今日はお天気だったのに、
私は、一日眠り続けていました。
半身がシビレて、手足に脱力が出ています。
呼吸も苦しい。
こんな日もあります。
患者の回復は簡単には進みません。
ブラッドパッチ後の療養生活こそが大変なのです。
長野智子さん、
取材と放送、そして
ブログに「脳脊髄液減少症」について、
いろいろ書いてくださりありがとうございます。
患者の味方ができたようで、すごくうれしいです。
長野 智子さんのブログ↓
http://yaplog.jp/nagano/
(10月18日、25日の記事をご参照ください。)
苦しい症状の最中に取材に応じてくださった患者さん方にも、
深く感謝申し上げます。
実は、報道ステーションの患者さんを見て
私が抱いた感想は なんと、
「うらやましい。」というものでした。
予想外?。
まさか、ああいう映像を見て、そんな嫉妬に似た感情を抱くとは・・・。
私って・・・・。
「靴下をはかせてくれる母がいて、うらやましい。」
「事故から1年以内とか数年で、病名が判明して、うらやましい。」
これが、長年放置されて、
症状の思考力低下や判断力低下、記憶障害で
何度も事故死しそうになっても必死で生き残ってきた、
私が抱いた正直な感想でした。
こんな私の気持ちをここに書くのは
非情な人間に思われそうで、ためらいました。
でも、本当のことなので、
これも
長年苦しんだ患者の気持ちとして、ありのままに
社会に伝えたいと思います。
今、衣食住は満たされていますが、
悪化した時も、退院後も
自分の身の回りのことは、ほとんど自分でこなしてきました。
こなさなければならない状態でした。
悪化でほとんど寝ていた時も、
はいつくばっても、自力でトイレに行かなければなりませんでした。
トイレまで、間に合わなかったら、
自分で洗濯しなければなりませんでした。
干すのも、たたむのも苦しい。
でもなんとか休み休みやらざるをえなかった。
誰もやってくれる人がいないから・・・。
食事もすべて自力で用意し、かたづけなければなりませんでした。
「だれかに助けてほしい。」
「ヘルパーさんが毎日きてくれたら」と何度も涙がでました。
日中一人ぼっちで寝ていると、
電話やら、ドアのチャイムやらが鳴っても
起きて出るのがまた大変で、苦痛でした。
だから、電話もドアチャイムも音がなると、
ドキッとして、
すべての外部からの接触が嫌いになりました。
「だれかがいつも、そばにいてくれたら・・・。」
「代わりに誰かが出てくれたら・・・。」そう何度も思いました。
自宅では安静療養は、意外に難しいのです。
ブラッドパッチ前も後も、毎日毎日が本当につらかった。
ブラッドパッチは数ヶ月かかって、改善していく治療法です。
その後の療養も、
医療や家族の支援のない状態では患者にとって本当につらいものです。
確かに、ブラッドパッチ後急激に改善した経験がありますが
すぐもとに戻り、本当の回復はその後数ヶ月かかって
少しずつ治っていくのです。
その、ブラッドパッチ後の数ヶ月の療養がまた苦しいのです。
ある日のひとりぼっちの日中
天井を見ながら、呼吸困難にひたすら耐えていたとき、
「どうして、こんな動けないほどの重症な状態なのに入院できず、
自宅療養を強いられるのか?。
なぜ、私より元気に動ける成人病の方がたが、長期入院できるのか?。」
と思いました。
これが、病名が認知されているか、いないか、
病気の苦しさ深刻さが認知されているか、いないか、の違いなのだと思いました。
理解がある病院が近所にあるなら、ブラッドパッチをした病院から
近所に紹介してもらい、もう少し入院していたかった。
それくらい、苦しかったのです。
けっこうがまん強い私が言うのです。
ウソではありません。本当につらかった。
でも、重症感は自分が感じるだけで、
周りや、無理解な近所の病院には、「病人」としてさえ認められないのです。
一人暮らしの患者さんや
周りの支援が充分に受けられない境遇の患者さんが
私以外にもたくさんいると思います。
