粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

サザンの復活なるか

2013-07-09 00:02:51 | 音楽

サザンオールスターズがこの夏5年ぶりに再結成するという。もうそんなに年月が流れたのかと驚く。思えば自分はそれ以前からサザンに興味を失っていたような気がする。

桑田佳祐の軽妙洒脱ともいうべき都会的なボーカル。時に英語のフレーズを巧みに交えてまるで外国人がのような歌唱法、しかし曲自体がセンスが抜群で自然な感じで聞こえて心地よい。歌詞も時に遊んでいるという感じのものがあるが、鋭い言語感覚を持ち合わせている、正に天才的ともいえるほどにこの世界では卓越した存在だ。

しかし、それにも関わらず最近なぜかサザンの曲を聞く気にならない。ある面自分自身、老けたのかもしれない。なぜか、彼の外人口調の歌唱法についていけない。曲の内容自体も違和感を覚える。時代感覚の違いともいえるのだろうか。

今はできれば「しっかり日本語が響く歌」を聞きたいと思う。もちろんサザンの歌が日本語として邪道というつもりはない。ひとつの歌唱法として成立はしていると思うが、生理的に受け入れなくなってきているのだ。老けるということは、曲に対する柔軟性が衰えるということなのか。

ところでサザンにとっての不幸は「TSUNAMI」という彼らの最大のヒット曲が現在テレビなどのメディアでなかなか流れないことだろう。オリコン史上でも第3位に相当するメガヒット曲だが、東日本大震災の後遺症を引きずっている感じがする。おそらくサザンの曲としてまず一般にまず思い浮かべる曲であるし、自分自身同様にかけがえのない愛唱歌である。

再結成されたサザンが5年のブランクからどう生まれ変わっているか。これまでとはまた違う新鮮な楽曲を提供してくれるのか。それとも時代感覚の違いを改めて感じてしまうか。そしてTSUNAMIが再び歌われるか。


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