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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

自由に言葉を書けること。

2019-06-19 00:37:19 | Book
 
詩集「胴吹き桜」を差し上げた方から「いつ頃から詩を書かれたのですか?」という質問に
「高校生の頃からです。」と答えましたが、後になって違うような気がしました。
私がものを書くようになったのは、小学校4年生からでした。
作文教育に熱心な担任の先生(女性)に出会ってからです。
その時は幼くて、気づきませんでしたが、
作文教育が盛んになったのは、おそらく戦後からでしょう。
戦時中の「言論統制」から解かれた時代に一気に開花したのでは?
以下を参照なさって下さい。
 
https://blog.goo.ne.jp/abcde1944/e/7bfcc397e488e30468123d22ec711743
(獄中メモは問う・作文教育が罪にされた時代 佐竹直子)
 

自由に何でも書けた少女時代に、先生の作文授業は楽しかった。
今頃になって、その有難さがわかります。
先生が自由を手にされた歓びも、私は頂いたのでしょう。

母、美しい老いと死  アンヌ・フィリップ

2019-02-11 13:44:52 | Book

 

訳者 吉田花子

著者 アンヌ・フィリップ(19171990

 

一人暮しの母親は、一度目の卒中で倒れ、パリのアパルトマン暮しの娘との狭苦しい同居生活になじめず、

フランスの地方の老人ホームにもなじめず、結局住み慣れた自宅で一人暮らしを始める。

二度目の卒中では、ついに一人暮らしはできず、娘は母親の近くに住む従姉妹の助けを借りながら、

母親を自宅で看取るまでの、淡々と書かれた介護の記録です。

時には、食べ物も咽喉を通らない母親に「ワイン」や「シャンパン」をわずかに飲ませる

娘の心遣いに、新鮮な驚きと感動すら感じる。

自宅の病床にいたまま、死を前にして、ドクターやナースが訪問するということは、

今の日本の医療では考え難い状況ですが、この事実は注目に値する。

その後の埋葬の手続き、お葬式のやり方に至るまでも書かれています。

 

すでに、父母の介護の後に、お葬式までやらねばならなかった私自身、身につまされる

思いでした。そして「死」というものが私に遠いものではないという時が来ています。

埃だらけの家で、一人暮らしを続けた母上に、自分が重なる日が来るかもしれない。

 

子供を育て、家族の世話に追われ、老親の介護と看取り、

今は、病んでいる夫との暮しだが、いつか一人になる。

その時、私も恐らく「一人暮らし」を望むだろう。アンヌの母のように。

 

 (1998130日 晶文社刊)


野生動物カメラマン  岩合光昭

2019-01-27 22:16:51 | Book

私が動物カメラマンに魅せられた最初のカメラマンは「岩合光昭氏」でした。

それからのファン歴は長いです。

今は、テレビで世界中の「猫ちゃん」を撮影していますね。

その猫との会話も自然であたたかい。猫にもそれが通じているのですね。

 

相手が「野生動物」になっても、彼のカメラマンとしての姿勢は変わらない。

彼の書いた言葉も優しい。

 

以下、引用。

『ぼくは動物たちを自分に引き寄せて考えることに抵抗があります。人間のフィルターを

はずして、「動物たちの目には自分はどう見えるのだろう」という視点で接しています。

だから、ライオンを見て人間と同じだなと思うよりは、人間を見てライオンと同じだなと

感じることの方が多いくらいです。

あと、メスは怒るとこわい。たとえば、繫殖期にオスがメスに近づく時、メスが振り向いただけで、

オスはいきなり腰が引けます。怒るかもしれないと、ビクビクなのでしょう。』

 

『ライオンだけでなく、動物で怒ってこわいのはメスだと、ぼくは思っています。

オスは向かってきても、ほとんど威嚇に終わるので、怒られてもそれほどこわくはない。

メスは本気で怒るからこわい。人間の場合は・・・・・・・ぼくにはわかりません、

と言っておきましょう。』

 

うふふ・・・。

人間も動物も、男女の問題は同じようです。(以下、個人的見解。)

しかし、ライオンのオスは人間のオスよりも敏感なような気がします。

書物のなかで生きているような我が家の人間のオスは、どこが敏感なのか?

