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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。
公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
天暦十一年九月五日、斎宮のくだりはべりけるに内裏より硯調じて
たまはすとて 御製
四百四十三 おもふことなるといふなるすずか山 こえてうれしきさかひとどきく
天暦十一年(957)九月五日、斎宮が伊勢に下ったときに、内裏より硯の調度一式を賜わすということで、 (村上御製)
(思うこと、成就するといわれる鈴鹿山、越えて嬉しい、境遇・境地と聞く……思う如く成るといわれる、すすか山・女の香山、越えて嬉しい、佳境と聞く)
言の戯れと言の心
「おもふこと…思う事…思う如…思うように」「なる…成る…成就する」「すずか山…鈴鹿山…近江を経て伊勢にはいる途中の山の名…名は戯れる。鈴か山、為為可山、すす香山、女女香山」「す…する…為す…成る…洲…おんな」「さかひ…境…境界…境遇…境地…佳境」。
歌の清げな姿は、斎宮へのお祝いの御歌。
心におかしきところは、この度の境遇を、すすか山越えて、嬉しき佳境と為されよ。
円融院御時、斎宮のくだり侍りけるに、ははの斎宮もろともに
すずか山をこえはべりけるひよみはべりける 斎宮女御
四百四十四 世にふれば又もこえけりすずか山 むかしやいまになりかはるらん
円融院の御時、斎宮が下向されたとき(977年)に、その母の元斎宮も共に鈴鹿山を越えた日に詠んだ (斎宮女御・徽子女王・斎宮を経験された後、村上帝の女御となる。その娘が斎宮となって下向されたとき同行した)
(世に経れば、再び越えたことよ、鈴鹿山、昔が今に成り変わるのでしょうか……夜にふれば、またも越えることよ、すす香やま・女たちばかりの佳境へ、武樫が井間に成り変わるのでしょうか)
言の戯れと言の心
「世…夜」「ふれば…経れば…振れば…触れば」「又…再び…股…間多」「すすか山…鈴鹿山…山の名…名は戯れる。すす香山、女女香山、おんなおんな香やま、越えれば女の佳境か」「むかし…昔…武樫…強く堅い男」「今…井間…女・おんな」「らん…その原因理由を疑いながら推量する意を表す…どうしてこうなのだろう…斎宮は卜定で決まる」
歌の清げな姿は、世に経れば、又も鈴鹿山越える、今昔成り変わる不思議なことに出遭った、どうしてでしょう。
心におかしきところは、夜に触れば、すすかの山越えて、またも、武樫が井間に替わる佳境にはいるのでしょうか。
作者の思いが言葉となったとき、「聞き耳」によって意味の聞こえ方が異なるものとなる。聞く耳をもつ人にのみ、上のような意味は聞こえる。
当時、言葉が上のように戯れていなかったと言う証明も、戯れて有ったという証明も、不可能で不要である。
斎宮女御は、此処に示したような戯れのすべてを心得ていて、其れを踏まえて歌を詠んでいる。だからこそ、当時の人に認められる「優れた歌」を詠めたのである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。