粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

辺野古は移設なのになぜ新基地と呼ぶのか

2015-01-16 20:48:54 | 沖縄の虚像と実像

最近の辺野古移設工事に対する「住民」反対運動を盛んにメディアが報じているが、その内容には首をひねるばかりか不快感さえ覚える。住民というにはあまりにも過激で沖縄内外の労働組合や市民団体が運動の主体のようにみえる。それとともに報道で引っかかるのが特に民放の一部でやたら辺野古新基地という言葉を使っている点だ。

昨年まではそんな表現はなく、あくまでも辺野古移設であった。つまり、普天間基地の危険性を除去する目的でその代替としてその機能が移設されるというのが正しい。これまではメディアもそれを承知でどこも「移設」という言葉を昨年は使っていた。

状況が一変したのは沖縄で翁長雄志新知事が誕生してからである。いわば翁長氏が「新基地」という新語を作ったようなものだ。彼は沖縄知事選でもっぱら辺野古問題で候補者の中で一人「移設」でなく、「新基地」を連発していた。いかにも新たに基地が増設されるようなイメージ操作で選挙戦を展開していた。

そしてもともと移設反対の主張をしていた沖縄の2大メディアである沖縄タイムズと琉球新報もこの「新語」を引用し流布させた。そして、翁長氏が選挙戦に勝利して12月新知事に就任し、移設工事を粛々と進める政府との冷たい関係が表面化した。これを捉えて新知事にシンパシーを強くもつ中央のメディア特に左翼メディアがこの「新語」を敢えて使うようになったというわけだ。

つまり、翁長知事の戦術がずばり的中して、沖縄ばかりか中央のメディアが同調して、「新基地問題」の大合唱となったといえる。もともと、中央のメディアの多くも沖縄の基地問題には政府に批判的であり、沖縄県民の意思がないがしろになっているといった報道のトーンであった。だから、今年になって新知事がまるで政府に冷遇される被害者のような報道が目についた。

しかし、辺野古の問題は前述したように移設であって新基地の増設ではない。辺野古に移設することによって、世界一危険な普天間の危険性が解消されることが重要なのだ。また、それによってこれまでの基地の占有が3分の1に減少することも忘れてはならない。

翁長氏は選挙期間中に候補同士の討論会で、仲井眞前知事から「辺野古移設に反対するだけで、普天間の基地は自然に消えてなくなるのか」と厳しく問いだされて曖昧な返事しかできなかった。ひたすら普天間のことを避け。逃げの一方であった。そのくせ、基地問題では一番過激な喜納昌吉候補からは、「辺野古移設に反対しながらなぜ工事承認の撤回を公約で明言しないのか」とこれまた攻撃され不明瞭な態度に終始した。

沖縄のメディアも中央のメディアも選挙戦のこんな翁長氏の政治家として資質を問われかねない姿勢を今もってほとんど問題にすることはない。むしろ翁長知事の「新基地戦術」に敢えて乗っかるような報道ぶりででまるで翁長応援団かと疑ってしまう。

特にこの翁長戦術に「感染」でもしたかのようなテレビ朝日の古館某キャスターが番組中に政府の菅官房長官に対して、翁長知事との面談を求める発言をしていた。何か政府が翁長知事に意地悪しているような物言いであった。しかし今の時点で官房長官と面談しても、方向性が正反対で政府の政策を敵視している沖縄知事では平行線に終わり不毛の会話になるばかりである。

ちょうど日本政府に対して歴史認識で反省しか求めない頑迷な大統領と安倍首相が対談するようなものだ。何の成果もなく会うだけ無駄だ。菅長官が「(翁長知事と)会うつもりはない」と明言するのも当然だ。隣国の大統領とこの知事は親中という点ではこれまた共通している。中国の国家主席と面談する方が先になるか?