(はがき)
「憑高眺遠」 高きに憑(よ)り遠きを眺むる (蘇軾の句)
高い山に登って眺望を欲しいままにする、とな。
11月15日のnisibundoさんのブログ 西分堂日記 に興味深いお話が
日展での解説で、「書も方向転換が必要」とのお話があったとか。
時代も人のニーズも、変化するものだとして。
けれど本質の部分で「いいものはいい」ってものは、時代に潰されることはないような。
伝統の世界と新しい世界、どちらが正しいというものではなくて
どちらもなくてはならないものであるような
私の師が以前、こんなお話を。
最近の人は漢詩が読めない、行草も知らない、だからと言って書家が万人に読める書を
書いていては、文化はなくなってしまう。
書家が迎合するのではなく、作品を通して人々に知識や文化を継承していくことも
書家の役割のひとつではないだろうか、と。
変わっていく時代と変わらないもの、この2つのバランスは難しいけれど、
それを模索していくのが、書家だったりモノを創る人の真骨頂でもあり
役割であるような気がする。 (なんて偉そうに・・ )
秋の句を・・と探していて目に止まったこの句を書きながら、ふとそんなことを
「憑高眺遠」 高きに憑(よ)り遠きを眺むる (蘇軾の句)
高い山に登って眺望を欲しいままにする、とな。
11月15日のnisibundoさんのブログ 西分堂日記 に興味深いお話が
日展での解説で、「書も方向転換が必要」とのお話があったとか。
時代も人のニーズも、変化するものだとして。
けれど本質の部分で「いいものはいい」ってものは、時代に潰されることはないような。
伝統の世界と新しい世界、どちらが正しいというものではなくて
どちらもなくてはならないものであるような
私の師が以前、こんなお話を。
最近の人は漢詩が読めない、行草も知らない、だからと言って書家が万人に読める書を
書いていては、文化はなくなってしまう。
書家が迎合するのではなく、作品を通して人々に知識や文化を継承していくことも
書家の役割のひとつではないだろうか、と。
変わっていく時代と変わらないもの、この2つのバランスは難しいけれど、
それを模索していくのが、書家だったりモノを創る人の真骨頂でもあり
役割であるような気がする。 (なんて偉そうに・・ )
秋の句を・・と探していて目に止まったこの句を書きながら、ふとそんなことを
答えを求めると、答えが逃げていくなんてこともあるような
自分が大事にしたいものを信じてさえいれば、どんな相手も受け入れられるような
師のお話は、私が書を学び表現していく中での信念みたいなものを、後押しして下さっているような気がします
ただ、あれもこれも全部をというのは怠け者の私には無理なので、せめて何かひとつでもなんて。
私は・・木簡があればしあわせです
いつもありがとうございます♪
おっしゃいます。
社会の流れに、どれだけ迎合するか、というか、能力面で出来るか、まぁ、プロではないので、程々に考えていればよいのですよね。それが、中庸が捉えられない不器用な人間だもんで、悩んでしないます。
やっとやっと行草の崩しが理解でき始め漢字の成り立ち等解ってきつつあります。
新しい先生のお陰かな~いやいや意識の変化?
何事もバランスをとりつつ進むのは難しい事です。