私以上につらい状況に追いやられて
病名もわからないまま何年も人知れず苦しんでいる患者さんも
たくさんいると思います。
私は働いていませんが、こんなに悪化する前は働いていました。
働かざるを得なかったのです。
テレビに出てくださった方のような症状を抱えても、なお、
一家の働き手として、無理に無理を重ねて
生活のために働かざるを得ない
お父さんやお母さんがいるはずです。
たとえ、働かなくても家事や育児だけでも、
この病気を抱えての家事育児は、
ものすごく重労働のはずです。
あまりのつらさ悲しさに、
生きることを放棄したくなる気持ちは、よくわかります。
あの報道の影にいる
病名発見以前の、
もっともっと、長い年月苦しみぬいた患者たちの存在。
「病名」がなかったため、
医師の言葉でさらに深く深く、何度も何年も傷つけられた
「気の遠くなるような苦痛の年月」を
生き延び、または死んでいった、
多くの患者の存在も、報道してもらいたい。
本来、人を治療する場で、この病を知らなかったとはいえ
医療関係者がどんな「ひどいこと」をして、
患者を何年もさらに苦しめてきたか、取材して報道してほしい。
そう、思いました。
多くの視聴者の皆さんが
テレビで苦しむ患者さんたちをみて、純粋に
悲しい思いや、つらさを共感しているときに、
冷めた目で、「うらやましい」という感情を抱き、
複雑な思いまでも抱いた私。
この感情は、
この病気で誤解されたり、放置されたりして死んでいった方がたや、
人生を棒に振った多くの生き残り患者たちの
本音かもしれません。
こんな感情を抱くのは、もしかしたら私だけかもしれません。
でも、
「一刻も早く、この病気で苦しむ多くの方がたに、病名に気づいてもらいたい。」
「一刻も早く、社会に理解され、暖かく支援してもらいたい。」
という気持ちに変わりはありません。
そのために、このブログもはじめたのですから・・・。
この病気で苦しむすべての患者さんが、
一日も早く、笑顔と自由な人生をとりもどしますように・・・・
私は、一日眠り続けていました。
半身がシビレて、手足に脱力が出ています。
呼吸も苦しい。
こんな日もあります。
患者の回復は簡単には進みません。
ブラッドパッチ後の療養生活こそが大変なのです。
長野智子さん、
取材と放送、そして
ブログに「脳脊髄液減少症」について、
いろいろ書いてくださりありがとうございます。
患者の味方ができたようで、すごくうれしいです。
長野 智子さんのブログ↓
http://yaplog.jp/nagano/
(10月18日、25日の記事をご参照ください。)
苦しい症状の最中に取材に応じてくださった患者さん方にも、
深く感謝申し上げます。
実は、報道ステーションの患者さんを見て
私が抱いた感想は なんと、
「うらやましい。」というものでした。
予想外?。
まさか、ああいう映像を見て、そんな嫉妬に似た感情を抱くとは・・・。
私って・・・・。
「靴下をはかせてくれる母がいて、うらやましい。」
「事故から1年以内とか数年で、病名が判明して、うらやましい。」
これが、長年放置されて、
症状の思考力低下や判断力低下、記憶障害で
何度も事故死しそうになっても必死で生き残ってきた、
私が抱いた正直な感想でした。
こんな私の気持ちをここに書くのは
非情な人間に思われそうで、ためらいました。
でも、本当のことなので、
これも
長年苦しんだ患者の気持ちとして、ありのままに
社会に伝えたいと思います。
今、衣食住は満たされていますが、
悪化した時も、退院後も
自分の身の回りのことは、ほとんど自分でこなしてきました。
こなさなければならない状態でした。
悪化でほとんど寝ていた時も、
はいつくばっても、自力でトイレに行かなければなりませんでした。
トイレまで、間に合わなかったら、
自分で洗濯しなければなりませんでした。
干すのも、たたむのも苦しい。
でもなんとか休み休みやらざるをえなかった。
誰もやってくれる人がいないから・・・。
食事もすべて自力で用意し、かたづけなければなりませんでした。