 

工藤直子さんの「てつがくのライオン」というお話があるけれど……。

あとで再読しよう。。。

 

あ。岩合光昭さま。ごめんなさい。ついつい・・・・・・・愚痴が出ました。

可愛い動物の子供の写真に癒されました。ありがとうございました。

 

 (20151222日 集英社ビジュアル版040V)


ライオンはとてつもなく不味い  山形豪

2019-01-20 14:04:50 | Book

 

書店にて、偶然に出会った本です。

タイトルを読みながら、「当たり前でしょ。人間が美味しいと日常的に食べているお肉は

ほとんど、植物性の餌を食べているのですからね。しかも運動不足の……。

さぞや百獣の王のお肉は不味いでしょ。ごめんね。ライオン君。」と呟く。

 

山形豪氏は、群馬県生まれ。少年時代を中米グアテマラ、西アフリカのブルキナファソ、トーゴで過ごす。そのためか日本の高校受験はうまくいかない。

国際基督教大学に入学し、卒業後東アフリカのタンザニアに渡り、自然写真を撮る。

イギリス、イーストアングリア大学開発学部卒業後、帰国。

フリーの写真家となる。以来、南部アフリカやインドで野生動物、風景、その土地の人々

などを追いかけながら、サファリツアー撮影ガイドとして活躍。

写真集に「From The Land of Good Hope」がある。

 

若かったころに、動物写真家「岩合光昭」に魅せられた頃を思い出しながら。

でもそういう憧れがあっても、私には絶対に叶わない夢だったけれど。

 

このような写真家は、自然の猛威と野生動物の習性を知り抜いていても、

やはり予想外の命の危険を避けられないだろう。それでも「行ってしまう。」だろうなぁ。

 

こうした旅のなかで、象牙の乱獲をはじめとして、野生動物たちはどんどん減少している。現地人たちの不当な境遇にも彼の優しい目は届いていた。

 

では、ライオンを何故食べたか?

アフリカ南部のボツワナ(イギリス連邦に属する共和国)では、その土地の人々は、

家畜を野生動物に襲われる危機と背中合わせの暮しですので、家畜を襲われた家では、

その犯人を殺していいという約束事があったため。燻製にして保存するとのこと。

筋肉質のライオンのお肉は、まずくて硬いようでした。

 

野生動物保護と裏腹に地元住民はこういう危機と背中合わせなのでした。

 

  (2016822日 第一刷  集英社新書ヴィジュアル版041V)


満州からの引揚者とは

2018-11-16 19:42:23 | Book


敗戦直後の哈爾浜において、外務大臣「重光葵」のお達しはこう書かれていた。(怒!)

『哈爾浜地区の事情がまったくわからないので、引揚交渉を行うにも方法がない。さらに日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、
加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。
その上、海外からの引揚者数は満洲を除いても七百万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。
日本政府としては、あなた方が、哈爾浜地区でよろしく自活されることを望む。』

その頃 父は哈爾浜の家族のもとへ
部隊を離れて
二ヵ月かけて命懸けで帰宅した

冬になれば酷寒の地となる哈爾浜から
暖かい新京へ即刻一家で移動した
知り合いの中国人に雇われて
父はすぐに働きはじめる
日本人の手による電気製品
日本人の科学知識は大いに役立った

満鉄が日本人がいなくなったら
動かせない、ということと同じことだ

そこで父は引揚の時期をじっと待つことにした
無駄な動きはしない



その頃動き出した三人の男たちがいた
丸山邦雄 新甫八朗 武蔵正道
彼等は命がけで日本に渡り
満州からの引揚を実現した
日本政府ではなく GHQによって。

我が家族が帰国できるまでの道筋を作って下さった人たちがいたのだ。
その情報を正しく入手して、判断を誤らなかった父のことも思う。

15歳の東京大空襲   半藤一利

2018-09-08 21:33:17 | Book




2010年2月10日初版第一刷発行 ちくまプリマ―新書129 筑摩書房刊

半藤一利氏は、1930年東京向島生まれ。終戦時15歳ということになる。
のっけから申し訳ございませんが、半藤氏の少年期のニックネームは「玄米」だったそうです。なるほど……。ごめんなさいでーーす。

