはびっくりしました。日本のよりは少し大きいそうです。

 「ぜひ、ぼくたちの里山に来て下さい」という話をしました。

 料理が多いというか、「まだ出るのか」という感じにはちょっと閉口して、最後はもうギブアップでした。おじいちゃんに「無理して食べなくていいよ」と言いました。

 ちょうど会食になるまでは、移動で外を歩くのですが雨は降り出さず、会食になってから降り出して、会食が終わってから雨がひどくなりました。暑くならなくて、よかったです。

 いい結婚式でした。

 花婿のTさん、花嫁のTさん、ありがとう。

 近くに住んでいるので、いつでも遊びにと言うか、2人で土曜の夜は、飲みに来て下さいね。

 考えてみれば、則子さんが結婚したときの年齢と、Tさんの今の年齢はいま同じくらいで…なにか共通するモノがあるんでしょうか?違いは、ぼくたちの場合は知り合ってすぐで、Tさんたちはかなり結婚前が長かったのが違いでしょうね。

 <追加> 8月25日に教会での式の写真を投稿しました。
 

雨宮日記 8月20日(土) 則子さんは娘のアルバム作り…

2011年08月23日 05時21分30秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月20日(土) 則子さんは娘のアルバム作り…
 
 則子さんの「無職」の第一週ですが、忙しいようです。

 明日の結婚式を控えて、今週は、ぼくの洋服と父の洋服を心配し、毎日3度の食事をつくり(もっともぼくは午後まで寝ているので、夜の食事しか食べないのですが)、自衛官人権裁判の勝利報告集会の準備をし、雨宮家を代表してお通夜と葬儀に出て…。

 今日は、長女のTさんに贈る写真アルバムの仕上げをしていました。やはり、元保母さんなだけに、ぼくは写真だけ入れればいいんだろうと思っていたけど、写真の解説をして、表紙を紙を切って文字をつくり、と、ボクから見ると「かなりこって」いました。

 

遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 その2 江戸の檜前氏

2011年08月20日 17時48分39秒 | 遠州古代史
遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 その2 江戸の檜前氏
 
 森浩一さんの著書『地域学のすすめ』(岩波新書、2002年)の「関東学を提唱する」のなかに、浅草にいた檜前氏のことが書かれています。

 「応永年間(1394~1428)の『武蔵国浅草寺縁起』」に「推古天皇の時代に、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)という兄弟がいて、隅田川の河口近くの海で魚を捕っていたときに、網で一体の仏像を引き上げた。それを土師(はじの)真中知(まつち)が調べてみると、観世音菩薩像だと分かったので、簡単な草堂をつくって祀った。その草堂が浅草寺の紀元であるという」。

 森浩一さんは檜前氏の2人は必ずしも浅草の住民でなくてもいいとし、『万葉集』の二十巻の「4413」首から「武蔵国那珂郡」「檜前舎人(とねり)石前」という人を紹介している。

 この那珂郡は、森浩一さんは、今の埼玉県美里町のあたり、つまり浅草から隅田川水系で80km上流としている。

 朝鮮やヤマト・西日本から東日本へ移住するにしても,一カ所への「転居」というより船を使った「地域」内外、あるいは「小地域」内外の交流を考えないといけないということでしょうね。

 つまり、海上交通が盛んな時代に,古代三河遠州地域では、今の愛知県東部と静岡県西部とは目と鼻の先で、直前の「三遠式銅鐸」の盛行からからいっても「一つの地域」として考えるべきではないかと思います。

 つまり、同じような住民が住んでいて自由に交流していたのではないかと。

 なお、ヤマト明日香の「檜前」は、『古事記』の「第28代宣化天皇」が「檜○(「土」偏に「向」)庵入野宮に座し」とあります。『古事記』に「ひのくま」が出てくるのはここだけのようです。

 檜前をもうすこし続けます。

雨宮日記 8月19日(金) いろいろ忙しかったけど…

2011年08月20日 05時49分27秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月19日(金)いろいろ忙しかったけど

