アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

桜肉

2007-02-03 18:12:45 | 暮らし
遠出をした帰りにスーパーに寄ったら、桜肉が売っていた。
「カナダ産、馬刺し用」見た目真紅の霜降のような肉で美味しそう。さすがに高価な値札がかかっていたが、なんとその時は「半額」のシールがぺタリ。手にとってよく見たら賞味期限が今日じゃないか。しかし私はにやりとほくそ笑んだ。すると、あと何日かは保つってことだな・・・
いつか隣りのジッちゃんに訊いたことがある。今まで食べた肉で一番うまかったのは何ですか? ジッちゃんは四足から鳥から、この山里にいて食べれるものはおよそ何でも食べたという経歴の持ち主でもある。「そりゃあ、やっぱり桜肉よ!」始め「桜肉」と聞いてピンと来なかった。問い直したら、なんと馬肉のことなそうだ。「ああ、満州にいた時にゃあ軍馬が使い物にならなくなったらバラしてよ、食べたもんだ。なにしろソ連が侵攻して来てからは・・・」その後例によって長い話が続いたのだが、私の頭には「桜肉=馬肉=一番うまい肉」という図式がその時に焼き付けられていたのだった。

というわけで思い切って買った桜肉だが、半額とはいえたぶん相応に高かったのだと思う。今となっては包装のラップを捨ててしまったので確かめようがないけれど、あの時はすっかり勢いに乗っていた。鹿、ウサギ、タヌキ、蛇、と生活上の必要のために食べれるものは何でも食べてきた私だったが、馬肉だけは今まで食べたことがなかった。だからこの機会にどうしても食べてみたかったのだ。
家に帰って刺身に切る。生臭いかもしれないな、と思って生姜をおろした。なにしろ貴重な桜肉だから最高の味付けで食べてみたい。つまとしては同じスーパーで求めた生ワカメ。それと玄米に少しだけ酢を足して寿司飯を作った。ネギも微塵切りにする。
そうして口にした桜肉。うまい、うまい! 見た目の通りとても柔らかかったし脂が口の中でトロリととろけるようだ。筋も無いし臭みもまったくない。(もっとも日頃野生の肉を多く食べている私にとっては、売っている肉で臭いものなどないのだが)生姜醤油にバッチリとよく合った。

美味しいものを食べる時には味わうだけで精一杯で、とても他のことなどしていられない。私も以前は食べながらブログをしたり本を読んだりしたものだったが、徐々に味の世界に目覚めてからは味わうのに夢中で、自然と「ながら食い」をしなくなった。毎食同じ物を食べてさえ、そうである。
現代の子どもたちは食べるにしても集中するということがなくなったかに見える時がある。それもそのはず、基本的に彼らの味覚は過食と化学調味料とで完膚なきまでに破壊されている。美味しいものを美味しいと感じられずに、タンパク加水分解物や「アミノ酸等」の化学物質を「母親の味」として生まれながらに育っている。これでは本当の旨さもなにもあったものではない。「ながら食いはダメよ!」といくら母親が注意しても、子どもは素直だから聞くわけがない。元々親たちからして本物の味を知らずに注意散漫に食べているのだ。おそらく半世紀以前の子どもたちにはそんなことを言う必要もなかっただろうし、彼らは毎日の食生活の中で必然的にモノ本来の味を覚えていったに違いない。

最期に一切れ残った刺身をまじまじと見て、なんてきれいな肉なんだとあらためて思った。この肉を私に残してくれた馬は、どんな馬でどのように生きて、そして死んでから遠い海を渡ってつましいこの食卓にまでやって来てくれたんだなと思った。その馬に感謝したい。私には肉を見ても卵を見ても、それをなした動物たちの顔や姿が目の前に浮かぶような習慣がいつしかついてしまっていた。
寿司飯とともに頬張る桜肉は最高だ。刻んだネギを薬味にすれば更に美味しい。たぶん刺身用として出荷されるくらいだから、この肉は馬肉の中でも最高にいい部位だったろうし、もしかしたら食肉用として終生畜舎や狭い牧柵の中で生きただけの馬かもしれない。または引退したサラブレットで無理やり太らされたりしたのかもしれない。でもそのひとつの生命が、こうして私の中にエネルギーを受け渡し今日と明日を生きる活力となってくれる。
私は実は動物の中で、馬が一番好きだ。猫と同じくらい好きだ。
もし将来馬を飼ったならば、彼が死んだ時はその肉をこうして食べてあげたいし、もし私が死んだならその時は、私の肉を微生物や虫やバクテリアたちに、同じようにして食べてもらいたい。そうして私も、彼らと同じ舞台に立てるのだなと思う。