東京大空襲をもろに体験し、それから疎開体験。なんとか生き抜いた少年の記録と共に、その時期の東京の悲惨な状況と、戦争が何をもたらしたかについて、明確に書かれています。膨大な犠牲者が命を落としたのですが、半藤氏は生き残り、こうして伝言を書いて下さいました。

以下、引用します。

『若ものたちが君たちこそ国の宝だとおだてられ、もちあげられるときは、国のリーダーたちが何事か企んでいるときで、「今どきの若いものは」と、若ものの値段が安いときほど平和なのであるな、とつくづくいまは思うわけです。』

『人間というのはいつ、どういう死に方をするやらわかりません。こういう衝撃的な死をいくつも見ているのに、ひどいもので、無感動そのもの。神経も感覚もすっかり鈍麻し麻痺しきっている。死んだ人のことにいちいち思いを致すことはなくなっています。すでに書きましたが、くり返します。いくらでも非人間的になれる、それがおっかないところなのです。戦争というものの。』

『ものすごい危険ななかにあって、それに負けずに一瞬一瞬に賭けた懸命な生き方、それは紙一重で、勇気や立派さともなり、そのまま陶酔しやすい危険につながっています。危険をものともせずに生きぬき、そしてそのとき腹の底から感じた生甲斐のようなものは、戦争そのもののあやしげな魔力と結びつきやすいようです。戦争体験を語りつぐ、と簡単にいいますが、そのことのむずかしさはここにあると思っています。』

東京下町の半藤家の家族のあり方も大変魅力的でありました。家族の困難な時に見事な判断を下す、お父上が特に。この親にしてこの子あり、でした。
書きたいことはたくさんありますが、この辺で。

天府 冥府  財部鳥子

2018-08-27 00:30:36 | Book


(2005年7月7日・講談社刊)

 これはおそらく詩人財部鳥子の私小説と受け取ってよいのではないかと思います。この一冊には「天府」「冥府」と二編の小説が収録されています。旧満州ジャムスにおける生活を、主人公の少女「マス子」の視点から描かれた、占領下の街ジャムス「天府」と、敗戦後に難民となってからの街ジャムス「冥府」は続編と言えるでしょう。


  【天府】

 主人公は1933に新潟県に生まれましたが、生まれて間もなく父親は妻子を置いて渡満します。それを追うかたちで母親に負ぶわれて旧満州国に渡ることになります。この父親は多分「狭い日本住みあきた。」という、ある種のスローガンに影響された、旧満洲占領時代に大陸に渡った男たちのひとつの典型のように思われます。それに対して「大陸の花嫁」という言葉もありました。この小説は娘の視点で父母の姿が描かれていますが、そこに浮上してくるものは、夫の生き方に翻弄されながらも、言葉を覚えることから始まり、この新天地に必死に生きようとした女性の孤独と哀しみがわたしをとらえます。
 しかし「天府」と名付けられたように、ここは日本人にとっては、この時期はある種の豊かさをもたらす土地でもあったわけです。我々日本人が「占領者」であることを知らなかった子供にとっては、この街の人々はみなやさしく、興味深い人々だったはずです。また大人にとっては、その当時の日本の風土のもっていた湿度の高い因習から放たれた人間の生き方が許される場所だったとも言えます。
 その背景には「生」と「死」とがと親しく共存する場所であったという「前提」も忘れてはならないでしょう。また「土匪」の度重なる襲来によって疲弊していたジャムスは、多くの日本人を受け入れることを余儀なくされたのです。女の身でありながら母「雪江」は常時帯のなかに拳銃を携帯し、夫のいない夜には、子供をゆるく負ぶったまま眠るということもあったのです。また、夫の不在が多い生活のなかで、孤独な母にはロシア人の毛皮服商との恋もあった。このことには、わたしは少しも驚かないが、「雪江」の娘にとっては根強い記憶となったのだろうか。
 私事だが、わたしの父も大学卒業後すぐに旧満州へ渡っている。そして母は「大陸の花嫁」として、父に嫁ぎ、三人の娘に恵まれた。末娘のわたしにはまったく記憶にない世界だが、わたしの母が「雪江」に重なる感覚は最後まで拭えなかった。わたしは「そのままでいい。」と思っている。否定も肯定もしない。


