アドナイネベル

アドナイネベルとは、ヘブライ語で「神の竪琴」という意味です。

道と真理といのちについて

2013年06月02日 | 日記
今日のタイトル「道と真理といのち」という言葉は、聖書、それも新訳聖書のヨハネの福音書からになりますが、私にとってはとても意味深い、印象深いものなので、初めて聖書を読んだ頃の事を一言お話したいと思います。…

私は本を読むのが小さい頃から好きで
、友達の家に遊びに行っても、絵本を見つけると友達そっちのけで本に夢中になるような子供でした。だから、私の成長と共に色々な本があった訳で、話の展開や登場人物の言い回しなどにある程度慣れていた訳なのですが、初めて聖書を読んだ時、不思議だな~と思ったのです。

それまで私が本で読んで来た大抵の登場人物は、その人物なりの程度の事を語るもので、それは人の域を出ないものだったのに、聖書に出て来るイエス・キリストの語る言葉は、私の知っていた、いわゆる「人」の言葉より遥かに並外れていたからです。言葉から受けるニュアンスや印象というものが、読めば読む程、何か力強いというか不思議な感じがして、あちこち拾い読みをしたり、インパクトの強い言葉をじっくり味わい、その優しさに戸惑いながら考えに耽ったものでした。

結論として、聖書のイエス・キリストについて、新訳聖書の中で、ご自身の事をこのように語る事が出来るという事は、よほどの大ほら吹きか
、又は、その通りの人物に違いないと思い、紆余曲折の末に教会に行ってみて、更に紆余曲折がありましたが、信じる事にしました。
私が自分の力や意思で信じたのではなく、神様が私を信じる事が出来るように守り導いて下さったのです。神様はご自身の所に来る者を決して捨てない…とは本当だと思います。

旧訳聖書のイザヤ書には、次のような御言葉があります。

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。』(イザヤ書53-4~6)

…これは、イエス・キリストによる十字架の贖いの事です。イエス・キリストは、人の罪の身代わりとして十字架で死なれましたが、 神によってよみがえり、今も生きておられます。… …聖書の御言葉は生きていて力強く、人を救い、守り導いて下さいます。私が初めの頃に、不思議だな~と思いながら読んだヨハネの御言葉を、最後にご紹介しておきたいと思います。

『イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません
。』(ヨハネの福音書より、14-6)


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iPhone

2013年06月02日 | 日記
携帯からiPhoneになりましたが、不慣れな為に少しブランクが入ってしまいました。でも、iPhoneはやはり写真が綺麗に撮れて嬉しいです。またよろしくお願いします。

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