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リカルド・トルモ。(番外篇vol.393)

2013年11月19日 08時57分47秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍したスペイン人ライダー「リカルド・トルモ」選手ですよ。

スペイン国内レースでチャンピオンを獲得し、

73年からWGPスポット参戦を果たします。

77年からはスペインメーカーのチーム・ブルタコと契約し、本格的フル参戦を開始。

50ccクラスでいきなり総合3位を納めます。

78年にはその勢いで13戦中5勝を上げて堂々ワールドチャンピオンに。

しかし79年は調子が上がらずブルタコから解雇されてしまいます。

80年からはドイツメーカーのクライドラー・チームより参戦し、

2度の優勝を果たし総合4位に返り咲きます。

これを見たチーム・ブルタコは母国ライダーである「リカルド・トルモ」選手と

再度契約をし81年に臨むことになります。

そして14戦中6度の優勝を果たし2度目のワールドチャンピオンを獲得します。

その後も上位の常連として強い選手の1人として戦っていたのですが、

84年のスペインGP前のテスト中にスタッフのミスから、

テスト走行中の「リカルド・トルモ」選手とコースに入って来たクルマが接触し

右足を複雑骨折してしまいます。

このことが原因でライダーとしての選手生命を絶たれてしまいます。

引退後、「リカルド・トルモ」選手はスペインの英雄として見られ、

バレンシアで最も栄誉のある「the Valencian Community’s High Distinction award 」を受賞。

98年に白血病で「リカルド・トルモ」選手が亡くなると、

バレンシア・サーキットは正式名称を、

シルクイート・デ・ラ・コムニタート・バレンシアーナ・リカルド・トルモに改名。

いつまでも英雄として知られるようになっています。



ステファン・ドルフリンガー。(番外篇vol.392)

2013年11月18日 09時06分38秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍したスイス人ライダー「ステファン・ドルフリンガー」選手ですよ。

73年に25歳でWGP50ccクラスにデビューし、18年間戦った息の長い選手です。

ドイツメーカーのクライドラー・チームより参戦するのですが、

79年シーズンまでは最高でも2位までで、優勝経験がありませんでした。

総合でも10位あたりを行ったり来たりで注目されることも無かったようです。

しかし80年代に入ってから頭角を現し始め、

常に上位の常連になっていきます。

初優勝は80年のベルギーGPで、この年は総合2位を獲得しています。

翌年81年も優勝を含め4度の表彰台をゲットして総合3位。

さらに82年にはついに3度の優勝でワールドチャンピオンに輝いています。

勢いにのったまま83年も連続チャンピオンに。

84年から50ccクラスが80ccクラスに変更されてからも、

80ccクラス初のチャンピオンに輝き、連続3年タイトルを獲得します。

85年もそのままチャンピオンに輝きこれで連続4年間。

その後も86年が総合3位、87年は総合4位、88年で総合3位、89年も総合2位を獲得。

常に上位を走る選手として注目を集めていました。

90年になり80ccクラスが廃止されると125ccにステップアップしますが、

ケガなどもあり1度も表彰台に昇ることが出来ずそのまま引退してしまいます。

すでに年齢も42歳になっていたので、

妥当な選択だったかもしれません。

連続4年間のチャンピオンとして名を残した選手ですが今のところmotoGP殿堂には

登録されていません。

「ステファン・ドルフリンガー」選手、かなり努力家の選手だったようですね!


ヘンク・バン・ケッセル。(番外篇vol.391)

2013年11月16日 10時32分21秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍したオランダ人ライダー「ヘンク・バン・ケッセル」選手ですよ。

20代中半までは母国での国内レースに参戦していましたが、

72年にドイツメーカーのクライドラーからWGP、50ccクラスに参戦を果たします。

74年には素晴らしい速さを見せ、11戦中6勝で堂々ワールドチャンピオンに輝きます。

しかしその後は79年のベルギーGPで優勝したのみで、

総合ポイントでも上位に上がってくることはありませんでした。

最終的には86年シーズンを持って引退しています。

小排気量クラスで14シーズンも戦った選手でしたが、

1シーズンしか速くなかった不思議な選手ですね。

他の成績を見るとほとんど無名で終わる感じです。

82年で50ccクラスが廃止されると80ccに乗り換えますが、

いいところはまったくなく、いつも20位以下の成績です。

まぁ、とにかくこのクラスは参加チームが多く、

数十台も出走していたので1位から10位までが数秒差という混戦レースが多かったです。

なだれ込むようにフィニッシュするシーンがよく見られました。

「ヘンク・バン・ケッセル」選手…。

74年、よくチャンピオンになれましたね。(笑)




ジャン・ルイ・トルナドール。(番外篇vol.390)

