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ジョニー・チェコット。(番外篇vol.383)

2013年11月07日 08時58分31秒 | Weblog
70年代から80年代に活躍したベネズエラ人ライダーの「ジョニー・チェコット」選手ですよ。

10代からヨーロッパのエリア選手権に出場するようになり、

75年、若干19歳でヤマハ・ワークスよりWGP250cc、350ccクラスに参戦。

デビューイヤーにして350ccクラスチャンピオンに輝きます。

この記録はフレディースペンサーが塗り替えるまで世界最年少記録として登録されていました。

その後も250cc、350cc、500ccクラスで戦い、

ワールドチャンピオンこそなれなかったものの、

総優勝回数14回、ポールポジション22回、ファーテストラップ7回を記録しています。

80年にWGPからバイクレースに関しては引退し、

同年よりミナルディから欧州フォーミュラ2選手権に参戦します。

82年には激戦を戦い惜しくも総合2位を獲得。

83年よりかねてからの夢であったF1へステップアップします。

しかし第2戦アメリカ西GPで6位入賞が最高ポイントで、

4輪では好成績を残すことが出来ず、84年シーズンを持ってあえなく引退に追い込まれます。

F1引退後はツーリングカーレースに参戦し、

マカオ、24時間耐久などで活躍、ドイツで開催されているDTMなどでも優勝するなど

好成績を残していますね。

元々、バイクレースからスタートした「ジョニー・チェコット」選手だったので、

80年代に入ってからも、もうしばらくWGPで活動を続けていれば、

もう一回はチャンピオンになれた可能性があったかもしれません。

あくまで憶測ですけどね。(笑)



ラルフ・ブライアンズ。(番外篇vol.382)

2013年11月06日 09時00分09秒 | Weblog
60年代に活躍した北アイルランド人ライダーの「ラルフ・ブライアンズ」選手ですよ。

ホンダが精力的にレース活動を始めた当初は、

そのほとんどが社員からなる日本人ライダーを起用していたのですが、

バイクが速さを増す中で、どんどん速い外国人ライダーを採用し始めます。

そんな中、小排気量クラスの優勝を狙って契約したのが、

この「ラルフ・ブライアンズ」選手だったりします。

「ラルフ・ブライアンズ」選手自体は、

62年からWGPにベネリ・チームとノートン・チームで戦っていたのですが、

若い新人ライダーとして63年からホンダ・ワークス入りを果たします。

速いマシンを手にいれたことで、

65年シーズン早々に50ccクラスでチャンピオンを獲得。

同時エントリーしていた125cc、250ccクラスでも健闘を見せ、

66年は50cc、125ccクラス共に総合3位を獲得し、

67年も350ccクラスで総合3位をゲットします。

この時、「ラルフ・ブライアンズ」選手は若干24歳という若さであったのですが、

なぜか67年シーズンを持って引退してしまいます。

圧倒的な速さで駆け抜けた選手ではなかったのですが、

地道に強い選手だったようですね!



パオロ・ピレリ。(番外篇vol.381)

2013年11月05日 09時02分04秒 | Weblog
70年代に活躍したイタリア人ライダー「パオロ・ピレリ」選手ですよ。

60年代から地元イタリア国内レースに参戦するようになり、

73年から125ccはDRSチームより、250ccはヤマハワークスより

WGPにWフル参戦を果たします。

74年からは125ccでは名門のモルビデリチームに移籍し、

チェコGPで初の2位表彰台をゲット。

翌年75年には12戦中7回の優勝で125ccクラスチャンピオンに輝きます。

76年からはモルビデリチーム一本で125cc、250ccクラスに参戦。

エースとしての待遇を受けるのですが、

6度の表彰台を得るも優勝が一度も無く総合で3位という成績に終わってしまいます。

77年、78年、79年はまったく良いところがなく、

最終的にはモルビデリチームから解雇されるカタチで引退しています。

現役を退いてからはチーム監督に転身し、

ロリス・カピロッシやアレックス・バロスらを育成し裏方で成功を収めます。

資料では07年に地元イタリアのテルニにて62歳で死去。

「パオロ・ピレリ」選手に場合、どうも天才肌では無かったみたいですが、

努力家でバイクが好きだったみたいですね。

激戦化し始めた70年代にあって、かなり苦労した選手のようです。





ビル・アイビー。(番外篇vol.380)

2013年11月02日 10時44分54秒 | Weblog
60年代に活躍したイギリス人ライダー「ビル・アイビー」選手ですよ。

59年、17歳で国内で開催されていたエリア選手権に参戦し、

65年よりヤマハ・ワークスからWGPにフル参戦します。

66年には125ccクラスで総合2位を獲得。

67年には12戦中8勝を上げて125ccクラスでワールドチャンピオンを獲得します。

また同時参戦していた250ccクラスでも3位を獲得し最盛期を迎えます。

68年はポイントトップで終盤を迎えていたのですが、

チームメイトのオーダー無視もあって連続チャンピオンを逃す結果となってしまいます。

これに怒りを感じた「ビル・アイビー」選手はこの期を持って引退。

一端は4輪への転向を計ることになったようです。

で、69年は4輪(フォーミュラー2)でフル参戦を果たす予定だったのですが、

早々にチェコスロバキアのメーカーであるヤワ・チームの誘いによって、

引退を撤回し、350ccクラスのライダーとしてグランプリに戻ってくることになります。

順調な滑り出しを見せていたのですが、第5戦東ドイツGPの予選中、

パドックに戻るためにヘルメットを脱いでタンクの上に置き、

流して走っていたマシンのエンジンが突然焼きつき、

「ビル・アイビー」選手はバイクごと投げ出され頭部を強く強打。

そのまま病院で息をひきとります。

享年26歳でした。

生きていれば必ずチャンピオンになれる才能を持っていただけに、

残念な結果になってしまったようです。


ジョン・エクロード。(番外篇vol.379)

2013年11月01日 09時48分19秒 | Weblog
70年代から80年代にかけて活躍した南アフリカ人ライダー「ジョン・エクロード」選手ですよ。

10代の頃よりヨーロッパに渡りイギリスなどの

国内エリア選手権などに出場していたのですが、

75年に念願のヤマハ・ワークスと契約しWGPフル参戦を果たします。

77年には350ccクラスで総合3位を獲得し、78年は総合4位、

日本の片山敬済選手などと争っていたんですよね。

79年は成績がふるわず80年からヤマハ・ワークスより

プライベーターチームのビモータ・ヤマハチームに移籍します。

このビモータ・ヤマハチームはビモータのシャーシに当時のTZ350エンジンを搭載したもので、

メーカーからの支援を受けずに結成されたチームでした。

しかし、この年なんと「ジョン・エクロード」選手はこのマシンで3回の優勝を果たし、

350ccクラスでワールドチャンピオンに輝くことになります。

さらに81年も2回の優勝、4度の表彰台をゲットし総合2位を獲得。

全盛期を迎えるのですが、ここでビモータ・ヤマハチームがレース活動を休止してしまい、

事態は一変します。

シートを失った「ジョン・エクロード」選手は各チームと交渉し、

なんとか82年シーズンをチ-ム・カジバから参戦することが出来たのですが、

不慣れな500ccクラスからの参戦もあって思うような成績を残すことが出来ず、

結果この年をもって引退してしまいます。

80年に獲得したプライベーターチームからの参戦は近年のWGPでは珍しく、

ワールドチャンピオンに輝いた数少ない選手の1人です。

これは賞賛に値することだと言えますね!