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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

21世紀の戦争論 昭和史から考える

2018-07-01 14:19:59 | Book

半藤一利×佐藤優 対談

このような本を読むのには、実は私なりの確認が欲しいからです。
父は大学卒業後、満州に渡り、その後母は父のもとへ嫁いだ。それから三人姉妹の誕生となり、三女の私だけ、満州の生活とそこからの引揚者としての記憶がないからです。
我が子誕生の折に、母(祖母になった。)に頼んで、手記を書いて頂きました。
(もちろん、父も書いていますが、今回はここの確認にとどめます。)

「母の手記」

このような分野の本を何冊かを読むうちに、父母の手記と繋がることができます。
そのようにして、父母のささやかな手記が、歴史のなかで呼吸していることを感じるために、弱いおつむが働いています。

以下、引用します。書き写すのが大変なので、コピーでごめんなさい。





(2016年5月20日 第一刷発行 文春新書) 

昭和史、二つの日   保坂正康

2018-06-19 13:57:59 | Book


2012年7月31日 第一版第一刷発行 山川出版社刊

サブタイトルは「語り継ぐ十二月八日と八月十五日」となっています。
「十二月八日」とは、太平洋戦争開戦の日であり、「八月十五日」とは終戦の年である。
ただし、「終戦」を、法的には「九月二日のミズーリ号での調印の日」とも。
この時代について、筆者はエッセー風に書いてみようという試みであったようです。
そのおかげで、浅学菲才の私には、大変読みやすかったのでした。
幼くて記憶にすらないあの時代を、なんとか理解しようとしている私には、心優しい一冊でした。

しかしながら調べてみましたら、保坂正康氏には膨大な著書があり、眼がまわりました。
たった一冊だけ、我が家の書棚にあったので、読んでみました。多分夫が購入したものでしょうね。

戦後70年を過ぎると、その記憶を抱いている方はわずかになってきます。
我が父母も亡くなり、2人の姉のうち1人は亡くなり、幼いながらの記憶をもっているのは、姉たった1人となりました。
語り継ぐ役割は、記憶にない私には不可能です。書物に頼るしか、手立てはありません。

様々な視点から書かれている膨大な書物の森を、少しずつ歩んでゆきたいと思います。

満州 奇跡の脱出  ポール・邦昭・マルヤマ

2018-04-29 23:07:49 | Book




高作自子 翻訳


この本は、ポール邦昭マルヤマの父上「丸山邦雄」と、実業家の「新甫八朗」、その若き社員の「武蔵正道」の三人による、満州に取り残された人々を、日本への引き揚げを成功させるために奔走した、勇気と人間愛に満ちた記録である。
ポール邦昭マルヤマ氏は、日本語で書いておりませんので、翻訳の方がいらっしゃるわけです。ポールは1941年日本生れ、満洲からの引き揚げ後、サンノゼ州立大学を卒業。アメリカ合衆国空軍に入隊。1964年の東京オリンピックでは、アメリカの柔道選手として出場とのこと。

敗戦後、日本政府は満洲に取り残された人々を帰国させることができなかったのだ。
その一例がこれである。

敗戦直後の哈爾浜において、外務大臣「重光葵」のお達しにはこう書かれていた!

『哈爾浜地区の事情がまったくわからないので、引揚交渉を行うにも方法がない。さらに日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚者数は満洲を除いても七百万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、哈爾浜地区でよろしく自活されることを望む。』

哈爾浜のみならず、広大な満洲には、約170万人の日本人が遺されたのである。

わたくしの一家(私は1歳の赤ん坊だった。そして4歳と5歳の姉、父と母。)は、敗戦後には父の判断によって哈爾浜から新京に移動。そこで引揚までの日々を過ごした。
上記のお達しを、父が聞いたかは不明であるが。

しかし、父母の引揚体験の記録によれば、私達一家の引揚の時期は、この本に書かれた時期に合致します。おそらく私達の無事の引揚はこのお三人の命がけのご努力によるものと確信いたしました。遅ればせながら感謝します。もっと早く読めばよかったのに。

厳しい状況のなかで、命がけで秘かに満州を脱出し、日本へ渡り、満州の方々の引揚を実現されたことは、勇気ある行動であったと思います。
その勇気の後押しをして下さったのは、丸山一家がクリスチャンであったため、その神父様の協力は大きな守り神になって下さったようです。
外務大臣、総理大臣を説得し、さらにGHQに申し入れ、マッカーサーにまで辿り着いた。
引揚げ船がアメリカの船であったことは、敗戦国日本は全く無力だったということですね。

