eつれづれ管理者(66kV特高変電所、技術者)

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今の建物はかなり盛ったウソなのか?

2019年11月04日 | eつれづれ
首里城火災「分電盤」か
焦げた電気設備を回収、電気系統の不具合を視野に捜査
正殿などが全焼した首里城火災で実況見分を進める那覇署対策本部は3日、火元とみられる正殿北側1階部分の焼け跡から分電盤とみられる焦げた電気設備を回収した。
対策本部は火災発見当時の施錠状況や防犯カメラの解析から現時点で外部侵入による事件性は低いとみており、電気系統の不具合も視野に捜査を進める。
4日以降、回収した電気設備がショートを起こした可能性を含め火災との関連を詳しく調べる方針。
対策本部は警備員の目撃証言や火災を探知した防犯センサーの位置から、発生元を正殿北側とみている。
1日に始まった実況見分では北側を重点的に実施。
3日は県警80人、消防50人の計130人態勢で見分し、午前に黒く焦げた分電盤とみられる設備を回収した。
火災は10月31日午前2時半ごろ発生。
木造3階建ての正殿北側で熱を感知するセンサーが反応し、駆け付けた警備員が中に入ると、煙が充満していた。
関係者によると防犯カメラは正殿外観を写しており消防到着前、1階東側の外に向かって中から炎が噴き上がっている様子が記録されていた。
水の膜をつくり外部からの延焼を防ぐ「ドレンチャー」が作動していったん火の手が弱まったり駆け付けた警備員が初期消火したりする様子も写っていた。
炎はコの字型で隣接する北殿や南殿に燃え移り、正殿、北殿、南殿が全焼。主要建造物計7棟が延焼した。
発生から約11時間後に鎮火した。
専門家は木造の上、内部の仕切りが少なく広い空間がある正殿特有の構造が、火勢が強まる要因になったとの見方を強める。城内の建造物のほとんどに使用されていた特殊な塗料「桐油」は燃えやすい性質も持ち、延焼を誘因した可能性がある。
東京理科大の菅原進一名誉教授(建築防災学)は「壁などの仕切りが少なく、空間が大きいと火は一気に広がる」と指摘する。
「木造の上、史料などの収容物があったとすれば、次々と燃えて、火を広げていっただろう」と推測した。

山形県内で確認された明治期に撮影されたとみられる首里城内の写真。
手前右端が久慶門で門上に小屋が確認できる。
奧には歓会門や守礼門が見える。(米沢市上杉博物館提供)

この写真をみると何時から豪華絢爛な建物になったのか...今、流行となっているが、これもかなり盛った様だ。今で言う掘っ建て小屋みたいな感じだ。

定格1500Wのコードにタコ足で電流オーバーで流すと過熱して溶け出す。
分電盤は20Aだが分電盤が遠いと電線抵抗もありブレーカも定格近傍では遮断しないので何時までも流れ続ける事になる。

かなりの熱で割れている。もちろんコードも熱くなり最悪、被覆破れショート爆発するが、通常ここでブレーカはおちる。

プラグ丸端子の圧着を専用工具を使用せず素人がペンチで潰して接触不良過熱したもの。
これも最悪、ブレーカ遮断するがチリチリ音がして近くに燃えるものがあると火事となる。
無人のときは要注意。

続報には火もと付近には大きな分電盤?、そして電気ショートの記事。
報道等のまた聞き、針金電気ヤの推測は漏電<ショート過熱が本命の様だ。
保安管理している者も管理体制問われ大変なコッタ...色々言い訳もあるのだろうが。
そして引き渡して間もない場所から出火したのか...電気工事の施工不良(端子緩み、配線ミス、交流接地極とアース極の間違い(接地相漏電と同じ)、これは竣工検査等で低圧絶縁抵抗測定すれば判明する。
とにかく24時間漏電監視(絶監装置)のメール情報があれば、有る程度の原因推定は絞られるが...。

昭和初期頃の首里城
首里城は1429年から1879年までの約450年間、琉球王国の中心的な城で、政治と文化の中心だった。
内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。
戦前に3度焼失。
再建されてきたが沖縄戦で壊滅的になった。

色や金箔(きんぱく)を修復し、漆を塗り直した作業後の首里城正殿=2018年3月(沖縄総合事務局提供)
青い空にパッと目を引く鮮やかな朱色。月夜は神秘的に輝く。
3回の火災と沖縄戦を乗り越えて復元された首里城の正殿が、10月31日未明、大規模火災で焼失した。
1992年に復元されるまでの様子、県民や国内外の観光客から愛されてきた。

幕末、明治初期の...写真があった。
しかも沖縄とは遠く離れた米沢に転封された名将、上杉家(謙信)からだ。
豊臣方につき徳川と戦ったが負けて辺境の山形県(出羽)に皆、移動してきたが徳川幕府も余りにも偉大だったか、お取り潰しは免れて今に至る。
上杉家のかなり後になった殿様で有名な鷹山公。
この鷹山公が残した名言は米沢藩立て直しの強い決意の言葉とも取れるものですが 米沢藩の家臣団に教訓として彼が詠み与えた言葉だそうです。
しかし乍、この言葉は武田信玄の名言を模範にしたものとか、、、。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
(どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就する)
上杉鷹山
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」
(強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。
一方、取り組まなければ何事も実現できない。
努力すればできることであっても、最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがある)
武田信玄
この有名な句も川中島で戦った相手の武田信玄公のパクリなのか...もっとも謙信より、かなり後に米沢藩の財政厳しい時代に殿様になったが。