今日は今から88年前の1936年2月26日に、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件のいわゆる「二・二六事件(ににろくじけん)」が起こった日です。
その1483名の兵の中に上官の命を受け、警視庁襲撃に参加した 五代目 柳家小さん、本名小林盛夫さんがいます。
§ 小さんは1915年(大正4年)1月2日、長野市生まれ、東京・浅草育ちで、現在の韓国と同じように徴兵制度のあった
当時の日本のくにたみの義務として兵隊に取られて、髪もないのに事件にかみました。
当時、柳家小さんは、前座(先代の四代目小さん門下で栗之助と言っていた)だったが、徴兵され麻布の三連隊に入隊したのが昭和11年。
いきなり一兵卒で野中大尉の指揮の下で警視庁の襲撃部隊に加わりました。
『翌日部隊は、決起軍として何大臣だかの官邸を占領したが、その晩上官の一人が、「おい、小林二等兵、お前は落語家だそうだから、
士気を鼓舞するために、何か一席やれっ!」と、命令した。
みんな、どえらいことをしでかした緊張感と、空腹でしょんぼりとしている中で命令となれば仕方がない。
「えー、落語に出て参ります人物はてえと、大抵我々同様で…」と始めたのが、お馴染みの『子ほめ』。
この噺はくすぐり沢山で、普段寄席でやるとウケる噺なのに、始めから仕舞いまで、誰もクスリとも笑わなかったそうだ。
「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから。」と返した。
§ 二・二六事件の決起軍は結局、若き昭和天皇の怒りを買い叛乱軍とされ、決起軍は反逆罪で処罰された。
この時、襲撃された大臣や将官の家の警護の警官や憲兵は、かなりの人数が問答無用で各所で決起軍の若い指揮官達に射殺された。
射殺された彼らの殆どは東北や九州の農家の二、三男だった。
反乱軍となって処刑された将校は自分で自分のクジを引いたと言えるが、柳家小さんの小林盛夫らの二等兵クラスはどうなったか?
上官の命令に従っただけで、自分らの何の思想的行動でもなかった彼らは、その後 極秘裏に満州などの激戦の前線部隊に送られ切り込み隊に使われた。
従って兵らの消耗率は高かったと言う。柳家小さんも勿論戦地に送られたうちの一人だった。彼は召集期間を勤め上げ日本へ帰還したが、
暫くすると再召集され今度は仏領インドシナ(現ベトナム)の戦線へだされている。
§ 国を憂えた純粋な若手将校たちは貧しくとも(大尉の一人の父親は慶応高校の英語の教師などで、必ずしも貧しくはなかったが)
漢文の素養もある家庭階層出身が殆どで、宴会の高歌放吟にも漢文調の歌を好んだ。
しかし柳家小さんこと小林盛夫さんや現場の警官の出身階層からすると「将校さんたちよ、オノレをなんぼのもんとおもてるんや」としか思えないのでは。
「本人が純粋に思い込んでいる愛国心や正義感ほど、はた迷惑なもんはない」と言うのが、
日々をフツーに暮らしたい下々の者のしみじみの目線から見た二・二六事件への思いだ。
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私は反乱兵 五代目柳家小さん 音声記録:五代目柳家小さん226事件を語る - DEEPLY JAPAN (goo.ne.jp)
柳家小さん「226事件を語る」
五代目柳家小さん「穴泥」
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そう言えば2.26事件のあった日ですね~
柳家小さんも反乱軍の一人であったと初めて知りました。
当時 上官の命令は絶対だったのでしょうね。
落語面白く聞かせて頂きました。
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