 則子さんいわく「仕事を辞めたのに、なぜか忙しい」
 ぼく「仕事を辞めたから忙しいんでしょ?」

 午後、暑くて眠れなくて、ぼくが起きてくると、則子さんは結婚式で娘に両親が贈る「写真アルバム」をつくっていました。
 
 ボクがシャワーを浴びて、ヒゲを剃って出てくると「智彦くん!今日は、市役所へ行かないと!」と言うので「あ!そうだ!はい!」と。
 
 今日が市役所のロビーで夏に毎年開いている「原爆と人間展」の最終日なので、展示の片付けにいくのです。

 午後4時、被爆者の会のYさんと、浜松市健康福祉部の若い女性職員2人、則子さんとボクで片付けをしました。

 それから午後5時前、曳馬公民館に寄って、則子さんの退職に伴う「国民健康保険」への加入手続きのための書類をもらいました。
 
 それから、遠鉄上島駅前の携帯電話ショップに寄って、ボクの古びた携帯を新しくする手続きをしました。

 ドコモの携帯なのですが、かなり古くなって、スイッチを押しても作動しなくなっているのです。
 
 最初、紹介されたのは定価4万数千円もするので「同じ種類の機種でなくていいですから」「韓国製の安井のでもいいですから」と、2万数千円のにしてもらいました。

 ポイントが1万1千円あるので、現金では1万5千円です。

 夜は、谷島屋三方原店に、父の本3冊を買いにいっていきました。
 
 家に帰ってから、則子さんに「えっと、日曜日の式の準備なんだけど」と言うと「あ!そう!智彦くんの髪を切って、洗髪しないと」と言って、台所で髪をシャカシャカ、無料で切ってくれて、無料で洗髪してくれました。

 これは長女が「お父さん、みんなにむさくるしく見えないように、お母さん、よろしくね」と言い残していったので…。

 夜中、仕事に行く前…則子さんと…楽しかったです…何ヶ月?…何年ぶりかな?
 

遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 その1

2011年08月20日 05時23分10秒 | 遠州古代史

遠州古代史 浜松「曳馬(ひくま)」と古代の「檜前(ひのくま)」 その1

 奈良県高市郡明日香村の大字檜前(ひのくま)は、朝鮮からの渡来人の里です。

 朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)から、ここに移り住んだ人たち(当時は「朝鮮人」さえなく、高句麗人・百済人・新羅人・あや人・から人でした)は、「東漢(やまとのあや)氏」と呼ばれました。

 よく古代朝鮮3国と言いますが、ぼくは「古代朝鮮4国」というほうが実態にあっていると思います。つまり、高句麗・百済・新羅の他に、朝鮮半島南端に存在した「から国」「あや国」と「倭国」をきちんと認識しないといけないと思います。

 その「から国」「あら国」「南朝鮮の倭国」は、百済や新羅に圧迫されて滅んでしまう、とても悲しい運命の国々です。

 だれか、この悲しい運命の人々を書いてもらいたいです。

 つまり檜前(ひのくま)に住んでいた渡来人たちは、朝鮮南部の「あや」「あら」あるいは「かや」「から」と呼ばれていた土地から移住してきました。「移住」というより「追い出された」という方が事実に近いでしょうか。

 朝鮮系の「あや氏」なのに、なぜ中国の王朝である「漢(かん)」の字を使っているかというと、同じ「から」の発音に「加羅」ではなく、中国の王朝である「唐(とう)」の字を使うのと同じで、8世紀の「日本国」の成立以後は、朝鮮よりも中国が先進文明であるとされ、朝鮮は「記紀」でも日本の従属国家として低い位置に描かれたこによるようです。

 この「檜前(ひのくま)」と、浜松の「曳馬」をなぜ同一視できるかというと、この檜前(ひのくま)」から出た渡来人の坂上氏(さかのうえし)、とくに坂上田村麻呂さんが、この浜松でも伝説として残っているからです。

 つまり、天竜川に住んでいた赤龍の女性と結婚して海を鎮めた坂上田村麻呂の伝説が、この地方にはいろいろ残されています。

 もちろん、そういうメスの龍が実在したと言うことではなくて、そういう伝説を信じていた民族が浜松に移住してきたと言うことです。

 それは南朝鮮の「あや」「あら」「から」「かや」からの渡来人で、ぼくは、その人たちは、三河から遠江に濃く移住して、その土地が「曳馬野」となったと思います。

 以下、続きます。

 


雨宮日記 8月18日(木)の2 ぼくの「国民健康保険料」決定通知書

2011年08月19日 05時52分25秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月18日(木)の2 ぼくの「国民健康保険料」決定通知書

 歴史的に見たときに、2011年における雨宮家の収支決算を記録しておくため、できるだけ細かく収入・支出を書いています。今日は「国民健康保険料」です。

 8月1日付けで「決定通知書」が「浜松市 中区長」さんから来ました。

 確定保険料の内訳は 

 基礎賦課額 一般 被保険者分 50000

          退職 被保険者分 76200

 介護納付金賦課額 一般 被保険者分 16800

               退職 被保険者分 26300

 後期高齢者支援金 一般 被保険者分 19900

               退職 被保険者分 29800

 以上の合計  21万9000円

 なお、「一般 被保険者分」はボクの分で、「退職 被保険者分」は、則子さんの分だろうと思います。2人分を、ぼくの金額にかかってくるわけです。この金額は、ぼくの現在の収入の月額14万5000円の約2ヶ月分です。

