二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

難しい

2018年07月30日 06時46分06秒 | ニ言瓦版
死刑制度は、難しい。
だが、犠牲者の家族は、辛い。



「オウム真理教(Aum Shinrikyo)の元幹部ら13人の死刑が今月執行されたことを受け、作家の村上春樹(Haruki Murakami)氏が29日付の毎日新聞(Mainichi Shimbun)に寄稿し、自身は死刑制度に反対の立場だとしながらも、今回の執行には反対だと公言できないとの考えを示した。

 村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド(Underground)」(1995年)を執筆する過程において事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としている。

 その一方、村上氏は死刑執行によりオウム関連の事件が終わるわけではないと指摘し、今回の執行に「事件の幕引きにしよう」という意図や「死刑という制度をより恒常的なものにしよう」という思惑があったとすれば、「そのような戦略の存在は決して許されるべきではない」と断じている。」


難しい。
ただ、人を殺して、反省もなく、生きている、無期懲役は。
また、娑婆にでて、人を殺すのか再犯は、多い。
今に、問われるは、人の罪と、結果は、まだ、再犯。

何人の殺す人は、病気だろう。
難しい、再犯で、殺されない対策が、死刑廃止には、必要かもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兄弟は、

2018年07月30日 03時53分26秒 | 名言、珍言。
名言、珍言。

「肥後よ宗家を頼みおく」

徳川家光



徳川家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、
「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。

第一条に
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、

以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。

「保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。
会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。
江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。
第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。
日本史上屈指の名君との呼び声も高い。また、将軍の「ご落胤」でもある。」


「秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。」

面白い、保科 正之は、才能ある人だった。



勝手な解釈
人の生まれは、めいめい、違うが、変わるが、
才能ある人には、出会いと、兄弟がいいのが出る。
兄弟が酷いと、家は、滅びる。
姉妹も、親族も、問われるは、人材の育成だ。



========

名言、珍言。

「名言、珍言。

「植えるのは木ではない、忠誠心である。

徳川家光


勝手な解釈
富、恩、問われるは、忠義心かもしれない。
物事は、自分ばかり、いいと思うから、破滅する。
最後は、無欲で、仕事することかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2

2018年07月30日 03時23分48秒 | ニ言瓦版
調べた、明暦の大火。
ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火は、知らなかった。
覚えておこう。


「明暦の大火(めいれきのたいか)とは明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)までに江戸の大半を焼いた大火事。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。

概要
「江戸の火事」も参照。

明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼び、明暦の大火における害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であることから、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万人と記録されている。また、将軍・徳川家綱在位中に起きた明暦の大火において焼失した江戸城天守は、保科正之が「再建を暫し延期する」と述べたが遂に再建されなかった。

関東大震災・東京大空襲・東日本大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火と考える人もいる。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大される共に、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。

更に、防災への取り組みも行われ、火除地[1]や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された[2]。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は、防火のための建築規制を施行した。[3]。それに加え、耐火建築として土蔵造[4]や瓦葺屋根[5][6]を奨励した[7]。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。


状況

『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。
この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされたことである。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。

当時の様子を記録した『むさしあぶみ』は、「明暦2年11月から雨が80日以上降っておらず非常に乾燥した状況が続いていて、当日は辰の刻(午前8時頃)から北西風が強く吹き人々の往来もまばらであった」としている。

3回の出火

1月18日(3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡。
1月19日(3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失。
1月19日(3月3日)申の刻(16時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。」


保科正之は、庶民の思考だろう。天守閣など。
何か、今の政治家より、火災の後の始末は、
立派だ。
当時の老中が、立派なのだ。
それに比べ、今の大臣は、酷い。
明暦のとき、誰が、将軍だったのか。
「徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。」計算すると、14才の将軍。
保科正之が大きな存在だったのかもしれない。


凄い時間だ。
14時から一日過ぎても、火災は、続く。


何か、これも、今と、似ている。
豪雨のとき、ダム、開いたのと、似ている。

問われるは、役人も、無能と、庶民、無視した、差配。

何か、昔のいや、大岡越前のドラマで、牢屋の開放も、話、思い出す。
火災で、殺されるは、役人の勝手な判断が、庶民は、殺されることかもしれない。
バカな役人、作ると、災害が倍加する。

洪水のダムの放流、
山に近くに川、作らない、建売住宅。
夜中に避難指示は、ない。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花火大会は、供養か。1

2018年07月30日 03時17分54秒 | ニ言瓦版
プレジデントの記事は、面白い、勉強なる。
江戸の研究のタレント、いろいろ、説明する番組、してくれるかもしれない。

