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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

望郷と海  石原吉郎

2016-09-07 21:22:44 | Book




藤原ていさんの「流れる星は生きている」の周囲を巡ってきましたが、方向を変えて、8年間のシベリヤ抑留生活を強制された詩人石原吉郎さんの本を久しぶりに開きました。私自身が詩に関わる者であるせいか、言葉が自然に流れこんでくる感覚がありました。

巻末の初稿掲載誌一覧によれば、1965年から1972年の間に書かれたもののようです。1部は「抑留生活の様子」、2部は「帰国後の彼の居心地の悪い心理状況」、3部は「1956年~1958年、1959年~1962年、1963年以後のノート。」となっています。3部のノートでは、ほとんど「呟き」のようでした。

『12月1日夜、船は舞鶴へ入港した。そこまでが私の〈過去〉だったのだと、その後なんども私は思いかえした。戦争が終わったのだ。その事実を象徴するように、上陸2日目、収容所の一隅で復員式が行われた。昭和28年(1953年)12月2日、おくれて私は軍務を解かれた。』と書かれているように、石原吉郎は8年間ものシベリヤ抑留生活を強いられました。

敗戦から8年後の日本において、石原吉郎は帰国できた喜びや安堵よりも、深い孤独に襲われるという言いようのない日々を送ることになります。そこから生まれた詩人の言葉は、抑留生活からの回復とみてもいいのだけれども、書いても書いても自己救済できず、反面では「戦争への怒り」を立ち上げる言葉へも、なかなか辿りつけない。
「肉親へあてた手紙 1959年10月」に書かれているように、抑留者の苦しみに無理解な人々への悲しい訴えに、胸が痛みました。

石原吉郎は「抑留体験者」という悲しみに満ちた自らを、とうとう救い出すことはできなかったのではないか?


 (1972年初版第一刷 1973年初版第二刷 筑摩書房刊)

流れる星は生きている  藤原てい (中公文庫)

2016-08-30 21:45:32 | Book



以前に読みました同名の小説は「ちくま少年文庫」だったために、削除された部分がかなりありましたので、「中公文庫」で読み直しました。(これは大丈夫かしら?)

子供に読ませたくない部分は大方わかりましたが、そこを削除してしまったら、本当のことは隠されるわけですが、それでいいのかな?と思います。藤原ていさんの二人の息子さんはこの現実を幼い目と心でお母さんと共に見たわけですから……。末っ子の赤ちゃんは記憶にはないでしょうが、四人の母子共々死の寸前まで生き抜いて誰も死ななかった、という奇跡なのですから。

人間が極限状態におかれた場合、想像以上の生きる力が生まれる人間がいること、反面では、どこまでも卑怯な生き方を選ぶ人間がいること、がよくわかります。当然、藤原ていさんのご家族は前者です。

満洲からの引揚には、様々なコースや、引揚のやり方があったのではないか?と思いますが、藤原ていさんと三人のお子さんの引揚の様子を拝読しますと、相当の悪条件のもとで、実行されたと思われます。敗戦直後の満州においては、ほとんどの連絡手段も持たず、情報入手も難しいものでしたから、仕方がないとは思いますが、本当にご苦労なさったことと思います。皆さんが最後まで生き抜いて下さり、このような記録を残された藤原ていさんに改めて、頭を垂れます。そして抑留生活を余儀なくされたご主人様の新田次郎氏の無事帰還も果たされたことも含めて。

おそらく、皆様がこれほどのご苦労をなさったのは、ご主人様のお仕事「観象台…今で言えば気象庁」が、軍に関わる部署だったからではないか、と推測致します。だからこそ早く新京から逃げなければならなかったのではないでしょうか?

