粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

不徳の致すところ

2012-12-31 00:12:27 | 一般

とうとう今年も終わる。ブログも出来るだけ毎日続けているが、ときどき届くコメントにはあまりほっとするものがない。どちらかというと批判的なものが圧倒的である。まあ自分のブログで、特定の傾向の人々を皮肉ることが多いので当然であろう。真面目に批判すればいいのに、つい意地の悪さが出てしまう。不徳の致すところというべきか。

たとえば「みえないばくだん」をグーグルで検索すると、自分のブログ「偏見と差別の絵本みえないばくだん」が筆頭にでてくる。同名の絵本を批判したものだが、この項目では自分以外ほちんどといってよいほど絵本を賛美するものばかりだ。この先ページを追っていってもそれが続く。おそらく「みえないばくだん」を「好意的」に検索する人は自分のブログがヒットしているのを見て不快に思うだろう。今でも過去のブログで最も頻繁に閲覧されているのがこの記事だ。

あるいは「文化放送」も「原発」を加えて「文化放送原発」で検察すると、途端に自分の「反原発報道の宝庫文化放送」がこれまた嫌らしくトップに出てくる。「偏見と差別」とか「反原発報道の宝庫」など仰々しい形容がついていれば反原発に共感を抱く人には「たまらない」話だろう。

こうした話は随所に見られる。がれきの広域処理などに関しても同様だ。どうも自分はタイトルからして毒々しく刺激的になりやすい。これも広告コピーの仕事に多少足を突っ込んできたせいかもしれない。あるいはタイトルだけ見るといかにも反原発派の期待?に応えるかのようにみせて失望させるのもある。「桜井勝郎という男」の記事も、一見あのがれき広域処理を進める島田市長を批判しているかと思いきや、一転して評価する。こうしたブログの意地の悪さが世の反原発派の怒りを買うのだろう。

身から出た錆ともいえる。まあご容赦くださいなどと懇願しても詮無きこと。せめて「身から出たワサビ」ぐらいにはグレードアップ?したいと思う。多少とも人の食欲をそそることができるか、来年に課題としておこう。