知らなかった。供養のためか。いろいろ。
明暦の大火か。


「毎年100万人近くを集め、テレビ東京が生中継を放送する「隅田川花火大会」。ほかにこのような花火大会はない。なぜ隅田川花火大会だけが特別なのか。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、「200年以上前から続いてきたのは、花火大会が飢饉や火災、戦争などの死者を慰めるものだったから。別格となったのには歴史的な背景がある」と指摘する――。

■もともとは「両国花火」だった

 例年7月下旬に行われる東京都台東区の隅田川花火大会。毎年100万人近くが集まる一大イベントだ。19時の打ち上げ開始に先駆け、夕方から付近の道路は規制され、東京メトロ銀座線や都営浅草線は大混雑になる。浅草ビューホテル、両国ビューホテル、第一ホテル両国といった川沿いのホテルでは、花火大会のための特別プランも提供される。川沿いには、今年も大勢の観覧客が詰めかけるだろう。隅田川花火大会は、今では本格的な夏を告げるイベントだが、時代とともに花火の意味合いは変化してきた。

 隅田川花火大会はもともと、「両国花火」と呼ばれていた。隅田川のもう少し下流で行われていたのである。今では相撲のイメージが強い両国は、江戸最大の繁華街だった。両国という名は、この場所が武蔵国と下総国の国境に位置したことに由来する。江戸時代の地理感覚では橋を渡ればそこは別の国であった。こうした境界的・周縁的な場所だからこそ、軽業・占い・物まねといった見世物や物売りが両国に集まったのである。

■無縁仏をとむらうための両国「回向院」

 両国を語る上で外せないのが、回向院(えこういん)の存在だ。同寺が作られたきっかけは、明暦の大火(1657年)である。江戸市中の半分以上が焼け、10万人を超える死者が出たといわれている。死者の中には身元不明の者、身寄りがなく引き取り手のない者が数多く含まれていた。

 こうした無縁の人々をとむらうために、万人塚を築くよう4代将軍・家綱が命じたのが回向院の始まりである。正式名称は諸宗山無縁寺回向院だ。宗派とは無関係に、社会の中で安定した居場所と死に場所を確保できなかった人々の霊を鎮めるための寺といえるだろう。

 回向院の敷地に入ってゆくと、7メートルはある巨大な「力塚」が最初に目につく。1768年以降、回向院で「勧進相撲(かんじんすもう)」が行われたことにちなむものだ。勧進相撲とは、公共事業の寄付金集めなどを目的に行われた興行を指す。1833年からは回向院が春秋2回の定場所となった。先述の通り、両国には境界性・周縁性があったからこそ、力士という異形の人々の場所になったといえる。

関東大震災の翌年、新聞記者として東京を取材した作家・夢野久作は、両国の異界性を敏感に書きとめている(『街頭から見た新東京の裏面』)。

----------
昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦にした被服廠――。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
その岸に立つ回向院――。
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。


 両国は相撲と墨堤の桜を楽しむ行楽の場ではなく、回向院を核として、大都市・江戸東京の裏面を引き受けてきた場所だったのだ。

 両国花火の起源も、1733年に行われた川施餓鬼だとされている。前年、江戸ではコレラが流行し、関西は飢饉に襲われた。その大量の死者たちを慰めるために、花火が用いられたのである。

■「国威発揚」に活用された明治時代

 花火大会は、鎮魂・慰霊の側面と、イベントの側面を同時に持ち合わせていくようになる。1870年代、現在の靖国神社である東京招魂社への参拝者は多くなかった。そこで政府が人集めのテコ入れとして、競馬や相撲とともに花火大会を催した。花火は招魂社の名物となり、大祭の時には花火見物のために立錐の余地もないほど参拝者が集まった。1877年11月には、西南戦争で亡くなった兵士のために臨時祭が行われた。この時には、遺族には花火見物のために桟敷席が用意された。

 そして明治になるとさらに花火の意味合いは徐々に変化し、国威発揚や顕彰にも用いられるようになる。天皇が行幸から東京に戻る時には、たびたび花火が打ち上げられた。また、天皇主催で各国の外交官などを浜離宮に招いた宴席などでも、余興として花火が使われたのである。鉄道や橋の開通、皇族外遊の見送りでも、花火が打ち上げられた。慰霊というよりも、景気づけとしての性格が強くなり、徐々に軍や戦争と結びついてゆく。