その後にご夫婦共々に、多くの著作を残されたことも喜びたいと存じます。


 (2013年4月5日 改版17刷 中央公論新社刊 中公文庫)

チャキの償い  藤原咲子

2016-08-23 00:31:23 | Book



上の地図は、藤原てい著「流れる星は生きている」からコピーしました。


この著書の前に出版された「父への恋文」と「母への詫び状」には、満洲からの引揚者の赤子が必ず通過する「栄養失調」が引き起こす、様々な心身の不調が主流となっていて、ご両親さまの凄まじいご苦労に焦点を合わせて書かれていなかったことが、同じ体験者として不満が残りました。(母上と子供3人だけの引揚、そして父上の抑留生活について。)

しかし、この3冊目には力強い筆者が登場しました。
全ての隠されていた筆者の能力が、父母の故郷の幼少期を呼び出し、母親の「流れる星は生きている」の足跡を辿り、父親の中国吉林省延吉市での抑留者としての実態を本気で辿ろうとする筆者がいました。(北朝鮮への旅は、叶いませんでしたが……。)ここに至れば、生来抱いていらした文筆家としての能力を見せて頂いたという思いがありました。ずっと咲子さんの本を追いながら、ここまで読んできてよかったと思います。

以下、長い引用です。
『一回目の訪問も二回目の時も、張さんの店を出ると、私は真っすぐに夕暮れの鴨緑江を黙って歩いた。目の前にある北朝鮮新義州から、わずか四つ目の駅にある宣川。若い母と乳飲み子の私、幼い二人の兄、束の間は父も一緒に過ごした宣川の方角をにらみつけた。向こう岸の新義州は、宇宙のすべての陰を集めた色の緞帳を下して、急速に夕方が近づいていた。あの宣川へ行ってみたい。宣川、平城、新幕、市辺里と三十八度線も越え、開城 京城、そして釜山へと、母が娘の私に残した轍のあとを、真実のあとを歩かなければ私の総括とはならないのだ。母の九十余年の人生が「流れる星は生きている」に総括されているとすれば、母に詫びようとする今、母を知ろうとする今、娘の私が敢然と実行してこそ真の詫び状に近づくのではないだろうか。今、此岸と彼岸の淡い(←間?)を生きる母に、私が命を賭してでも為しえなければならぬことは、母の想いを背に負い、死に直面しながら、赤土の泥沼をもがき、馬糞の臭土から足を抜き歩きつづけることだ。(中略)憤怒の形相で「流れる星は生きている」を走破しなければ謝罪にならないのだ。(中略)中朝国境に立ちいつも思う。今日まで私に生きることへの勇気や気概を与えてくれたのは、奇しくも、反抗しつづけていた母からであったのではないだろうかという現実である。それは母の背にいた引揚げの時からであって、母の熾烈な生への気力を私はすでに習得し、常に私の背を押しつづけてささえられているのだという圧倒的な実感である。栄養失調の奇蹟の赤ん坊と呼ばれたチャキの私は、初めて母によって強くなった脚で仁王立ちになり、旅の途中で諦めなければならないという、たたきつけたい怒りと白黒のはっきりした鋭いメジロの目で、鴨緑江を振り返りホテルへ戻った。その夜、私は気を失うように深い眠りについた。』……引用おわり。

記憶にはないはずの「満洲からの引揚」という歴史的事実を、手繰ることは難しい。私は四歳上の姉の記憶に頼り、その関係の本を読み、父母のメモを頼りに、私は手繰り続けるしかないと思っています。そうして私達の最後の仕事となるのでしょうか。


以下、地理音痴の私のための覚書として。

丹東市(たんとうし)は、中国遼寧省南東部に位置する港湾都市。鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街である。旧名は安東。(張さんの店があるところ。)

宣川郡(ソンチョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国平安北道に属する郡。

新義州市(シンウィジュし)は朝鮮民主主義人民共和国の平安北道の道都。鴨緑江を挟んで中華人民共和国丹東市と向かい合う国境の街である。鴨緑江には中朝友好橋が架かり、中朝交通の要衝となっている。


 (2015年1月5日 初版第一刷 山と渓谷社刊)