「GHQに丸投げした。」という説もあるようですが、あの時期の日本は無力でした。
GHQの判断と采配はすみやかでした。

この本を書かれたのは、丸山氏のご子息ですが、誰も書いてくれなかったのね。

コルシア書店の仲間たち   須賀敦子

2018-02-25 23:34:47 | Book




1992年 文藝春秋 発行

イタリアの詩人たちを読んでから、大分時間は経過している。

1960年、イタリアのミラノの教会の片隅で、自由な共同体を夢みて発足した書店(リーダーはダヴィデ・マリア・トゥロルド神父。)に
集う人々との交流を記したエッセー集である。
その名は「コルシア・ディ・セルヴィ書店」。約20年間続いた。
その書店の援助者となる方々、その書店に集う(あるいは働く)仲間たちとの交流を記した一冊です。

須賀敦子の、その人々への記憶力と観察力が並ではないのです。
書店の仲間たちには、その時代が及ぼしたそれぞれの人生があって、括ることは出来ない。
それぞれみんな孤独だったのではないだろうか?
その仲間の1人であった「ジョゼッペ・ペッピーノ・リッカ」と須賀敦子は結婚する。しかし1967年に彼は死去する。

どの時代にあっても、書籍と書店の厳しさを思う。
しかしここから次の時代が導かれるのではないか?そう信じたい。

「あとがき」は「ダヴィデ」にむけて書かれています。最後にこう書かれています。
以下引用。

『コルシア・ディ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。
そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。
それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。
その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、
人それぞれが自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、
私たちは少しづつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。』

久しぶりに本を読んだ。
日常の雑事に振り回されながら、どうにかその隙間で読みました。

ひとりひとりの死がない。

2017-12-02 22:19:11 | Book


半月もの間、朝日新聞から切り取って、デスクに置いたままにしていました。
そして、何度も読んでいました。

石原吉郎の「日常への強制」を、開いたりして……。

人間のやわらかな心と眼が、残酷な場面を何度目撃したことか!


今日は十五夜。満月まであと2日。
夕暮れ時の撮影でした。

彼は、シベリヤの強制収容所で、空を見ることはあったのだろうか?





神坐す 沖ノ島  藤原新也

2017-10-01 16:28:13 | Book


お友達からお見舞いに頂いた本です。藤原新也の本は初対面でした。

自分の身体がどうやら動ける体制になって、12日には退院する夫のために
いろいろと準備が待っています。

その前に、この本について書いておきたいと思います。

この本には、書かれていませんが、お友達が教えて下さった言葉を記します。
この言葉は、おそらく藤原新也の考え方の底流ではないかしら?


道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山、
下さまに行けば海。

どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国、
どちらさまも地獄。
世界はあんたの思った通りになる。



この本の紹介はここをどうぞ。

すみませぬ。自分なりの考えがまとまりませんでした。
それほどに、藤原新也の世界はすごいです。

夜の歌 なかにし礼

2017-06-04 22:32:47 | Book


なかにし礼(1938年・黒竜江省牡丹江生れ)の小説を読むのは初めてです。以前、テレビドラマの「赤い月」を観ました時に、「あぁ、この方も満洲からの引揚者だったのね。」と思い、「お父上はあの時代に満洲国を目指した実業家の1人だったのね。」と思った記憶はありました。

その彼の少年期の引揚者体験を読むつもりでこの本を開きました。藤原ていの「流れる雲は生きている」を読む動機と同質でした。しかしちょっと違っていた。「癌の克服」ののちに書かれた彼の小説には「ゴースト」が登場するのでした。それによって過去と現在が入り乱れ、さらに地獄とこの世を往来して、彼の満洲国における少年期と現在は交錯します。体験記を読むこととは違う側面がありました。作詞家としての彼には興味がないのだけれど、あの敗戦体験はなかにし一家のそれぞれに大きな影を落としているようです。

さらに小説全体に気になるのは、詩人、作家、哲学者などの有名な一節を多量に引用することでした。

主人公一家(…と言っても父親の行方がわからず。)は、敗戦後に軍用列車で牡丹江から哈爾浜へ移動。そこでしばらく暮らすが、やっと会えた父親は、自分の意志でソ連兵に連れていかれる。そしてかえってきた父は間もなく死んでしまう。戦争が終わったにも関わらず。

敗戦直後の哈爾浜において、外務大臣「重光葵」のお達しはこう書かれていた!