1904年7月、それまで日露戦争の影響で不景気だった老舗花火師・鍵屋に注文が殺到する。日露戦争の勝敗を握ると思われた旅順攻囲戦における、日本軍の有利が伝わったためだ。各地から陥落後の祝勝用の花火の注文が殺到した。特に陸軍からの注文は大口で、旅順が陥落した夜に行列を出し、皇居前で3色に変化する鍵屋の特製花火数百発を打ち上げようというものだった。

 この年は8月20日の隅田川の川開きに合わせて両国花火が催されたが、その10日ほど前に旅順でロシアの戦艦レトヴィザンに決定的被害を与えたことが報じられ、祝勝ムードによって空前の人出となったのである。

■「非常時代空軍」から「輝く平和の曙」へ

 1911年には、前年に南極探検に旅立った白瀬矗(のぶ)中尉の後援会によって、寄付金集めのための花火大会が開かれた。会場は芝浦の「ろせったホテル」だ。これは英国製の大型汽船をホテルに改装したもので、当時、最先端の海上ホテルであった。花火はホテルの横の埋め立て地から打ち上げられ、見物人は18000人にも及び、1人につき5銭の入場料が徴収された。

 両国花火にも劣らぬ量と質の花火が打ち上げられたが、残念だったのはクライマックスの仕掛け花火だ。予定では、南極のペンギンと白瀬中尉をモチーフにした花火になるはずだったが、花火師が勘違いして、白瀬中尉ではなく、旅順攻囲戦の英雄・廣瀬中佐の花火を作ってしまっていたのだ。だが、見物人には大受けし、寄付集めは大成功した。

 日中戦争前後から、時節柄しばらく両国花火は中止される。再開したのは、戦後1948年になってからだ。8月1日、両国花火組合主催・読売新聞社後援で11年ぶりに復活する。戦前、最後に行われた大会の仕掛け花火が「非常時代空軍」だったのに対し、この年は「輝く平和の曙」がクライマックスとなった。この夜には100万人が両国に押しかけ、招待席にはもちろん米軍将校たちが居並んでいた。

しかし、この復活した花火大会も1961年を最後に再び中断してしまう。理由は交通事情の悪化のためである。この時期、隅田川沿いではオリンピックに向けて首都高の橋桁工事が行われており、危険が予測されたのである。再開は、1978年になってからだ。この時に、警備と交通整理を理由に、両国よりも少し上流で打ち上げられることになり、名称も隅田川花火と改められた。

 今ではおなじみのテレビ東京(当時の東京12チャンネル)での実況中継も、この年に始まった。東京都だけではまかなえない予算を負担することで東京12チャンネルの独占契約となったようだが、ほかのメディアからのクレームもあったという。いずれにせよ、17年ぶりの復活がいかに注目されていたかがわかる。」


明暦の大火か。
調べてみるか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何か、そうなのか。

2018年07月30日 02時48分45秒 | ニ言瓦版
そうだろうな。
食事は、企業は、そして、補助。



「政府は、国内企業の従業員に提供される食事の充実に向けた支援に乗り出す。企業が食事代の一部を負担する「食事補助」を増額できるよう課税要件を緩和する案を軸に検討する。職場で「健康な食事」を普及させ、疾病予防や医療費の削減につなげる狙いがある。

 政府の健康・医療戦略推進本部(本部長・安倍首相)が8月にも官民の作業部会を設置し、具体的な検討を始める。作業部会は有識者のほか、社員食堂を運営する企業や食事補助のチケットサービス業者らで構成することを予定している。

 企業の食事補助は原則として、〈1〉従業員が食事代の50%以上を負担〈2〉企業の負担額が月3500円(税抜き)以下――の要件をともに満たす場合、「福利厚生費」などに計上でき、課税されない。しかし、企業の負担額が月3500円を超えるなどした場合は「給与」とみなされて課税される。税金の支払いを避けるために食事補助が抑えられ、従業員が栄養面よりも価格の安さを重視した食事をとる傾向にあるとされる。

 政府は、企業が食事補助を増やせるようにすれば、栄養面に配慮した食事を提供しやすくなると判断し、税制改正を検討することにした。」



でも、今まで、いい思うしているのは、公務員だろうな。
自分たちの食堂は、いい特典かある。
本来、平等にするのは、補填するか、廃止するか。
普通の税金、取るか。


食堂のない、ところは、問われる。
補填するも、それが、産業、減らす。
外食産業に影響するかもしれない。

企業も、公務員も、食堂は、別のところで、運営と、税金、取るのが本当。
一般の人も、公平に、値段で、食う、それが、一番だろうな。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする