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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

犠牲〈サクリファイス〉わが息子・脳死の11日  柳田邦男

2016-07-04 22:00:49 | Book



 このタイトルは、「天才映画詩人」と云われているタルコフスキーの遺作映画「サクリファイス」からとられています。この映画のなかで、ギリシャ正教の修道僧パンヴェの伝説が語られます。パンヴェは山に枯れた木を植えて、弟子に毎日水をやるように命じます。弟子は三年欠かさずそれを忠実に続けて、枯れ木は再生するというお話です。これを父親が幼い息子に語るのです。これは不毛なものを「希望」に変え続ける人間の意志への賛歌とも言えるのかもしれません。
 柳田邦男の25歳の次男洋二郎は「犠牲」と「再生」を求めて「死」の世界を選んだのでした。この本はその息子洋二郎への心をこめた哀悼の書です。

 心を病んだ次男洋二郎の自死から、医学的再生によって与えられた11日間の「脳死」の時間のなかに流れた、父親と母親(洋二郎への心労から、彼女もとうに病んでいる。この現実を受け止める力はない。)、長男賢一郎との濃密で真剣な「いのち」との会話でした。それはまた医療者と親族との「いのち」への向き合い方への真剣な問い直しだとも言えるでしょう。

 柳田はこの本のなかで「二人称の死」という言葉を差し出してくる。「脳死=死」という「死が始まったところで終点とする。」という一人称から、「死が完結するまで待つ。」という「二人称の死」、つまり普通の人間の感性によって、家族、恋人、友人などが「死」を納得できる時間をおくということ。これは別の言い方をすれば「グリーフ・ワーク=悲嘆の仕事」という最も大切な、生き残された人間の時間となるはずだ。また「三人称の死」とは戦争、災害、テロなどによる見知らぬ人々の大量のいたましい死のことです。

 この表題の「犠牲」には、もう一つの意味がある。どうしてもこの世では生き難い洋二郎は、自らの「死」と引き換えに「骨髄バンク」へのドナー登録をしていたことにもある。この望みは果たせなかったが、考えぬいた末に父と兄は、腎臓移植を待つ患者二名に洋二郎のいのちを託したのだった。

 「脳死」「尊厳死」など、人間の「死」にはいまだうつくしい結論などはない。しかし、愛する者を「死」によって失うことの深い悲しみを救えるものはなにか?この世に生き難い洋二郎が愛読したさまざまな本のなかから、大江健三郎の言葉をお借りしてみよう。わたくしにはこれ以上は語ることができない。

 「文学はやはり、根本的に人間への励ましをあたえるものだ。」

 「まだいるからね。」・・・・・・・・・

 (1995年・文藝春秋刊)

キメラ 満洲国の肖像 その2

2016-06-27 00:59:45 | Book


 
覚書として、ここに引用しておきます。

『おそらく、真の民族協和とは、異質の民族や文化が、混在しながら衝突や摩擦を引き起こし、そのぶつかり合いが発するスパークスを活力として新たな社会編成や文化を形成してゆくことによってもたらされるはずのものであろう。そうであるとするならば、それは、心に長城を築き、自らを他民族に文明と規律を与える者という高みにおいた日本人、多様性を無秩序と捉える日本人によって達成されるはずもなかったのである。
 いや、日本人に限らない。侵略という事態のもとでは、いかに崇高で卓越した民族であれ、民族協和を実現することなどできはしない。また、それができる民族なら、そもそも他民族を侵略し、自らの夢を強制したりはしない、はずである。』

著者、山室信一氏の言葉は熱いです。


(中公新書1138 1993年 中央公論社刊)

キメラ 満州国の肖像  山室信一

2016-06-23 21:57:10 | Book



この書籍は、三浦英之氏が書かれた「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」の参考文献の1冊として、紹介されていたものです。

「傀儡国家・満州国」は1932年3月1日から1945年8月18日までのわずか13年5ヵ月で姿を消しました。それは何だったのか?どうしても知りたいと思い、山室信一氏の膨大な知識に消化不良を起こしつつ……。なんとか時間をかけて読みました。