【写真は昔乗馬牧場でトレッキングの先導を務めるあぐりこ。かつてそんな時代もあったのだなあ・・・】



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2 コメント

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あなたはたくましい! (baba76)
2007-02-19 17:33:48
あなたはたくましい、近寄りがたいほどに、
幼い頃、鶏の姿が目の前に浮かんで、かしわが食べられなかった。マヨネーズなどドレッシング類は使わず、素材の旨みを味わった食事をしていますが、そんなのは昔の話になってしまったのでしょうか。
和歌山県の南端に七年間 住んだとき、体力の無い私にはカーッと照りつける日差しは 厳しすぎた。夕方にはさっと涼しくなったので耐えられたのですが、
でも野菜はよく育ち、花も美しく咲いた。
此処 近畿の真ん中は、おだやかで、雨はまっすぐ落ちてくるし、大風、大雨のニュースを見ても、あれ何処の話、といった具合です。
アメリカのバーモントで広い土地に、古い家に真似て新しい家を建て、一人暮らしをして、自給自足のような生活をしている、今年91歳になる婦人のこと本屋さんで見ました。年寄りの一人暮らしの話題には敏感となってきました。人の一生は短いと実感しています。
アグリコさんは若いし体力があるし逞しい。
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たくましさ (agrico)
2007-02-21 11:18:29
今となって思えば、「たくましさ」とは精神性に付けられた形容詞なのですね。すべてを受け容れる受容力、寛容力の深さの度合いを「たくましさ」と言うのかも知れません。いかにもたくましそうな肉体を持っていたとしても、それは纏った服装の話に過ぎない。中身が貧弱であれば、見かけごっつい車に乗った虚弱なドライバーのようなものでしかないのでしょう。
私も初めて自分で育てた鶏を殺した時に、腸が千切れるような思いをして食べました。肉が喉を通らないということを初めて経験しました。でもだからといってそれから目を背けることをしなかった。それが結果的に私の食と生命の原点であり新しい世界の始まりとなりました。それまで私は、食べものとして自分を支えてくれるものが本当は「いのち」だということを、実感として知ってはいなかったのです。
それほど遠くない昔この日本でも、そのような体験を通して誰もが食といのちの結びつきを感じていた時代があったのでしょうね。

私の住む集落にも年寄りの一人住まい、または既に健康とは言えない老夫婦だけの世帯が幾つかあります。どうにも逃れられない孤独と対峙したとき、またはこれ以上欲や快楽の追求が絶対的に不可能となったとき、その時初めて多くの人は自分の存在意義を自問し始めるようです。ボケと呼ばれる状態は、見出しえない回答の混迷から逃避する最期の手段でもあるのかもしれませんね。
でも実際は、私たちはみな生まれながらに自分の存在の意味を自問し続けている。生きている時間というタイムリミットの中で、自らの内奥に切り込む行為という、少なからず苦しみを伴うその場その場の選択の積み重ねをとおして、その答えを実感として得ようと努力している。もしかしたらそれが、真の幸福の扉なのかもしれないことを本能的に知っているから。人生はその苦しみを早くするのか先に伸ばすのかの違いはあるでしょう。また生あるうちにそれを掴めるかどうかも。
「たくましさ」が、それをすべき時に自分と向き合う真の力添えとなればいいなと思います。その意味で人は皆、それぞれが十分にたくましいのでしょうね。
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