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アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

夢を喰らう

2005-06-27 11:27:48 | 思い
最近我がでムラを二つに分けて争う出来事があった。
争いと言っても喧嘩をするわけではない。ただの将来に向けた行動の選択について意見の食い違いが際立ったというだけのこと。
それは具体的に何かと言うと、
過疎・高齢化に悩む我ががやはり同じような状況にある隣りと手を取り合って、生活、農業など全般に亙っての共同体制を作ろうというものだった。まずは双方ののちょうど中間地点にセンター(従来の館)を建設する。農業、集落自治、伝統芸能の伝承、文化娯楽活動・・・できるものから順次合併していって、行く行くは将来二つのをひとまとまりとして運営していこうという構想だ。

隠れ里的地形にある我が地区には、今も全国に誇れる郷土芸能を伝承している。中には営農組合を立ち上げたり子供たちで鹿躍り(ししおどり)のグループを作ったりと、この界隈で際立った行動力を持つ人材も一部にいる。しかし全体としては後継者が育たないまま、ムラは今真綿で首を絞められるように徐々に死に向かっている状態にある。我が集落も現在家は30戸ほどあるけれど、このままでは15年後には20戸程度に減るだろう。
自治体合併が社会的潮流となっている時代ではあるが、なにも大きくすることがよいわけでは決してない。けれど過疎地同士、隣同士、同じ課題を抱えた者同士合体して知恵や協力を出し合い難しい時勢を乗り切ろうということはとても前向きだ。そうした発想が住民の中から自然発生的に生まれたということ自体素晴らしいことだし、その意味では我がもまったく捨てたものでもない。生活や行動を小さな村落の域に埋没させず、小さくとも自分たちの砦を作って足固めしつつ将来的には都市を含めた他地域との交流を展開しようという大きな理想が原動力のひとつとなった。夢は現実という小さなハードルを越して行って初めて近づけるものである。

最初は一部の酒飲み話から始まった(と思われる)この構想は、近年の村落を取り巻くさまざまな状況の変化によって急速に現実性を帯びて来た。
もちろんその可能性を探るために骨折り時間を削って討議を重ね奔走した「推進派」の努力も並大抵ではない。これを何とか実現させて「ムラ興し」に繋げたい。折りしもこの先5年間支給が決まった農業分野での補助金がこの拠点建設に使えるとわかって、議論はいきおい熱を帯びた。
しかし、現実は当然のことながら「保守派」の反対にぶち当たる。
今更そんな建物を建設して、それで何のメリットが保証されるというのか。すべては冒険だし先も読めない。何より今の寄り合い所が遠くに移るのは不便である。そんな「リスク」になけなしの補助金を回さずに、僅かでもより多く各戸の懐に収まるよう知恵を絞ったらどうか。
そう主張する人たちは、息子たちが既に家を出てしまっていて後継者のいない家庭に多かった。

夢を追う派、目先の利益を追う派、もちろん単純にカテゴライズすることはできないが、隣りを含めてこの山間の地域を真っ二つに割った論争が続き、そしてその結果、
我がでは、保守派が実質的な勝利を収めてしまった。
田舎の議論というのは一種独特の様式を持っている。
私などがかつて会社内や異文化人を相手にして来たような『テーゼ・アンチテーゼ・アウフヘーベン』という議論の発展的展開というのは、このような閉鎖社会では存在しない。相手の意見に対してそれを正面から受け止め、それに対する反論なり修正案なりを出し合うのを見ることは稀である。
ではどうするかというと、相手の意見に対して表向きは反論せず、その弱そうなところひとつひとつに対してできるだけ多くのマイナス点を上げていくのである。
私も始めはそれが「ここ」なりの議論の進め方だとはわからなかった。何しろ意見を聞いてもなかなか言わんとする全体像が掴めない。ともすれば相手が反対してるのか賛成しているのかすらもよくわからないことがある。どうしてこんな後戻りしたことを言っているのだろうと訝り、もう少し全体像を把握してからと思っているうちに、しかしいつの間にか全体の流れは作られていく。