「キメラ」とは、ギリシャ神話に出てくる、頭が獅子(関東軍)、胴が羊(天皇制国家)、尾が龍(中国皇帝および近代中国)の怪物のことで、これを「満州国」に例えたもの。

満州国の執政となった「愛新覚羅溥儀」の曖昧な立場。満州国は関東軍の基地国家であり、議会もなく、憲法法典の制定もないままに終わった。最も酷いことは、すべての政策が日本人による日本人優先の政策で、満州、朝鮮、ロシア、モンゴルの人々は、すべての面で過酷な境遇に置かれました。

さらに「国籍法」制定を阻んだ最大の原因は、日本国籍を離れて満州国籍に移ることを峻拒しつづけた在満日本人の心であったと、筆者は記していらっしゃいました。

『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後 三浦英之』に書かれた「満州建国大学」と「満州国陸軍軍官学校」という最高学府においても、程度の差はあれども、日本人学生優先だったことは間違いない。

この本の第一章から、第四章までは、満州国の歴史を丁寧に辿り、記述されていたように思われましたが、その後の「おわりに」と題された、278~310ページには、山室信一氏の、関東軍の残忍性についての怒りの声が聞こえるようでした。何故、この本が書かれたのか?その答えをみる思いでした。

満州国の誕生とは、難産の末に生まれ、育たなかった鬼子のようなものだったのではないか?小さな島国の人間の未熟な(膨大過ぎる)国造りであったのではないか?それでも、束の間の若者の夢や貧しい農民の夢の大地であったことが信じがたい。しかし、我が父も満州国へ渡った若者だった。若き教師の父のもとへ我が母は嫁ぎ、私は記憶にはない満州国のハルビンで生まれたらしいのだ。そして、引揚者家族となって、小さな島国へ帰還したが、私の故郷はどこか?


『歴史とは、僕がそこから目覚めたいと願っている悪夢だ。 J・ジョイス』

上記の言葉が、心に深く重く残りました。


(1993年 中公新書1138 中央公論社刊)

五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後 三浦英之

2016-06-02 13:54:21 | Book

第13回開高健ノンフィクション賞受賞


日中戦争当時、日本が旧満州国の最高学府として構想された「建国大学」が、首都の新京に設立された。「五族協和」という理念のもとに1938年に日本・中国・朝鮮・モンゴル・白系ロシアの五つの民族のエリートが選抜されて創立。全寮制の徹底した共同生活による教育が行われた。午前は講義、午後は農業・軍事・武術などの実践、夜には言論の自由の保障のもとで徹底した討論が特色だった。その上、必要な費用はすべて無料。彼らはスーパーエリートだったわけです。将来の国家運営を担うための。

建国大学のもととなる「アジア大学構想」を提唱したのは「石原莞彌」。その命を受け、建国大学の設立計画を推進したのは「辻正信」だった。

けれどもそれは「満州国」のために設立されたものであり、その歴史は短い。満州国崩壊後の学生たちによって、70年後に明かされたドキュメンタリーである。筆者の三浦英之氏のこの一冊に込めた熱意と、取材に惜しみなく協力して下さった、建国大学のご高齢の卒業生たちの合作と言える。

こんな一節があります。
『歴史を学ぶということは、悲しみについて語ることである。』

満州国崩壊後、建国大学の学生たちは、それぞれの国の思想統制の犠牲となった方々ばかりですから。「五族協和」の夢は彼等を苦しみに陥れたことになります。

さて「五色の虹」という表題が、どこから生まれていたのか?それは「あとがき」で明かされます。それはネルソン・マンデラの歴史的な演説「レインボー・ネーション」に由来する。人種、民族の違いを超えた多民族国家を目指したマンデラの願いは、建国大学の卒業生達の目指した「民族協和」と同質のものであったのだ。