 これを8月31日から4月2日までの毎月、8期に分けて支払います。雨宮家の場合は、静銀上島支店から口座振替にしてありますので、口座の預金があるかぎりは、自動的に落とされます。

 第1期は2万8600円で、第2期から第8期はそれぞれ2万7200円です。

 いわゆる「国保」ですが、ぼくは則子さんの言う「医者嫌い」で「お父さんと智彦君を足して2で割るとちょうどいいのに」と則子さんに言われています。 

 たとえば、自動車事故を起こさないと車の税金って減りますよね?病院に行かなければ「国保料」も「優秀国民」として減らして欲しいですね。

 だって、「国民健康保険料」だけずっと支払っていて、すくなくともこの数年間以上は、まったくお医者さんには行ってません。

 1年に何十回とお医者にいく人と、1回も行かない人が同じ保険料、それは「理不尽」「不公平」でしょ?

  ☆

 この「通知」には、「お知らせ 浜松市国民健康保険料は、世帯単位で算定します。算定された保険料は、その世帯の世帯主に請求されます。

 世帯主の年齢が、65才以上75才未満であり、かつ、その世帯の国保加入者の年齢が65才以上75才未満の場合には、世帯主に支給される年金から、国民健康保険料を納めていただきます。(特別徴収になります)。」

 ボクは国民年金で、今のところ、65才から支給される年金は月5万円です。その5万円の年金から「特別徴収」されるわけです。あ~あ。

 

 


震災・くらし情報 8月18日 浜松市がHPの放射能情報を更新

2011年08月19日 05時46分32秒 | 地震・原発・津波・防災情報

震災・くらし情報 8月18日 浜松市がHPの放射能情報を更新

 前に紹介した浜松市の下水道放射能測定の第1報から第5報までを須玖リンクしてある「浜松市公共下水道における下水道汚泥中の放射性物質濃度について」というページがアップされました。

 以下、紹介します。

 

浜松市公共下水道における下水道汚泥中の放射性物質濃度について

2011年8月18日 更新
第一報 印刷用(PDF:104KB)
第二報 印刷用(PDF:117KB)
第三報 印刷用(PDF:108KB)
第四報 印刷用(PDF:97KB)
第五報 印刷用(PDF:165KB)
1 目的
福島第一原発事故による放射性物質拡散の影響に関し、下水汚泥等に含まれる放射性物質濃度を測定することで、再利用先への副次的影響を与えないため、浜松市中部浄化センターにおける下水汚泥の放射線量測定を行なったので、結果を報告します。
2 調査概要
 調査箇所  中部浄化センター:脱水汚泥※
 調査核種  放射性ヨウ素(I-131)、放射性セシウム(Cs-134,137) 
 測定方法  γ線スペクトル測定(ゲルマニウム半導体検出器による) 
 試料採取日  平成23年8月1日
3 測定結果
<colgroup span="1"><col span="1"></col><col span="1" width="45"></col><col span="1" width="180"></col><col span="3" width="90"></col></colgroup>
試料名称 放射性ヨウ素(Bq/kg) 放射性セシウム(Bq/kg)
  ヨウ素-131 セシウム-134  セシウム-137  合計 
脱水汚泥 不検出 不検出 16 16
※脱水汚泥とは、下水を処理する際に発生した汚泥から水分を取り除いたものです。
4 その他
  • この脱水汚泥は、西部清掃工場へ輸送し可燃ごみと混焼した後、西区平松町にある平和最終処分場(管理型最終処分場)にて埋立処分しています。
  • 脱水汚泥等(汚泥焼却灰含む)の放射性セシウム濃度が、8,000Bq/kg以下の場合には、管理型処分場に直接埋立処分が可能とされています。
  • 放射性物質が検出されたことから、今後、静岡県あて取扱要領に基づき報告します。
    参考【飲食物摂取制限に関する指標】
  放射性ヨウ素(Bq/kg)  放射性セシウム(Bq/kg)
 飲料水   300 200
 牛乳・乳製品   300 200
 野菜類(根菜、芋類を除く)  2000 500
 穀類  ― 500
 肉・卵・魚・その他  ― 500
※放射性ヨウ素はヨウ素-131、放射性セシウムはセシウム-134とセシウム-137の合計量
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お問い合わせ先