母への詫び状  藤原咲子

2016-08-15 21:50:01 | Book




読了に至るまで、私の中には微かな違和感が拭えませんでした。前記しましたが、1945年生まれの咲子さんと、1944年生まれの私は、ほぼ同じ時期に、満洲の新京から日本への引揚を果たしています。
咲子さんの二人の兄上は、私の二人の姉とほぼ同年です。大きな違いは私たち一家には父が共にいてくれたことでした。さらに、引揚は「正式」と「正式ではない」という2つの形態があったらしく、咲子さんご一家は後者で、我々一家は前者であったらしい。その上、私達一家は引揚が決まるまでは、命の危険はありましたが、新京から移動することはなかったのです。さらに、新京での父は中国人の公司に働くことすらできました。それでも大変な貧しさで、私も咲子さんと同じく栄養失調の赤ん坊で、どうやら歩くことができたのは、引揚後3歳を過ぎてからでした。母の実家にひとまず帰宅、翌日には母と私は、即入院、「あと数日帰国が遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターがおっしゃったそうです。さらに上の姉は肋膜炎にかかり、下の姉は皮膚病に悩まされました。

咲子さんの母上の「藤原てい」さんの、ご主人様が同行できなかったがためのご苦労は「死」と隣り合わせです。二人の幼い男の子と、生後間もない女の子を連れての移動は、誰も死ななかったことが奇蹟だと言っても過言ではないでしょう。咲子さんの母上のご苦労は極限に達していたことでしょう。それを「流れる星は生きている」という小説として、今日まで読まれ続けられていることに、私は深い意味を思います。

それでも「流れる星は生きている」が、咲子さんの心に届くまでに、たくさんの母娘の葛藤と歳月が費やされているのですね。母娘とは近すぎて見えないものなのでしょうか?

赤子時代を栄養失調だった子供が、普通の子供の体力に戻るには時間がかかります。ちょっとした怪我の治りが遅い。すぐに病気をする。皮膚が弱いし髪の毛も薄い。体力がないので、普通の子供と同じ行動がとれない。それは、親からみれば不憫ですから、引揚後も心を痛めます。しかし、それ以上に親たちは疲れていたのです。心を病んでいたのです。おそらく、親たちは死ぬまでそれを忘れることはないでしょう。赤子だったからこそ、その苦境を少しだけ忘れることができたのでしょう。

戦後の引揚者のみならず、誰でも戦中戦後には、心身ともに病みます。大人も子供も。そこから解放されて、母上とやさしい関係を取り戻すのに、たくさんの時間が費やされていますね。母上が小説を書かれたのは、それだけの必然性があったのだと思います。私たちが憎むべきは「戦争」です。母親ではありません。


今日は終戦記念日ですね。


 (2005年 第二刷 山と渓谷社刊)

父への恋文 新田次郎の娘に生まれて  藤原咲子

2016-08-14 21:36:54 | Book




藤原咲子(1945年生れ)の父は新田次郎、母は藤原てい、兄は藤原正広(1940年生れ)と藤原正彦(1943年生れ)である。

お母上の書かれた小説「流れる星は生きている」を、幼いゆえに、わずかな誤読から数十年に渡る歳月を母上と共に不幸な時間を過ごされた咲子さんが、父上の死後から「父への恋文・2001年」「母への詫び状・2005年」「チャキの償い・2014年」と、3冊の著書を出版されました。これはお父上との約束でもあったのでしょう。

私と生年が近いこと、同じ満洲の新京からの引揚者だったこと。共に栄養失調の赤ん坊で、病気がちな少女時代を過ごしたことなど、様々な共通点から、咲子さんの3冊の本を読んでみました。

『咲子はまだ生きている。でも、咲子が生きていることは、必ずしも幸福とは思えない……。背中の咲子を犠牲にして、ふたりの子、正広、正彦を生かすか……』(流れる星は生きている)より。