  【冥府】

   きみの耳なりは詩の音 死の音とよぶ
   髪を刈られた極限の少女がすわりこんでいて
   永遠にうごかない息をしている
   (中略)
   きみの心は犬の涙のようにおわっている 

 この「冥府」を読み終えて、一番はじめに思い出したのは、上記の財部鳥子の詩集「腐蝕と凍結・1968年・地球社刊」のなかの作品「詩の音」でした。わたしは財部鳥子の少女期の旧満州における体験は詩作品のなかでしか理解していなかったと思います。そこで読み取ったものは、凄惨な時代を見てしまった少女の癒しようのない心の傷であり、死んでいった者たちへの取り返しのつかない鎮魂でした。
 しかし、この主人公の少女は否応なくではあったとしても、たくましく「冥府」の時代を生きたようです。理髪師の母にいがぐり頭にされて少年のように生きたのです。

 『わたしはまたきっぱりと男子になって東亜(註:弟の名)や回復した宮脇青年や和田おばさんたちと稼ぎに出た。コークス拾い、空き家荒し、煙草売り、なんでもやる。』父を亡くし、母は病気から回復せず、長女の主人公は幾度もこうしてみずからに言い聞かせたのでしょう。そして戦後六十年の時期にこの体験を「冥府」と名付けて、潔く世に送った。そしてわたしはそれを一気に読みきったのです。最後はこのように結ばれています。『みんな冥府の情景だと思った。』と・・・・・・。

君たちはどう生きるか  吉野源三郎

2018-08-23 22:38:17 | Book


君たちはどう生きるか  吉野源三郎

1982年11月16日 第一刷発行 岩波書店
2018年6月5日 第88刷発行

1935年10月に新潮社から、山本有三編纂「日本少国民文庫」全16巻が出版され、
その12巻目がこの本でした。配本は最後(1937年8月)でした。

1931年 満州事変
1937年 盧溝橋事件➡中日事変➡日中戦争➡1945年終戦

こんな時代に出版された本でした。そして時の経過と共に他社出版解禁となる。

この本が、漫画化されて、子供向けに出版された。書店では山積み。
読んでくれるか?どうか?わからないけどY君(小学校5年生)にプレゼント。
もし読んでくれたら、お話するために、ばあばは何年ぶりかで再読しました。
漫画は、Y君が飽きた頃に貸してもらおうかな、などと目論んでいる。

しかしながら、「君たちはどう生きるか に異論あり」などという本も現れた。
確かに、時代は大きく変わっている。良きにつけ悪しきにつけ。
この本が現代の子供たちに、どのように受け入れられるか、それを確かめたい。

いつの日か、Y君と話してみたいなぁ。


【追記】

ここにも書いていました。

生き急ぐ スターリン獄の日本人  内村剛介

2018-07-11 16:25:19 | Book



この本を読んだのは2回目です。内村剛介さんが大好きなので……。
2度目でも夢中になって読んでしまいました。

内村剛介は、1920年栃木県生まれ。評論家、ロシア文学者。
1934年渡満。1943年満洲国立大学哈爾浜学院卒業。同年関東軍に徴用され、敗戦とともにソ連に抑留される。以後11年間ソ連の監獄、ラーゲリで過ごし、1956年、最後の帰還船にて帰国。

この著書は、辛く苦しい体験を記すということに留まらず、ソ連の文学や歴史を背景として、冷静にソ連のあの(スターリンの)時代を分析されています。そこが凄い。

以下引用。
『当局の審問は判決があったのちもつづく。それは拘禁の全期間にわたる。その審問は精神の糧をも奪い、かくしてついにみずから進んで隷従するところの「奴隷の心性」をつちかうことを目的としている。だから囚人はみずからの精神の糧を守り養い、これを当局に向けざるをえない。この精神の糧をめぐるたたかいはことばにはじまり、ことばに終わる。』

なんと!凄い精神力!

(昭和42年9月20日 三省堂新書3 初版発行)