粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

人からコンクリートへ

2015-09-12 14:13:46 | 国内政治

バブル華やかなりし頃、近くの小さな居酒屋などにはいると、よく建築の職人や作業員が作業服のままカウンターで店のママに得意げに自慢話をしているのを見かけることがあった。「レインボーブリッジ、あの六本木ヒルズ、俺がつくったんだ」「あのスタジアム、あのホテルも…」と次々と有名な建築物の名前が飛び出す。

ママは一瞬またかという表情を見せるが、すぐにいつもの聞き上手に戻り、驚きや感嘆の声を上げる。しかし、彼らが店から出ると少し呆れた風で「下請けの会社の従業員さんであちこちで働いていたの」と「真相」を明かしてくれた。

建設会社のオーナーやそのプロジェクトの関係者でもないし、その社員でもない。孫請けどころかその下請けかもしれない会社で一介の作業員として働いていたのに過ぎない。その見栄っ張りを一笑に付すのは簡単だが、過剰なまでの心意気やプライドには感心もする。

しかし、そのバブルも弾けて建設業の仕事も年々細っていき、いつか居酒屋で得意げに話す職人たちもめっきり減ってきた。6年前に「コンクリートから人へ」というスローガンを旗印に誕生した民主党政権になってその退潮は決定的になった。特に公共事業は、国費の無駄遣いでその削減こそ正義だというよううな風潮だった。

3年前に復帰した自民党政権の安倍内閣になって、その傾向に歯止めがかかって建設業の復活が期待された。しかし、政権発足当時こそ、公共事業を始めとした建設業が活況を呈したが、今やその流れは停滞しているという。経済評論家の三橋貴明氏がこの現状に警告を発している。

民主党政権期の「コンクリートから人へ」はおぞましいスローガンだった。公共事業、公投資などのインフラ整備は今の土木事業や建設業の仕事になるが、それ以上に大きな効果は将来世代にわたって便益をあたえることだ。

たとえば鬼怒川の堤防をきちんとつくっていたら今回の被害は起こらなかった。つまり、過去にきちんと堤防をつくっていたら、今の日本国民が守られるし、将来の日本国民が守られる。あるいは高速道路のネットワークは、今の人たちだけが使う訳ではない。将来世代にわたって使われ今の日本ではキーになる生産性の向上に貢献する。つまり公共事業、公共投資、設備投資は将来にためにある。将来の人々、子々孫々のためにある。

「コンクリートから人へ」の「人」というのは社会保障のことだが、の代表例である子供手当あるいは生活補償、年金などすべて「今の国民にお金を配ります」「将来はどうでもいい。今の私たちに金をくれ」というものだ。それを日本国民が熱狂的に支持したわけだから愚民化以外に表現のしようがない。

今の日本国民はまがりなりにも豊かに安定的に暮らしている。過去の皆様がきちんと投資してくれたから今の我々が安心して暮らしていられる。自分たちは過去の投資の恩恵を受けながら、将来に投資は拒否することはおぞましい。これを日本国民は支持したということで二重の意味でおぞましい。

安倍政権になって公共投資を増やしていると勘違いしている人がいるが、実際は増えていない。こういうことやっていると日本の神様は意地悪だから、洪水被害や震災などが起きる。こういう現実を見据えた上で「今私たちは相対的に投資をしていない。これで将来世代に対する責任をはたせるのか。」ということを特に安倍総理に言いたい。

今の国民の生活が第一というのも一理あるが、それが全てというのはあまりにも利己的すぎる。三橋氏が指摘するように今の日本は他国と比較すれば豊かで安定的な生活を享受していると思う。それは確かに過去の日本人による公共投資の便益を受けているということだ。国民はもっとそれを自覚して、これを将来へも享受できるよう務める責任はある。

自分自身、基本的には安倍政権を支持するが経済政策に関しては不満が残る。アベノミクスも一頃の輝きがみられない。やはり昨年の消費税増税が国民に大きな負担となっている。またデフレ脱却の成長戦略も尻つぼみの観がある。三橋氏が指摘するようにもっと公共投資を増やして経済の活性化を推進して欲しいと思う。

その意味でコンクリートは決して無駄な象徴ではない。人と同等、いや時に人以上に大事な要素と言える。町の酒屋で、建設職人からあのお得意で饒舌な自慢話を再び聞きたいものだ。

 

コメントを投稿