アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

酔夢

2007-05-11 09:54:42 | 暮らし
桜をこのまま散らすのはもったいないから・・・
というのは言わずと知れた言い訳。昨日私はお花見をした。ほどよい微風に花の香漂う、うららかさを絵に描いたような春の日だった。
わが家の庭の桜は遅咲きで、他所の桜が散りかけた頃に満開を迎える。だから枝に花だけということはなく、色づいた葉も散りばめられてなんとなく混みあった風にも見えるのだが、咲けばそれはそれなりにとてもきれいだ。まだ家の庇を越えたほどの若い、見事な八重桜だ。
その桜がここ数日、花壇の花とともに満開になっていた。しかしこの時期は田植えを目前にしたいわば農作業の正念場。どの家も朝早くから田に畑にと忙しく立ち働く。もちろん私とて例外ではなく、この春からの土木仕事で体全体からきしみ音が聞こえるほど疲れているのだが、雨でも降らない限り休むわけにはいかない。畦畔の補強、クロ塗り、夏野菜の種蒔きと次から次へと仕事をこなしているけれど、それでもやり切れなくていろいろな事が後手に回ってしまう。猫たちもそんなこちらの事情を横目に見ながら、このところさっぱり構ってくれないと不服顔である。中には気持ちだけ手伝ってくれようと愛嬌よくぷにぷにの手を差し出してくれるのもいるのだが、目の前で寝転んだりまとわりついたりするので実際にはかえってこちらの手がとられてしまう。
さてそのようにして例年ならば落ち着いて見る機会もないままに盛りを過ぎてしまう桜なのだが、昨日ふと、こんなことでいいんだろうか、と思ってしまった。朝起きてから夕方家に入るまで、居間に坐っていても窓越しに眺められる絶好の位置に桜がほころんでいるのである。よく見ると花びらのひとつひとつが「ほら、しっかり見てよ!なによりもあなたのために咲いたのよ」とさざめいている風にも見える。それで昨日思い切って、午後の仕事を早めに切り上げてお花見としゃれ込んだのだ。時はちょうどおやつ時、私の英断に空も風も、草や虫たちまでもが賛成してるようだった。
まずは食糧の準備。そばを茹でて冷たい野菜汁に入れる。タラノメをフライパンいっぱいに焼き、裏庭のウドをスライスする。幸いこの時期食べる物はたくさんある。歩く労を厭わなければ、周囲をひと回りする間にワラビやワサビ、カンゾウやアサツキ、菜の花と両手がたちまち山野草で塞がってしまう。ただしそれらを食べれる状態に用意するのにまた時間がかかるのだが。
邪魔されないように早めに猫の餌をやって、(中には私が何か食べてるとしつこく付き纏う奴もいるのだ)酒の瓶を抱えて縁台に出た。ここはわが家の一等地。いながらにしてお日様から水のせせらぎまですべての恵みが受けられる。涼しい日には猫の陽だまりとなり、また夕刻彼らが狛犬のように(つまり狛猫!)顔を並べて私の帰りを待っている場所でもある。
まずは酒をあおる。正直言って頭から手足の先まで疲れ切っていた。毎日この時間を心待ちにして腰や背中を伸ばし伸ばし働いていた。
しばらくするうちに心の高ぶりも体のほてりも醒めてきた。こうして見ると今庭には驚くほどの変化が起こっている。つい先日まで砂利の見えていた地面は盛り上がる草たちのうっそうたる茂みに覆われていた。クローバー、ハルジオン、カキドオシ、ヒメオドリコソウ、メヒシバ、タンポポ、それぞれが群落をなして相互に絡まり、身を寄せ合ってせわしげに語り合っている。そして軒下には一抱えもあるゴボウが巨大な葉を誇らしげに広げていた。まさしく春の饗宴。その間を小さな虫やハチ、モンシロチョウが見るも楽しげに飛び回る。
何という名の鳥だろう。スズメほどの小さな鳥が2羽、母屋の玄関と木立の間をしきりに行ったり来たりしている。下からは見えないが、もしかしたら鴨居の上に巣を拵えているのかもしれない。うん、そこならいい。猫たちもさすがにそこまでは手が届かない。
桜に寄り添うようにモクレンが紫の花を添える。特に隣りが隣りなのでひときわ地味に見えるけれど、やはり暮らしの大切な彩りだ。その下にはドウダンツツジの白い花が鈴なりに。そしてそれらの背景には、見遥かす目も綾な菜の花畑。毎年少しずつ増やした葉野菜の子孫たちが、(といっても今では自生のアブラナと交雑して野草と区別がつかなくなっている)私が歩き手を入れ年ごとに汗を落とす畑や草原を黄一色に染め抜いている。今では野菜作りの邪魔になるくらいなのだが、あまりに素晴らしいので花の季節はついつい草刈もためらってしまう。
遠くのナラに薄緑色の若葉がついた。それに比べると桑は少し遅れているけれどやはり新芽を覗かせている。時折風がゆるやかに吹いて、まるで風花のように、彼方から桃色の花びらを運んできた。
ああ、この強烈な自然のダイナミズムを、幾多の春私は気づかずに過ごしてきたのだ。
ちょうどほら、素晴らしい料理を目の前にしてるのだが、その周りを飛び回る一匹のハエに気を奪われて取って置きの味を存分に楽しむことができないように、
私もまた、働くことに心を奪われて暮らしてきたのだと。
この時を大切にしたい。今この場にいることを大事にしたい。生きているという意味は目で耳で皮膚で心で、この大地の息吹を感じつくすことにあるのではなかろうか。
とうに酒も尽き、どぶろくも空になって焼酎を引っ張り出した。それをまだほんのりと温かいそば湯で割る。ハラヘリズムのアポロがさすがに今はおとなしく、脇に来て坐る。彼は捨てられたのか自ら迷ったのか、彷徨った末にうちに居ついた猫だから、未だわが家のしきたりを完全に身に付けていないところがある。目を離すと人の食べ物に手を出したり料理の載った机に上ったりする。
そんなアポロとこうして愛でる、春の一日もまた貴重この上ないものだ。自給百姓には日曜日がない。働ける日はただ、いつまでも働いてしまう。それを週に一度とは言わないまでも、せめて月に一度くらい、このように花を見て草木と語らい、お日様と風に包まれて猫とともにいる日があってもいい。花によっては3日と待たずに役目を終えるものもある。偶然巡り会えるその時をお互い充分に楽しんで暮らせるように、まずは自分の心から「仕事優先モード」を一時的に払拭すべく、日常生活を少しずつ変えていかないと。

そんなことを思ってるうちにいつの間にか夕暮れになっていた。気がつけばタンポポの花が小さくなっている。彼らは昼間開き、夜閉じるのだね。初めて知った。毎日顔を合わせてるのに、私は彼らのことをそんなによくは知らなかったのだ。
半ばうわの空で家の戸をくぐる。いつの間にかすっかり酔ってしまったようだ。私の体の方も、どうやらこの辺が限界らしい。




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