ここが咲子さんの誤読の始まりでした。母娘の不幸な時間のなんと長かったこと。敗戦後、幼い子供はどんどん死にました。私も瀕死状態までいきました。殺された子供もいました。中国人に預けられたまま生きてきた子供もいます。その危うい状況をお母上はたった一人で間違いを犯すことなく、3人の子供を生かして帰国されました。奇跡です。その後母上が長く闘病生活を送られたことは特別な出来事ではないです。子供にとっては寂しいことだけれど。

父上の新田次郎の大きな愛に支えられて、少女時代から大人の女性に成長、赤子時代の栄養失調から言葉の発達が遅れたという理由(が、あるかどうか知らないけれど。)によって、父上の「文章指導」は長く続けられました。母上が記録として書かれた小説は、多くの読者を得ることになりましたが、咲子さんに読まれるまでには多くの時間がかかっています。

明らかに「母嫌い」「父恋」のいびつな状況のなかで、彼女は大人になりました。誰のせいでもない。憎むべきは「戦争」です。母上ではありません。

 (2001年 第三刷 山と渓谷社刊)

図書館にご用心……。

2016-08-03 21:00:32 | Book
流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)




流れる星は生きている(ちくま少年文庫 9)




図書館にて、藤原ていの「流れる星は生きている」をお借りたいと申し込んだら、「中公文庫の方はとても痛んでいます。こちらではいかがでしょうか?」と「ちくま少年文庫」を出してきました。
それを借りてきて読んだのですが、最後の「編集部から」を読んだら「著者の了解を得て、文章の一部を削除しました。」と書いてある。

アマゾンの「中公文庫」版の「なか見検索」で、目次を比べてみたら、かなりの部分が削除されていました。つまり、子供向けにするために削除されているようです。


読み直し!!!

流れる星は生きている  藤原てい

2016-08-02 22:15:58 | Book





これは満州からの引き揚げの実体験に基づいて書かれた小説作品である。
1949年に日比谷出版社、1971年に青春出版社、1976年に中央公論社(現・中央公論新社)の中公文庫として刊行された。さらにこの本は、筑摩書房の編集部によれば「日比谷出版社版」をもとにして、本文をつくり、さらに著者の了解を得て、文章の一部削除したという。どこを削除したのかはわからない。もっと古い本にあたるべきか?この筑摩書房のものだって、かなり古いものなのに。

これは、27歳の母親一人で、6歳、3歳の男児、生後1ヵ月の女児を連れて、満洲の新京から釜山までの、命がけの逃避行の旅でした。日本への引揚が壮絶な旅となっています。よくぞ生き延びて下さいました。藤原ていさんの意志の強さに、子供3人の命は守られました。軍部とその家族は優先的に、「敗戦」と知った途端、帰国しているというのに。私の父も釜山まで軍ごと運ばれたが、家族を置いて帰国はできないと、父は釜山から哈爾浜の家族のもとに単身戻るという危険な2ヵ月の旅をしました。(軍の人間でもなく、たった一人の男として。)

このご本を一気に一日で読了しました。眼よりも体中が痛いです。父母も敗戦から帰国までの短い手記を残してくれましたが、そこに書かなかったことがあるのではないか?という思いは今もありますが。

また、敗戦後に父親がいてくれたこと。住んでいた哈爾浜から新京に移動して、そこで貧しく、時には危険な暮らしをしながら、時には中国人から仕事をいただいたりして、引揚の時を待ったことで、苦難の旅はなかったけれども、一体「新京」というところはどういうところだったのでしょう?
藤原家は昭和20年8月9日、即座に新京から釜山まで移動しました。私達一家は哈爾浜から10月26日に新京に移動し、翌年8月25日の引揚の日まで新京にいました。そこから葫芦島まで移動しました。藤原家の移動範囲は気が遠くなるような道のりでした。

まだまだ、わからないことばかりです。あの戦争を知ることは、もっともっと先のことのようです。

しかし、今の時代に再読されることを期待します。


(1977年9月30日初版第一刷 1985年10月5日 筑摩書房刊 ちくま少年文庫9)