ここで、私事になりますが、哈爾浜中学を卒業してから、建国大学に入学した方が、この本のなかでお二人いらっしゃいました。ウランバートルのダニシャム氏と、日本人僧侶の父とロシア人の母との間に生まれ、「如二…ジョージ」と名づけられた方でした。哈爾浜中学は、我が父が若き日に教鞭をとったところでした。もしかしたら出会っていたかもしれませんね。そして我が父もまた、はかない夢の学校にいたわけですね。記憶にはない満州ではあっても、そこで両親が新しい人生を始めたわけで、私は小さな赤ん坊の引揚者となって、祖国へ帰りました。二人の姉たちにはわずかながら記憶があるようですが。



さらに私事ですが、1999年夏にモンゴルに行きました。上の写真が、その時のウランバートルのダンバダルジャー記念公園(筆者とウランバートルのダニシャム氏が訪れた、日本人慰霊地。)です。この写真はその時に撮ったものですが、現在はこんな風になっているようです。時とともに人々の思いはやわらかくなってゆくようですね。

https://www.ab-road.net/asia/mongolia/ulan_bator/guide/03948.html

最後に、三浦英之氏が、我が子と同い年であることに、少々驚きつつ、彼のこの一冊に込めた熱情に敬意を表したいと思います。そしてこのようにして次の時代へ渡されてゆくであろう、貴重な一冊となりましょう。よいご本を読ませて頂きました。感謝いたします。このご本を先に読んだのは我が子でした。

 (2015年12月 第一刷 集英社刊)

身ぶりとしての抵抗  鶴見俊輔

2016-05-14 16:57:30 | Book



これは河出文庫から出版されている、黒川創編集による「鶴見俊輔コレクション」の(2)にあたる書となります。黒川創氏は作家。10代から「思想の科学」に携わり、鶴見俊輔氏らと共に編集活動を行っていました。

あなたは勝つものと思ってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ  土岐善麿

この短歌が、この本を読み始めてすぐに記されていました。
土岐善麿は、明治初期から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に反対した歌人であったが、やがて新聞人として、戦争に肩入れすることになった。そのあいだ家にあって、台所で料理をととのえていた妻は、その乏しい食材から夫とは別の現状認識をしていました。この思想の違いを、正直に見据えて、土岐善麿は敗戦後の歌人としての一歩をふみだした。この彼の生き方を鶴見俊輔氏は立派だとおっしゃる。

さらに、敗戦当夜、食事をする気力をなくした男は多いとおっしゃる。しかし夕食を整えない女性がいただろうか?他の日と同じく、女性は食事を整えた。この無言の姿勢のなかに、平和運動の根があるとおっしゃる。これがおそらく鶴見俊輔氏の基本的なお考えではないだろうか?

もうこれで充分に「読んだ!」という感動が湧く。しかし、ここから鶴見俊輔氏は、様々な実体験に沿って、「抵抗」の歴史を語るのであった。すべてに感想を書くことはできませんが、読むことに一切の苦痛はなかった。その上「平和」と「人権」を守り抜く姿勢が崩れることがなかった。強い方だ。そして自由で柔軟な方だ。そして信頼できる方でした。

経験と実践と思想とが、しっかりと結びついた鶴見俊輔氏の言葉は私を導いて下さった。これからも、もう少しだけ生きてゆかねばならない私にとっての、道案内人となってくださる方だと思っています。


以下、引用です。

『「足なみのあわぬ人をとがめるな。かれは、あなたのきいているのとは別のもっと見事な太鼓に足なみをあわせているのかもしれないのだ。」ソロー 

『正論が抑圧される時、流言蜚語が正論のかわりになる。これにたいして権力は、それじしんの蜚語をつくって、まやかしの道をひらこうとする。その政府創作の蜚語にたいして、民衆の蜚語をすすめなくてはならない。』


(2012年10月10日 河出書房新社刊)