これは恐らく、百姓たちが何百年にも亙る緊密で絶対的な閉鎖社会の中で身に付けた手法なのだろう。決して矢面には立たない。まるで毎年目立たぬように少しずつ隣りの地所を削って田畑を広げていくようにして、いつの間にか全体を自分の主張に近づけていく。そしてこのやり方は総合的にものを考えることに慣れていない人を相手にしては極めて有効と言える。あれはまずい、これは悪い、こっちにも不都合がある、ということを数多く列挙されただけで、ほとんどのムラ人は腰が引けてくるようなのである。
事実、拠点作り構想は土壇場で切り崩されて最終的には圧倒的反対多数で否決された。しかし元々の絶対的反対者は僅か1~2名という程度のものだったし、それが個人の僅かな利益に執着したちっぽけな動機だったことは明白だった。反対の論拠も私の見るところとても脆弱でほとんど説得力も無い。けれど現実はこの通りなのである。
結果を見て私は愕然とし、そして悟った。我がはこのようにして今まで動いて来たのだと。まともな理屈や大義こそ、二の次なのだ。その時点で村落的影響力を持つひとりふたりと、このことに対してどういう意見があるかではなく、誰がどちらの側についているかを窺っているだけの声無き大多数、それらがの時々の問題に対処し、未来を決定して来たのだった。



今やこの僻村にさえ、あくまで「金」、ちっぽけであっても個々人の「実利」しかない。そのためには全体の発展や可能性を求めることは時に棚上げされてしまう。

そのような選択を積み重ねた結果として、このには若者がいなくなってしまったと言えるかもしれない。もし自分の父親が目先の金だけに囚われた人間だったならば、果たして有意な息子たちはその家に留まるだろうか。もし社長がそのような人物だったら、優秀な社員はそこに居残るだろうか。夢や希望の無いところには若者は居つかない。大人たちがとうに失ったものでも大きく伸びようとする青年にとって大切なものは歴然として存在する。そしてそれを求める過程で人は学び大切なものを身に付け成長していく。
一方皮肉なことに夢を無くしてお金一辺倒になった人間にも、やはりこんな田舎は暮らしよくはないのだ。そうした人々はもっと合理的にお金を稼ぐ手段と可能性を持っている他の地域に続々と流れていく。

だから私のムラのようなところでは、少なくとも選択肢を持った若者は夢を持たないと暮らしていけない。
夢でお金を稼ぐことはできないかもしれないけれど、夢があるから人は前向きに生きていける。だから私は4年前にこのムラに移り住んだのだ。


私はあぐりこ、42才。
未だに夢を喰らって生きている。





【写真はヘラオオバコの花。
ごくありきたりのものの中から、夢が生まれると思うのです。】



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2 コメント

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悔しさ同感・・・ (とおぬっぷ)
2005-06-28 22:36:08
鹿おどりですかあ。よく秋のお祭りで子供達が可愛く踊ってたなあ。独特の振り付けで。子供の頃、母や伯父伯母を見て『何がおもしろくて生きているんだろ』って不思議に思っていました。趣味があるわけでもなく欲もなくその日その日を単調に過ごしてる。ちょっと人と違う事すると白い目で見られ大人になったらこんなことしたいって夢を語れば、そんなの無理なんだからってたしなめられ。やってみなきゃわからないじゃんって反抗し母親を泣かせてまでも都会に出ていきたくてしょうがなかった。悪い人間達じゃないんだけど閉鎖的。封建的。まして村ともなれば輪をかけて夢なんてもってないお年寄りばかり。でも、その頭のカタイお年寄りが元気なくなってくれば、また変わってくると思います(^-^)駅にホテルなんていう発想はきっと私たち年代の発想だろうし。たまに会う同級生達は結構\夢をもっていて『あ~この街もかわるだろうな』って感じる。うまく伝えられないけど夢をあきらめないでくださいね。
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夢ねえ・・・ (agrico)
2005-06-29 08:51:50
いつも当たり前のように持ち続けたので改めて夢とは何だ、と考えてみるとそうだな、いったい何だろう、と思ってしまったりします。

たまたま私はお金にならない夢が多かったのですが、

もちろん「大金持ちになる!」なんていう夢もあるかもしれない。

そして夢は、持っているお金の多寡に関係なく持てる。貧乏ならば貧乏なりに夢を持っていられる。

そしてそれが、人との出会いや仲間を呼ぶんですよね。

私も日々いろいろな人と出会うのですが、どうもガメツイ人とは関係を長く保てないみたいです。付き合ううちに結果的にお互いに離れていってしまう。

人は自分と同じ種類の人間を周りに集めるのではないでしょうか。例えば少しでもたくさん盗ろう、盗ろうとする人は、似たような人の中でものの盗り合いをして生きることになる。

そうして培われていった人生観が、各人違うのは当たり前ですね。

まっさらな子供たちには、まっさらなままに生きる喜びを感じるような人生観を造っていってもらいたいですね。

そして自分も、みんなと一緒に夢を追いかけれる人でいたい。
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