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脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

てんかんと差別、病気と差別

2012年06月20日 | つぶやき

本日NHKハートネットTV「カキコミ深層リサーチ」で

午後8時から

「てんかんと向き合う」の2回目が放送されます。

 

病気と差別

 

何の罪もない人が、たまたまその病になったというだけで、

その病気の症状のせいで、

周囲の無理解と無知から、誤解や偏見や差別が生まれ、

長い歴史の中で、繰り返されてきた過ち。

 

ハンセン病しかり、水俣病しかり、てんかんしかり・・・・

 

特にてんかんに関しては、

私は子供のころから、

「差別」を身近に感じていた。

 

それは、私の母親が

「あとで気がつくてんかんもち」という言葉を自分や人に対して

発するのをよく聞いたからだ。

 

それはどういう意味かというと、

「ぼんやりしていて、物事を忘れていたり、忘れものをしたり、失敗などして、後でそのことに、ハッと気がつく」

人を笑いとばす意味の言葉だ。

「まるで、てんかん患者さんみたい。」というわけだ。

 

私はこども心に、どうして、こんなたとえ話が日常的に発せられるのだろうと思った。

今考えると、私の母のそのまた前の世代から、

こういった「差別言葉」が日常的に何のためらいもなく、普通に使われていたのだと思う。

 

それを思うと

てんかん患者さんに対する差別は、

今にはじまったことではなく、長い長い歴史があるのだと感じる。

 

てんかんと診断されていた人間が、

それを隠してクレーン車を運転し、

小学生6人を死亡させたあまりにも悲惨な交通事故。

(その発作を起こす病を招いた本当の原因は他にもあるのではないか?

たとえばなんらかの外傷など・・・

だって、幼いころ、その親が虐待していたと裁判で親自ら発言していたようだから。)

 

その後、ご遺族が起こしたその人が働いていた職場を訴える裁判や、

てんかん患者に対する無申告運転の厳罰化などの署名が提出されたニュースは

なぜか私の心を暗く沈めた。

 

私は何の罪もない交通事故で、

髄液漏れという目には見えない事故後遺症を負い、

それを長い間見逃されてきた被害者だ。

 

たとえ、命は助かっても、「あの時事故で死んだ方がむしろ楽だったのではないか」と

思うほど苦しんできた。

 

だから、悲惨な交通事故で

朝行ってきますと元気で家を出た、我が子を失くした親の、怒りも悲しみも苦しみも、私は

十分に想像はできる。

 

病気や症状を隠して、就職し、運転をし、しかも、あんな大きなクレーン車を運転する仕事にまでつかなくても、

よかったのにと、本人の無自覚への怒りも私にも起こる。

 

怒りの矛先を、その成人した人間だけでなく、その家族や親や、

その人間の職場に向ける気持ちもわかる。

 

その運転手の病を申告されず、

知らなかったという職場の責任を問い、

職場に損害賠償を求める気持ちもわかる。

 

交通事故被害者の気持ちは、私は命は助かったけれど、

同じ交通事故被害者として、

遺族の怒りや悲しみは十分想像はできる。

 

それなのに、

なぜか私は、患者側の気持ちや、その職場の人の気持ちや、家族の気持ちをも、

同時に想像してしまう。

 

その署名提出により

多くのてんかん患者さんがさらに、悩み苦しむことも想像してしまった。

 

その病気になってみないと、社会のその病気に対する無理解はわからない。

けれど、

なぜか、私にはてんかん患者さんたちの、世間からの冷たい視線や無理解の中にある苦しみも、

想像することができる。

 

同じ脳外科の病で、

同じ社会の無理解と、症状による日常の生活しにくさを感じたり、

無知な周囲の誤解と偏見を恐れているからか。

 

本当の意味で、

こんな悲惨な事故や

悲惨な事故の悪循環を繰り返さないためには、どうしたらいいか、ずっと考えている。

 

それは、患者を厳しく取り締まることだけじゃない気がする。

運転免許取得時の申告制度の徹底と、無申告での運転の厳罰化だけじゃない気がする。

 

病気の人が、病気を隠さなくても安心して生きていける社会の構築が先だと思う。

 

病人が、安心して治療を受けられ、安心して社会復帰できる社会。

その仕組みなくして、本当の問題解決にはならないと思う。

 

 

長い歴史で繰り返されてきた、病気の正しい知識がないための、社会からの患者への差別。

誤解と偏見。

その過ちを、脳脊髄液減少症に繰り返してはならない。

絶対に繰り返してはならない。

 

そのためには、

患者自身も患者の家族も変わらなければならない。

脳脊髄液減少症になったことを、隠すことなく、

毅然とした態度で、訴えていなければならない。

 

隠そうとする気持ちが、

さらなる誤解や偏見、差別、を生むことにも気付くべきだ。

 

脳脊髄液減少症が治るなら、治らない病より

なおさら隠す必要なんかぜんぜんないのだ。

 

風邪にかかったことを隠す人はいない。

ケガで骨折したことを隠す人もいない。

それは、治療でやがて治る病だから、本人は安心して周囲に公表できるのかもしれない。

 

周囲も安心していられるのかもしれない。

 

ならば、脳脊髄液減少症も隠す必要なんて全くない。

 

脳脊髄液減少症は治るのだから。

 

 

脳脊髄液減少症の認知が、

日本全国、世界中に徹底すれば、 

診断治療する医師が増えれば、

早期発見、早期治療なに至れる患者が増え、

完治の確率はもっともっと上がるはずだから。

 

なに?

完治していないあなたの言い分なんて信用できないって?

交通事故での髄液漏れも、

長年の見逃され体験も、

数々の症状の苦しみも、

何も経験していない医師の言い分より、

実際の患者の言い分の方が

信ぴょう性があるにきまっているじゃない?

 

もう一度、いいます。

髄液漏れは治ります。

脳脊髄液減少症は治ります。

 

でも、それには、根気とコツと、お金と時間と、この病を治せる医師の正しい判断と治療と

自分自身の心構えが必要だけど。

 

根性論ではどうにもならないけれど、

患者が自分で何の治るための努力をせず、

根性ゼロで、医師や薬まかせで治そうと思ってもなかなか治らないけど。

 

てんかん患者さんの声に耳を傾けることは、

私たちにとっても必要なこと。

 

病になったために差別を受けることがないように、

悲惨なことが繰り返されないように、

 

今度は同じ差別や偏見が

脳脊髄液減少症に起こらないようにするために、必要なことだと思う。

 

ここにも書いてあるけど、

正しい知識を得て、

 「症状は多様で、ひとくくりのイメージにしてはいけない」のは

なにも、てんかんだけではない。

 

脳脊髄液減少症だって、

「症状は多様で、ひとくくりのイメージにしてはいけない」んだから。

 

「脳脊髄液漏れ患者は、起立性頭痛が100パーセントある」という考えは

まさに、多様な脳脊髄液漏れの症状の一つだけを取り上げて、

ひとくくりのイメージにしてしまった、間違いの典型例だと思わない?

 

水俣病だけでなく、てんかんからも

過去からの学ぶべき教訓は

たくさんあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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