2013年11月15日 08時59分11秒 | Weblog
80年代に活躍したフランス人ライダー「ジャン・ルイ・トルナドール」選手ですよ。

フランス人初のWGPライダーで有名です。

初参戦は80年シーズンからでヤマハ・ワークスより250ccクラスで出走。

この年はポイント圏内にも入らない非凡なライダーでした。

しかし81年シーズン後半から頭角を現し始め、優勝こそなかったものの、

最終戦では3位に入る活躍を見せます。

さらに82年には初戦の1勝を始めほとんどのレースで表彰台に上り、

ついに250ccクラスでワールドチャンピオンを獲得します。

このシーズンはアントン・マンク選手が5勝していたのですが、

総合ポイントでは「ジャン・ルイ・トルナドール」選手が上回り、

シーズン全体での総合力で獲得したチャンピオンだったようです。

しかし、翌年83年はまったく良いところを見せることが出来ず、

一端WGPから姿を消すことになります。

86年、3年ぶりにWGPに戻って来ますが、

結果的にはノーポイントに終わり完全引退してしまいます。

引退後も88年にスーパーバイク世界選手権にスポット参戦したりしますが、

再帰に至ことはありませんでした。

ライダーとしてはチャンピオンに輝いた経緯こそありますが、

天才ではなく、どちらかというと非凡なタイプだったようです。

ただ、一発の速さはなかったものの、

地道に上位を狙える選手で安定した走りが出来るタイプだったんですね。

フランス人らしい選手です!




エウジーニョ・ラッツァリーニ。(番外篇vol.389)

2013年11月14日 09時06分06秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍したイタリア人ライダーの

「エウジーニョ・ラッツァリーニ」選手ですよ。

60年代までイタリア国内レースに参戦し69年よりWGPにステップアップします。

72年まではパッした成績は残せず1度も表彰台に上ることなかったのですが、

73年のユーゴスラビアGPで125ccクラスにて始めて優勝します。

75年にはWエントリーしていた50cc、125cc共に表彰台の常連となり、

50ccクラスで総合2位、125ccクラスでも総合5位を獲得。

常に上位を走る選手として見られるようになり、

78年ついに125ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

さらに79年、80年と連続して50ccクラスチャンピオンを獲得し勢いに乗ります。

しかし81年はケガに悩まされ失速。

82年には古巣のガレリ・チームに移籍し50cc、125cc共に総合2位を獲得。

83年は50ccで総合2位、125ccも総合3位。

84年、125ccで総合2位を獲得しチャンピオンにはなれなかったものの、

優秀な成績を残して引退します。

69年から数えると16シーズンWGPで戦っており、

3回のチャンピオン、通算でも27勝を記録しています。

小排気量クラスで長く参戦し、優秀な成績を残した選手で知られているのですが、

残念ながらmotoGP殿堂は果たせずとなっています。


ファウスト・グレシーニ。(番外篇vol.388)

2013年11月13日 09時12分07秒 | Weblog
80年代から90年代にかけて活躍したイタリア人ライダー「ファウスト・グレシーニ」選手ですよ。

78年から母国レースに参戦し、83年よりWGP125ccクラスよりフル参戦を果たします。

初参戦はモルビデリ・チームからでしたが、

翌年84年にはイタリアのバイクメーカー、ガレリ・チームに移籍し、

ここから一気に実力を開花させます。

84年度で総合3位、85年にはついに125ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

その後も86年で総合2位、87年には11戦中10回の優勝で2度目のタイトルを獲得。

これは記録に残り、アンヘル・ニエト選手と共に史上最多タイとなっています。

ここで、まさに絶頂期を迎えることになったのですが、

残念なことに最終戦で転倒しケガをしたこともあり、

翌年88年は思うような成績を残すことが出来ませんでした。

89年はアプリリアに移籍しますが、調子が戻らず総合で5位。

90年からはホンダ・ワークスと契約を果たし再度優勝に向けて体制を整えます。

しかし92年、93年と惜しいところまでいくのですが共に総合2位。

力を発揮出来なくなったことを悟り94年シーズンを持って引退します。

引退後は自身のチーム「グレシーニ・レーシング」を設立。

このチームで01年に、

あの加藤大治郎が250ccクラスのワールドチャンピオンを獲得します。

現在もMotoGPクラス、Moto2クラスとチーム参戦しており、

監督兼オーナーとして活躍しています。





ヤン・デ・フリース。(番外篇vol.387)

2013年11月12日 08時59分52秒 | Weblog
70年代に活躍したオランダ人ライダー「ヤン・デ・フリース」選手ですよ。

かつて存在したWGPでも最小排気量クラスの50ccに

68年よりドイツメーカーのクライドラーからエントリーしています。

で、フル参戦を果たした69年が総合4位、翌年70年が総合5位ときて、

71年に全12戦中5回の優勝で50ccクラスワールドチャンピオンに輝いています。

また72年は同一ポイントで惜しくも総合2位に。

この時のポイント差は今でも最高僅差として記録に残されており、

「フィニッシュしたレースの合計タイムでランキングを決定する」という

規定によって21.32秒差という超微妙なものとなっています。

翌年73年には7戦中5勝を上げて2度目のタイトルを獲得。

しかしケガなどもあり、29歳とまだ現役を続けれたと思われていましたが、

この年を持って引退してしまいます。

50ccクラスは89年まで存在したカテゴリーで現在はありません。

排気量で考えると原付のイメージですが、

当時でも最高速は150km近くに達し125ccクラスのタイムと大きくは違いませんでした。

軽量でコンパクトだったこともあり、

トップ集団でも常に混戦状態だったことを思い出します。

ある意味、ライダーの技量が勝敗を分けるクラスだった気がしますね!