ソ連が満州に侵攻した夏  半藤一利

2016-04-23 15:34:55 | Book


読後、どっと疲れましたが、読んでよかったと思っています。半藤一利さんが書かれたこの時期には、父はハルビンから現地召集令状を受けて、正体の見えにくい部隊に入り、母と子供たちはハルビンの家に残され、終戦の玉音放送を心細い思いで聴いたとのことです。
父が部隊から離れて(この離れた事情について書くと長くなりますので省略します。)母と子供たちと再会できるまでに2ヵ月以上かかりました。それから日本への引揚までの時期を、ハルビンよりも暖かい新京で生き抜いてきたわけです。

その時期にソ連と日本との間でどのような闘いと駆け引きと結末があったのかがよくわかりました。わかればわかるほど、私たち一家が終戦後1年余りで無事に日本へ引揚げられたことが「奇跡」のように思われます。

父も母もささやかな手記を残して下さいましたが、そこに書かれていないものが、今見えてきました。しかし、書かれていたことだけを信じていようとも思います。口には出せないような大きな不安を抱きつつ……。

でも、父も母ももうこの世にはおりません。父の末期の夢のなかには「ソ連兵」が現れました。母は認知症になってからは、満州にいる父のもとへ嫁いだ日から、その後の記憶はすべてなくなりまして、少女時代を生きておりました。戦争は終わっても、それぞれの戦争体験者に“戦後”はついになかったのです。

以下、引用します。
『満州国という巨大な“領土”を持ったがために、分不相応な巨大な軍隊を編成せねばならず、それを無理に保持したがゆえに狼的軍事国家として、政治まで変質した。それが近代日本の悲劇的な歴史というものである。司馬遼太郎氏がいうように、「他人の領地を併合して、いたずらに勢力の大を誇ろうとした」、その「総決算が“満州”の大瓦解で」あったのはたしかである。いまはこの教訓を永遠のものとすることが大事である。曠野に埋もれたあまりにも大きすぎた犠牲を無にしないためにも、肝に銘ずべきことなのである。』


小さな島国日本が、世界を知らないままに、大きすぎる国を造ろうとしたことはあまりにも稚拙であったのではないか?領土は小さくてもいいではないか。世界を把握し、理解する能力が問われるのではないか?


 (1999年7月 第一刷 文藝春秋刊)

生きて帰ってきた男 小熊英二

2016-04-08 22:14:54 | Book




この本を読もうと思ったきっかけは、対談「戦争が遺したもの・鶴見俊輔・小熊英二・上野千鶴子」でした。この対談における小熊英二氏の鶴見俊輔氏への質問が、非常に見事だったことによります。

サブタイトルは「ある日本兵の戦争と戦後」となっています。これは小説ではありません。小熊英二氏によるお父上のお話の聞き取りと、時代考証から成り立っています。
読み終わって、深い感動を覚えました。小熊英二氏のお父上である「小熊謙二氏・1925年生まれ」の少年時代から旧制中学を早期卒業(戦争のため。)、その後の就職、そして召集で満州へ、終戦とともに、シベリア抑留者となる。そして帰国。貧しく働く場所を転々としてから、やがて仕事が順調になった。結婚、そして1962年小熊英二氏の誕生となる。

お話を「シベリア抑留」に絞らず、お父上の戦前、戦中戦後、そして今日に至るまでの歴史をすべて明らかにすることによって、「戦争」が一人の人間の生涯をどのように翻弄したか?そしてどのようにして、お父上が戦中戦後に誠実に向き合ってきたかが、丁寧に検証されていました。

その一例が、朝鮮人や台湾人の元日本兵が、元日本兵と同等の恩給その他を要求する運動や裁判に積極的に関わり、お父上の変わらぬ生き方をはっきりと見たという思いでした。

以前、新聞紙上で、小熊英二氏がお子さんと手を繋いでいる写真を見たことがありました。非常に忘れられないものでした。この本を読みながら、さらに忘れることはないでしょうと思いました。この先にも、さらに家族の歴史が続いてゆくのでしょう。どうか幸せな日々でありますように、と願っています。全ての人々も幸せでありますように。ふたたび戦争が起こりませんように。