浜松市上下水道部下水道施設課

震災・くらし情報 8月18日(木) 福島の子どもたちに日本の未来が見えます

2011年08月19日 05時32分34秒 | 地震・原発・津波・防災情報

震災・くらし情報 8月18日(木) 福島の子どもたちに日本の未来が見えます

 福島の子どもたちが東京へ行き、政府・原子力の関係者と会話をするニュースを見ました。

 子どもたちの「毎日、毒の中で生きている」「集団疎開を」の声が切実でした。政府の大人たちが、子どもたちの声に正面か応えずに「努力しています」「持ち帰って検討します」みたいな回答に、女の子が「私の聞いたことに答えてないです」と何度も聞き直す場面をみました。

 終わった後、男の子が「あの人たちは子どもの頃に、人の質問にちゃんと答える勉強をきちんとしなかったんだと思います」という意味を述べていました。

 日本が戦後、敗戦の反省から再出発したように、戦後を66年経って、いまこの「福島3・11」を見据えている子どもたちとともに再出発できるかどうか、すべての大人たちが問われているように思います。

 未来はそこに見えます。

 逆に、なんとも情けない政府関係者に、日本の「過去」を見ました。

 


雨宮日記 8月18日(木)朝 生と死、結婚式と葬儀の交錯する今週

2011年08月18日 06時23分04秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月18日(木)朝 生と死、結婚式と葬儀の交錯する今週

 16日の火曜日夜に、父の弟のTおじさんの奥さんKさんが亡くなったと聞いて、あたふたして、ちょうど12日に辞職した則子さんに、いろいろと対応してもらいました。

 それにしても、今週は、日曜日21日に、わが長女のTさんの結婚式を控えて、その準備がまだ終わっていなくて(まあ花嫁の父母ですので、たんに「花嫁に贈る写真アルバム」の準備がまだというだけですが)、結婚式の服の準備もあり、なんか忙しい気分です。

 生と死が連鎖して、過去から未来へ連なっていくんですが、それを途中で断ち切る死やアクシンデントもあるんですよね。

 ぼくは、別に、長女のTさんや、次女のIさんに「雨宮家を未来永劫、繁栄させてね」というような、おかしな期待は持っていないので。

 ぼくと則子さんは、子どもをつくりたいので、つくっただけですから。

 2人目のIさんは、ぼくが「経済的に2人目は無理じゃない」と「正論」を述べたのに、30代後半を迎えた則子さんが、悲しそうな顔をして「もう2人目は産めないのかな」と言って、ぽろぽろ涙を流したことから、則子さんの夫の智彦さんが「則子さんを悲しませたくないから」と、2人目をつくるけついをしたことからですから。

 前にIさんに「きみは則子さんの涙から産まれたんですよ」と言ったような、言わないような。

 結婚式の前の葬儀、たぶん、結婚式の感動の深さをつくってくれるような気がします。


雨宮日記 8月17日(水)夜 おじさんの奥さんのお通夜でした

2011年08月18日 06時01分22秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月17日(水)夜 おじさんの奥さんのお通夜でした

 父・節三さんの弟である浅田町のおじさんの奥さん「kさん」が、救急車で運ばれて急に亡くなったので、今夜は中沢でお通夜でした。 則子さんと相談して、ぼくは毎週外せない実務に行って、則子さんにお通夜に参加してもらいました。

 Kさんとは小さい頃の方が、話をしていたように思います。浅田町(当時は浅田町でしたが今は「浅田何丁目」になっています)の家へ、家族みんなで遊びに行ったこともあるような記憶があります。

 則子さんが帰って来て「娘さん姉妹のみなさんと話をして、むかし、智彦くんや智彦くんの妹とおじさんたちで、木曽の御岳に登った話を聞いたわ」と言っていました。

 そういえば浅田のおじさんに、小さい頃、佐鳴湖にハゼ釣りに連れて行ってもらった記憶もありますね。

 もしかしたら、佐鳴湖の付近で白い兎を見た記憶は、そのときのこと?小さい頃は、あまり「野外派」ではなかったので「家の中」や「図書館」が好きでしたから、自分だけでアウトドアにでかけることは、あんまりなかったですね。

 松城町の家から間近の、浜松城の「森」で遊ぶのも、かなり、元城小の友だちと約束したから、のような気がします。

 「そういえば…」という程度の淡い記憶がありますが、若い頃の精神的な病いのせいなのか、何か脳の欠損があるのか、今は20代以前の鮮明な記憶が、なぜかあまりありません。

 なぜでしょうね?

 小さい頃のことを考えると、こんなに「里山」や「生命」や「自然」にかかわるようになった自分に、びっくりしますね。

 則子さんには、明日も,葬儀に雨宮家を代表して参加してもらいます。よろしく、おねがいします。

 いま8月18日の朝、シャアシャワシャワとクマゼミさんが鳴いています。