デイブ・シモンズ。(番外篇vol.386)

2013年11月11日 08時54分03秒 | Weblog
60年代に活躍したイギリス人ライダー「デイブ・シモンズ」選手ですよ。

彼の国際レース参戦は63年のマン島TTよりスタートします。

チームは当時ホンダに次ぐ日本の製造メーカーであったトーハツからエントリー。

途中ホンダとも契約を交わし68年シーズンまでマン島TTのみのスポット参戦をしていました。

で、69年についにカワサキ・ワークスとフル参戦契約を果たしWGPに本格的に

乗り込むカタチとなります。

125cc、250cc、350ccとトリプルエントリーし、

125ccで全12戦中8勝、2位を2回獲得し圧勝でワールドチャンピオンを獲得します。

70年には表彰台の常連になるも総合4位。

71年にはケガもあって総合6位となっています。

しかし72年シーズンを終えてノンタイトル・レースであったフランスのエリア選手権で、

パドックの火災に巻き込まれて死亡。

享年33歳でした。

69年に獲得したワールドチャンピオンはカワサキにとっても初の快挙で、

80年代にアントン・マンク選手が250ccでチャンピオンになるまで、

勝利はありません。

日本のカワサキに貢献した人物だったんですよね。

「デイブ・シモンズ」選手の場合、けして天才的な速さを持っていた訳ではなく、

地道に努力を重ねる選手だったようです。

また悲しいかな、この時代の選手はとにかく亡くなる方が多かったですね。


トム・フィリス。(番外篇vol.385)

2013年11月09日 09時30分40秒 | Weblog
60年代に活躍したオーストラリア人ライダー「トム・フィリス」選手ですよ。

ホンダととても縁のある選手で、60年、ホンダが始めてWGPに参戦したとき、

マン島TTがこの年よりコース変更を行い、新しいコース経験の無い日本人ライダーに加えて、

125ccクラスに「トム・フィリス」選手が出場を果たしているんですよね。

それまでノートン・チームでWGPに参戦していたのですが、

これを切っ掛けにホンダのバイクも乗るようになります。

しかも61年のスペインGPでは、ホンダにWGP参戦初の優勝をもたらしています。

この年はホンダ、「トム・フィリス」選手共に絶好調で、

そのまま125ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

また同時にエントリーしていた250ccでも総合2位を獲得。

勢いに乗ったカタチで62年シーズンを迎え、

3度の表彰台を獲得し迎えた第4戦マン島TT350ccクラスの決勝レース中、

9マイル標識付近のローレルバンクでクラッシュ、帰らぬ人となります。

享年31歳でした。

非常にライダー仲間の間でも深い信頼関係を築いており、

とても人柄の良い選手だったようです。

彼の死を受けて引退を考えた選手が多く出たと言われているんですよね。

まさにこれからという時に起こった事故ですが、

現在も「トム・フィリス」選手の墓はマン島のマウンテンコース、

スタートライン右側に墓地があるようです。


カルロス・ラバード。(番外篇vol.384)

2013年11月08日 09時05分24秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍したベネズエラ人ライダーの「カルロス・ラバード」選手ですよ。

10代から地元の国内レースに参戦し始め、

78年に行われたベネズエラGPで、ついにスポット参戦というチャンスを与えられます。

結果は2位という好成績を獲得し、翌年79年に行われたベネズエラGPではいきなり優勝します。

この結果が切っ掛けとなり80年よりヤマハ・ワークスからWGPフル参戦を果たします。

81年、82年と250cc、350ccクラスで何度も表彰台を獲得し、

83年には250ccクラスでワールドチャンピオンに輝きます。

この年は350ccクラスの廃止とカワサキの撤退があった年で、

「カルロス・ラバード」選手とっては大きなチャンスの年となっていたようです。

250ccクラス1本に絞り込まれた84年、85年は共に総合3位を獲得。

86年には12戦中6勝を上げて2度目のワールドチャンピオンを獲得します。

このシーズンは印象的な年で、ボクもリアルタイムで見てました。

平忠彦選手が最終戦のサンマリノで優勝を果たした年でしたからね。

87年からはケガに悩まされ上位を走ることが少なくなり、

最終的には92年シーズンをもって引退します。

最盛期は、とにかくスタートの上手い選手で、

トップに躍り出ると逃げ切りで優勝するケースが多かったですね。

また、ラインがクロスしやすい250ccクラスだったので、

接近戦でのコーナーで、果敢に攻める攻撃力も凄まじかったことを思い出します。

ボクが峠で走っていた時代の選手なのでとても懐かしいです。