書いていたら、きりがありません。感動をどう伝えたらいいのか?是非とも読んでいただきたいものです。


《覚書 引用です。》

『さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったのかを聞いた。シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いである。
「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」 そう謙二は答えた。』


 (2015年6月19日 第一刷 岩波書店刊)

戦争が遺したもの 鶴見俊輔×上野千鶴子×小熊英二

2016-03-30 16:30:27 | Book



サブ・タイトルは「鶴見俊輔に戦後世代が聞く」と書かれているように、上野千鶴子は1948年生まれ、小熊英二は1962年生まれと記されています。ちなみに鶴見俊輔は1922年生まれです。主に小熊氏が鶴見氏に質問する形で3日間の対談は進みました。それが約400ページの単行本になったと言うことは驚きでした。なんとエネルギッシュな対談だろう。

鶴見氏は、厳し過ぎる母親に苦しめられて、死ぬことまで考えた10代前半を過ごし、見かねた父親が15歳の鶴見少年を米国留学させました。以下引用です。


『母親というものは、子供にとって内心の先住民族であり、圧政者なんだよ。スターリン以上かもしれない(笑)。母親がどれだけ子供を圧迫しているか、世の母親は知らないんだ。リヴもフェミニズムもそれを知らないのが欠点なんだよ。』


そして戦争が始まり、日本人留学生は隔離され、交換船で帰国する。帰国を決意させたものは、米国にいる日本人としての恐怖ではなく、「負ける側を生きる」という思いだった。当然、帰国すれば鶴見氏には召集令状が来る。先回りして海軍の軍属となったわけだけれども……。翻訳の仕事だった。

終戦後、彼は「◯○主義」とか「✖✖党」というものに属せず、独自の生き方をした。一貫していたことは「一番病の人間にならないこと。」在野の人間として考え、行動することだった。「声なき声の会」「ベ平連」「九条の会」などと共に行動し、「思想の科学」の出版を続けた。その鶴見氏の戦後からの日々は、通常の人間の数倍も生きてきたようだった。

対談は楽しそうに、白熱していた。小熊氏の質問は常に無駄がなく、的確に行われた。小熊氏の持っている知識もすごい。そこから鶴見氏の知識と行動力、そして多くの人々に愛され、交わったことが浮き彫りにされたように思う。そして、鶴見俊輔のやんちゃな人生を楽しく聞かせて頂きました。


《私的覚書……俊輔語録》
『正義というのは迷惑だ。全身全霊正義の人がいたら、はた迷惑だってことだよ。』


 (2004年3月31日 初版第2刷 新曜社刊)

ムシェ 小さな英雄の物語  キルメン・ウリベ

2016-03-17 00:17:02 | Book




スペイン内戦下の1937年、ゲルニカ爆撃の直後に、約2万人のバスクの子供たちは、欧州各地に疎開させられた。その中の1人の少女「カルメンチュ」は、ベルギーの文学青年「ロベール・ムシュ」と、その一家に引き取られる。
このことだけでも、私は驚く。日本の戦中の疎開児童の移動とは大きな隔たりがある上に、異国の戦災少女を家族として受け入れることなどを。しかし、第二次世界大戦の勃発とともに、「カルメンチュ」は荒廃したバスクへの帰還を余儀なくされる。

この小説の主人公は「ロベール・ムシェ」。「カルメンチュ」との出会いが彼の人生に大きな方向性を指し示すことになる。そしてこの物語は、著者の懸命な調査によって書かれた事実による小説であること。歴史に書き残されていない一人の文学青年の生涯が丁寧に書かれています。ムシュの娘カルメンの協力が大きい。カルメンは、70年前にバスクの少女「カルメンチュ」を受け入れた父のことを、バスクの作家が書くという巡り合わせに、執筆を初めて許した。