昭和史 1926~1945  半藤一利

2016-07-25 16:13:04 | Book



半藤一利氏は「昭和史の語り部」と評価されていらっしゃるようです。まさにぴったりの言葉ですね。昭和史は学校教育で学べませんでした。そんな方々に向けて、半藤氏がわかりやすく、面白くお話してくださって、それが一冊の本となりました。ものすごくたくさんで丁寧なお話ですので、一回の読書では覚えきれませんです。

しかし読書中に常に感じていたことは、「軍部」が大きな権力を握っていた時代は、その国にとって最も不幸な時代であったということがよ~くわかりました。
文庫本546ページに及ぶ、このご本は読むだけで大仕事でしたので、ただ、一つだけお話します。

1938年に石川達三が中央公論から南京に特派員として行っています。「南京事件」の1年後ですが、それでも相当数の虐殺を目撃しています。それを小説「生きてゐる兵隊」として発表しましたが、直ちに発禁、石川達三は執行猶予付きの懲役刑を言い渡されました。

ここを読んだ時に、すぐに思い出したのは下記の詩でした。


  伝説    会田綱雄
       

  湖から
  蟹が這いあがってくると
  わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
  山をこえて
  市場の
  石ころだらけの道に立つ

  蟹を食う人もあるのだ

  縄につるされ
  毛の生えた十本の脚で
  空を掻きむしりながら
  蟹は銭になり
  わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
  山をこえて
  湖のほとりにかえる

  ここは
  草も枯れ
  風はつめたく
  わたしたちの小屋は灯をともさぬ

  くらやみのなかでわたくしたちは
  わたくしたちのちちははの思い出を
  くりかえし
  くりかえし
  わたくしたちのこどもにつたえる
  わたくしたちのちちははも
  わたくしたちのように
  この湖の蟹をとらえ
  あの山をこえ
  ひとにぎりの米と塩をもちかえり
  わたくしたちのために
  熱いお粥をたいてくれたのだった

  わたくしたちはやがてまた
  わたくしたちのちちははのように
  痩せほそったちいさなからだを
  かるく
  かるく
  湖にすてにゆくだろう
  そしてわたくしたちのぬけがらを
  蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
  むかし
  わたくしたちのちちははのぬけがらを
  あとかたもなく食いつくしたように

  それはわたくしたちのねがいである
  こどもたちが寝いると
  わたくしたちは小屋をぬけだし
  湖に舟をうかべる
  湖の上はうすあかるく
  わたくしたちはふるえながら
  やさしく
  くるしく
  むつびあう


――『鹹湖』(1957年 緑書房刊)より。――

生きているものたちは等しく、そしてやさしく、互いの生命を食い合いながら生きているのだろう。この作品を、貧しく心やさしい人間たちの哀しい生命の連鎖、あるいは美しい生命の原風景として読むことも許されているだろうと思う。しかし、会田綱雄はこの詩の背景となった時代の状況と、人間たちについてこのように語っている。

1940年の冬、25歳の会田綱雄は志願して、軍属として南京特務機関に入った。
そこには、1937年冬の「南京大虐殺」を目撃した人間が何人かいて、その生々しい思い出話を聞くことになる。その後で「戦争のあった年にとれる蟹は大変おいしい。」という話があった。それは日本人が言うのではなく、占領され、虐殺された側の民衆の間の、ひとつの口承としてあるのだと。しかし彼が南京にいる間に、付き合った中国人が蟹を食べる姿を見たこともなく、市場でも見ることはなかった。

1942年特務機関から開放されて、上海に行った会田綱雄は、友人と居酒屋通りを歩きながら、そこで蟹売りに初めて出会った。友人は、生きたままの蟹を縄でしばってもらい、それを吊るして居酒屋に入り、そこで茹でてもらって、酒を飲みながら共に蟹を食べた。
その蟹は大きくおいしかった。しかし会田綱雄は「南京の蟹」の話はその友人にはしなかったと。