「だれかに助けてほしい。」
「ヘルパーさんが毎日きてくれたら」と何度も涙がでました。
日中一人ぼっちで寝ていると、
電話やら、ドアのチャイムやらが鳴っても
起きて出るのがまた大変で、苦痛でした。
だから、電話もドアチャイムも音がなると、
ドキッとして、
すべての外部からの接触が嫌いになりました。
「だれかがいつも、そばにいてくれたら・・・。」
「代わりに誰かが出てくれたら・・・。」そう何度も思いました。
自宅では安静療養は、意外に難しいのです。
ブラッドパッチ前も後も、毎日毎日が本当につらかった。
ブラッドパッチは数ヶ月かかって、改善していく治療法です。
その後の療養も、
医療や家族の支援のない状態では患者にとって本当につらいものです。
確かに、ブラッドパッチ後急激に改善した経験がありますが
すぐもとに戻り、本当の回復はその後数ヶ月かかって
少しずつ治っていくのです。
その、ブラッドパッチ後の数ヶ月の療養がまた苦しいのです。
ある日のひとりぼっちの日中
天井を見ながら、呼吸困難にひたすら耐えていたとき、
「どうして、こんな動けないほどの重症な状態なのに入院できず、
自宅療養を強いられるのか?。
なぜ、私より元気に動ける成人病の方がたが、長期入院できるのか?。」
と思いました。
これが、病名が認知されているか、いないか、
病気の苦しさ深刻さが認知されているか、いないか、の違いなのだと思いました。
理解がある病院が近所にあるなら、ブラッドパッチをした病院から
近所に紹介してもらい、もう少し入院していたかった。
それくらい、苦しかったのです。
けっこうがまん強い私が言うのです。
ウソではありません。本当につらかった。
でも、重症感は自分が感じるだけで、
周りや、無理解な近所の病院には、「病人」としてさえ認められないのです。
一人暮らしの患者さんや
周りの支援が充分に受けられない境遇の患者さんが
私以外にもたくさんいると思います。
私以上につらい状況に追いやられて
病名もわからないまま何年も人知れず苦しんでいる患者さんも
たくさんいると思います。
私は働いていませんが、こんなに悪化する前は働いていました。
働かざるを得なかったのです。
テレビに出てくださった方のような症状を抱えても、なお、
一家の働き手として、無理に無理を重ねて
生活のために働かざるを得ない
お父さんやお母さんがいるはずです。
たとえ、働かなくても家事や育児だけでも、
この病気を抱えての家事育児は、
ものすごく重労働のはずです。
あまりのつらさ悲しさに、
生きることを放棄したくなる気持ちは、よくわかります。
あの報道の影にいる
病名発見以前の、
もっともっと、長い年月苦しみぬいた患者たちの存在。
「病名」がなかったため、
医師の言葉でさらに深く深く、何度も何年も傷つけられた
「気の遠くなるような苦痛の年月」を
生き延び、または死んでいった、
多くの患者の存在も、報道してもらいたい。
本来、人を治療する場で、この病を知らなかったとはいえ
医療関係者がどんな「ひどいこと」をして、
患者を何年もさらに苦しめてきたか、取材して報道してほしい。
そう、思いました。
多くの視聴者の皆さんが
テレビで苦しむ患者さんたちをみて、純粋に
悲しい思いや、つらさを共感しているときに、
冷めた目で、「うらやましい」という感情を抱き、
複雑な思いまでも抱いた私。
この感情は、
この病気で誤解されたり、放置されたりして死んでいった方がたや、
人生を棒に振った多くの生き残り患者たちの
本音かもしれません。
こんな感情を抱くのは、もしかしたら私だけかもしれません。
でも、
「一刻も早く、この病気で苦しむ多くの方がたに、病名に気づいてもらいたい。」
「一刻も早く、社会に理解され、暖かく支援してもらいたい。」
という気持ちに変わりはありません。
そのために、このブログもはじめたのですから・・・。
この病気で苦しむすべての患者さんが、
一日も早く、笑顔と自由な人生をとりもどしますように・・・・