上海阿姐のgooブログ

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新大久保の思い出

2011年04月05日 | 普通の日記
東日本大震災以降、関東にいた多くの外国人が帰国した。
企業派遣で来日している場合はほとんどが会社命令で本国に帰国したが、進学や業務のために日本に残っている外国人もいる。東京の場合、感覚的にいうと「半分は帰国したけれど、半分弱は残っていた」のではと思う。地震から3週間くらい経ったところで戻ってきた人もいる。

先週の週末(3月26日)、同僚が日本に残っている中国人や韓国人の人に会いに大久保に行った。
数年ぶりにこのエリアに行ったという同僚は、とても驚いていた。

「新大久保が異様に賑わっていてびっくりした。韓国料理屋の前に人がいっぱい並んでいたし、韓流グッズを売ってるお店もすごく混んでいた。」

JR山手線新大久保駅には開札が一つしかない。
開札を出て左(西)に曲がるとJR総武線の大久保駅につながる「大久保エリア」になる。大久保エリアは中国人向けの店が多い。駅の周りには楽器店が多く、特に良質の中古管楽器を扱う店が多いことで有名である。
駅の北側は意外と静かな住宅街になり、しばらく行くと海城高校や早稲田理工学部など学校が集中する緑の多いエリアになる。
一般的に「新大久保」と呼ばれるエリアは、駅改札を出て右に曲がり、JR山手線の線路を縦の境界にし、北は大久保通り、南は職安通りまでのエリアを指す。職安通りを越えると歌舞伎町となる。

新大久保には韓国芸能ショップや気軽に入れる韓国料理店が並び、原宿竹下通りを思わせる活気に溢れている。韓国語教室などもあり「韓国カルチャーの町」となっている。

少し前まで新大久保はこんな町ではなかった。

新大久保は危ないところだった。

今からもう15年近く前、1990年代の後半、新宿区に住んでいたことがある。
新大久保にも友達が住んでいたので時々遊びに行った。
当時の住民の言葉によると、西部新宿線新宿駅の北口からJR山手線新大久保駅までのエリアは、「山手線内では最も治安の悪い区域」であった。
新大久保は「コリアンタウン」というわけではなかった。
韓国人や韓国料理の店も確かに多かったが、中華系の店や、東南アジア系外国人も多かったと思う。
中華料理、タイ料理、ベトナム料理、シンガポール料理という名で福建料理を出す店、食料品や雑貨を売る店が点在し、日本語がほとんど通じない場所もあった。
路地裏には「あそこの公衆電話は国際電話がタダでかけられるように改造されている」と噂が流れるほど、いつも外国人が長電話している電話があった。偽造カードが流行った時期もあったし、偽造でなくてもいろいろな国際テレホンカードが使われていたと思う。
一方で、楽器店や本屋なども多く、昼間は楽器を修理に出しにくる学生の姿が大久保通りに見られれた。
韓国系の店は新大久保にもあったけれど、職安通りや新宿区役所の裏あたりに多かった。それも女性同士で気軽に入るという雰囲気ではなかった。

当時の新大久保には外国人の風俗業関係者が多く、次から次へと新しい外国人グループが入ってきていた。
よく新大久保の友達と遊んでいた時期は、ロシア・ルーマニア系が多いと言われていた時期だった。
友達は夜銃声を聞いたことがあると言っていた。
「警察も努力しているけれど、なかなか浄化できない。いやでしょうがないけれど、ここが実家でしかも一戸建ての持ち家だから住むしかない。」とよくこぼした。彼女の家は自営業だった。

新大久保駅から職安通りの間には簡易宿泊所が何軒か並んでいた。今でもあると思う。
当時、新大久保や高田馬場には日雇い労働者をピックアップするスポットがあって、朝7時頃の牛丼屋などには、出勤前の労働者が集団で朝ごはんを食べに来ていた。
早朝に酔っ払いが多く、道路も何となく汚れていて、夜よりも早朝の方が殺伐としている印象がある。

例えば今から10年前。
2001年のことを思い出してみると、日本ではC-POPのCDの方がK-POPよりも遥かに手に入りやすかった。
大型CDショップには「アジアン・ポップス」というジャンルがあり、レスリー・チャン(張国栄)やフェイ・ウォン(王菲)のCDが沢山並んでいた。中華芸能(香港芸能)のCDやグッズを専門に扱う店もあった。K-POPを専門に扱う店は見たことがなかったが、中華ポップスのCDの棚の中に安在旭(アン・ジェウク)のCDが混じっていたりした。

2002年の日韓ワールドカップも新大久保が変わるきっかけになったが、その後のヨン様ブーム、東方神起、そしてK-POPブームが新大久保の町の様相を大きく変えたのだと思う。

かつて、「うちはこの近辺で唯一まともな通りにある」というのが新大久保に住む友達の最大の慰めであった。
他の通りには風俗関係の店やラブホテルがあるが、彼女の家がある通りにはそれがないのだという。なので、夜遅くても比較的安全に帰宅することができると言っていた。

私が泊まりに行くときは、お座敷に布団を敷いてもらって友達と2人で並んで寝た。

新大久保で眠ったあの頃。

友達と2人で畳の部屋に布団を並べて、未来のことをたくさん話したけれど、いったい今の何を予想できただろう。

友達の家があるのはどこだったか。
新大久保に行くたびに思い出そうとするが、今ではどの道も「まともな通り」、というか韓流グッズの店が増えすぎて、友達の家がどこにあるのか分からなくなってしまった。

【写真:本文とあんまり関係ないです。新宿靖国通りから歌舞伎町方面へ。】

コメント (12)
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