このことだけを取り上げただけでも、こんなにも作家や詩人たちは書き残しています。
その祈りの言葉を忘れずにいたい。


 (2009年 初版第一刷 平凡社ライブラリー671)

旅路 自伝小説   藤原てい

2016-07-14 22:07:19 | Book




藤原ていの処女作「流れる雲は生きている 1949年(昭和24年)日比谷出版社刊」はベストセラーだった。その後「灰色の丘 1950年」が出版されたが、その後約20年間本は出版されていない、と言うよりも、彼女は主婦業を優先させたのではないか?または健康状態が原因とも思えるが。その空白の時期に、1956年に夫・新田次郎が「強力伝」にて直木賞を受賞。

「旅路 自伝小説」と書かれているのは、「流れる雲は生きている」の方では、フィクションの要素があったのではないか?フィクションでもノンフィクションでもかまわない。藤原ていが表現したかったものは「戦争と大陸からの引揚者の悲惨さ」であって、その時に女性と子供たちがどう生き抜いたかを伝えたかったのだろうと思います。

ご長男の藤原正広氏は1940年生まれ。ご次男の藤原正彦氏は1943年生まれ。末っ子の咲子さんは1945年生まれです。私の父母と二人の姉(1940年、1941年生まれ)と末っ子の私(1944年生まれ)も、満州からの引揚者でした。年齢も日本へ帰国できた時期もほとんど同じでした。

そうして我が母が書いた、満洲の哈爾浜の父に嫁ぎ、終戦後に新京へ移動し、そこから引揚までの日々のメモを思い出しました。一番驚いたことは藤原てい氏の文章の口調に、母のメモがとてもよく似ていることでした。同じ娘時代に育ち、女学校教育を受けた女性の生き方と家族への思いはどこかに共通点があるのかもしれません。ひたすら子供の命を守り、死にもの狂いで生きたのは、ただ平凡な女性でした。

私達が藤原家より少しだけ幸運だったことは、父が部隊を離れて家族と共に戦後の満州の哈爾浜と新京を生きたことでした。新京からは移動せずに、そこで引揚の日まで小さな借家で貧しく暮らしました。小さかった私は引揚げ後すぐに母と共に入院でした。「引揚がちょっとでも遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターが言ったそうです。私よりももっと小さかった咲子さんは、よくぞ生き抜いて下さいました。

幼い咲子さんのおつむの毛が、あまりにも少なかったとか、なかなか歩かなかったとか書かれていましたが、私も3歳まで歩けませんでしたし、幼い私のおつむもどうやら少ないながら、少女らしい髪になりました。咲子さんもきっとそうだったことでしょう。

なんと申しましょうか。父母が伝えてくれた、私たちの戦後の家族のあり様に、藤原ていさんの書かれたものに共通することが多く、一気に読みました。

満洲国のことや、戦争のことについて知ろうとして、慣れない読書を続けていましたが、ふと思い出して、この本を読んでみました。読んでよかったと思っています。子供をかかえた女性が、戦後の引揚までの日々をどう生きたのか?それをたくさんの方々に読んでいただきたいと思います。

「何故、戦争をしてはいけないのか?」この古い本がそれを教えてくださいます。


(昭和57年 1982年 第12刷 読売新聞社刊)

父が子に教える昭和史 ・ あの戦争36のなぜ?

2016-07-09 17:11:38 | Book



36項目、各分野からの書き手によって、それぞれのテーマで構成された1冊です。そのなかから2項目について書きます。

(満州事変 日本の侵略なのか? 福田和也)より。

『当時の日本経済のあり様からして、日本は満洲を手にしても、何も出来ずに放りだすのではないか、と欧米各国は見ていた。ところが石原のブレーンである経済学者の宮崎正義や新官僚の代表格である岸信介は、満州をごく短期間のうちに、アジア屈指の工業国に変えてしまった。』