『哈爾浜地区の事情がまったくわからないので、引揚交渉を行うにも方法がない。さらに日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚者数は満洲を除いても七百万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、哈爾浜地区でよろしく自活されることを望む。』

怒りがこみ上げる。

私達一家は哈爾浜において、暮らしていました。赤ん坊だった私は、敗戦後の暮しも引揚体験も記憶にないのですが、父母の手記によれば、敗戦後間もなく哈爾浜から気候のよい新京へ移動しています。新京において引揚げまでの日々を過ごしたとのことです。なかにし一家のように哈爾浜で引揚の知らせを受け取った方々もたくさんいらしたのですね。

戦争は、大いに非人間的な生き方を強いられます。その体験は生涯心を病み、体を蝕みます。二度と戦争はしないでください。その思いを込めて、たくさんの手記や小説や詩歌、評論などが書かれています。それらを忘れないでください。

 (2016年 毎日新聞出版 発行)

そして、メディアは日本を戦争に導いた

2017-04-18 00:36:57 | Book


半藤一利(1930年生れ)と、保坂正康(1939年生れ)の御二人の対談である。

つまり、軍部が戦争を始める。天皇はその上に居た。国民に「この戦争は正しい。」と思わせるために、メディアは軍部の宣伝係となったわけですね。「戦争は商売になる。」ことも知ったわけですね。そうしてメディアは思想統制で潰されることなく生き延びる道を選んだ。軍部に抵抗すれば、ひどい弾圧を受けるわけで。

それでもまだ、密かに「この戦争は間違っている。」と考えていた識者は当然いましたが、検挙されて全滅しました。

さて、敗戦と共に突然メディアは自由になったのか?70余年とりあえず戦争のない時代ではあったが、平和とも言えない。メディアはまだまだ弱い。

その1つの大きな例が「松本サリン事件」だと、御二人のご意見です。警視庁とメディアが一緒になって、無罪の方を長きに渡り苦しめたという、とんでもない事件です。冤罪事件も後を絶たない。戦時期の軍部からの思想統制はなくとも、今日のメディアは冷静に、公正に、お願いします。おのぼり総理のおつむの中には、恐ろしく狡猾な悪魔がいますから……。

以下、引用です。
『国家は「社会的に筋の通った論」には、異常なほど脅える。』保坂正康氏
『ジャーナリズムの健全さ、自由闊達さこそが政権のあり方を監視し、国家を支えるための根幹である。』半藤一利氏

さて、一冊読みますと、必ず次に読むべき本が出てきます。弱いおつむで追いかけるのは、大変だなぁ。「桐生悠々」と「石橋湛山」ですって……。

 (2013年10月24日 東洋経済新報社刊)

びろう樹の下の死時計 (工作者宣言・谷川雁)

2017-03-27 22:06:51 | Book

テレビで「びろう」と言う樹木の紹介をしていました。その時何故か谷川雁を思い出しました。本の名前すら憶えていない。我が古きメモを探し出して、ようやくたどり着きました。

これは、谷川雁の「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。よくぞご無事で……。

これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。

「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。

蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。

さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。

ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。

以上です。

戦争中の暮しの記録・保存版  暮しの手帖編

2017-03-11 21:47:07 | Book




昭和48年8月10日発行 第5刷  850円
発行者 大橋鎮子
発行所 暮しの手帖社

これは、昭和43年8月、「暮しの手帖・96号」の全ページをあてて、読者の戦争体験を募集して、特集号としたもので、いつもなら80万部の購読者であるが、この号はさらに10万部を追加するほどの売れ行きだったそうです。それを「保存版」として5年後に改めて、一冊の本にしたものです。さらに申し上げれば、亡き我が母の本棚にあったものを形見として、私が今日まで大事に持っていたものです。今後もさらに。

何の特集かと言えば、読者より募った、あらゆる角度からの「暮しのなかでの戦争体験」を特集したものです。学者や作家が書いたものではありません。文章を稚拙と言うではない。これらの手記を書かれた方々のすべてに言えることは、伝えることへの真剣さに加えて、読む方々への誠実さと真面目さに心を打たれます。

空襲、子供の疎開生活、悲惨な食糧と日用品の事情、家を失った家族たち、家族を失った人々、酷悪な交通事情、まだまだ書ききれないほどの声が聞こえてきます。たくさんの市井の人々が命を落とし、あるいは命の危険にさらされ、こんな事が二度と起きてはならないと言う声が輪唱のように聞こえてきます。戦争がどれほど愚かなことかを、一冊全体から聞こえてきます。

あの戦争を国家とか軍部とかによる歴史の一部と捉えるのではなく、それらに翻弄され、命も幸福も自ら守れなかった人々こそが、歴史なのではないか?

この特集を企画した「暮しの手帖社」と、それに応えて投稿された方々に、改めてお礼を申し上げます。戦後20数年後とは、人々がやっと戦後を乗り越え、生き抜いてこられて、戦争体験を言葉にできる時でもあったのでしょう。セピア色になってしまったこの本を、今後も大事に致します。