粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

大河ドラマにみる悪党の魅力

2012-12-25 12:46:21 | 一般

今年の大河ドラマ「平清盛」が先週終了した。歴代最低の視聴率だったが、自分は結構毎週楽しんで見ていた。確かに人間関係が複雑で情景がリアルすぎて映像が汚く見えた面はある。しかしそのリアルさが見所でもあった。

特に清盛の晩年の「悪行」ぶりは見応えがあった。どうしてもドラマ、特にNHKでは主人公を善人で悟りを得た人間に描きがちである。しかし本質的には歴史的指導者の多くは悪人の要素を持っているし、それなくしては歴史に名を残すことは出来ないと思う。実際はその悪党ぶりこそ本当は魅力なのだ。ただの馬鹿の悪人ではないどこか人を引きつける人間的な個性が旺盛なのだ。

清盛は歴史上最も悪名を馳せた人物かもしれない。しかし別な意味でもっと悪人だったのは同時代の後白河法皇だろう。前者が豪快な悪党としたら、後者は陰湿な悪党ともいえる。この二人の悪人の駆け引きはテレビを見ていて面白かった。

その点、源頼朝は良識的な善人にさえ思えてくる。まして義経に至っては戦は天才ではあるが、政治の世界ではただのボンボンである。しかし頼朝は清盛が切り開いた武士の時代を執行する実務能力は抜群にもっていた。清盛が希代の革命家とすれば、頼朝が優れた政治家といえる。これは戦国時代の信長と家康の関係に似ている。

よく信長がもし長生きしていたなら、どうなっていただろうと「歴史のもし」が語られる。清盛も同様だ。軍事の天才でもある清盛が同じ天才の義経と源平戦を繰り広げたらと思うと興味は尽きない。しかし歴史は天才に休息を与えてくれない。天才の人生は疾風怒濤に時代を駆け抜けるだけだ。熱病であっけなく波乱の人生を終えるのも結局それが天寿なのかもしれない。