帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百七十七)(四百七十八)

2015-10-31 00:07:41 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。

 

江戸時代の国学に始まる今の国文学的な和歌の解釈は、上のような平安時代の和歌に関する言説を全く無視している。字義通り当代の語に訳し、序詞、掛詞、縁語、隠された物名などを指摘すれば、歌の解釈は、ほぼ成立したかのように思いたくなるが、それは、公任の言う、歌の「清げな姿」を見ているだけなのである。人の生々しい心根を言葉とするとき、清げな衣で被わなければならない。その清げな衣に表れた襞か紋様を指摘しても内なる人の心根は見えない。このような国文学的な和歌解釈を、あえて無視して、平安時代の歌論と言語観に従って、和歌の解釈をし直そうとしているのである。字義ではなく歌言葉の「浮言綺語のような戯れ」の意味に、主旨や趣旨が顕れると、平安時代最後の人、藤原俊成は和歌の真髄を看破している。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

 さはこの御湯                 

四百七十七  あかずしてわかれし人のすむ里は さはこのみゆる山のかなたか

           さはこ御湯(漢字表記・場所、不明) (拾遺集は、よみ人しらず、とする・拾遺抄は藤原輔相)

(飽かず・未練残して、別れた人の住む里は、そうだ、此の見ゆる山の彼方だなあ……飽き満ち足りずに・山ばの途中で、別れた女の澄むさ門は、それは、此の我の見得る山ばの、遥か・彼方にあるのかあ)

 

言の戯れと言の心

「あかず…飽かず…厭かず…未練残して…飽き満ち足りず…山ばの頂点に達せず」「人…女」「すむ里…住む里…澄むさ門…済むさ門」「と…門…おんな」「さはこのみゆ…さはこの御湯…それは此の見ゆ…それでは我の見得る」「見…覯…媾…まぐあい」「山…山ば」「彼方…程遠い所…とても及ばない高い山ば」「か…詠嘆の意を表す…疑いを表す…感動の意を表す」

 

歌の清げな姿は、何事あると、ふと別れた彼女を思い出す男の未練ごころ。

心におかしきところは、偉大なる女のさがと、はかない己のさがの性の格の違いを思い知った男の詠嘆。

 

 

 いぬかひのみゆ                

四百七十八  とりのこはまだひなながらたちていぬ かひのみゆるはすもりなるべし

 犬飼の御湯  (拾遺集は、よみ人しらず・拾遺抄は、藤原輔相)

(鳥の子は未だ雛ながら飛び立ち去ってしまった、卵の見えるのは、孵化しないものなのだろう……女の貴身は、まだ熟さぬままに断ちて、気が・去ってしまった、殻の見えるのは、すにとり残された物なのだろうな)

 

言の戯れと言の心

「とりのこ…鳥の子…ひよこ…女のこの貴身…おんな」「鳥…言の心は女」「ひな…雛…未熟…未達成…未到達」「ぬ…完了した意を表す…(去って)しまった」「かひ…卵…殻…空しい残がい…貝…言の心は女」「すもり…巣守り…ただの巣の番人…すにとり残されたおとこ」「す…巣…洲…おんな」「なる…為る…状態が変わる…萎る…ものがよれよれになる」「べし…だろう…推量の意を表す…に違いない…確実な推定を表す…そうなるだろう…当然の意を表す」

 

歌の清げな姿は、知らぬ間に雛鳥が巣立って空になった巣の様子。

心におかしきところは、和合ならず、気のぬけ去った、すの空しいありさま。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。