カッパもでそうな長田峡。
次回関連の資として昨年分の2話、再掲載です。
↓
ひさしぶりにクマゼミが騒がしくなった15日朝。気温が体温よりも熱く
なりそうな気配だったので、涼を求めて三股町の長田峡へ行った。
都城から北郷に抜ける33号線にのり、この案内板が見えると そこが
長田峡。この峡谷は、鰐塚山地南斜面のシラスや溶結凝灰岩の層からな
る日南層群(7千万年前~2千6百万年前)の台地を、沖水川が侵食して
つくりだした峡谷なのです。
車を駐車場に置き、その駐車場からせいぜい10段ほど階段を降りるだ
けで すぐに深山の趣きを感じられるのが、この渓谷の最大の魅力なの
です[東京の等々力渓谷の立地を連想させられますね]。
お薦めは下流側から。
幅10メートルほどの川の流れに沿って設けられている遊歩道を、上流
に向かってのぼっていくと、数分もしないうちに川の様子が荒々しく変
化します。
ののの
堰[せき]です。
この9メートルほどの堰から、ごうごうと勢いよく流れ落ちる大量の水。
この水のつくり出す水しぶきが、ひやっとした清涼感をつくり出します。
ののの
その堰の上流では、堰の下とはまたちがった表情を見せてゆったりと流
れる沖水川。
ワサビが自生したり、清流にしか棲まないといわれているカワネズミが
いるという、流れる水そのものの清らかさ。この汚染されていない水の
存在もまた、この峡谷の魅力なのです。
つづく。
◎ 沖水川周辺では、河童は“がぐれ”とよばれています。そのがぐれ。
2枚目・右上の写真の 川岸の平らになった岩のあたりに座って
腰掛けていそうな、そんな気がしてしまいます。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」
三股町由来のカッパのはなし。gb
前回は、長い年月をかけて沖水川がつくり出した長田峡をご紹介しました。そし
て、この長田峡の周辺では、
● 沖水川周辺では、河童は “がぐれ” と よばれていること
● その がぐれ に関するはなしが 伝承されている
というお話を、すこしばかりさせていただいたのです。そんなことを考えながら
毎年夏が近づくたびに涼を求めて長田峡の周辺に通っていたのですが・・・本年
の4月末に 寝耳に水のビッグニュースがとびこんできました。
なんとそれは、「都城市にある都城島津伝承館にて4月19日から6月22日ま
での間、江戸時代に三股町の川岸で銃殺されたカッパの手足が初公開される」と
いうもの。
その都城島津伝承館によるカッパの手足の写真 こちら 。
そしてこの展示に関する新聞記事が こちら となります。
この新聞記事にはありませんが、じっさいにはもっと詳しい謂われが、この手足
とともに伝わっており、その添付文書によると
文政年間、侍の上村休助が現在の三股町梶山でカッパを銃で射止めた後、急病
になったが、 友人の大川原世則が修験者にまじないを頼み回復。世則は休助か
らお礼にカッパの両手足をもらい、 一対を同家に献上した
と記されているのだそうです。
カッパの手足が本物か否かももちろん気になりますが、それよりも事件に関する
詳細と関係する人物のはなしが、このような文章という形としてはっきりと残って
いるのがすごいなと、
でかけていった都城島津伝承館でカッパの手足を眺めながら、わたしは思いました。
ちなみに 添付文書にある三股町梶山。この場所は 長田峡よりも 下流にあり
ます。・・・ということはですよ、 梶山よりも沖水川の上流にあたる長田峡や、
もっと上流には いまでも カッパ/がぐれ が いてくれないかなぁって ねが
わずにはおられませんでした。
つづく。
◎ それにしても上村休助さん。見かけたカッパをいきなり[だと思う]撃つって
いうのも、すごく豪胆ですねっ。よっぽどカッパが悪さしてたのかしらん。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」
次回関連の資として昨年分の2話、再掲載です。
↓
ひさしぶりにクマゼミが騒がしくなった15日朝。気温が体温よりも熱く
なりそうな気配だったので、涼を求めて三股町の長田峡へ行った。
都城から北郷に抜ける33号線にのり、この案内板が見えると そこが
長田峡。この峡谷は、鰐塚山地南斜面のシラスや溶結凝灰岩の層からな
る日南層群(7千万年前~2千6百万年前)の台地を、沖水川が侵食して
つくりだした峡谷なのです。
車を駐車場に置き、その駐車場からせいぜい10段ほど階段を降りるだ
けで すぐに深山の趣きを感じられるのが、この渓谷の最大の魅力なの
です[東京の等々力渓谷の立地を連想させられますね]。
お薦めは下流側から。
幅10メートルほどの川の流れに沿って設けられている遊歩道を、上流
に向かってのぼっていくと、数分もしないうちに川の様子が荒々しく変
化します。
ののの
堰[せき]です。
この9メートルほどの堰から、ごうごうと勢いよく流れ落ちる大量の水。
この水のつくり出す水しぶきが、ひやっとした清涼感をつくり出します。
ののの
その堰の上流では、堰の下とはまたちがった表情を見せてゆったりと流
れる沖水川。
ワサビが自生したり、清流にしか棲まないといわれているカワネズミが
いるという、流れる水そのものの清らかさ。この汚染されていない水の
存在もまた、この峡谷の魅力なのです。
つづく。
◎ 沖水川周辺では、河童は“がぐれ”とよばれています。そのがぐれ。
2枚目・右上の写真の 川岸の平らになった岩のあたりに座って
腰掛けていそうな、そんな気がしてしまいます。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」
三股町由来のカッパのはなし。gb
前回は、長い年月をかけて沖水川がつくり出した長田峡をご紹介しました。そし
て、この長田峡の周辺では、
● 沖水川周辺では、河童は “がぐれ” と よばれていること
● その がぐれ に関するはなしが 伝承されている
というお話を、すこしばかりさせていただいたのです。そんなことを考えながら
毎年夏が近づくたびに涼を求めて長田峡の周辺に通っていたのですが・・・本年
の4月末に 寝耳に水のビッグニュースがとびこんできました。
なんとそれは、「都城市にある都城島津伝承館にて4月19日から6月22日ま
での間、江戸時代に三股町の川岸で銃殺されたカッパの手足が初公開される」と
いうもの。
その都城島津伝承館によるカッパの手足の写真 こちら 。
そしてこの展示に関する新聞記事が こちら となります。
この新聞記事にはありませんが、じっさいにはもっと詳しい謂われが、この手足
とともに伝わっており、その添付文書によると
文政年間、侍の上村休助が現在の三股町梶山でカッパを銃で射止めた後、急病
になったが、 友人の大川原世則が修験者にまじないを頼み回復。世則は休助か
らお礼にカッパの両手足をもらい、 一対を同家に献上した
と記されているのだそうです。
カッパの手足が本物か否かももちろん気になりますが、それよりも事件に関する
詳細と関係する人物のはなしが、このような文章という形としてはっきりと残って
いるのがすごいなと、
でかけていった都城島津伝承館でカッパの手足を眺めながら、わたしは思いました。
ちなみに 添付文書にある三股町梶山。この場所は 長田峡よりも 下流にあり
ます。・・・ということはですよ、 梶山よりも沖水川の上流にあたる長田峡や、
もっと上流には いまでも カッパ/がぐれ が いてくれないかなぁって ねが
わずにはおられませんでした。
つづく。
◎ それにしても上村休助さん。見かけたカッパをいきなり[だと思う]撃つって
いうのも、すごく豪胆ですねっ。よっぽどカッパが悪さしてたのかしらん。
「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」