山室信一氏の『キメラ 満洲国の肖像』を読んだ後で、ここを読みますと、ちょっと驚きました。日本が侵略した満洲国ではありますが、そこに日本が残してきたものを評価するという側面があります。そう言えば、父も「満鉄は日本人がすべて帰国してしまったら、動かせなかった。」と言っていたことを思い出しました。また父は敗戦後、家族を連れて満州の哈爾浜から新京へ移動し、引揚げまでの期間、中国人の電気公司で働いていましたが、引揚げが決まって、日本人がすべていなくなったら、公司が立ち行かなくなるので、一番若い独身の日本人技術者が残ったという話を聞いた記憶がありました。「侵略」には違いないのですが、日本人の優れた技術はそこに残されたのかもしれませんね。(でも、侵略したことを美化する材料にはなりませんでしょう。)


(引揚げ 満州からの帰途になにが? 藤原正彦)より。

簡略して書きますと、正彦氏の母上である藤原ていの小説「流れる星は生きている」に書かれているように、父上(新田次郎)と別れて、1945年8月9日、母子4人だけで満洲の新京から無蓋貨車に乗り、北朝鮮の宣川まで。さらに馬糞の堆く積もった貨車で南朝鮮の開城へ。そこで母上は気を失った。米軍の日本人難民テントへ。さらに釜山へ。そこからやっと引揚船に乗り、博多へ。9月12日だった。新京脱出から1年1ヵ月経っていました。

さて、我が父は1945年8月13日に所属していた部隊ごと、哈爾浜から釜山へ引込線の列車に乗せられ、運ばれたが、哈爾浜に残した家族を置いて帰国できないと、釜山から逆戻りの命がけの2ヵ月の旅をしました。そして哈爾浜で家族が全員揃ったところで、冬は酷寒となる哈爾浜を離れて、新京へ南下しました。新京での引揚までの日々は前記の通りですが、命の危険は当然ありましたでしょう。(私は乳飲み子でしたので、記憶がありませんが。)

以下は父のメモから引用。(父は引揚の時には団長を務めました。)
『待ちに待った引揚げの許可が下りた。出発は1946年8月25日正午、ということだった。出発に先立って貨車を下見しておこうと、その数日前数人で出かけた。指定された貨車は無蓋車で1両50人の割り当てだった。真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待った。
(ここに、藤原正彦氏の書かれた現実との大きな違いがありますね。)
 8月25日昼過ぎ、列車は静かに動きだした。さらば新京!終戦の日から1年と10日、私たちが新京に来てからちょうど10ヶ月――長くつらい生活の終わりだった。
 8月28日、葫蘆(コロ)島着。ここで3日待たされ、8月31日アメリカの貨物船で葫蘆島を出帆した。3日後の9月3日の夕方、船は博多港に入った。検疫のためあと6日間は上陸できない。9月9日の朝、上陸が許され全員無事日本の土を踏んだ。そして引揚げ者宿泊所に一泊し、下着、衣類の支給を受け、一同さっぱりした気持で「解団式」に臨んだ。私は妻子4人を連れて東海道線で東京へ、上野から東北線で小山へ、小山から妻の里へ着いた。時に1946年9月12日、忘れもしないこの日は私の36歳の誕生日だった。』

ここまで私事を長々と書きましたのは、ほぼ同じ時期に同じようなところで藤原正彦氏のご家族と、私達は、クロスしていたのですね。私達には父がいてくれたことが一家を支えたのだと強く思いました。1946年9月12日という共通点も忘れないでしょう。

……というわけで、2項目についてしか書けませんでした。

半藤一利氏の書かれた「ノモンハン事件」「昭和天皇」、柳田邦男氏の「零戦」、水木しげる氏の「戦場の兵士」など、納得できるものでした。

水木しげる氏は、文末をこのように結んでいました。
『私の子供のころは、男の子はみな兵隊になるのが憧れだった。日清、日露と戦争に連勝して、日本の全国民が戦争は儲かるものだという奇妙な錯覚を持ち、軍人が威張りたいだけ威張るようになってしまったのである。それが間違いのもとだと考えている。』


(2009年 第一刷 文春新書711 文藝春秋社刊)