アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

田植踊り 1

2007-09-08 20:26:02 | 暮らし
ー鹿躍りや剣舞はどこにでもあるけんど、「田植踊り」はここら辺じゃここしかねえ。
 かねがねジッちゃんはそう言ってた。私の住むこの地域ー北上山系と北上川を軸として左右に広がる、平野・盆地を含むなだらかな山岳地帯ーは確かに民俗芸能の宝庫だ。例えば神楽や踊りは数えるのも難しいくらい各地域特有のものが伝承されてるし(ここに限らず、それらは元々小さな集落単位で行われ、保存されてきたものなのだろう)、鬼剣舞(けんばい)や念仏剣舞、それに宮沢賢治が童話で題材にとりあげた鹿躍り(ししおどり)などは、その起源さえ定かでないほど遠い過去から伝えられ、伝播した各地で個性を深めながら綿々と引き継がれてきている。なにしろ今世界遺産登録に向けて歩を進めている800年前の奥州平泉文化、1200年前のアテルイなどで代表される蝦夷の文化、更にはストーンサークルや各種の遺跡で示される数千年規模のタイム・スケールで展開したであろう縄文文化の形跡の数々が今なお見える形でしっかりと刻み付けられている土地柄である。現代でこそ過疎や辺境の地と呼ばれているのだけれど、かつてここは(おそらく千年単位で歴史を見るならば)この列島の、更にはもっと広い地域の中核的機能を備えた存在だったのではないだろうかと疑わずにおれない(でも現代人の多くはそのことをしっかりと忘れてしまっている。通説でもなければ、教科書にも載っていないから)。もっとも田植踊りがここ特有というのは、地域的に極端に限定した意味合いではあるのだが(ジッちゃんの言うのは奥州市江刺区梁川地区の範囲であるらしい。実際隣接した他地域においてはなおかなりの数の「田植踊り」が残されている)。
 しかし「古(いにしえ)の繁栄の拠点⇒僻地化」という変化は結果的にこの土地に数え切れないほどの特異な伝統や慣習、言い伝えを残した。それらの多くは口承され民俗的な踊りや唄、祭という形で伝えられ、悠久の年月の間に相応の変質はあったにせよ未だその原型の幾分かを留め残している。
 だから全国的に希少で名も高い鹿躍りや剣舞にしても、ここではなんら珍しいものではない。かく言う隣りのジッちゃんもつい先年まではそれらの伝承の中核を担ってきた人なのだ。ただこの集落に伝わる民俗芸能のうち、残念ながら鹿躍り以外は明確な後継者の確保ができずに、今やその存続自体風前の灯になってしまっているのだけれど。

ーだからなんとしてもこの「田植踊り」を残さねばなんね。もうこれをわがってるの、オレしかいねぐなっちまった(確かに唄、太鼓、笛を正確に吹けるのはジッちゃんしかいないし、踊りを含めて総合的に「芸」を指導できる人は他にいない)。
ーオウ!オメさんよ!一緒にやんねがや。これは一人じゃなんもなんね。少なくとも太鼓(兼唄い)、笛、踊りがあって初めてできるもんだや。オメさん声がいい。太鼓やれや。オレが教えっからよ。
 小さなこのムラにも私と同年代や更に若い人たちは(それが数えるほどではあっても)いるにはいる。でも、みんなやる気がないのである。都会と同様田舎に残った者たちもすべてサラリーマンとなって、時間の空いた週末や休日にはこれも都会人同様、月並な行楽や娯楽にただひたすら時間を垂れ流している。会社上がりは飲み屋に耽ったりパチンコに入り浸ったり。快楽の追求やストレスの発散に忙しくて、誰も自分の居住地の民俗芸能を本気で学ぼうなどとは露ほども思わない。
ー実は今度の敬老会の演芸会で、芦沢の田植踊りをしてくれねかという話があってな。昔踊ったヤツらに声かけて、今まとめようとしてんだ。オレももうそんなに先があるわけじゃねえ。これを伝えられるのも、もうこれが最期になるかもしんねしな・・・
 かくして芦沢の田植踊り復活に向けての助走が始まった。前回に踊られたのは今からおよそ19年前。そして今回集まった人たちは、私を除いてすべて前回の経験者だった(しかし今はみんな70代を中心にする人たちだから、残念ながらほとんど忘れてしまっている)。言わずもがな45歳の私が最年少だった。



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