「ロベール・ムシェ」は、友人ヘルマンと、妻ヴィック、娘カルメン(カルメンチュにちなんで名付けられた。)に恵まれながらも、幸福な家族を離れて反ナチ運動に。その先は「逮捕」「拷問」そして「ノイエンガンメ強制収容所」に。1945年、収容所撤収となり、リューベック港から貨物船に。しかし家族のもとへ帰ることはできなかった。最悪の条件の中での移動であったから。

最後に、この一文を引用して終わりにします。これは、「ロベール・ムシェ」が「カルメンチュ」とその仲間たちを動物園に連れていった時の一連の写真を、筆者と娘のカルメンが見つけた時のことです。以下引用です。

『1983年の春。アントワープ動物園で、ライオン、猿、アザラシを見つめる子供たち。動物たちを見終ったあと、彼らは出口に空っぽの檻があることに気づいた。檻のなかには一枚の鏡。鏡の上にはこの一文があった。「人間、もっとも悪しき動物」』と……。

(2015年10月25日 白水社刊 翻訳・金子奈美)


《追記》

動物園の珍しい動物  天野忠
  
セネガルの動物園に珍しい動物がきた 
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。


この詩を思い出しました。

戦時期日本の精神史―1931~1945  鶴見俊輔 

2016-03-08 19:59:00 | Book
《りゅうりぇんれんの物語》 茨木のり子  朗読 沢 知恵 



戦中戦後についてぼんやりと考えている時には、いつでも「鶴見俊輔さんは、○○についてどう考えていらっしゃるのかしら?」と思うのです。たくさん拝読してはいませんが、読むと必ず納得できる答えを出して下さいます。こうして私が実態を知らない戦時期から終戦期を正しく理解するための大切な道案内人となって下さいました。
亡き父母の思い出話だけでは分からなかったことや、その時代を動かしていた様々な逃れ難い力、異なる民族への残忍な行為の数々、原子爆弾の投下はなぜ行われたか?戦時下における思想の弾圧(拷問、留置)などなど、わかりやすく教えて下さる貴重なご本でした。

これによって、石原吉郎の「サンチョ・パンサの帰郷」、茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」の再読をしました。「りゅうりぇんれんの物語」は、現代詩文庫の17ページ分、2段組に及ぶ長編詩です。
「サンチョ・パンサの帰郷」はシベリア抑留者の深い悲しみと苦しみ、帰国後には、祖国における深い孤独との闘いが書かれています。「りゅうりぇんれんの物語」は、日本人によって拉致された中国人が北海道で重労働に従事させられ、そこを逃走したものの、海に阻まれて国へ帰れない。終戦後村人に見つかるまで、山中で冬眠する獣のような暮らしをしていた。その拉致の方法は、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」にそっくりだ。

この本は、1979年9月~80年4月、カナダのケベック州モントリオール市のマッギル大学における13回の講義録であるが、英文で書かれたものですので、鶴見氏が日本語に戻し、テープに吹き込まれたものを、稲垣すみ子さんがおこして下さって本になりました。

講義録の内容は以下の通り。
1 1931年から45年にかけての日本への接近
2 転向について
3 鎖国
4 国体について
5 大アジア
6 非転向の形
7 日本の中の朝鮮
8 非スターリン化をめざして
9 玉砕の思想
10 戦時下の日常生活
11 原爆の犠牲者として
12 戦争の終り
13 ふりかえって

「鎖国」というテーマが何故あるのか?1931年が満州事変ですから、大分以前の日本について書かれることの意味は、読めば理解できました。国境線を持たない島国日本の体質がいつまでも尾を引いている民族なのでしょう。その日本人の戦争の始め方と終り方があまりにも稚拙ではなかったか?

それでも、今日もまた戦争を始めたがる御仁は後を絶たない。70年前に終わったはずの戦争は、実はいつまでも尾を引いています。その尾を絶ち切るためには日本人は永い歳月と人間としての努力が必要ではないでしょうか?

 (1982年第一刷 1985年第十一刷 岩波書店刊)